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ロングディスタンス

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カメラ男子先輩とオタクランナー後輩の長い初恋の話。(完結)
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#陸上競技

Ready steady go

 青嵐大学駅伝部が初めて走った箱根駅伝の成績は第十位となり、翌年のシード権を獲得した。しかし、それはそれとして。 「十区の選手がゴール直前で行った、相手を煽るようにも見えるあの行為はいかがなものか」  であるとか、 「ゴールテープの向こうにいた学生記者。彼はなにをふざけた声援を送っていたんだ?」  であるとか、 「いやいやふざけちゃなんかいない。あれは純愛だ」  であるとか、 「それで結局、あの二人は恋人同士なのか?」  であるとか、まあとにかく。  相も変

天下の険②

 一月三日。朝七時三十分。夕真は粉雪の舞う函嶺洞門の真上をヘリコプターが飛んでいくのを見た。復路は毎年このポイントからと決めているが、どうしてか空撮用のヘリが飛んでいく時はいつもぽかんと口を開けてそれを見送ってしまう。  今日は喜久井にとって初めての箱根駅伝。夕真にとっては四回目の、そしてきっと最後の箱根駅伝になる。  青嵐大が箱根路を駆けるのは今年が初めてのことだが、夕真は毎年欠かさず往路・復路ともに交通機関を駆使して全区の撮影を行ってきた。  理由を尋ねられればいつ

天下の険①

 一月二日。午前六時三十分。大手町讀賣新聞本社ビル。箱根駅伝の一区を走る選手とその関係者にはロビーが開放されている。  入念なストレッチに励む者や、音楽に聞き入りながら精神統一をはかる者。バランスボールを持ち込んでいる選手もいる。スタートを間近に控え、過ごし方はそれぞれ。十人十色ならぬ、二十一人二十一色だ。  青嵐大の一区を担うノブタ主将はというと、起床直後から今に至るまで一貫してSNSの更新に余念がない様子だった。しかし彼は付き添いの重陽が合流するなりその顔を見て、ハハ

きし方とゆく末②

 怒涛の更新率で居場所を報せてきていた喜久井の母は、ドアの窓ガラスにほとんど顔をくっつけたまま、どうやらお手製らしい青嵐大の応援小旗を振り夕真の目の前を通り過ぎて行った。 「……お分かりかと思いますが、あちらがうちの母でございます」 「分かった。完全に理解した。いいお母さんじゃないか」  乗っている車両は報されていたものの、メリーさん──もといメアリーさんは自分たちの居た場所より少し先の降車口から新幹線を降りてきた。 「重陽! ゆーまくん!」  喜久井と同じ赤い髪、

きし方とゆく末①

 年の瀬も押し迫った十二月二十九日。夕方に発表された箱根駅伝の区間エントリーは様々な媒体で波風を立てた。  一番のトピックは東体大一年・松本遥希の二区起用だ。それまでに叩き出してきた一万メートル二十六分台に迫る記録から言えば、順当と言えば順当。というより、彼に限って言えば一年だてらの二区起用というより留学生たちとの区間新記録争いに注目が集まっている。  その影に隠れて──と言ってはなんだが、青嵐大のエントリーもなかなかどうして物議を醸していた。  青嵐大駅伝部において一

爪と牙②

「ちょっとツッチー先輩! 正気!?」 「当たり前だろノブタ。もうふざけてる時間はない」 「だとしたらバカだよバカ! ノブタが一区で俺が二区って、じゃあ往路は誰が監督車に乗るのさ!?」 「バカはお前だユメタ。レースより裏方を優先するチームなんかあってたまるか」  言われてみればそれはもっともな話だが、とは言えツッコミどころはまだまだある。  昨日ユメタ主務が言っていたとおり、なんとなくの共通認識として上級生の区間配置はだいたい決まっていたようなものだった。──が。そん

爪と牙①

 予選会の結果発表からあとは、完全に夕真の独壇場と言ってもよかった。  彼は周囲の高揚もどこ吹く風といった風情でシャッターを切り、端から青スポのほかのメンバーへ共有したようだ。ウェブ版の記事はほとんどどこよりも先に更新されていた。  彼の写真はその場で青スポの号外にも使われた。スピード感に溢れる荒い印刷の紙面では、土田コーチが宙に舞っていた。 「カッケエ……」  弥生さんの運転する軽の助手席で、重陽は号外を何度も広げたり畳んだりしながら思わず呟いた。 「ふふっ。そう

愛日と落日⑦

 青嵐大の鄙びたトラックではちょうど、土田主将曰く「エンジョイ勢」であるところの先輩たちが有名ランナーのアップしているYoutube動画をコーチ代わりに和気藹々と練習に励んでいた。  率直な疑問として、重陽は「どうして実績のある人に指導を仰がないんですか」と聞いてみたら、思ってもみなかった様々な答えが返ってきて面食らった。  自分でプランを立ててPDCAを回したいから。頼んで断られたら心折れるから。プレッシャー負いたくないから。人の指図は受けたくないから。武者修行してみた

愛日と落日⑥

 校舎で受付を済ませたあと、ひとまずひとりで入試相談会へ参加してから再び夕真と合流した。 「どうだった? 相談会。お前って文理どっちなんだっけ」  約一時間ぶりに再び顔を合わせた彼からは、微かに煙草の匂いがした。 「理系っす。こう見えて受験英語ニガテで」 「へえ。意外」  目を瞠いて発した彼の吐息が少し煙たい。そばで人が吸っていて──ということではなさそうだ。  驚いたし動揺したけれど、幻滅はしない。むしろ興奮する。だから早口になる。 「ヒアリングとスピーキング

愛日と落日⑤

 インターハイはいつも八月の初旬、お盆の前に開催されることが多い。けれど今年は夏休みの終わり、八月の最終週に北海道で行われることになっている。  練習期間もひと月近く長い上に八月下旬の北海道は気候もいいので、界隈は「さぞかし好記録が連発するに違いない」と湧いているようだ。  重陽にとって幸いだったのは、同じ競技で一緒に全国大会へ行く双子が普通に練習を「お盆休み」したことだった。地方大会の優勝・準優勝コンビを差し置いて部活を休むのは少し──いや、かなり体裁が悪い。  とは

愛日と落日④

 練習を終えて同級生や後輩らと後片付けをしている最中も、重陽は双子とそれ以外の部員の間で「まあまあ」と「そこをなんとか」を繰り返した。 「遥希! 喜久井に三角コーン運ばせんなって。お前後輩だろ」  といつもは重陽を「ホモくさ」とからかう副部長の市野井(いちのい)元(はじめ)が声を張る。肩を竦ませたのは遥希ではなく、むしろ重陽の方だ。ついつい何も考えず片付けに手をつけてしまった。 「は? 別にそれ、先輩後輩関係なくないっすか。気付いた人がやりゃいいじゃん」  絶妙に生意

愛日と落日③

 春から夏のトラックシーズンは総体、国体、U18選手権と、大きな試合が目白押しだ。と言っても長距離専門の重陽は、トラック大会では五千メートルに集中するのみである。  全国高校総体は五月から六月にかけて全国で順次地区大会が始まり、それを勝ち抜くと次は県大会、その次には地方大会と、予選が三回ある。そしてその地方大会を勝ち抜いた先にあるのが全国大会──いわゆるインターハイだ。  重陽は、三年目にして初めて地方大会を勝ち抜いた。  けれど二つ下に鳴り物入りで現れた双子が一位と二

愛日と落日②

 母の作るスコーンとレモンパイはエヴァンズ家秘伝のレシピで、重陽の好物だ。あんまり狂おしいほど旨いので、一人息子に料理を教えるのを渋る母にしつこくせがんで作り方を教えてもらった。 「美味しい! やっぱりメレンゲって手で膨らませると違うわ」  息子との合作レモンパイを一口食べるなり、母は顔を綻ばせて頷いた。 「そうかな。おれはハンドミキサーでやった時の方が好きだな。あれは文明の利器だね」  と重陽が答えたのはひとえに、母を立ててのことだ。この人に「自分は至らない母だ」と

愛日と落日①

 重陽には夢があった。ささやかな夢だ。  それなりに好きな人と結ばれ、好きな人の血を持った子をもうけ親を安心させ、それなりに才を活かした生業でその家族を支え、家族円満で末長く幸せに暮らす。というささやかな夢が。 「先輩。ごめんなさい。私と別れてください」  一学期の終業式を終えた足で寄った駅ビル、その中のスタバのど真ん中で、高二の終わりで初めてできた一つ年下の彼女──織部まひるは、そう言って深々と頭を下げ重陽につむじを見せた。 「別れてって……なんで? 突然。おれ、な