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愛日と落日②

 母の作るスコーンとレモンパイはエヴァンズ家秘伝のレシピで、重陽の好物だ。あんまり狂おしいほど旨いので、一人息子に料理を教えるのを渋る母にしつこくせがんで作り方を教えてもらった。

「美味しい! やっぱりメレンゲって手で膨らませると違うわ」

 息子との合作レモンパイを一口食べるなり、母は顔を綻ばせて頷いた。

「そうかな。おれはハンドミキサーでやった時の方が好きだな。あれは文明の利器だね」

 と重陽が答えたのはひとえに、母を立ててのことだ。この人に「自分は至らない母だ」と思い込まれると、過保護が暴走してこっちが参る。

「それにやっぱり、レモンカードはママに敵わないんだよなあ。いつも教わった通りに作ってるのに、なんでだろ……」

「それはあなた、やっぱり人のために作るからよ。あなたもまひるちゃんの顔を思い浮かべながら作ってごらんなさい。きっといつもより美味しくできるはずよ」

「あー……なるほど」

 おべっかが裏目に出た。お菓子作りをしたがったり走る以外はどちらかと言うとインドア趣味な重陽に初めてできたガールフレンドのことが、母は大のお気に入りなのだ。

「──でも、男の手作りお菓子なんか気持ち悪くないかな」

 別れたことを言おうかどうしようか迷って、結局言わずにフォークを置いた。

「気持ち悪くなんかないわよ。今はもう、そういう時代でもないでしょう?」

 と言って訳知り顔で目を細める母の顔は、吐き気がするほど気持ち悪い。息子に対する彼女の愛は、ひどく独りよがりで重陽には響かないし重い。

 きっと次にレモンパイを作る時に思い浮かべるのは別の人の顔だし、食べるのは自分と家族だけだ。スコーンならまだしも、素人の手作りレモンパイを東京まで持ち込むのは、性別関係なくちょっとどうかと言う気がする。

 そう言えば、初めて夕真を訪ねて行った時には自分で焼いたスコーンを持って行ったのだった。

 気持ち悪がらせたら悪いと思って咄嗟に「母親から先輩にって」と嘘をついてしまったけれど、彼の人となりを知った今となっては余計な嘘をついたことが悔やまれる。お陰で味の感想を聞きそびれてしまった。

「──ごちそうさま。おいしかった!」

 得意の「あてこすり」で日本式に手を合わせ、重陽は席を立った。

「いつもありがとうママ。お腹落ち着いたら、また走ってきてもいい?」

「いいけど、日が暮れたあとにしなさいね」

「わかってるよ。大丈夫。ママは心配性だなあ」

 肩を竦めて返事をして、したくもないキスを頬で交わして自分の部屋にそそくさと逃げ込んだ。断りなく部屋のドアを開け息子のマスターベーションを目撃し寝込んで以来、母はノックを欠かさない。それだけは救いだ。

 肩から力を抜き、大きく息を吐いて、重陽はベッドにダイブした。そのままもう一度「うあああー」とうめき声を上げて手足をバタバタさせ、ポケットのスマホを充電ケーブルに繋ぐ。夕真へ送ったメッセージに既読マークが付いていないことでまたため息をついてから、諦めてそれを放り机へ向かった。

 ハーフマラソンでも、五千メートルや一万メートルなどのトラック競技でも、重陽の自己ベストはそう悪くはない。むしろ──天候のアドバンテージはあったかもしれないにしても──インターハイの決勝や駅伝の全国大会でエース区間を走るような選手と、遜色ないタイムを持っている。

 ただしそれは、非公認大会においての記録での話だ。

 ようは本番に弱いのだ。もしくは間が悪い。

 高一の大会は単純に力不足で、個人戦は軒並み地区予選落ち。駅伝では補欠にも入れなかった。

 高二の夏にあったインターハイ予選では県大会までは進んだものの、遠征先で水に当たってしまい練習の成果が発揮できなかった。

 冬の駅伝でこそ力を出し切ることができたけれど、駅伝は自分の調子が良かったからといってどうなるものでもない。

 年度末に自己ベストの好記録を叩き出して入賞したハーフマラソンは地元では名の知れたお祭りみたいな大会だけれど、コースは記録として認められる条件を満たしていなかった。

 今のところ重陽には、二校だけコンタクトを取ってくれている大学がある。

 一つは中部圏内にある出雲駅伝の常連校からのスカウトで、もう一つは東京のとある大学──その昔、まだ箱根駅伝が出来立てホヤホヤの大会であった百年前に名を馳せた私学だ。

 といっても東京の大学の方は「スカウト」ではなく「勧誘」で、陸上部のマネージャーが手作りの紹介冊子を学校の住所で重陽宛に郵送してきたというだけに過ぎない。

 その手作りの冊子へ一応目を通してみたところ、選手は少なく監督は若く、なるほど自由にのびのびとやれそうな雰囲気ではあった。さりとて和気藹々とし過ぎていて勝負に真剣でないということもなく、ここ数年では着実に組織力をつけているようだ。

 が、何を隠そう私学の名門である。推薦で学力考査が免除になるならいざ知らず、重陽が真正面から試験を受けて合格できる可能性は、なかなかどうして高くはなさそうだ。

 先方もそれを承知でいるのかいないのか、部の紹介冊子の他におすすめの参考書をまとめたチラシや「勉強のことで何か悩みがあればご相談ください」と部員やマネージャー直通のSNSアカウントまでが封筒には一緒に入っていた。

 それを最初に受け取ったのは昨年度末のハーフが終わった直後のことで、正直なことを言うと重陽はちょっとムッとした。

 同じ高校の先輩には、スカウトで二年の夏には進学先が決まっていたような人がたくさんいる。そうした先輩たちの引く手数多な様子を部員はみんな知っているだけに、手作りの「勧誘」が来ただけというのは重陽のキャラも相まっていい笑い草だったのだ。

 冊子を送ってくるのは結構だが、SNSの運用をしているならせめてそのSNSを通して自分個人に連絡を通して欲しかった。

 どうせ大学でも陸上を続けるなら、仮に二軍スタートだとしても強豪校の方がいいに決まっている。

 しかし箱根駅伝はローカル大会なので、そこを目指すなら関東の大学を選ぶ必要は確かにある。が、全日本大学駅伝や出雲駅伝への出場に照準を絞るなら、進学先は地元でもいいわけだ。

 もっと言えば、そもそも重陽は大学で競技を続けるかどうかも迷っている。

 そりゃあ長距離走をやっていれば誰だって少なからず箱根や出雲や全日本に憧れは抱くものではあるけれど、その中で重陽はきっと大して情熱を持っていない方なのだ。

 ランニングは、五体満足の健康な体さえあればどこでも誰でもいつまでも取り組める競技だ。それが一番いいところで、重陽はきっと、自分はきっとどんな形であれ一生ランニングを続けていくだろう。とは思っている。走るのが好きだからだ。

 だからこそ、世間一般における「大学駅伝」の価値の高さにはピンと来ない。好きな時に好きなように走れさえすればいい。速く走れたら嬉しいけれど、別に賞が欲しいとか誰かに勝ちたいとかいう気持ちはそこまで強くない。

 どうせどんなに速く走れたって好きな人は振り向いてくれないし、家族が自分の性的指向を理解することはないし、人の顔色を伺いながら「いじられキャラ」を続けていくしかないのだ。それらが叶わないなら、足が速いことになんてなんの価値もない。

 それでも重陽は、無理を承知で「勧誘」を送ってきた大学の赤本を開いている。

「ぐう……マジで意味分からん……」

 苦手な古文の解答がではない。自分のしていることの意味が。である。考えれば考えるほど、自分でも不可解なことをしていると思う。

 進路の希望調査票を見た担任からは「真面目に書け」と説教を食らった。スカウトをくれた方の大学に決めれば、唸りながら古文や漢文を勉強する必要もない。

 けれど、この大学には「彼」がいる。

 本当の重陽を唯一見つけてくれて、そして、受け止めてくれたあの「彼」が。

 やっぱり受験なんかやめようか。たかが青春時代の片想い(笑)のために、こんな大バクチ打つことなんかない。

 なんて考え始めた矢先、ベッドの上の携帯が光った。何気なくそれを手に取った重陽は、その通知の内容を見てのけぞる。

「あーもう! やだやだ! なんなのこの人!? ほんとそういうとこ!」

 夕真から送られてきた写真には、直前に重陽が誘ったライブの連番チケットが二枚写っている。そして、

『買っといたから』

 というだけの補足。

『やったー! 奢りっすか? あざーす☆』

 とひとまず返してから、頭を抱えて大きく息を吸う。

 待って待って待って待って。買っといたっていつ? さっきまで既読付いてなかったじゃん!?

 通知だけで見てた? 何文字出るんだっけ? 機種による? ま、まさか今? じゃないよな!? そうだ日付! チケットの写真!! 発券日写ってんじゃね!? 拡大拡大拡大!!

 顔に携帯をゼロ距離まで近付け、血眼で写真を検めている間に、ポップアップに彼からの返信が現れる。

『別にそれでいいけど、ほんと俺お前のそういうとこ嫌い(笑)』

 カッコワライ!! 笑った!? 笑ってる!! ぎゃー無理!!

 と彼の笑顔を想像してはひとまず携帯を放り出し、ベッドの上で悶え散らかしてから、今度は大きく息を吐く。果たして天井の色は、こんなにキラキラ眩しい白だったろうか。

「尊い……無理……尊みの秀吉……」

 発券は、今日より随分前だった。つまり自分から誘う前に彼はチケットを用意してくれていたわけで、けれど照れ隠しで「嫌い(笑)」などと供述しており、重陽は「そんなんどう考えても両思いじゃろがい!」と口にしたことのない方言を脳内で発しながら、しかしリフレインする失恋の記憶に心を千々に乱され、とりあえずSNSの裏アカに「推し、人生狂わせてくれてありがとう」と書き込んだ。すぐに「いいね」が二、三個ついた。

『おれは先輩のこと好きですよ! お笑いのチケット奢ってくれるから(笑)』

 嫌い(笑)に好き(笑)で返せても、カッコワライは一生取れないんだろう。

『気が変わった。出世払いを請求する。確かマラソン日本記録の賞金って、一億だっけ?』

 そんな彼の返信に、うだつの上がらないランナーとしての「軽率に日本記録とか言うんじゃねーよタコ!」という気持ちと、恋に恋するお年頃としての「おれ=陸上に興味持ってくれてるヤッター!」という気持ちがない混ぜになり、

『あ、それ。税金で三割持ってかれるらしーっすよ』

 といういつもの微妙に可愛くない返しになる。

『え。世知辛過ぎでは……』

『ちなプロだと最悪半分持ってかれます』

『いやでもよく考えたら、半分でも五千万じゃんか』

『おっと。気付いてしまいましたか』

 そのまま続く、他愛なくて短い言葉のやり取り。その一つ一つが重陽にとっては何よりの宝物で、この片想いを「たかだか」と思ってしまったつい寸前の自分を恥じた。

 楽しくて嬉しくて、キラキラ綺麗で苦しくて虚しい。片想いの胸のうずうずは、レースを走る時のそれによく似ている。

 だから力を出しきれなかった試合が悔しいのと同じように、彼に対する「好き」にも全力を出しきれなければ一生後悔するような気がした。

「……しょうがない。やるか!」

 自分の送ったスタンプに既読マークが付かなくなったのを見届けて、重陽は勢いをつけ体を起こした。そうしてもう一度机に向かい、解けなかった問題の解説ページを開く。

 少しくらい足が速いことなんて、重陽にとってはなんの価値もない。けれど速かろうが遅かろうが走るのは好きだし、どんな形であれどこでだって走る。

 どこでもいいなら、彼のそばがいい。世界が条件付きでしか自分を愛してくれないなら、自分自身くらいは自分のことを掛け値なしで好きでいてやりたい。愛されないことに諦めをつけられる強さが欲しい。

 ひとりきりの、寒々しくて孤独な戦いだ。そんなところも片想いは──人生は、走ることによく似ている。

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