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熱病と臆病⑥

 教室にいる間はそれからも、控えめに言って相変わらずの地獄だった。「いじめ」と言えるほど苛烈ではない程度の、こすっからくてより陰湿な「からかい」に、毎日少しずつ自尊心を抉られる。

 それでもなんとか毎日をやり過ごし、命からがら十二月も二週間生き延びた。

 県大会以来のレースは夕真にとっても待ち遠しく、カメラを入念に手入れし、この日が来るのを指折り数えながら待ち望んでいた。

 なのに、熱を出した。

「──先輩、どーしたんすかその格好。風邪?」

 スタート兼ゴールになっている市営競技場に着くと、喜久井にすぐに見つかった。彼はもこもこに着膨れてマスクとマフラーで顔の下半分を覆った夕真を見て目を瞠り、気遣わしげに顔を覗き込んでくる。

「受験生がこの時期にインフルエンザを警戒するのがそんなにおかしいか」

「いや、おかしくはないですけど……警戒っていうかもうそれ、厳戒態勢って感じじゃないすか。ほぼほぼベイマックス的なフォルムだし。暑くないんすか?」

「暑いよ」

「脱げばいいのに」

「脱ぐと寒い」

「ウケる!ちょうどいい羽織りもんなかったんすか!」

 いつものように手を叩いて笑う喜久井の後ろから、同じユニフォームを着た二年生が忍び寄って彼にちょっかいをかけた。

「びっくりしたあ。なになにイッチー。もう集合?あ、ちょっと苦しい。ギブギブ」

 そう言って喜久井が腕を叩いても、後ろから首に腕を回している彼のチームメイトは悪ふざけを続けるばかりで彼を離そうとはしない。イヤな感じだ。

「べっつにー。あ、織部のお兄さん!」

「……どうも」

 喜久井にちょっかいをかけているチームメイトとも、学校のグラウンドで挨拶ぐらいなら交わしたことがある。確か、イチノイ──とか、そんな名前だった気がする。彼は明るくて無邪気で自信に満ち溢れていて、つまりそのノリが夕真は苦手だ。

「今日も写真、よろしくお願いします!ってかコイツ、毎日つきまとって迷惑かけてません?ホモっぽくてキモいとこあるでしょ」

 チームメイトたちがそんなことを言ってふざけている間も、喜久井はへつらったようなへらへらした顔で弱々しく抵抗していた。知らず識らずの内に眉間に皺が寄る。マスクと眼鏡で顔が隠れていてよかった。

「……やめてやれよ。嫌がってる」

「あ、大丈夫です大丈夫です。いっつもこういうノリなんで」

「そう。だとしたらクッソ寒いからやめた方がいいよ。あとホモっぽいとかそういうのも全然面白くない。むしろ古すぎて引くし見ててただただ不快」

 夕真がくすりともせず早口でそう捲し立てると、後輩たちは二人ともえらく面食らった顔をした。素面だったら耐えられそうにない居た堪れなさも、熱でぼんやりしているせいかそれほど気にならないのは不幸中の幸いだ。

 少なくともふざけている雰囲気は払拭できたようで、喜久井に絡んでいた彼は戸惑いながらも「すみませんでした」と小声で言って彼を開放する。

「俺じゃなくて後で喜久井に謝っといて。──今日はよろしく。頑張って」

 夕真はまたそれだけ早口で言って踵を返した。すぐに喜久井が追いかけてくるかなと思ったけれど、来なかった。でもそれでいい。まだ二年の喜久井は、何よりあの陸上部でのキャラやポジションを死守するべきだ。

 朝早くに飲んだ解熱剤が切れてきたようで、いよいよ頭が働かなくなってきた。なのでスタンドに陣取って薬を飲み、そのまま少し体を休める。本当はウォーミングアップをしているところなんかも撮りたかったけれど、とてもじゃないがそんな体力はなさそうだ。

 喜久井にラインで送ってもらったコースの地図を開き、作戦を練り直す。ハーフマラソンなのでコースの全長は約二十一キロ。ネットで調べて目星をつけていた撮影ポイントがあるが、この体調ではいくつかのポイントは諦めて的を絞った方がいいだろう。

 そんなことを考え、眉間に皺を寄せながらコースを凝視していたら、喜久井から電話がかかってきた。

「──もしもし」

「もしもし先輩!さっき、あの──」

「あー。お疲れお疲れ。キョロ充も大変だよな」

 喜久井は焦って何かを言い募っている。けれど、それを遮って話す。

「くそくらえって思うだろ」

 夕真がそう尋ねると、喜久井は少しの逡巡のあと、声を潜めて答えた。

「……思います」

「ふふっ。だよなあ。分かるよ」

 鼻にかかった自分の笑い声がやっぱり、夕真は好きにはなれない。けれど「もっと笑えばいいのに」と言ってくれた彼にならば、安心してありのままを晒せる。

 だから励ましたいと思うし、苦しいことが一つでも減らせてやれたらいいと思う。思い上がりかもしれないけれど。

「──あと少しだよ。頑張れ」

「あと少し?」

「うん。卒業したらまあ、なんとかなんだろ」

「卒業て!ミもフタもないっすね。知ってたけど」

と笑った喜久井の声が明るくて、ほっとした。

「レースも頑張れよ。応援してる」

「あざっす。いろいろ……頑張ります!」

「じゃ、また後で」

 電話の向こうから小さく号令が聞こえたので、夕真の方から電話を切った。トラックを見下ろしてみると、なんのことはない。スタンドのすぐ下に喜久井はいて、スマホを片手にひょこひょこと集合場所へ駆けていく。

 部活の輪の中に溶け込んだ喜久井はやっぱり「いじられキャラ」のようで、見ていると身につまされて居た堪れない。けれどひとたびピストルの音が鳴れば、彼はあの中の誰よりも速くそのしがらみを抜け出し、全てを振り切って自由になるのだ。

 想像しただけで胸がすく。わくわくしてくる。自分には到底そんな芸当などこなせようもないけれど、だからこそ彼のそんな姿に焦がれて仕方がないんだろう。

 きっと、初めからそうだった。まだ名前もちゃんと知らなかったあの県大会で、夕真が捉えた逃げ惑うような彼の走り。あれはきっと同じようなしがらみに対して「くそくらえ!」と思っている夕真だからスクープできた姿で、けれど夕真は、そんな喜久井が走って行った先にある自由と希望に、彼よりも先に夢を見た。

 出会えて、好きになれて、いい夢を見させてもらえてよかった。それだけでお腹いっぱいだ。

 だから、できることはなんでもしてやりたいと思う。

 大会は市民レースなので、スタート地点は学生と市民ランナーとで黒山の人だかりができている。

 スタート前の様子も一応撮っておきたくて望遠レンズを伸ばしたものの、人が多くてなかなか思うように構図が取れなかった。

 なのでトラックには早々に見切りをつけることにした。公式サイトがライブ配信を行っているので、そこでレースの推移を見守りつつ地下鉄でコースの十五キロ地点に向かう。

 同じような考えのカメラマンや応援団がほかにも多くいて、後ろにくっついて行けばいいので移動は楽だった。とは言えちゃんとしたレース観戦が初めてなのでいまひとつ勝手が分からず、場所取りには少し出遅れた。

 二十一キロのコースを、喜久井はだいたい一時間ちょっとで走るらしい。それってめちゃくちゃ速くないか?と聞いたら、彼は得意になって「まあ、それなりに?」なんて鼻の下を擦っていた。

 時速二十キロちょっとで一時間走り続けられるなんて、体育で走らされた五キロでさえ何十分もかかってへろへろになっていた夕真には想像もつかない世界だ。

 あんまり途方もない次元の話なのでかえって興味が湧いて、スマホのアプリで速さを測りながら自転車を時速二十キロで走らせてみた。一昨日の夜のことだ。

 冬の夜風と小さな羽虫が、ばちばちと顔を叩いた。瞬きを何度繰り返してもすぐに目が乾き、喉も渇き、冷気が喉に直撃してむせた。

 景色は前から後ろへ飛ぶように流れ、瞬きの間に何もかもが過ぎ去っていく。だからだんだん何も目に入らなくなってきて、遠くで等間隔に光る外灯だけを頼りに夕真は夢中で自転車を漕ぎ続け、そしておそらくその時に風邪をひいた。

 馬鹿をやったと思う。けれど、彼が「ほかのこと考えなくていいから」と言って救いを求めた世界のことが垣間見れてよかった。とも思う。夢中になるのが解ったし、けれどそれだけでは苦しいのも解った。

 くそくらえって、思うよな。分かるよ。寂しいのも分かる。ひとりきりで走るのは気ままだけど、やっぱり少し虚しかったよ。

 周りのギャラリーが少し浮き足立ったように感じたのも束の間、夕真の目の前をゲストランナーの実業団選手が駆け抜けて行った。

 県大会で見た留学生の選手よりもっと速い。まさに瞬きの間の出来事で、夕真は慌ててカメラを準備した。

 レースも終盤の十五キロ地点では、ランナーはかなりばらけた状態で次々に目の前を駆け抜けていく。スタート順に実業団の選手から来るんだろうと思いきや、社会人と大学生は意外とごちゃまぜだ。けれど、さすがにそこへ高校生は食い込んでは来ない。

 社会人と大学生の選手があらかた通り過ぎると、ガードレール前のいい場所が少しだけ空いた。夕真はそこへ「すみません、失礼します」とおずおず体を割り入れて、道の先へとレンズを伸ばした。

 すると、まるで見計ったかのように喜久井が姿を現す。夕真が見逃してさえいなければ高校生では一番手だ。

 ひとまず一度、シャッターを切る。まだ遠い。もう一度。引き寄せて引き寄せて、狙いを済ませてもう一度──。

「喜久井ぃーーっ! 頑張れーーっ!!」

 気のせいでなければその一瞬、喜久井はちらりと夕真の方を見て目を細めた。

 相変わらず逃げ惑うみたいな顔をしていたのに、その一瞬で喜久井はまるで羽化でもしたみたいにギアを上げ、猛然と前を走る大学生を追って行った。

「……やっぱすごい」

 思わず口を衝いて出る。背筋がぞくぞく震えるのも、心臓がばくばく高鳴るのも、きっと風邪のせいばっかりじゃない。

 その瞬間が撮れていたらそれはきっと、とんでもない力を持つ写真になっているに違いなかった。けれど、撮れてなくても──撮れていない方がむしろいいと思った。あの瞬間に交わしたもの。彼がくれたあの一瞬は、独り占めしていたい。

 それから夕真は同じ場所でほかの陸上部員が通過するのを待ち、その都度シャッターを切った。全員を見送ったのを確かめた頃にはもうすっかりふらふらだったけれど、レース後の反省会と引退式でもシャッターを切ると約束していたので、エナジードリンクで解熱剤を飲み下して競技場へ戻る。

 レースの結果は喜久井が高校生男子で一位、全体でも九位と健闘し、女子でも既にスカウトで進学先の決まっている三年の長距離部長が入賞を果たした。なるほど、喜久井の言う通り陸上部は「わりに強い」らしい。

 引退式では極力気配を消してシャッターを切り、その場が部員同士の自撮り大会へ移行したタイミングを見計って喜久井に「ちょっと風邪っぽいからこの辺で帰るわ」とだけメッセージを打って中座した。本当のことだけれど、半分は嘘だ。

 あの中で今日一番速かったのは喜久井だけれど、部内では必ずしもそれが一番の価値ではないらしい。あれだけ圧倒的な走り様を見せてもなお彼の部内におけるヒエラルキーは変わらないようで、穿った見方かもしれないけれど、夕真にとってはそれが見ていて辛かったのだ。

 あんまり具合が悪いので、家にいるはずの親に迎えを頼もうと思ってポケットから電話を出した、その時だった。

「先輩!」

 後ろから呼び止められて、振り返ったら思いのほか目の前にいたので驚いた。

「びっくりした。お前、ほんと足速いのな」

「まあ、あの、それなりに……っていうかあのそれより、今日ほんと、ありがとうございました。体調あんまよくないのに……」

 喜久井はこれで律儀なところのある男なので、自分の口でそれを伝えないと気持ち悪かったんだろう。

「いや、いいんだ。大したことないし。俺も楽しみにしてたからさ。そんなことより、入賞おめでとう。お祝いになるかわかんないけど、今日の写真──」

 と夕真が喋るのを遮って喜久井は掌を夕真の額に当て、それから一瞬首を捻って、今度は少し背伸びをして夕真のこめかみあたりを強引に掴み額と額をくっつけた。

「なっ、ななな何ッ!?」

「やっぱり! めちゃくちゃ熱い!! ちょっと風邪ってレベルじゃないじゃないすか!」

 熱ならたったいま五千万度上がったが!? といつもの夕真なら言い返しているところだけれど、何せ本当に熱が高くて頭がぼーっとしているので何も言い返せない。

「どうしよう。あの、何か欲しいものあります?水とか、ポカリとか……っていうかそうだ、お家の人に連絡!」

「大丈夫だから。今電話しようと思ってたとこだ。落ち着けって」

「落ち着いてなんかられないです!」

 慌てふためく喜久井が、夕真の手を取って踵を返す。

「だっておれ、こんな時に言うのもなんですけどおれは、先輩のことずっと──」

「キャロ!どこ行くの?」

 照れ臭いやら忍びないやらで俯いたままでいた夕真の視界に、カモシカのような女子の脚が現れた。どうやら喜久井を「キャロ」と呼んだ声の主らしいが、その声があんまり剣呑なので夕真は咄嗟に喜久井の手を振り払った。

「ああ。……彼氏?」

 吐き捨てられたそんな言葉で、心臓が凍り付いて喉が詰まった。どうしてそんな誤解が生じているのか、全くわけが分からない。

「だからジュンちゃん。それは違うって何回も説明したじゃん。先輩は関係ないって」

「あんな説明で納得できるわけなくない!? なんなのあれ!写真まで付けて『アゴ割れるから』って!リアリティゼロかよ!」

 その話を聞いて、夕真も思い出した。少し前に、喜久井にラインで告白をしてきた部活の子だ。

 どうやら喜久井はアドバイス通りに写真付きで誠心誠意、エヴァンズ家の宿命をもって交際をお断りしたらしい。

「先輩と付き合ってるならそう言えばいいじゃん!別に、あたしはそういう人もいていいと思うし!言いふらしたりなんかしないよ!?」

「いやだから、言いふらすとかじゃなくてさあ。そもそも違うんだって!」

「──あのさ。いていいって、何?」

 普段の夕真なら、こんな局面で安易に口を挟むなんてことはきっと絶対にしない。

「いていいとかいちゃダメとか、なんできみの許可が必要なわけ?」

 けれど、やっぱり聞いていられなかった。自分のせいで喜久井があらぬ疑いをかけられているのだとしたらそれは何がなんでも払拭しなければならないし、単純に彼女の言葉も癪に障る。

「きみには、一体どういう権限があるわけ?いやまあ、おれもコイツも違うけどね。違うからマジでめちゃくちゃ迷惑してるんだけど、そういうとこなんじゃないの?振られた原因って。あと『キャロ』って、もしかしなくてもキャロットのキャロだよな。それ差別用語だけど。知らなかったって言うなら仮にも好きになった相手の人種に対して勉強不足だし、知ってたならシンプルにタチ悪いよな。どう思う?」

 夕真がそうして捲し立てると、喜久井にジュンちゃんと呼ばれた彼女は「意味わかんないんだけど!」と言いながら泣き出した。泣きたいのはこっちの方だ。喜久井は、この世の終わりみたいな顔をしている。

「……お前もお前だよ。こういうの、曖昧にしてはぐらかすのが一番残酷って分かっただろ。気を付けろよマジで」

 悲しいのと悔しいのと、単純に熱が高くて体調が悪いのとで倒れそうになりながら吐き捨てて、今度は夕真が踵を返した。やっぱり喜久井は、追いかけて来なかった。

 本当は全速力でその場を離れたかったけれど、いかんせん体が重くて一歩を前に出すのも精一杯だ。

 どうしてこうグダグダで終わるかなあ。と思うと、不器用で間の悪い自分が惨めで情けなくて、涙がぼろぼろ溢れてはマスクに染み込んでいく。

 きっと、勘違いでも思い込みでもなかった。喜久井はきっと、夕真のことを好きでいてくれた。じゃなかったら、あんな傷ついた顔はきっとしないだろう。

 だから自分の不器用さが恨めしくて恨めしくて仕方がない。けれど、あのやり方以外で彼を護れる方法があったかと言われても思いつかない。

 喜久井が息を潜めて自分を殺して、必死で守ってきたものを、それはいとも簡単に打ち壊し彼を元の木阿弥へ引き摺り下ろしてしまうことを、夕真はもう知っている。

 その時彼はどんな風に人から笑われ、どんな風に拒絶されるのかを知っている。どんな疎外を味わい、大切な人にどれだけ大きな戸惑いを与えるのかを夕真はもう知っている。

 だめだ。喜久井。お前はこっちに来ちゃだめだよ。

 ここは寒くて、暗くて、寂しくて虚しい。お前も知ってるはずだよ。

 その一心で、夕真は自分の初恋に自分で止めを刺した。

 けれどそれが彼を「一時の気の迷い」から覚めさせ、彼の未来の幾ばくかを護れたのだとしたら。

 それはそれで最高の初恋であり、最高の失恋だと言えるような気がした。

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