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ロングディスタンス

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カメラ男子先輩とオタクランナー後輩の長い初恋の話。(完結)
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#陸上

愛日と落日⑧

 車で重陽を迎えに来た父親は、汗だくの重陽をひと目見て一度だけ目を瞠り、一言だけ、 「重陽、今朝履いてた靴は?」  と短く尋ねてきた。 「地下鉄降りる時にすっぽ抜けて、片方無くしちゃって……それで代わりの靴買ったらお金なくなって……鶴見まで来たらICのチャージも帰りの分に足りなくて……」  重陽がしどろもどろに答えると、父親は「そうか」と言ったきり、あとは何も重陽に聞こうとはしなかった。  沈黙が気まずい。気まずい理由を理解しているだけに、居た堪れないほど気まずい。

愛日と落日⑨

 まさに「暗澹たる気持ち」そのもので練習を終え、結局それからその気持ちが晴れることはなかった。  自分を追い込み練習に集中している間はそんなことも考えずに済むけれど、それ以外の時ではまた「まあまあ」「そこをなんとか」の重陽に戻っている。  明日はいよいよ試合に向けて北海道へ発つ。という日の練習の終わり。双子と重陽はみんなの前で一言ずつ意気込みを発表させられたが、その時のムードったらなかった。  ある意味一丸となって松本兄弟を露骨に敵視するチームメイトたち。それを煽る遥希

愛日と落日⑩

 九月九日。十八歳の誕生日の朝。重陽の顎は割れていなかった。  「イエス! サンキューダディ!!」  洗面台の鏡の前で、思わずガッツポーズをして叫んだ。  十月十日。十八歳の誕生日から一ヶ月と一日経った日の朝。重陽は自分の顎にうっすら縦線が入っているのに気付いた。  実際には、数日前から内心そんな気がしていた。けれど認められずにいた縦線は、いよいよ認めざるを得ない程度には存在感を発揮していた。  そして今朝。十一月十一日。十八歳の誕生日から二ヶ月と二日経った。 「

愛日と落日⑪

 高校駅伝の男子大会は、県大会も全国大会もフルマラソンと同じ42,195キロを七人で継走する。場所は違えど、それぞれの区間に割り当てられた距離も同じだ。  いわゆる「エース区間」と呼ばれる最長距離の一区は、持ちタイムで順当に有希が指名された。重陽は奇しくも昨年と同じ三区で留学生のライバルたちを迎え撃つことになり、四区の市野井へ襷を渡す。 『明日、県大会っす』  と一応夕真へメッセージを送ったら、数時間の間を置いて、 『知ってる』  とだけ返ってきた。通常運転の塩対応

ロングディスタンス①

 耳鳴りの向こうからパトカーのサイレンが聞こえてきた。なので夕真は、その場にべっと口の中の血を吐き出して「ああ、またこのコース」と長い溜息を吐く。  夕真のことを張り倒したラガーマンの恋人は、蹲ったままでいる夕真の胸ぐらを掴んで低い声で唸る。 「いつチクった!」 「俺じゃない。お前が物に当たったりするから、近所の人が気づいたんだろ」  そう言って夕真が割れた窓ガラスを一瞥すると、彼はもうひと唸りして再び夕真の頬を引っ叩き腹を蹴った。  通報したのはもしかしなくても喜

ロングディスタンス②

「うぅ〜〜〜んぬぐぐぐぐ……っ! ろく、ごー、よん、さん……っ!!」  夕真の病室を出て、競歩選手もかくやという早足で病院をあとにした重陽は、目の前の郵便ポストを蹴っ飛ばしたくてたまらないのをぐっと堪えた。  どんなに歯痒くても、悔しくても腹立たしくても、物に八つ当たりしてははいけない。それに躊躇が無くなったら、物に当たるように人へ当たり始めるまではきっとウサイン・ボルトの世界記録よりあっという間だからだ。 「にーっ、いっち! よしっ……」  練習の一環で外部のメンタ

ロングディスタンス③

 三週間の入院は思ったより長く感じた。やるべきことが山ほどあるのに体の自由が利かないもどかしさのせいだ。  喜久井が最初にパソコンを持ってきてくれたおかげで、サークルやバイト先との連携や書き物仕事、それに滞っていた卒論の下書きに手を付けられたのは不幸中の幸いだった。  しかし部屋の片付けは丸きり喜久井や同期の三浦兄弟に頼ってしまったし、新しい携帯も部屋も、何も探せていない。  元彼(と言ってもう差し支えないだろう)には夕真への接近禁止命令が出ているが、それを破るリスクを

ロングディスタンス④

 夕真が居心地悪そうに肩を落として契約書に署名するところを見届け、重陽は「ヨシ!」と一つ頷き部屋を出てきた。あとは彼らの「仕事」の話で、自分にはまた別の「仕事」がある。 「──弥生さん、お疲れ様です。まだ何かお手伝いできることって残ってます?」  重陽が台所へ戻ると、目にも止まらぬ手捌きでじゃがいもの皮を剥いていた恰幅の良い女性が振り向き、ニコリと笑った。 「あらいいのに。重陽くんも走ってお腹空かせてきたら?」 「今日は休養日ってコーチに言われてるんです。その代わり、

ロングディスタンス⑤

 三浦ハウスの朝は早い。初めに起きるのはその日の朝食当番で朝の五時。今朝は夕真がその当番なので、唸り声を上げながらベッドを這い出し洗面所へ向かった。今まで住んでいた1Rや1Kと違い、洗面所もトイレも部屋からえらく遠くて、眠気のあまり廊下で何度もぶっ倒れそうになる。  密着取材は今までにも何度か経験があるが、選手と同じ寮や下宿で寝食をともにしながらというのは初の経験だ。関係構築のためにはこれ以上ないほど有効な手段なんだろうが、体力の消耗たるや今までの密着の比ではない。 「ね

ロングディスタンス⑥

 青嵐大学駅伝部には金がない。これと言ったスポンサーもいない。大学からは部活として最低限の予算を貰えはするものの、大会や記録会のエントリーフィーを賄うので精一杯だ。  なので部の活動費用の多くは、ユーチューブの広告収入とたまに行うクラウドファンディングに依存している。  ただしそれも、過去に駅伝部であった事件の尾を引いていて大学陸上ファンにおける旧来からのメイン層とも言える中高年男性にはあまり覚えがよろしくない。  そんな状況でも常に笑顔を絶やさないのが、ノブタ主将とユ

ロングディスタンス⑦

 ユメタが駅伝部のグループチャットに貼り付けた部員名簿の写真。そこに印字された「松本有希 文学部(夜間) 一年」の文字を見て、夕真はすぐに都内の他校で関東学生陸上競技連盟の幹事をしている後輩に連絡を取った。  彼女は一年を通してロードとトラックと問わず大会の運営に関わっているので、今の松本兄弟についても何か聞けるのではないかと目論んだのだ。 「わあっ、織部先輩っ! お久しぶりですーっ!」  高校時代の夕真が唯一、連絡先を交換した女の子──ウツギちゃんこと卯木星奈は、初め

ロングディスタンス⑧

 彼に新しい携帯を渡すざっと一年前。重陽はゼミと独学で学習したプログラミングで、位置共有のアプリケーションを開発していた。  多くのスマートフォンに標準搭載されている両者の承認を得るタイプのものではなく、特殊な動作を行わなければ解除のできないものだ。  開発中、同室で同学部の御科には「犯罪者に片足突っ込んでて草」と釘を刺された。けれど、虎穴に入らずんば虎子を得ず。である。犯罪者──彼を痛めつける彼の恋人たちの動向を知るには彼らの思考回路を理解することが一番の近道だと思った

ロングディスタンス⑨

 少し飲まない期間が続いただけで、酒にはずいぶん弱くなったと思う。  一人暮らしをしていた頃は、ひとりで居ても誰かと居ても晩は昨夜開けたような強い酒を何本も呷っていたのに。 「……気持ち悪い」  夕真は独り呻きながら体を起こし、枕元の携帯に手を伸ばした。焦点が合わないのは眼鏡をかけていないせいだ。  覚えている。喜久井は部屋を出ていく前、ご丁寧に夕真の顔から眼鏡を外してノートパソコンのキーボードの上へ置いた。その時囁かれた「おやすみなさい」の低い響きが、浅い眠りから覚