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無頼とオタクに優しいギャル

 高校時代。私には「無頼」への憧れがあった。
 ちなみに辞書によると「無頼」とは

  1.  正業に就かず、無法な行いをすること。また、そのさまや、そのような人。「—な(の)輩 (やから) 」

  2. 頼みにするところのないこと。

    1. 「単孤—の独人になりて」〈十訓抄・二〉

 ということのようだ。ここで私のいう「無頼」とは無論、1のことである。

 当時、私自身はスクールカーストの下から二〜三番目あたりのド陰キャであったにも関わらず、なぜか「無頼」としか呼びようのない友人が複数いた。夜な夜な「先輩」の車で「ドライブ」に興じては我が家に寄って紙袋いっぱいのギャル服をくれる子(お察しの通り趣味は全く違う)(なぜ服をくれたのかは今をもってしても杳として知れぬ)や、持参の水筒に缶チューハイを忍ばせ持ち歩いている子。このあたりなどはまだ可愛い方で、その他(特定可能という意味で)ちょっと書けない事件を起こして警察の世話になった子などが学校から一人また一人と去ってゆき──というか、そうした無頼な友人たちのほとんどは二年生になる頃にはほとんど母校をドロップアウトしていった。その後、付き合いの続いた子もいればそうでない子もいるが、いずれも卒業する頃には連絡が途絶えている。

 まあ、学生の身をして「生業に就かずー」も何もないものだとは思うが、彼らの暮らし様は当時の私には随分と無頼なものに映ったものだ。今でいう「オタクに優しいギャル(ギャル男も含む)」というやつかも知れない。しかし、「オタクに優しいギャル」も実際には袖擦り合うも他生の縁というやつ(?)で、自らの無頼的生活圏にオタクを招き入れようとはしない。なのでファンタジーとして成立するのであろうが、逆に「ギャルにやんわり拒まれたオタク」という現実は、なかなかどうして長じてからの人格形成に影響を及ぼしがちだ。

 案の定、思春期に無頼なギャルのコミュニティの芯を食いそびれた私はアラフォーを迎えた今でも「オタクに優しいギャル」に敏感である。創作物で順調にギャルと親交を深めるオタクの様を目の当たりにしては「こんなギャルいるかー!」という感情と「ギャルってこういうとこあるー!」という感情を同時に抱き頭を掻き毟りたくなるのだ。こちらがしっかり濃いめに石灰で引いたラインの内側へ、彼女・彼らはいとも容易く踏み込んでくる。ただし、ピボットの要領で。軸足は決して動かさない。彼女・彼らは踏み込んだ片足をいつでも引っ込ませることができるし、実際に引っ込ませては何事もなかったかのように突然こちらへの興味を無くし去っていく。オタクとギャルが真の意味でその生活圏・文化圏を交わらせることは現実では非常に稀有な例であろう。

 かたやオタク(私)は悲しいもので、二十年以上の時を経た今でも彼女・彼らがラインの内側に残した足跡を見下ろしては頭を掻き毟っている。恐らくではあるが、足跡をつけた方はとっくに私のことなど忘れているに違いない。とはいえそれは別に、悲しいことでも悔しいことでもない。ただ、心に消えない足跡を残された。という事実があるのみだ。

 「オタクに優しいギャル」についての論争と言えば「オタクの書いたギャルのイラスト、なぜかチョーカーしてがち(本当のギャルはそんなもんしない)」問題がある。個人的には実際のファッションとあまりかけ離れていないイラストの方が好みではあるのだが、しかしほんのちょっとだけ「土足でライン踏み越えてきた側がそれを言うかね」と思わないでもない。なぜなら「オタクに優しいギャル」という概念そのものが、オタクとギャルの最終的な断絶とそこから生まれたオタクの郷愁を根本にしている場合があるように思えてならないからだ。なのでギャルの皆様におかれましては、イラストのチョーカーないしギャル服が実際のそれと齟齬があっても何卒勘弁していただきたい。

 結論。オタクに優しいギャルはいる。ただし、永劫ではない。
 我々は断絶を前提にし、人間同士として礼節を欠かぬことに努めながら、せいぜい心にブルーシートでも敷いておくこととしよう。

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