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ロングディスタンス

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カメラ男子先輩とオタクランナー後輩の長い初恋の話。(完結)
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#写真

熱病と臆病①

 教室を出ていく夕真の背中無遠慮な視線が叩く。織部は今日も便所メシ。とかなんとか囁かれているのは知っていて、けれど直接言われたわけではないので否定のしようはないのである。  実際に昼休みを過ごすのは、トイレではなく写真部の部室だ。時折ほかの部員が忘れ物を取りに来たりする以外には誰が顔を出す訳でもなく、学校なんかどこにいたって憂鬱なものではあるが、夕真にとって部室はまあまあ「居られる」場所だ。  窓を開けて換気をし、ポッドキャストで深夜ラジオを聴きながら弁当を食べる。パーソ

臆病と熱病②

 写真部でフィルムの現像とプリントをしているのは、今は夕真だけだ。後輩たちにも一応ひと通りの手順は教えたけれど、この学校で暗室を使うのはどうやら夕真で最後になりそうである。  喜久井が持ってきた印画紙は大四切──B4と大体同じくらいのサイズの大きなものだった。夕真が普段使うのは大きくてもたかだかA4くらいのもので、それ以上のサイズの印画紙は大会や文化祭の展示で使うくらいなので少し緊張する。 「……よし。できた」  印画紙を部室の乾燥棚に並べ、ほっと息をついた。暗室作業は

熱病と臆病③

 ホームルームで校内新聞が配布されたのは水曜の終礼だった。陸上部の県大会入賞は夕真が思っていた以上の快挙だったらしく、その立役者である喜久井の写真が新聞には大きく使われていた。無論それは、夕真の撮ったあの写真だ。 「──お兄ちゃん、本気出し過ぎ。意味分かんないんだけど」 「は?」  塾から帰ってきたあとの遅い夕食中。まひるから予想外のクレームを受け取り、夕真は眉を寄せた。 「意味がわからないのは今のお前の言い分なんだが?」 「だってお兄ちゃんがあんな写真撮るから、み

熱病と臆病④

 どう考えても偶然だった。あの日はたまたまカメラの修理が終わった日で、たまたま鞄には望遠レンズが入っていて、天気が良かったし目玉焼きが双子でたまたますごく機嫌が良くて、だからあの交差点へ行く気になったのだ。  必然であったことなんか何一つない。夕真があの瞬間、彼の心の底の方へ降りて行ったことも含めて。  なので、こんな脈絡のない偶然の結果として「喜久井がいやに絡んでくる」という事実はどう考えてもバランスを欠いているとしか思えず、夕真はずっと首を捻っている。  喜久井が三

熱病と臆病⑤

 十二月に入ると塾の日にちが増え、放課後にグラウンドへ顔を出せる機会はめっきり減ってしまった。  あれで喜久井は夕真が本当に困るわがままは言わないので、それを伝えても反応はあっさりしたものだった。けれど絵に描いたようにしょんぼり肩を落とされて、盛大に罪悪感を煽られた。 「それじゃあ、レースの日も難しそうですかね。そう言えば、模試とかあるかもって前に言ってましたけど」  練習着姿の喜久井は、そわそわしながらフェンス越しに夕真の目を見て発した。 「来週の日曜だよな。大丈夫

熱病と臆病⑥

 教室にいる間はそれからも、控えめに言って相変わらずの地獄だった。「いじめ」と言えるほど苛烈ではない程度の、こすっからくてより陰湿な「からかい」に、毎日少しずつ自尊心を抉られる。  それでもなんとか毎日をやり過ごし、命からがら十二月も二週間生き延びた。  県大会以来のレースは夕真にとっても待ち遠しく、カメラを入念に手入れし、この日が来るのを指折り数えながら待ち望んでいた。  なのに、熱を出した。 「──先輩、どーしたんすかその格好。風邪?」  スタート兼ゴールになっ

愛日と落日⑤

 インターハイはいつも八月の初旬、お盆の前に開催されることが多い。けれど今年は夏休みの終わり、八月の最終週に北海道で行われることになっている。  練習期間もひと月近く長い上に八月下旬の北海道は気候もいいので、界隈は「さぞかし好記録が連発するに違いない」と湧いているようだ。  重陽にとって幸いだったのは、同じ競技で一緒に全国大会へ行く双子が普通に練習を「お盆休み」したことだった。地方大会の優勝・準優勝コンビを差し置いて部活を休むのは少し──いや、かなり体裁が悪い。  とは

ロングディスタンス①

 耳鳴りの向こうからパトカーのサイレンが聞こえてきた。なので夕真は、その場にべっと口の中の血を吐き出して「ああ、またこのコース」と長い溜息を吐く。  夕真のことを張り倒したラガーマンの恋人は、蹲ったままでいる夕真の胸ぐらを掴んで低い声で唸る。 「いつチクった!」 「俺じゃない。お前が物に当たったりするから、近所の人が気づいたんだろ」  そう言って夕真が割れた窓ガラスを一瞥すると、彼はもうひと唸りして再び夕真の頬を引っ叩き腹を蹴った。  通報したのはもしかしなくても喜

ロングディスタンス③

 三週間の入院は思ったより長く感じた。やるべきことが山ほどあるのに体の自由が利かないもどかしさのせいだ。  喜久井が最初にパソコンを持ってきてくれたおかげで、サークルやバイト先との連携や書き物仕事、それに滞っていた卒論の下書きに手を付けられたのは不幸中の幸いだった。  しかし部屋の片付けは丸きり喜久井や同期の三浦兄弟に頼ってしまったし、新しい携帯も部屋も、何も探せていない。  元彼(と言ってもう差し支えないだろう)には夕真への接近禁止命令が出ているが、それを破るリスクを

ロングディスタンス⑤

 三浦ハウスの朝は早い。初めに起きるのはその日の朝食当番で朝の五時。今朝は夕真がその当番なので、唸り声を上げながらベッドを這い出し洗面所へ向かった。今まで住んでいた1Rや1Kと違い、洗面所もトイレも部屋からえらく遠くて、眠気のあまり廊下で何度もぶっ倒れそうになる。  密着取材は今までにも何度か経験があるが、選手と同じ寮や下宿で寝食をともにしながらというのは初の経験だ。関係構築のためにはこれ以上ないほど有効な手段なんだろうが、体力の消耗たるや今までの密着の比ではない。 「ね

ロングディスタンス⑦

 ユメタが駅伝部のグループチャットに貼り付けた部員名簿の写真。そこに印字された「松本有希 文学部(夜間) 一年」の文字を見て、夕真はすぐに都内の他校で関東学生陸上競技連盟の幹事をしている後輩に連絡を取った。  彼女は一年を通してロードとトラックと問わず大会の運営に関わっているので、今の松本兄弟についても何か聞けるのではないかと目論んだのだ。 「わあっ、織部先輩っ! お久しぶりですーっ!」  高校時代の夕真が唯一、連絡先を交換した女の子──ウツギちゃんこと卯木星奈は、初め

ロングディスタンス⑧

 彼に新しい携帯を渡すざっと一年前。重陽はゼミと独学で学習したプログラミングで、位置共有のアプリケーションを開発していた。  多くのスマートフォンに標準搭載されている両者の承認を得るタイプのものではなく、特殊な動作を行わなければ解除のできないものだ。  開発中、同室で同学部の御科には「犯罪者に片足突っ込んでて草」と釘を刺された。けれど、虎穴に入らずんば虎子を得ず。である。犯罪者──彼を痛めつける彼の恋人たちの動向を知るには彼らの思考回路を理解することが一番の近道だと思った

ロングディスタンス⑨

 少し飲まない期間が続いただけで、酒にはずいぶん弱くなったと思う。  一人暮らしをしていた頃は、ひとりで居ても誰かと居ても晩は昨夜開けたような強い酒を何本も呷っていたのに。 「……気持ち悪い」  夕真は独り呻きながら体を起こし、枕元の携帯に手を伸ばした。焦点が合わないのは眼鏡をかけていないせいだ。  覚えている。喜久井は部屋を出ていく前、ご丁寧に夕真の顔から眼鏡を外してノートパソコンのキーボードの上へ置いた。その時囁かれた「おやすみなさい」の低い響きが、浅い眠りから覚

予選会 -We must go- ①

 十月二十日。日曜日。空には厚く、重たい雲が垂れ込めている。  ここ数年、箱根駅伝の予選会では雨が降ることが多い。少なくとも夕真が青嵐大のスポーツ紙──通称〝青スポ〟の記者として参加した過去三回の予選会はいずれも雨。もしくは、曇りのち雨だった。 「今年も降りそうだなあ……」  ノブタは信号待ちでブレーキを踏んだ直後、三浦ハウスから出発した駅伝部員と夕真で鮨詰めになった車の運転席から外に頭を出して唸る。 「まあ現に、九時から十一時にかけての降水確率は六十パーセントだしね