マガジンのカバー画像

ロングディスタンス

38
カメラ男子先輩とオタクランナー後輩の長い初恋の話。(完結)
運営しているクリエイター

記事一覧

On your marks

 その日、織部夕真は機嫌が良かった。  それは雲一つない秋晴れのおかげであり、フライパンの上で割った卵が双子だったおかげでもあった。  機嫌の良かった夕真は鼻歌なんか口ずさみ、リュックサックにとっておきのレンズとフィルムを詰め、スニーカーを爪先にひっかけた。  玄関を出て濡れ縁へ回ると、夕真に写真を教えてくれた祖父は、庭の白い山茶花に二眼レフカメラのファインダーを向けていた。 「じいちゃん。俺ニシムラさん行ってくるけど。何かお使いある?」  夕真が声をかけると、祖父

熱病と臆病①

 教室を出ていく夕真の背中無遠慮な視線が叩く。織部は今日も便所メシ。とかなんとか囁かれているのは知っていて、けれど直接言われたわけではないので否定のしようはないのである。  実際に昼休みを過ごすのは、トイレではなく写真部の部室だ。時折ほかの部員が忘れ物を取りに来たりする以外には誰が顔を出す訳でもなく、学校なんかどこにいたって憂鬱なものではあるが、夕真にとって部室はまあまあ「居られる」場所だ。  窓を開けて換気をし、ポッドキャストで深夜ラジオを聴きながら弁当を食べる。パーソ

臆病と熱病②

 写真部でフィルムの現像とプリントをしているのは、今は夕真だけだ。後輩たちにも一応ひと通りの手順は教えたけれど、この学校で暗室を使うのはどうやら夕真で最後になりそうである。  喜久井が持ってきた印画紙は大四切──B4と大体同じくらいのサイズの大きなものだった。夕真が普段使うのは大きくてもたかだかA4くらいのもので、それ以上のサイズの印画紙は大会や文化祭の展示で使うくらいなので少し緊張する。 「……よし。できた」  印画紙を部室の乾燥棚に並べ、ほっと息をついた。暗室作業は

熱病と臆病③

 ホームルームで校内新聞が配布されたのは水曜の終礼だった。陸上部の県大会入賞は夕真が思っていた以上の快挙だったらしく、その立役者である喜久井の写真が新聞には大きく使われていた。無論それは、夕真の撮ったあの写真だ。 「──お兄ちゃん、本気出し過ぎ。意味分かんないんだけど」 「は?」  塾から帰ってきたあとの遅い夕食中。まひるから予想外のクレームを受け取り、夕真は眉を寄せた。 「意味がわからないのは今のお前の言い分なんだが?」 「だってお兄ちゃんがあんな写真撮るから、み

熱病と臆病④

 どう考えても偶然だった。あの日はたまたまカメラの修理が終わった日で、たまたま鞄には望遠レンズが入っていて、天気が良かったし目玉焼きが双子でたまたますごく機嫌が良くて、だからあの交差点へ行く気になったのだ。  必然であったことなんか何一つない。夕真があの瞬間、彼の心の底の方へ降りて行ったことも含めて。  なので、こんな脈絡のない偶然の結果として「喜久井がいやに絡んでくる」という事実はどう考えてもバランスを欠いているとしか思えず、夕真はずっと首を捻っている。  喜久井が三

熱病と臆病⑤

 十二月に入ると塾の日にちが増え、放課後にグラウンドへ顔を出せる機会はめっきり減ってしまった。  あれで喜久井は夕真が本当に困るわがままは言わないので、それを伝えても反応はあっさりしたものだった。けれど絵に描いたようにしょんぼり肩を落とされて、盛大に罪悪感を煽られた。 「それじゃあ、レースの日も難しそうですかね。そう言えば、模試とかあるかもって前に言ってましたけど」  練習着姿の喜久井は、そわそわしながらフェンス越しに夕真の目を見て発した。 「来週の日曜だよな。大丈夫

熱病と臆病⑥

 教室にいる間はそれからも、控えめに言って相変わらずの地獄だった。「いじめ」と言えるほど苛烈ではない程度の、こすっからくてより陰湿な「からかい」に、毎日少しずつ自尊心を抉られる。  それでもなんとか毎日をやり過ごし、命からがら十二月も二週間生き延びた。  県大会以来のレースは夕真にとっても待ち遠しく、カメラを入念に手入れし、この日が来るのを指折り数えながら待ち望んでいた。  なのに、熱を出した。 「──先輩、どーしたんすかその格好。風邪?」  スタート兼ゴールになっ

愛日と落日①

 重陽には夢があった。ささやかな夢だ。  それなりに好きな人と結ばれ、好きな人の血を持った子をもうけ親を安心させ、それなりに才を活かした生業でその家族を支え、家族円満で末長く幸せに暮らす。というささやかな夢が。 「先輩。ごめんなさい。私と別れてください」  一学期の終業式を終えた足で寄った駅ビル、その中のスタバのど真ん中で、高二の終わりで初めてできた一つ年下の彼女──織部まひるは、そう言って深々と頭を下げ重陽につむじを見せた。 「別れてって……なんで? 突然。おれ、な

愛日と落日②

 母の作るスコーンとレモンパイはエヴァンズ家秘伝のレシピで、重陽の好物だ。あんまり狂おしいほど旨いので、一人息子に料理を教えるのを渋る母にしつこくせがんで作り方を教えてもらった。 「美味しい! やっぱりメレンゲって手で膨らませると違うわ」  息子との合作レモンパイを一口食べるなり、母は顔を綻ばせて頷いた。 「そうかな。おれはハンドミキサーでやった時の方が好きだな。あれは文明の利器だね」  と重陽が答えたのはひとえに、母を立ててのことだ。この人に「自分は至らない母だ」と

愛日と落日③

 春から夏のトラックシーズンは総体、国体、U18選手権と、大きな試合が目白押しだ。と言っても長距離専門の重陽は、トラック大会では五千メートルに集中するのみである。  全国高校総体は五月から六月にかけて全国で順次地区大会が始まり、それを勝ち抜くと次は県大会、その次には地方大会と、予選が三回ある。そしてその地方大会を勝ち抜いた先にあるのが全国大会──いわゆるインターハイだ。  重陽は、三年目にして初めて地方大会を勝ち抜いた。  けれど二つ下に鳴り物入りで現れた双子が一位と二

愛日と落日④

 練習を終えて同級生や後輩らと後片付けをしている最中も、重陽は双子とそれ以外の部員の間で「まあまあ」と「そこをなんとか」を繰り返した。 「遥希! 喜久井に三角コーン運ばせんなって。お前後輩だろ」  といつもは重陽を「ホモくさ」とからかう副部長の市野井(いちのい)元(はじめ)が声を張る。肩を竦ませたのは遥希ではなく、むしろ重陽の方だ。ついつい何も考えず片付けに手をつけてしまった。 「は? 別にそれ、先輩後輩関係なくないっすか。気付いた人がやりゃいいじゃん」  絶妙に生意

愛日と落日⑤

 インターハイはいつも八月の初旬、お盆の前に開催されることが多い。けれど今年は夏休みの終わり、八月の最終週に北海道で行われることになっている。  練習期間もひと月近く長い上に八月下旬の北海道は気候もいいので、界隈は「さぞかし好記録が連発するに違いない」と湧いているようだ。  重陽にとって幸いだったのは、同じ競技で一緒に全国大会へ行く双子が普通に練習を「お盆休み」したことだった。地方大会の優勝・準優勝コンビを差し置いて部活を休むのは少し──いや、かなり体裁が悪い。  とは

愛日と落日⑥

 校舎で受付を済ませたあと、ひとまずひとりで入試相談会へ参加してから再び夕真と合流した。 「どうだった? 相談会。お前って文理どっちなんだっけ」  約一時間ぶりに再び顔を合わせた彼からは、微かに煙草の匂いがした。 「理系っす。こう見えて受験英語ニガテで」 「へえ。意外」  目を瞠いて発した彼の吐息が少し煙たい。そばで人が吸っていて──ということではなさそうだ。  驚いたし動揺したけれど、幻滅はしない。むしろ興奮する。だから早口になる。 「ヒアリングとスピーキング

愛日と落日⑦

 青嵐大の鄙びたトラックではちょうど、土田主将曰く「エンジョイ勢」であるところの先輩たちが有名ランナーのアップしているYoutube動画をコーチ代わりに和気藹々と練習に励んでいた。  率直な疑問として、重陽は「どうして実績のある人に指導を仰がないんですか」と聞いてみたら、思ってもみなかった様々な答えが返ってきて面食らった。  自分でプランを立ててPDCAを回したいから。頼んで断られたら心折れるから。プレッシャー負いたくないから。人の指図は受けたくないから。武者修行してみた