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DOG DAYS  八月の濡れた鼻

  犬は天国に行けるだろうか。犬を愛する者たちにとって、犬が入れないところはどこであれ、「天国」にはならない。きっと慈悲深い神は、人間を友である犬から永遠に遠ざけたりはなさるまい。 [中略]  私は老いたケアーン・テリアのフリントが死んだ少しあとに、夢を見た。夢の中でフリントは、天国の門の前に寝そべっていた。そこへ天使がやってきて、なぜ門の中に入らないのかと彼に尋ねた。天上界独特のテレパシーを使って、私の犬は答えた。
「ここにしばらくいてもかまいませんか? おとなしくして、吠えたりもしませんから。大好きだった人を待っていたいんです。ひとりで先にいっても、わたしは天国にいる気になれないでしょう」
            スタンリー・コレン『哲学者になった犬』   

   
      
 山手線のとある駅から歩いて五分の好立地に、そのマンションは建っている。十三階建て。そうとう古い。大半が分譲で、下層階のいくらかが賃貸物件だ。
 何度も入れ代わった住人の現在の顔ぶれは、お年寄りが多い。だから、近所では「隠居マンション」と呼ばれている。

 半地下エントランスのガラス扉が開く。
    黒い犬が進み出て、まぶしそうな顔をする。
    風にはご近所の朝食の匂いがふくまれている。誰かアジの干物をちょっと焦がしたらしい。
 アスファルトから水蒸気があがっている。地面があたたまりはじめたところだ。
 雨だれが動いて、葉っぱをきらりと光らせる。あじさい。はなみずき。じんちょうげ。植え込みには季節の花が咲いている。
    雲が動いた。太陽光線がさしこんで来る。思いがけない強さと明るさで。まるで、暗幕を思いきり、ぱぁっとあけた時のように。
    晴れた!
    黒い犬は嬉しそうに息をつき、背中側をふりかえって、牽き綱の持ち手を見上げた。
    女性がいる。薄い手袋をはめている。犬の視線を感じると、目尻にちょこっと笑い皺をきざむ。そうね。良かったわね。ちょうど梅雨の晴れ間に逢えたね! というように。
    彼女はランニングをするためのかっこうをしている。ほっそりした身体にグレイのウエア。小さいリュックを背負っている。顔がすっぽり隠れるつばの大きな帽子。手袋。日焼けの用心だろう。
 犬はぶんぶん尾っぽを振った。グラマーなお尻までフラダンサーみたいにスイングする。
 このところ雨が続いた。ずっとジメジメのビショビショで、道路は冷たく汚かった。散歩は最低限度の短めで、用をすませれば、すかさずUターンだった。
 だから、今日、犬は嬉しくてたまらない。
 この日差しと、この時間と、この場所!
 すべてが、幸福でたまらない。
 行こう、いこう、ママ!
 さあ、はやく、でかけよう! 

 犬の名は黒兵衛。十二歳の雄。
 名前のとおり黒いが、縁がところどころ茶色い。目の上に、まろ眉のような白い丸がふたつある。あごまわりも白で、足はソックスをはいたみたいだ。毛は長く、ふさふさ。近所の犬の中では、体格もだんぜん大きいし、年齢も若いほうじゃない。テリアやパピヨンやちっちゃなプードルにキャンキャンいわれても相手にしない。けんかなんかしないし、そもそもめったに吠えない。怒らない。
 まあ。きれいな素敵なわんちゃん。なんて種類なの? ボーダーコリーじゃない? バーニーズ・マウンテンドッグが混じってる? そんなふうに、訊ねられることもある。
 耳はぴんと立っているし、尾っぽは太くてキュッと巻きあがっている。だから、たぶん日本犬系だ。大型の柴犬か甲斐犬か、もしかするとオオカミ犬の血がまじっているのかもしれないが、よくわからない。
 そういう犬を世間では、ざっくり雑種という。
 ともかく、黒兵衛は黒兵衛だ。

 町はしっとりしめっていて、涼しくて、静かだ。駅に向うひとや学校へ急ぐこどもたちの群れが一段落した時間帯。幹線道路からはずれた住宅街は、妙にひっそりひとけがない。
 ひとりと一匹は少しばかり足慣らしに歩いてから、さっそく走り出した。
 ゆったり安定したペースで。
 まだ路面が濡れているところもある。
 たったったっ。たったったっ。ジョギングシューズのたてる音。
 かつかつかつ。かつかつかつ。犬のつめが地面をひっかく音。
 どちらも規則正しい。
 オルガンの音色と歌が聞こえてくる。教会付属の幼稚園だ。園庭ではおそろいのスモックを着て黄色い帽子をかぶったこどもたちが、はしゃぎまわってあそんでる。こどもたちも、雨つづきで、ずっとお外遊びができなかったのだ。元気な子は、ちからをもてあまして、あばれたくてたまらない。
 あ、わんちゃん! わんちゃんだ! 気がついた子が叫び、柵のところまで走り寄ってくる。たちまちこどものダンゴができる。わあ、おっきい。まっくろ~! かっこいい~! きゃーきゃーいわれる。手をふられてしまう。注目を集めて、犬はちょっと困る。おかげで、いつもの電柱におしっこをしそこねた。
 高い塀にそって黙々と進む。おっと。自動車だ。いきなり追い抜かれて驚いた。近ごろ、ぜんぜん音をさせずにしのびよってくるやつがふえた。風下からこられると、匂いもわからないから油断ならない。
 このへんの道はたいがいすいていて、通る自動車はそんなに多くない。だから、ぎゃくに、たまに来るやつが、うんと速度をだしていることがある。
 ゆるい坂道をどんどんくだった。鬱蒼と繁った大きな緑のかたまりが見えてきた。立派な公園だ。もとはえらいひとのお屋敷だったのだそうだ。きれいに整備されている。夜の間、ゲートを閉じて立入禁止にしてしまうのは、野宿されない用心。でも、この季節、朝七時には開放される。犬も牽き綱つきなら入っていい。ただし芝生に用足しをしてはいけない。芝生で遊びたいときは、その前にちゃんとすませておくようにというきまり。
 さまざまな種類の樹木がはえていて、都心にはめずらしい静かな森みたいになっている。みどりの深い影に隠されて、水が、ちょろちょろ音をたてている。池があり、ちいさな目立たない噴水がある。水面からつきでた棒杭の日光のよくあたるところに、捨てられて繁殖した亀たちが何匹も何匹も並んで首をのばしている。亀だって雨がやむのを待っていたのだ。
 そんなこんな眺めながら、遊歩道を走り抜ける。
 雨に洗われ、風にふかれ、ぽかぽか陽気にあたためられて、地面も草木もみんイキイキしている。やがてくる夏に向って、いまこそ、ぐんぐん育ったり、ずんずん伸びたりしなきゃいけない時期だ。
 公園を出ると、銀色の手すりのある長い石段がある。とんとんとんとん。ひとりと一匹は勢いをつけて駆け上がり、ちょっと疲れて、ちょっと休む。それから、またゆったり走り出す。社員寮の敷地を回り、月極め駐車場の脇を曲がる。
 奇跡みたいにぴったりぎりぎりサイズの駐車スペースに停めてある車がある。どうやってどのドアから出入りするのだろう。
 斜路に並んでフロントグラスを道路にむけたピカピカの車たちもいる。大きくて、いかつくて、いかにも外国産っぽい。
 しっかりカバーをかけてしまってある車もある。おまじないみたいに並んだペットボトルもなんのその、カバーに猫たちの足跡がきままな模様をえがいている。
 銀色の防犯ゲートをリモコンで開け閉めできるようになっているレンガ色の建物の中庭には、かっこいい高級車の一部分が、ほんの少しだけ見える。
 走りつづける。
 大きな樹が近づいてきた。ケヤキだ。道のど真ん中にある。
 枝はうんと刈りこまれていて、葉っぱは少ない。太い幹に無数のこぶのようなでっぱりがあり、これが枝のなごり。胴体には注連縄が張りめぐらしてある。
 この樹が伐られずにあるおかげで、ここで道が曲がっている。両側に迂回して、ぐるっとカーブを描いている。通るときは、自動車もバイクも、うんと速度を落とさなくちゃならない。おかげで前後が幅広の道路なのに、とてもすいている。ジョガーや犬には、まことにありがたい。
 大きなお屋敷を通りすぎた。新築のスタイリッシュなアパートを横目に見て走った。つたのからまった塀。謎の研究所の看板がすごく古くなっている。どこかで室内犬が吠えている。
 やがて、店の看板や、ショウウィンドウが見えてきた。開店時間にははやいので、ほとんどにシャッターがおりているが、もう商店街だ。道沿いに少し行けば、やがて駅前。
 走りつづける。
 はっはっはっはっはっはっ、すー。
 はっはっはっはっはっはっ、すー。
 たくさん吐いて、ちょっと吸う。背筋を伸ばし、胸を張り、肘は直角にまげる。腕ぜんたいを振り子にして、肩甲骨を動かして。脚はみぞおちから生えている意識。歩幅はとうぜん大きめ、ぐいぐい前進。
 すたすたすたすた。すたすたすたすた。
 犬も小走りでつきあっている。もちろん、犬にとっては、こんなのまだまだぜんぜん全力疾走じゃない。呼吸だって余裕だ。
 つやつや黒くて大きな毛むくじゃらなからだが動きにつれて美しくゆらぐ。楽しげに軽々運ばれる。クッションのきいたふかふかの足先も、くるくるすばやくひっくりかえる。
 牽き綱は、ひっぱりすぎでもなく、たるみすぎでもない、丁度いい長さに保たれている。
 太い尾と尻が、リズミカルに揺れている。右左右左。楽しそうに。
 もうあと角をひとつ曲がると、商店街につづく道だ。
 あたりが急に騒がしくなった。
 信号がかわるのを待つ自家用車やタクシーが何台も並んでいる。その列の最後の横っちょに、ひとりと一匹も続く。
 女性は両手をだらんとたらして、その場で軽く足踏みをつづけた。犬は、ちんまりお座りをした。道幅が狭くて、側溝の蓋がでこぼこで、電柱もある。ひとりと一匹が並走できる場所ではない。きゅっと縮まって身体をよせていないと危ない。
 信号が青になった。
 車列が動きだす。
 犬は腰をあげ、女性が走り出すのに調子をあわせた。
 交差点の向こうに、コンビニエンスストアがある。

 国井幸太§くにいこうた§は、そのコンビニのガラスドアの入り口の外のごみ箱の並んでいるあたりでタバコをふかしていた。
 銘柄はメビウス・モード・スタイル・プラス・ワン。
 セブンスターに始まりマイルドセブンになり、より軽いほうへタールの少ないほうへ、どんどん変えた。すると、いつだったか、名前が変わった。ロゴもパッケージもそっくりだが、世界には、もうマイルドセブンは存在しない。
 幸太はざまざまな銘柄を試してみるのが好きだ。でも、最近、種類が増えすぎ、値段も高くなりすぎて、いまいちつきあいきれない。むしろ、いっそ、わかばとかエコーとか、じいちゃんたちが吸う銘柄にしたほうがいいかもしれないと思っている。なにしろ安いし。ガツンと効く。
 軽すぎるタバコは、吸いはじめ、紙とフィルターの味しかしない。こんなんじゃ、物足りない。ついすぱすぱやりすぎてしまって、もったいない。何本吸っても、吸った気しねえし。ったく、ないよりマシなのかどうか、ぎりぎりってとこだな、と、幸太は思う。
 それでも、ないなんて考えられない。
 火をつけてふかさなくても、ただ持ってるだけでも嬉しい。どこかにとんとんしたり、指をこすったりすると気分が落ち着く。手品師がするみたいにかっこよく、指から指へころがす技をマスターしたいが、むやみにいじると葉っぱがこぼれるるし、へたすりゃ折れる。折れれば吸えない。
 技はなかなか習得できない。
 右手の親指と人指し指と中指の三本でつまんで持っている。このかっこうがいちばん、根本まできっちり吸いつくせるからだ。左手はジーンズのポケットにひっかけている。このかっこうだと楽だし、傍目にも、きまってるはずだと思っている。目を細くすがめているのは、そういう表情が好きだからではなく、煙がしみると痛いからだ。
 色あせたアロハシャツの胸ポケットに、タバコとスマホがはいっている。髪は、半分金色半分黒だ。めんどくさいのと金欠で切りにも染めにも行けずにいるうちに、いつのまにかこうなってしまった。癖のない、やたらまっすぐな髪だから、ゴムでくくると、えりあしが竹ボウキみたいだ。
 耳には、ごつっとした銀のイヤカフとフープピアスが鎖で繋がっている。
 幸太にとっていま命の次に大事なのは、このアクセサリーだ。欲しくて憧れてなんとか金をためて、やっと買った。
 シゴトで現場に出る時にも、外さない。なくしたり傷つけたりするのが心配だから、ほんとうは、大事にしまっておきたいところなのだが。
 せっかく持ってるのに、しまってたんじゃ、しょうがない。
 憧れのこのブランドのスカルの指輪も、喜平チェーンのネックレスも、タトゥーも、なにもしてないのは自分ぐらいだ。末吉建設の若手作業員のなかでは、圧倒的に地味だ。貧乏人だと思われてるのかもしれない。それは事実だけど、言えば先輩たちだって、そうは違わない。どこをどうすると、あんなに次々いろんなものが買えるのか、幸太にはさっぱりわからない。
 聞くのダサいしなあ。
 信号が変わる。
 ひとと自動車がいっせいに動きだした。
 ぼんやりあたりを眺めていた幸太の目に、 左折したタクシーの陰から、黒とグレイが現れるのが見えた。横断歩道をまっすぐこっちに渡ってくる。
 幸太はタバコを灰皿に押し消した。
「やっほー! クロ~! おっはー!」
 手を振った。
 犬は、空中に「!」マークが見えるぐらいはっきりと、彼に気がついた。
 女性もバイザーを片手で押し上げた。
 犬が大急ぎで駆け寄るので、女性はもう少しで転びそうになる。
「よー、元気だったか? クロー。しょーかしょーか! うわっは、わかったわかったって、愛してるよ!」
 抱きつかれた勢いで、尻もちをついた。
 犬は彼にあえてめちゃくちゃ嬉しそうだ。ぶっとい尾をメトロノームのように激しく左右に揺らしている。のしかかり、押し倒し、顔じゅう熱烈になめまわす。
「っぷ、おい、よせ、つぶれるだろー! 重いって、こら~!」
 言ってはいるが嫌がっておらず、むしろ、態度は大歓迎。レスリングみたいに組み合って、もみあって、押し倒しかえし、頭や耳や背中、ところかまわずガシガシ撫でる。犬はぐんにゃりして、だらーんとして、すっかりいい気持ちになって撫でられている。
 ジョギングウエアの女性はにこにこしながらそんな様子を眺めていたのだが、ふと、用事を思い出したらしい。
 リュックをおろし、手袋をぬいで、中にしまう。
 犬が敏感に顔をあげた。犬の鼻に、彼女は、大丈夫、というように、指でそっとキスするみたいに触れた。
 幸太は犬の背中の毛に顔を埋めて匂いをかいでうっとりしているところだ。彼女は、幸太の肩に、そっと手でふれた。幸太が顔をあげると、ちょっとお願いできますか、と、声にはださず口の動きで言う。牽き綱の持ち手をかかげてみせながら。
「あ。はい。いいっスよ! どうぞごゆっくり」
 ありがとう。
 女性は、牽き綱をガードレールにとめつけた。
 コンビニに入っていく。
 犬も幸太も、その姿をじっと目で追いかけている。
「きれいだなー」
 幸太は犬の首を抱いた。
「クロのママ。かっけーな。セレブって感じ」
 それ、なに? 犬は首をかしげる。美味しいもの?

 宮野佳寿子§みやのかずこ§は、買い物カゴを手にとった。雑誌が並んでいるほうへいく。国井智美に出くわした。
 智美は、幸太の妻で妊娠中だ。見間違えようがなく腹がデカい。おかげでふつうに立っていられない。左右の足の間を広くあけ、そっくりかえっている。歩くときは、一歩ずつ、右足と右手を同じ方向に、からだごと斜めにならないといけない。関取のするようなあの歩き方だ。
「あ、あ。どうも」
 宮野佳寿子に会釈されて、妊婦の智美はまごまごした。
 挨拶をかえしたいがお辞儀はできない。頭をさげると腹がきついし、重心を傾けると危ないのだ。
 こんにちは。
 宮野佳寿子はしとやかに笑った。
 口のかたちでいう。
 おめでとうございます。何カ月?
「あの……えっと。いま七カ月、二十六週です! ……っても、わからないかな……うーんと、あの。えっと。予定日。よ・て・い・びは、わかりますか? 予定日は、八月です。八月の真ん中。はち!」
 両手の指を、五本と三本たててみせた。

「いつ生まれるのって、きかれたんだな」
 外で見ていた幸太は黒兵衛の耳にささやきかける。
「八月十五日なんだって。それ、なんかの日だったっけ?」
 真夏のまっさかり。夏休みどまんなかだ。
 小学校とか行ったら、ともだちに誕生日祝ってもらえねえな、と幸太は思う。
「なあ、クロ」
 犬の頭を抱きよせ、毛むくじゃらの耳に囁く。
「あと二カ月で、俺、とうちゃんになるんだぜ。すげくね?」
 犬はしかつめらしい顔つきで、見つめかえした。大丈夫なの? と、たずねるように。
「……んー。不安がな。ないわけじゃねえ。よくわかんねえけど」
 幸太は肩をすくめた。
「コレは、そろそろやめないとやばいかも」
 タバコを吸うしぐさをしてみせると、犬は鼻の頭に皺をよせた。
 それは確かに難儀だね、と、同情してくれているようだ。
「まったくさ。あいつが妊娠してからこっち、肩身がせめーのなんの。タバコだってさあ、こうして外出た時か、換気扇の横でしか吸ってねえんだよ? そこは、あっさり譲った。なのにさ。トモはさ、なんでやめねえ、このさいやめろって。うるせえんだよ。赤ん坊に金かかるし。減らせるぐらいなら、やめちまえって。……こないだなんか突然、スマホにさ、肺ガンの、肺の写真、だしてみせられて!」
 ぞぞぞ。ぶるぶる。
 ったく。
 ありゃーおそろしかった。
 幸太は、犬の背中をゆっくりさわる。その毛を指で梳いていく。毛並みがととのうにつれて、気持ちの中のザラザラしたものがすこしなぐさめられるような気がする。
 わかってるけどさ。あんな脅しかた。ないだろ。
 だいたいあいつはガミガミ言いすぎだよ。のべつまくなし文句言われたら、気分悪いじゃん。家に帰りたくなくなるっつーの。そこんとこ、なんでわかんねえかな。
 犬のからだはあたたかい。
 犬の毛皮はぴかぴかだ。
 ふさふさで真っ黒な、大きな、頼もしい、たくましい、からだ。
「な。クロ。ボウズが生まれたら、背中に乗せてやってな」
 金太郎さんの腹掛けとかかけて。そーゆーの、ドンキに売ってるかな。マサカリとかもちゃんと、あるかな?
「おまえ、ほとんどクマに見えるからさ。インスタグラムとか。だしちゃったら、先輩に、うけるぞー」
 空想してみて照れたのか、急に羽虫でも飛んできたか。犬は前肢で鼻を掻いた。幸太はあははと笑う。
 黒兵衛の鼻はアスファルトみたいだ。古くなった革みたいだ。黒く湿ったその表面が、じつはちょっとざらついて、ひびわれている。
「……そういや、おまえ、いくつになったんだっけ? けっこう前からいたよな」
 俺が小学生のころ、もういたんじゃないかな。
 犬の首すじには、まだそんなにはめだたないものの、白い毛もまじっている。幸太はその毛のあたりをそっと撫でる。
「なんだよ。クロ、おまえ、わりと爺さんなんじゃん。だめだぞ、長生きしないと。うちのボウズ、乗っけてやってくれないと」
 黒兵衛は笑ったように見えた。
 優しい目をして。
 いいよ、もちろん、乗せるとも。そういってくれたように見えた。
 と。
 そのとき。
 どこかで。

 へんな音がした。

 不穏な、不吉な、獰猛な音が。
 黒兵衛の目の色がかわる。幸太はめんくらって、地面に手をつく、立ち上がろうとする。コンビニの中で店員や客がびっくりして振り向く。
 宮野佳寿子も振り返った。

 トラックがズームになっていた。
 パニック映画の人食い鮫のように。

 信号機がへし折れ、柱が倒れ、コンクリが崩れ、鉄骨が飴のように曲がり、千切れた電線がひゅんひゅん宙を踊り、火花が飛ぶ。ガラスが割れ、砕け散り、陳列棚が倒れ、傾き、床を滑り、商品が散乱する。悲鳴。フォーン。空転するタイヤ。ガソリンの匂い。はがれたポスターがひらひらする。

 燃えるゴミの容器とプラゴミの容器とビンゴミの容器がくっついてぺしゃんこに潰れている。みしみし。ぎしぎし。押されて耐えているものが軋んでいく音がする。
 店内はガラスとさまざまな品物と瓦礫の山だ。トラックのタイヤがひとの頭より高いところでまだくるくる高速で回っている。
 若者と犬の姿がない。
 どこにも見えない。
「……こうた?」
 棚と棚の谷間に倒れたまま、髪や顔にゴミやガラスをくっつけたまま、国井智美がつぶやいた。ぼうぜんと。それから、叫びはじめた。
「こうた、こうた! やだ、うそ、ぉうたぁあ!」
 四つんばいで、進もうとする。入り口のほうへ。さらに崩れかけているほうへ。
「こうたあああ!」
 眼鏡の店員がそれに気づいた。いかにも日の当たるところが苦手そうな、ひょろひょろした若者だが、果敢にブロックにはいった。通せんぼするのは、人気バンドの警備のバイトで経験済みだ。
「だめです、あっちはだめ、いっちゃだめ!」叫ぶ。「お客さん、落ち着いて。危ないっす、赤ちゃん、危ないっすから!」
 大きな声は出したことがないので、半分裏返ったへろへろのかすれ声だ。
「どいてよ!」
 妊婦は怒った。行かして。はなして! こうた、こうたあ! もがいて、暴れる。はなせよ、へんたい、うるせ、バカ! 振り回した腕があたって、店員の顔から眼鏡がふっとぶ。
 同じコンビニの制服姿の年配女性は店長でしかもこの店のオーナーだった。スマホを耳にあて、事故です、救急車をお願いします。冷静に対応をしている。
 宮野佳寿子は立っている。血色も表情も失った顔でその場に立ちつくしている。手は白くて細い。華奢でたおやかだ。見るからになんの苦労もしたことがなさそうな、傷もゆがみもない美しい手。
 その手から、ドッグフードの缶詰が落ちる。
 缶詰は、シューズの横で床にあたり、から、からから、ころがって、ころがって、こまかく割れたガラスをまぶした赤く粘る液体がその面積をじわじわ広げているところまでいって、ぱたりと倒れ、そこで、動きをとめる。

       ☆

 隠居マンションの入り口にタクシーがとまった。
 料金をはらって降りてきたのは、ひとりの婦人だ。トリコロールのパンツスタイルで、襟元にスカーフをたなびかせ、黄色い紙袋をさげている。
 颯爽とした足どりで、エントランスへの階段をおりる。外ガラスをぬけ、オートロックの機械の前に立つ。指をあげて操作しようとすると、内側のガラスドアが開いた。横の小窓で管理人がうなずいている。わかっています、というように。
 婦人は、ありがとう、と、笑って、指をくすぐるように振って挨拶すると、通り抜けた。
 ロビーを渡り、短い廊下を歩いてエレベータホールにたどりつく。待機中の箱がいたので、さっと乗りこんであがっていく。
 のぼる。
 やがてエレベータがとまる。外廊下をとおって、玄関口までいく。
 ブザーを押す。

 パトカーの屋根にあるような赤色灯がいきなり灯り、強烈な光を回転させる。
 音はしない。
 宮野佳寿子はソファで放心している。傍らにタブレットと読みかけの本、飲みかけの紅茶茶碗がある。着ているのは濃いグレイのカーディガンと濃いグレイの足首まで隠すスカート。
 回転する赤い光に頬やまぶたを撫でられても、反応しない。
 灯りが一度とまり、逆向きに回りはじめた。
 ようやく瞳をあげた。
 テーブルに手をついて立ち上がった。確認画面のところまで言ってから、呼ばれたのが、オートロックのある下の外玄関ではないのに気付いた。届けものではないらしい。なんだろう。ちょっと顔をしかめる。
 玄関口にいき、のぞき窓をあける。
 ショートカットの婦人がいる。口角をキュッとあげて、立っている。
 佳寿子は意表をつかれ、一瞬、眉をしかめた。
 が、すぐ思いなおしてキーチェーンをはずし、鍵をあけ、扉を押しあけた。
「こんにちは!」
 宝井志津枝§たからいしずえ§は元気よく笑う。
 踊るような手話をまじえて、挨拶をする。
「なにしてた? おじゃま? いいじゃん、あがらせてよ」
「……」
「ケーキ買ってきた。これ好きだよね? 食べよう!」
 紙袋をかかげてみせる。
「メールしといたんだけどな。見てない? もしかして、あんた、寝てたの?」
 志津枝はひとりで喋りつづけていたが、突然、ぴたっ、と黙った。
 佳寿子は顔をあげた。
 目と目があう。
 にらまれた。
 志津枝はぷくーっとわざとらしく頬をふくらました分かりやすいふくれっ面をしている。「むん」と、威張ったように、黄色い紙袋をつきだした。
 なによ。
 おせっかい。
 佳寿子は思う。
 ケーキなんか欲しくない。ひとりにしておいて。
 でも。
(そんなことをしたら、シズエは、二度と来てくれないかも。
 ともだちでいてくれなくなるかも)
 それならそれでいいような気もする。
 もうなにもかもがどうでもいいような、捨て鉢な気が。
 だが、佳寿子には、決めることができなかった。いまは無理だ。何かをちゃんと考えるとか、判断するとか、ぜんぜん、無理。
 だから。
 佳寿子は首をふり、道をあけた。

 そろってキッチンに立つ。食器を用意したり、やかんを火にかけたりする。志津枝にとってもここは使い慣れた台所なのだ。
 コンロと冷蔵庫の隙間の壁際の窪みには、使い込んでぺたんこなクッションがある。犬の黒兵衛の指定席だ。そばに、赤いゴムのコングがある。お節料理の黒豆にはいるチョロギのようなかたちをした犬の玩具だ。はずませたり噛んだりして遊ぶ。ほかにも、綱を結んだものや、噛むと音の鳴る骨つき肉のかたちのプラスチックなども、そこらにある。
 くっついた犬の抜け毛もそのままだ。
 かたづけていない。
 志津枝はそれらをチラッと眺めてから、目をそらした。

 お茶のしたくが整った。バタフライ型のダイニング・テーブルに、斜めに向かい合って座る。アップルティーをカップに注ぎ、ブルーベリーソースのかかったレアチーズケーキを皿に飾る。金色の小さなフォークが添えられている。
 ひとくち、ケーキを食べて。
「うーん! おいしいね!」
 言ってから、志津枝は磁石式のボードを取り出した。砂鉄がしこんであって、気軽に書いたり消したり何度でもできる、筆談用の道具だ。

[あのさ。まず最初に言うからね。
 クロちゃん、残念でした]

 美しい字で、志津枝は、書いた。

[悲しいのはわかる。けど。でも、そんなにメソメソしなさんな。
 あんたがそんなじゃ、クロちゃん成仏できないよ]

 佳寿子は目をあげてボードを見た。
 ケーキを崩す。フォークの先で、つつく。
 ケーキの屑が、皿に、スカートに、そして床にも落ちる。
 落ちたかけらの行方を追いかけた瞳が、じわりと涙をたたえだす。
 お菓子を食べていると期待まんまんで近づいてきて、尾っぽをふるあの子が。ちょっとでもこぼれればダッシュでとりにいった、あの子が。食べおわったお皿を床におろしてもらったら、大喜びでなめて、洗ったみたいにきれいにした、あの子が。
 ――もう、いないなんて――
 空転するタイヤ。
 粘る赤。
 千切れた牽き綱。
 もちろん生き物は必ずいつか死ぬ。例外はない。
 犬の寿命はもともと短くて、どんなに可愛がっていてもいつかは別れの日が来る。そんなことはわかっている。じゅうじゅう承知している。覚悟だってしてたつもりだ。
 でも、まさか、まさか、あんなかたちで。突然、いきなり、
 ――殺される――
 なんて。
 肩をつかまれてハッとした。
 志津枝が怒った顔をしている。
「おカズ」
 こどものころの呼び方。
 ちからづくで、顔をあげさせ、視線をそらそうとしても許されない。
 志津枝は、ボードをつかわず、声で言った。
「泣きなさい。ちゃんとたくさん泣くの。どんだけ泣いてもいいけれど、でも、悲しみに溺れちゃだめ。いっぱい泣いて、そして、クロちゃんの冥福を祈って。はやく新しい子を、飼いはじめなさい」
 佳寿子は志津枝の手をふりはらった。
 しばらくうなだれて、こらえていたが、やがてキッと顔をあげて、もう一度あらためて首を振った。
 声は出さず、口のかたちでいう。

 いらない。

 この程度、長年つきあいのある志津枝に読めないはずはない。

 ほかの子なんか、いらない。ほしくない!

「だって、そんなこといったって……んもう、分からず屋だな!」
 志津枝はボードをひっぱり出し、ガーッと書きこんだ。

[おかあさんもいないんだよ。あんたひとりじゃ、やってけないでしょ]

 佳寿子はぶんぶん首を振った。
 ちがうとも、わからない、とも、わかりたくない、とも、そんなの無理だ、とも、なんとでもとれるかたちだ。
「なによ。ごまかさないで、ちゃんと話しなよ!」
 志津枝のほうもムキになる。言い返すように、激しく素早く殴り書きする。

[気の毒だと思う。かわいそうだ。
 事故なんか起こした犯人が憎い。
 でもさ、死んだものは、もう帰ってこないでしょう。
 なにをどうしたって、それはかわらないんだから。
 前を向くしかないんだ。
 カクゴきめな。
 おとななんだから。ダダこねて、すねてないで!
 元気だせ!

 クロちゃんのかわりがいないと、あんた、困るでしょう?

 クロちゃんは、あんたの耳だったんだから]

 まったく、こんなことズケズケ言ってくれるのは志津枝ぐらいだ。
 佳寿子は大きく溜め息をついた。
 志津枝のボードを借りることはせず、自分のタブレットを取ってきた。
 志津枝に言い返す短く的確で辛辣で皮肉な文面を頭の中でいくつか考えたが、どれも適当には思えない。くやしくてじれったくて頬が熱くなる。なにかとりかえしのつかないような一言をうちこみたかったが、ふと思いついた。
 検索サイトの窓に、聴導犬、と入力する。
 候補の中から、前に見たことのあるところをみつけ、表示させる。
 志津枝にむけ、ぐい、と押し出す。
「なぁに? あ。聴導犬」
 志津枝はバッグから眼鏡を取り出した。眉をしかめ、さらに顔をのけぞらせるようにして、サイトの記事を読んだ。
「……面接……訓練……申請……。あらまあ。そう……そうなのねえ……ふむふむ。ははあ」
 そうよ。
 佳寿子はうなずいた。
 あたしだって、なにも、ずっとただただメソメソしていたわけじゃない。
 これからどうしたいか、どうしたらいいか、どうすることができるか。
 いろいろ考えたのよ。
 聴導犬や介助犬のことも、あれこれ調べてみた。
 でも、ことはそう簡単じゃなかった。

 スクロールして、ずっと先のほうまで読み進んで、志津枝も同じ結論に達したようだ。
「なるほど。意外とたいへんなことなんだね。耳の役目をしてくれる犬が欲しいっていっても、すぐには無理なんだね。必要なひとでも、さっさと譲ってもらえるわけじゃないんだ」
 そうなの。
 佳寿子はタブレットに文字を打ち込んだ。

[ たとえば、ここなんかもそうなんだけど、こういう犬の場合、基本、貸与なのね。お金は取られないけれど、かわりに、あくまで、福祉団体に所属する犬を一時的に貸してあげましょう、というかたち ]

「なるほど。だから?」 と志津枝。

[ つまり、ペットじゃないってこと。
自分のものでもない。
聴覚障害者が社会参加するための補助器具。そういう扱い。
わたしが欲しいのは、そういうものじゃないの。
犬に対して、そういう意識は、持てそうにないし。
だから、こういうところに相談する考えはない。
あたしみたいなのは、申し込んじゃいけないんだと思う。 ]

「……そっか……あんた、ちゃんと、考えてたんだね」
 鼻白んだように志津枝はつぶやいた。
 ボードをひきよせて、さっきよりはゆっくりと書く。

[なるほど。
 ちょっと誤解してた。ごめん。悪かった。
 こういうのには抵抗があるっていうのも、無理ないと思う。
 たしかに、クロちゃんは、あんたにとって家族だったもんね。
 道具じゃないよね ]

 佳寿子はうなずいて立ち上がった。お茶のおかわりをいれに行くらしい。
志津枝は、深々と溜め息をつく。
「……でもさ。だったらさ、せめてメールに返事ぐらいしなさいよ! あんた、ぜんぜんまったく、音沙汰ないから。いつだってぜんぜんなんにも言わないんだもの!」
 自分で自分のつぶやいたセリフにドキッとして、なんだかうっかり皮肉なギャグみたいになってしまったと感じて、志津枝は口をへの字にし、頭をガリガリ引っ掻き、軽く湿ってしまった目尻をグイと拭く。
 ったく。
 おとなしいのは生まれつきの性分かもしれないけど。孤独を好むタイプなのかもしれないけど。
 無口にもほどがある。
 存在感、なさすぎ。なに考えてるか、わかんない。困る。
 心配するじゃないの。ちゃんと生きてるのか。ごはん食べてるか、まさか、世をはかなんで、へんなことしてないかって。
 部屋に目を走らせる。
 壁やサイドボードに、写真がたくさん飾ってある。
 ほとんどぜんぶが黒兵衛だ。
 深い雪に埋もれながらラッセルして走っている図。タライで行水している図。骨のかたちのぬいぐるみを加えてすましている図。
 どこかの森で、後足で立ちあがって、佳寿子と並んで向かい合っている一枚もあった。まるで、犬とひとで、社交ダンスでも踊っているようだ。
 それはそれは幸福そのもの。
「ほんとにさァ」
 志津枝は言った。
 佳寿子がこちらをみていない。
 志津枝はここにはいまいない犬に話しかける。
「クロちゃん。あんたほんとかわいかった。あたしだって、大好きだった。ママはもっともっとそうだよ。なのに……だめじゃないよ。あんなふうに、死んじゃったりしちゃ。だめだよ、あんなママをひとり残して! どうするのよ。ほんとにもう!」

        ☆

 総合病院の待合スペース。
 午後の外来受付時間外。
 照明は最低限に落としてある。ひとけもない。ごくたまに入院している患者なのか車椅子のひとを看護服のスタッフが静かに押して通りすぎていくだけ。
 合成皮革のベンチの端に、国井智美が座っている。たっぷり布をつかったマタニティ用のジャンバースカートを、おおきな腹がテントのように押し上げている。
「……あたしが悪かったのかな」
 感情をにじませない声で言った。
「あたしが、タバコ、やめろとか言ったのがいけなかったの? もし、うちで、前みたく、好きなときいつでも好きなだけ吸ってたら……あの日、あそこでは、タバコ吸ってなかったよね。きっと。いっしょにコンビニに入って、まんがとか、エロ雑誌とか、立ち読みしてたよね」
 髪をひとつにくくった年配の女性がいて、智美の手を握っている。
 幸太の母の国井奈々だ。はおったカーディガンの胸にぞうさんのかたちをした名札があり、『なな せんせい』とかいてある。
 保育園や子育て支援センターに長年つとめてきたので、妊婦の愚痴には慣れている。
「そんなこと考えちゃだめだな」と優しく言う。「だいじょうぶ。ともちゃんは、ぜんぜん悪くない。おかあさんがハッピーでいないと、赤ちゃんも、悲しくなっちゃうよ」
「お店の中だってすごかったけど、外より、ずっとマシだった。幸太が、もし外じゃなく、お店の中にいたら……そしたら、ほんのかすり傷ですんでた」
「そうかもしれないけど。そうかどうかはわからないし。そういうの、言い出したらきりがないんじゃないかな。もう五分ずれてたら、あと一日違ったら。そもそも、誰も、事故にあわなかったかもしれないし。事故が起きなかったかもしれない。もっと大勢のひとが、巻き込まれて、亡くなったりしたのかもしれない。そんなこと、誰にもわからな」
「こうたじゃなきゃいいんだって!」智美の声はだんだん大きくなる。「何人死のうがいい。関係ない。知ったこっちゃない。なんで、こうたなの。ひどいでしょ。なんでよそのひとにしといてくれなかったんだろう?」
 智美の頬がゆがむ。ゆがんだ頬に、涙が流れる。
「なんで、よりによって、うちのバカ旦那なの!」
「し。静かにしようね、ほら、病院だから」
 奈々は智美の目にかかった髪の毛をそっとなおしてやった。
「気持ちはよくわかるけれど、いまは、お祈りするしかないでしょ。罰当たりなことは、あんまり言わないほうがいいよ」
「だって、おかあさん!」
「大丈夫。あの子、運だけは良いんだから」
 奈々は智美の髪を撫でつづける。
「頭は悪いし、顔だってそんなに良くないけど、気持ちは優しい子だからね。あんなひどい事故だったのに腕が折れただけで済んだなんて、奇跡だって、お医者さんも」
「でも!」
 智美は吠えた。
「でも! でも! ……だって、幸太、ぜんぜん起きないじゃないですか!」涙がぶわっとふくれて、こぼれる。「もう一週間ですよ? なのに、まだ、まだぜんぜん、起きないし。意識もどんなくて、一度も、目え、あけて、くれないじゃないですか~!」
「……だねえ」
 奈々はもともとちょっと垂れ目な目をますます垂れ目にした。
「どうしたのかしらねえ。ふしぎだね。けど、お医者さんは、大丈夫だって言ってたじゃない? 脳とかには、なんの問題もないって」
「へんじゃないですか。だったらなんで起きないんですか! うそついてんですよ。なんかごまかしてる。医者にもわかんない、へんなことに、なっちゃってるに決まってるじゃないですかあ!」
「うん。確かにそろそろ起きてもいいころだよね。あの子、寝るの好きだからねえ。ねぼすけだから。よっほど、寝溜めしたいのかも」
 だめだこりゃというように、智美は、うんざり顔になった。なんでおかあさんはこんなにのんびりなんだろう? 自分の息子のことなのに。なんで平気なの。信じられない。鈍感すぎ。バカじゃないの。
 が、態度が悪いのは不吉だと言われたことを思い出し、ハッと顔をとりつくろう。
「ああ。神さま、どうかおねがい。おねがいします。あたしに、幸太をかえしてください!」
 天のどこかに向って、さかんにアピールしはじめた。
「幸太。こうたさん? 聞こえる? ごめん。ほんとごめん。あたしが悪かった。あやまります。これからはだいじにする。ぜったい鬼ヨメになりません。もっと稼げとか、タバコやめろとか、靴下を洗濯に出すときはちゃんといちいち裏返せとか、二度といわないから! だから、はやく起きて。はやく、かえってきて、……ぁどうっ!」
 突然、表情がかわる。
 指がベンチの端をつかんだ。猛禽類が爪で獲物をつかむ強さで。
 全身、感電でもしたような不自然な姿勢でぶるぶるひきつってしまう。
「ともちゃん? ともちゃん、どうしたかな。だいじょうぶ?」
「だ、だいじょば……ない……です……うわ、ウぐえッ!」
「貧血?」
 顔が赤をとおりこして紫色になる。食いしばった歯の間から、獣みたいな声が漏れる。
 まん丸くつきだした智美の腹の一部が、ふいに、ぽこん! と盛り上がった。
 親指ほどの大きさのでっぱりは、ゆっくり動いた。ネッシーが頭を水面から出したまましずしずネス湖を横断するみたいに、堂々と、しずしずと、ふくれた腹の上を横断した。
「あああああ」智美はあごがはずれそうな顔のまま、うめいた。「あああああ!」
 全身に汗が浮かび、だらだらつたう。はたから見るとまるで.ホラーマンガで悪魔かエイリアンにでもとり憑かれた犠牲者のようだが、
 胎動だ。
 ただの。
 おなかの赤ん坊が動いているのである。子宮の中で、寝返りをうつみたいに。
 その時、なにをどう感じるかは母親それぞれの個人差が大きいそうだ。なにも感じないひともいるし、楽しくハッピーなひともいるし、苦しく不快だと思うひともある。
 智美は不幸にして最後のパターンだった。
 ただし、ありがたいことに、どんな激烈な苦痛も違和感も、はじまったときと同じぐらい唐突におさまる。けろっと消えてなくなる。面妖なでっぱりも跡形もなくひっこみ、腹はもとのつるんと丸いバルーン状態にしずまりかえった。
「あーーー……」
 智美は、ぜえぜえ呼吸した。顔や首筋をタオルハンカチで拭い、ゴワつく肩や背骨をべきぼきと動かした。
「……こ、腰にきた……あ……死ぬかと思った……」
「そろそろ生まれそうなのかな」
 嫁の背中を撫でてやりながら奈々がいう。
「予定日までだいぶあるけど。もしかして早産かも。準備しておいたほうがいい」
「マジで? こんな時に? 冗談じゃないですよ~ぉ」
 智美の顔はみるみるゲッソリする。
「やめて。そうでなくても、ただの出産だけでも、充分しんどくて怖くて吐き気なのに。そーざんって、超ダメージじゃないっすか。もう何回死ねってことですか。これ、泣き面に蜂、弱り目にアタリメってやつですか?」
「ちょっとちがう」
「どうしてあたしがこんな目に? なに悪いことしたんだ」
「興奮しちゃだめ。血圧があがると、赤ちゃん、息が苦しくなって、また暴れるから」
「くそー! てめえ、なにさまのつもりだ。ずるいぞー! 卑怯だ。おぼえてろ~!」
 涙と鼻みずが垂れる。
「だったらとっとと出てこいや、いっそ、生まれちまえ。はやく、楽になりたい。あああいやもうこんなの、だれか、なんとかしてえ~!」
「はいはい。りきまないー。リラーックス。ふーーー」
 奈々は智美の背中を撫で続け、正しい深い呼吸法の見本をやってみせた。
 と。
 きゅきゅきゅ。ゴムの擦れる音がした。薄暗がりの廊下のむこうから、女性看護士が走ってくる。違う。急ぎ足だ。病院の廊下は走ってはいけない。
 ふたりはハッと顔をあげる。奈々がすばやく立ち上がった。看護士が気付き、さらに足を早めた。走ってはいけないのだが。
 笑っている。看護士が。目が嬉しそうにキラキラ輝いている。頬があがっている。
「あ」
 智美は両手をにぎりしめた。
「マジ? 起きた?」
「はい!」看護士さんは、高らかに言った。「旦那さん、お気がつかれました!」


 
 ベッドの上。
 患者は仰向けだ。
 ぼうっと目を見開いている。
 頭や手に包帯が巻かれており、右腕は肘から手首までギプスで太くなって天井から吊られている。足の甲に点滴の管、こめかみ、手首など、あちこちに機械のコードが、いくつもいくつも、つながっている。
 目はあけている。焦点は定まらない。
 病室の扉があいた。女たちが駆けこんでくる。
「こうた?」
「こうちゃん?」
 かわるがわる呼ぶ。
 患者はビクッと顔をむけた。
「わかる? わかるのね?」
「ああ、よかった!」
「やっと気がついた。もう、この子は心配かけて」
「幸太。愛してる!」
「もう大丈夫だね」
 べたべた触られた。ひっぱられ、握られ、頬をすりよせられ、とにかくやたらとくっつかれた。
 されるがままだ。
 女たちは、さかんになにかいう。親しげに。愛情こめて。キスする。タッチする。接触する。笑ったり泣いたり激しい。
 ぱち・くり。
 患者はゆっくりまぱたきをした。
 ぱちくり。
 ぱちくり。
 何度かまばたきをしていると、意識がだんだん、はっきりしてきた。
 目に、ちからが戻る。
 女たちは泣いたり笑ったりふざけたりここぞとばかりに文句をいったりするのに忙しくて、まるで気がついていなかったのだが。
 患者はからだをかためたまま、目玉だけ動かした。キョロ、キョロ。あちこちを観察する。
 清潔だが無個性的な白い部屋。病院の匂いがする。ひとが何人もいる。天井。照明。カーテンをさげるレール。壁。窓。ベッド。そなえつけの家具いろいろ。
 そこらじゅう見回した。
 じぶんのからだも。
 ……じぶん§傍点つけ§?……?
 ぐるぐるぐるぐる。
 はげしいめまいがした。
 きゅーん。
 おびえた声に、
「?」
 女たちはびっくりして、キス&クライをやめ、顔を見合わせた。
「え?」
「なに? いまの音?」
 しげしげ見つめられ、間近に詰めよられ、患者は首をすくめた。
「へんね」年配のほうの女が言った。「この子。なんだか」
「うまくいえないけど」
「まるで……」
 そこへ。
「どうもー、おじゃましま~す!」
 鍵のかからない病室の扉が、がーっとあき、担当の医療チームが飛び込んできた。
「おめでとうございます!」
「意識もどったそうですね」
「いやあ、良かったよかった」
 白衣の医師が二名、女性看護士が三名。背が高いの低いの、若いのそうでもないの。みんなにこにこ笑っている。みんな嬉しそうだ。満足そうだ。聴診器をだしたり、タブレットになにかチェックをいれたりしている。熱心に忙しく働いているひとたち。
 悪いひとたちではない。
 しかし。
 おおぜいすぎる。近すぎる。こんな小さな部屋にこの全員は、狭すぎる。
 やだ
 ううううう。 
 患者はうなった。くちびるがめくれ、歯がむきだしになった。
 お医者さんたちは「え?」と手をとめた。笑顔をとめた。やりかけの動作もやめた。
 それから、お互い、きょとんとした顔を見合わせた。
「なんか……」
「いまの」
「まるで?」
 そこにいるひとがみんな、いっせいに患者を見る。
 ぐさぐさぐさ。視線がささる。たくさんの針みたいに。たくさんの矢印みたいに。
 やだ!
 やめて。
 隠れたい!
 耐えがたくて、いたたまれなくて、ぜひともどこかに逃げなくてはならなかった。しかしギプスが大きくて重たくて固くてかさばって、おまけに天井から釣られているから、ぜんぜん思うように動けない。無理にひっぱったら、なにか壊れた。うわあ、と悲鳴、器具やコードも何個もはずれて、医療関係者がわたわたした。
 かまわずジタバタもがいているうちに偶然、かけぶとんが舞い上がり、落ちてきて、顔にかかった。
 あ。隠れられた!
 ホッとした。気持ちいいので、そのままどんどんもぐった。うすらぼんやり明るくて、みんなから隠れられている。とても安心だ。
 とまったのは、尻を出した状態。
「………いぬ?………」
 誰かが小声でつぶやいた。
 他の誰かに横目でしげしげ見つめられて、あわてて口を手でおさえた。
 病室に、曰くいいがたい沈黙が落ちた。目に見えないなにかが、みんなの肩に、心に、しんしんと降り積もっていくような沈黙だった。
「……くうーん……」
 せつなくなるとなにかが鳴ってしまう。
 深くふとんに埋もれたまま、鼻声がくぐもった。
 と。
「ちょっと、なにふざけてんのよ!」
 智美が、キレた。
 ふとんをはぎ、驚く患者の肩をつかみ、自分に向き直らせた。
 医師のひとりが、アッだめです、そんなに揺らすと脳が、と呻いたけれど、止める間もあればこそ。
「そういうことしていい時じゃないだろ! バカ!」
 医者や看護士が複数、なんとか制止しようと手をのばしたのだが、妊婦は患者をつかんで揺さぶり、かみつかんばかりの顔つきで叱りつけた。
「うけ狙いもいいかげんにしな。妊婦にはストレスがいちばんいけないってんだ。なのにあんたときたら! もう、やめろよ、恥ずかしいから!」
 こわい顔でにらまれて、大きな声で怒鳴られて、どうやらこのひと、すごく怒っているようだ。
 なんだかわからないけど、怒らないで欲しい。降参します。抵抗しません。
 おとなしく揺すられていると首が前後にガクガク動いた。
 そのうち眼球がくるっと白くなり、医師団から抑えた悲鳴があがった。
 ……と。
「……ぁれ?」
 と、その口が言った。
 頭を斜め後ろにのけぞらせたまま。口の端から涎を垂らしたまま。
「……こ、どこ?」
 無意識で涎をぬぐいながら、頭をおこし、姿勢をたてなおし、ギョッとした顔で周囲をみまわす。
「……ぅえ、どしたの? みなさん、なにかあっ……あ痛§で§! うわ、なんだこれ、痛え、怪我したんか俺え!」
 国井幸太だ。
 一同、おお! と声をあげた。
 さっきなにか一瞬ちょっと不可解なことがあったような気もするが、たぶん、患者は、意識が混濁していたのだろう。
 みな、歓声と安堵の声をあげ、拍手も沸いた。
「こ……幸太! あああん!」 
 両眼から涙をあふれさせながら両手を伸ばしてむしゃぶりつく智美。ドスッ。あうっ! 幸太は衝撃と激痛によく耐えた。
 耐えて、あ、ども、ども、すんません、と、周囲にへこへこおじぎをした。ひきつったような笑顔を見せながら。
「…………で、あの? どして? なにが、あったんスか?」
 まわりのみなさんは顔を見合わせた。なかなかこたえてくれない。
 心配したんだから、もうだめかと思ったんだから! 智美は甘えた声でいいながら、絶賛号泣中である。
 幸太は無言のみなさんを順繰りに眺めた。母親の顔をみつけた。
「かあちゃん」
 いつも何かと忙しく勤務熱心な母親が、わざわざ休みをとって来てくれていたのだとしたら、それは、おおごとだった、ということである。
 え、ひょっとして、俺、マジ、やばかった?
 もしかして。
 死にかけた、……の? ひぇぇぇ……

     ☆

 手が伸びる。周囲をまさぐる。無意識に捜す。やわらかな感触。あたたかな体温。
 自分のものではない生命の息づかいを。
 いくらさぐっても届かない。なにも見つけることができない。
 いつだってそこにあったもうひとつの生命は、もう、いない。
なかば眠りながら、宮野佳寿子は動作をとめた。
 ゆっくりとまぶたをあけ、顔をしかめた。
 肘をついて少し起き上がり、ベッドの頭側の棚にのせてある時計を見た。四時半。まだまだ夜中だ。起きるには早過ぎる。
 もぞもぞ動いて姿勢をとりなおし、もう一度眠りに戻ろうとした。夢にもどろうとした。無理だった。
 腕を額にあげる。
 顔を倒してみる。
 仄暗い部屋のベッドの上。ベッドカバーのひだの上。いつもならそこにうずくまっていたもの。いるのがずっとあたりまえだったもの。
 黒いかたまり。
 ない。
 いない。
 だが、うっすら目をとじれば、まぼろしがみえる。
 過去の記憶がみえる。
 静かに眠る黒兵衛の姿が。

 まぶたをぎゅっと閉じ、小さな勾玉のそむきあったかたちの鼻の穴をわずかにすぴすぴさせて、犬は眠る。
 前肢を顔の下にお行儀よくそろえて。あるいは伸ばして。あるいはちょっと曲げて。腹這いで、横向きで。ほんとうに安心しきった時には大胆な仰向けポーズで。
 犬は眠る。
 一日の大半を、うつらうつらまどろんですごす。
 何度,眺めたことだろう。
 その姿を。
 愛しくて。
 たまらなく可愛らしくて。
 そうして見ていることが、なんとも幸福で。
 その顔が、そのからだが、そのいのちが、そこにあることに癒された。
 あまりじっと眺めていると、やがて、黒兵衛は、視線に気付いて目をあける。耳をひくっと動かしたり、くすぐったそうに鼻の横を掻いたりする。
それでも飽かず眺めていると、なんですか、なにか用ですか? というように、おずおずと姿勢を正して佳寿子を見つめかえす。なんでもないの。いいからおやすみ。優しく撫でると、ホッとして、鼻からフーンと息をつく。気持ちよく眠れる姿勢をさがして、またもぞもぞする。りきむのをやめると、そのとたんに、また、すぐ眠りにおちていく。
 あの素直さ。
 あの安心。
 犬が眠っている場所の、あのおだやかさ。
 犬の耳の、特に、内側のふさふさした毛の、触り心地。
 足の裏の肉球の、つくりたてのポップコーンのような匂い。
ぐっすり眠っている時の、油断しきった表情。
 いびきをかく時、吐きだす息の振動に、ぷるぷるうごく、口のへりのやわらかいところ。
 健康な犬の鼻の、あの感触。独特の、ひんやりとした冷たさ。
 ざらっとした舌で舐められる時のあの感じ。

《幸福な犬のいる幸福》

 うっかり思い浮かべてしまった言葉に、胸を刺された。思いがけない鋭さで。
 そう。いない。
 それが現実。それがいまの自分だ。
 そうなんだから、それでやっていくしかない。
 知らぬ間にあたりが明るみ、もう目もすっかりさめてしまった。もう幻は見えない。過去はみえない。冷たいいまの現実が、いやおうなしにつきつけられる。
 この世には、黒兵衛は「いない」のだ。
 悲しみがまた上げ潮になりそうだ。波は小さく静かだけれど。飲み込まれて揉みくちゃにされるほどではないけれど。さやさやと、ひたひたと、何度でも何度でも容赦なく打ち寄せてきて、こころを濡らす。からだを冷やす。
このままここにじっとしていたら、きっとこごえて、溺れてしまう。
 夢にはけっしてもどれない。
 だから。
 佳寿子は息をついた。しばらく、じっとしたまま、ありったけの意欲や勇気をかき集める。一日分の空虚に、たちむかうことができるだけの、ちからを。
 隙間があれば疑問がしのびこむ。
 なぜ、朝が来たら起きなければならないのだろう? ただ、そういう習慣なだけ。起きなくたっていい。誰も困らない。どうせなにもすることなんかない。
 生きていたってしょうがないんじゃない?
 ディズニー映画の悪役みたいなやつが、頭の中でにやにやしている。
 あんた、ちょっと、もう、死んじゃいたいんじゃないのかい?
 耳をかさない。
 悪役の声を無視して、がばりと起き上がる。
 用をたし、手を洗う。
 時計に目をやる。五時前。まだはやすぎる。まだ新聞もきていない。テレビだってろくなものはやっていない。マンションの途中階で、洗濯機や掃除機を使うのも迷惑すぎる。
 とおりすがりに冷蔵庫をあけた。がらんと殺風景だ。調味料と、常備菜。たまご。バター。使いのこりの野菜。そうだ、そういえば、あれから一度も外に出ていないのだと気づく。買い物をしていない。
 そろそろ食べ物がなくなる。
 それでいいんじゃないの。
 悪役がまたニタニタしながら、しゃしゃりでてくる。
 なにも食べなくったって、いいよね。おなかなんかすかないし。あんた、外になんか行きたくないでしょ?
 あの子がいなくちゃねえ。
 ひとりぼっちじゃ、どこにも行けないよね。行きたくないよね?
 いきたくない。生きたくない。
 だったら、ここで、このまま静かに朽ち果ててしまえば……
 ――ああ、だめ。だめ!
 佳寿子は首を振る。感情に蓋をする。悪役をおいはらい、丸めて落として、かかとでギュウっと踏んづけてやる。
 ああ、でも、近頃、ともするとこんな不健康な考えになってしまうのだ。
耳をかしてはだめ。何も考えてはだめ。そう思うけど。
 何度振り払っても、振り払っても、やってくる。しつこい。
 身についた習慣は自動制御。階下のひとに迷惑をかけぬよう、ちゃんと足音をしのばせて台所に向かい、やかんに水をくんでいる。
 コンロに火をつける。
 ガスの青い炎。
 青い炎。
 ステンレスにうつって二重になっている。
 少し視線をずらすと、壁際の窪みには、クッションがある。愛した犬のからだのかたちにくぼんだクッションが。
 犬がいる。そこにいる。座っている。
 いつものとおり。
 佳寿子が台所にたって食事のしたくをしたり洗い物をしたりする間、黒兵衛はいつもそこにいた。大きなからだを丸くして、トグロをまくように座っていた。そこでそのままうとうと転た寝をしたり、ちょっとオモチャを齧ったりしながら、待っている。かまってもらえるようになるのを。時おり、佳寿子のほうを見る。彼女がそこにいるのを、何度も何度も何度でも確認する。あるいは、ひょっとしてなにか美味しいものが落ちてこないか、待っているのかもしれない。
 黒兵衛がいる。
 いまにも、立ち上がって、ちょっと尾っぽを振って、こっちに来そうだ。
 でも。
 ――まばたき。
 いない。
 クッションがあるだけ。
 たまたまどいただけだ。たまたまいまさっき。きっと、黒兵衛は、ベランダか寝室かどこかにいっていて、呼べば来る。すぐ来る。
 いつもと同じように。
 そんな気がしてならない。
 悲しいことが、ほんとうは起こっていないような気が。
 ――悲しみと喜び。錯覚と失望。甘い記憶と喪失。寄せ波と引き波に何度も何度も揺さぶられて、佳寿子はほとほと疲れきっている。こんな不毛な戦いは、なんとかしてやめにしたいのに。
 どうしたらやめられるか、わからない。
 どこでどうやってサヨナラを言えばいいの。
(志津枝の言うとおりなのかもしれない)
(ほかの犬をかえば)
(かわいい仔犬をかえば?)
 このままじゃだめ。
 そう、たぶん、このままじゃ、だめだ。

      ☆

 幸太は未だ入院中だ。
 なにしろ一週間も意識がもどらなかったし、そうなった理由も原因もよくわかっていない。交通事故の場合、さまざまな部分に、さまざまな影響が、やたらあとになってから急に出たりするのもよくあることなんだそうだ。
 おかげで退院して良いという判断が簡単にはつかない。しばらく、リハビリをしながら、いくつかあちこち検査をかさねた。
 血液検査、尿検査、レントゲン検査。超音波検査、CT PET MRT。
 数々の検査の結果、幸太は、脳波も骨格も内臓も、どこをとっても問題がない、怪我した箇所以外は、みごとな健康体であると太鼓判を押されることになったのだが。
 折れた右腕は、意識がないうちにうまく接ぎあわせてもらったらしい。若くて元気なので、順調に回復しているそうだ。ギプスはがっちりはまっている。固定しておくことが何より大事なんだそうで、勝手に動かそうったって動きゃしないし、おかげさまでたいして痛くもない。
 管や包帯は日に日にはずされ、背中が紐で何カ所か留まっているだけで下がスウスウな病院のお仕着せも、家から持参の着なれたパジャマになった。
絶対安静の札がとれ、バイタルモニターが撤去され、点滴もいらなくなった。
 点滴ハンガーをおともにしなくてよくなると、廊下や階段を好きに歩いて、トイレにも売店にもいつでも好きにジリキで行ける。
 身重の妻と並んで庭を散歩したり、食堂でなにか食べたりもできる。
 友だちや仕事仲間がかわるがわる見舞いに訪れ、ゲーム機やエロ本や大河マンガを差し入れ、ギブスにしょうもない寄せ書きをしてくれた。先輩のこどもたちが、ギプスはお絵描きをするところと勘違いして、クレヨンで偉大な作品をかきこんで、持って帰れないと知って泣いたりした。泣きべそ画伯の大作は画像におさまってLINEであちこちにばらまかれた。
 いよいよ検査のネタもつきてきた。あとは、整形外科とかの先生がたが、「はい、退院」といってくれれば釈放だ。長らくお世話になった病院とも、ちやほやしてくれる看護士さんたちとも、遠からずサヨナラである。
 ついこの間まで、復活があやぶまれる深刻な患者だったのに。
 もしかするとこのままダメなのではないか。意識がないまま何年も過ぎてしまうのではないか。ゆっくりひっそり弱り続け、やがて死んでしまうのではないか。悲劇方面の噂ばかりされがちだった。だから幸太のあまりに元気でノンキな姿をみると、見舞い客はみなあきれて、ちょっとガッカリもする。ちぇっ、心配してやって損したぜ、と言いたくもなるのであった。
 てめー。ぜんぜん元気じゃねーかよ。
 遊んでねーで、はやく働け!
 やっかんで、いうのである。
 しかし。
 せっかくいただいたこの休み。少々ぜいたくにバカンス気分を楽しんだっていいのではないか、と幸太は思う。
 なにしろ、長いこと休んだと言われても、記憶がないので自覚もない。一週間もただ寝るなんて、まったくもったいないことをしてしまった。
 でも、ちょっと間違えばたぶん死んでいた。そう聞かされると、なんともいえない気分になる。どこかがモゾモゾする。
 あの日、あの時点で、人生スパッとおしまい。はいそれまでよ、だったかもしれないのだ。
 二十一歳の若さで!
 あれもこれもまだやってないのに!
 医学療法士の先生とマンツーで立位体前屈をしている、そのある一瞬に、幸太は突然、どうにもたまらなくなってしまった。
 リハビリのメニューが終了するや、ダッシュで病室に戻った。小銭入れを懐に、売店にとってかえした。が、望むものはなかったので(考えてみれば当然なのだが)、思わず、パジャマ姿のまま、病院を出た。世間のみなさまの視線を痛いほど浴びながらぐるぐる走り回ってようやくみつけたコンビニで、望みのものを手にいれた。
 タバコだ。
 病院は敷地内完全禁煙だから、もよりの喫煙可能場所は、玄関のすぐ外の花壇であった。
「……ここ、いっすか?」
 花壇のあちこちに腰をおろした先客たちに挨拶をしながら、座る。利き手の右手はギブスで三角巾だから、慣れない左手しか使えない。買ったばかりのパッケージのファスナーを、さんざん苦労して、結局前歯で噛んでひっぱりとった。
 不器用に包みをひらき、やっとのことで一本飛び出させる。無理やりひっぱりだし、唇にひっかける。そこで、ハタと気付いた。しまった、ライターがない! やれやれ、もう一回コンビニか。
 重い腰をあげかけると、隣に腰掛けていたやたらに顔色の悪いガウン男が、おう、とひと声、叱るように言った。
 びっくりして振り向くと、見るからに高級そうな金色のライターをさし出してくれている。カチリ。ともった火まで、なんだか、立派だ。
「あっ、すません! ありがとございます。ども」
 すなおに火をいただく。
 吸う。
 いつもの癖で指先で摘んで持っている。じわじわと吸い、ぐいぐい吸い、しばらく肺に蓄えておいて、ぷはー、とやる。
「……くーーーー! うっわ、きく」
 居合わせたニコ中たちはみな笑う。半分ぐらいのひとの前歯には、きっかりタールがしみついている。
「久しぶりなの、おにいさん?」
 ふわふわのドレスみたいな寝間着姿のおばさまが、しゃれたホルダーにさした洋モクのそばにそえた小指をちょっとたてる。派手なルージュをひいた唇ときれいなかたちの鼻の穴のそれぞれから、良い香りの煙をたなびかせている。
「そーなんです。なんだかんだで、そろそろ……うわ、二週間! 中学以来っすよ。こんな長いこと禁煙したのは」
 ははははは、と、共感の笑い。
「交通事故ですか?」と、頭髪が不自然にたっぷりした爺さま。
「です。コンビニの表で一服してたらー、でけートラックが突っ込んできちゃって。てことは、あそっか! こいつのせいだ」
 幸太は吸いかけのメビウスを見た。久々だからさらにもっとタールの少ないのにしようかとも思ったのだが、慣れぬコンビニだったし、時間をかけてさがす間も惜しくて、いつものにしてしまったのだ。
「こいつのおかげで死にかけたんスね。でも、ははははは。やめられないっスよね!」
 居合わせた他の全員が、まったくだ、そのとおりだ、ほんとうだ、禁煙するぐらいなら死んだほうがましだ、と、笑いあった。
 そこへ。
 ひらひらひらひら。
 蝶が飛んできた。
 黄色い蝶だ。
 花壇に近づいてきて、はじめて、周囲にたなびく紫煙の渦に気づいたようだ。当惑したよすで、ホバリンクする。タバコの煙がじゃまをして、望みの花に到達できないのだろうか。悔しそうに、何度かゆきかけて戻った。やがて、飛び去りかけた。患者たちの何人かは見るともなく蝶の行方を目で追っていた。
 と。
 ……ぱくん!
 幸太だ。
 片手を三角巾で吊ったままの。。
 顔から蝶に向っていた。開けた口から飛びついていた。
 咬みつこうとして、届かなかったように。
 蝶は泡をくって高くのぼったが、やがてそろそろ戻ってきた。からかうようにひらひら飛ぶ。幸太はなんとかして噛もうとした。両足でびょんびょんジャンプし、ぱくんぱくん。何度も何度も、飛びつくのだが、うまくいかない。まったく届かない。
 喫煙者のみなさんは、あっけにとられ、せっかくの煙草を吹かすのもすっかり忘れて見とれてしまった。
 ぱくん。ひらり。ぱく、ひらり。
 幸太と蝶が戯れる。
 見方によっては、明るくほのぼの童話的な光景であった。別な角度から眺めれば、なにやらわけのわからない、不気味で異常なできごとであった。
 やがて、黄色い蝶も飽きたか疲れたか、空のどこかへ行ってしまった。きれいな羽根をひらめかせながら、よそに飛んでいってしまった。
 幸太はチッと肩をすくめてもとの席に戻りかけ、みなの、注目をあびた。
 はげしい集中。
「ん?」
 みんな、じーっと見ている。
「なんスか?」
 幸太はきょとんとする。
「どしたんスか? 俺の顔に、なんかついてます?」

      ☆

 事故の現場になった交差点は渋滞中だ。壊れた信号機の代わりがようやく届き、とりつけ工事をしているところだ。
 クレーンがうなり、ヘルメット姿の作業員が何人も働いている。現場はパイロンやガードレールで大きく囲われ、係員が出て、交通整理をしている。
 コンビニは臨時休業中だ。損傷はまだひどい。大破した入り口は、崩れないように支柱をたてて補強してある。ガラスがなくなった壁面には、ブルーシートがかかっている。
 安全点検などがすんで、ようやく電灯がつかえるようになったところだ。
店内では、眼鏡の店員が品物を確認している。損害の具合を、正確に、把握しなくてはならない。眼鏡の縁がビニールテープで補強してある。
「あ、ガラス! くそー、まだありやがるのかー!」
 彼はひょこひょこと、バックヤードに掃除用具をさがしにいく。
 店長は入り口のところに立っている。腕組みをして、信号の設置を見物していた。
「あの。このたびは、どうも」
 声をかけられた。
 ご近所の奥さま、川島さんだ。トイプードルを抱っこしている。週に二三回、犬の散歩のついでに豆腐や乳製品などを買いにくる。常連さんだ。
「たいへんなことでしたねえ」
「はい。ご迷惑をおかけしまして」店長は頭をさげた。「申し訳ございません。本部と相談して、なるべくはやく再開しますので。どうぞまたごひいきに」
「ああ、そう。良かった。しめちゃうのかと思った」
 川島さんはおおげさに胸をなでおろしてみせた。
「ここがないと、不便でね」
「ほんとうにすみません」
 もし万が一うちがつぶれても、どうせ次もコンビニがたつだろう、と、店長は思っている。どこか別のチェーンかもしれない。ここはいい場所だから。
「どなたも亡くならなかったのが、まだしもでした」
「そうなの? あの男の子、助かったの」
「そう聞いてます」
「そーお」
 川島さんはしみじみうなずいた。
「それは良かった。でも、じゃあ、……クロちゃんだけ?」
 プードルが、じたばたもがいた。川島さんは犬を地面におろした。すると犬は川島さんの膝にのびあがって、ひっかいて甘える。おろされると、とたんに抱いてほしくなったらしい。
 犬はモノだ。
 モノがこわれても物損。
 ひとはひとりも死ななかったから、トラックの運転手も、雇い主である運送会社も、この事故で「業務上過失致死」の責任を問われることはない。
「あのね」
 しばらくプードルをかまっていた川島さんが、顔をあげた。
「クロちゃんのママのことなんだけど。なにかご存じ?」
「いえ」店長はちょっと顔をしかめた。「特には、なにも」
「……そう」
 川島さんは犬をじゃらしている。
 あのひとはもう来ないわ。
 店長は思っていたけれど、口にしなかった。
 この店には、二度と来たくないでしょう。それがあたりまえでしょう。
「どうしていらっしゃるのかなあ」
 川島さんが言う。ひとりごとのような声で。
「お散歩してるとね、よく会うのね。ほかのわんことママとかと。マメちゃんのパパとか、ピースちゃんのママとか。雨が続いたあとなんか、みんないっせいに出ますからね。たまに立ち話するでしょう。あ、ううん、違うのよ! そうじゃないの。そんな、ひとの噂とかじゃないの。そんなかたがたじゃないもの。……でも、ね。こないだ、チャチャちゃんのおにいさんが言うのよ。クロちゃんは、どうかしたんですか、近頃、ぜんぜん見かけませんけれど、って」
 それ噂っていうんじゃないですかね。
 店長は笑顔をくずさなかったが、内心、少し腹をたてていた。
 悪気がないのはわかるけれど、事情を知らないひとにまで、変な話をひろめないで欲しいですね。いたましい事故があったなんてことは、なるべくはやく忘れていただきたい。
 お花とか備えないでよ。
 頼むから。
 ああ、でも、やっぱり、無理か。
 この店はいっそ売ってしまおうか。仕切り直して、よそで出直すか。立地は抜群なんだから、フランチャイズ権ごと、高く売っちゃえるなら……。
「それで、わたし、ちょっと心配になって」川島さんが言う。「だって……ねえ。あのかたは。ほら。前なら。おかあさまがいらしたけれど」
「店長! このお品ですけど、汚れ……あ!」
 眼鏡の店員がなにか聞きにきた。客がいたことに気づいて、あわてて黙り、手にもっていたものをひっこめる。おじぎのでき損ないみたいに首を伸ばす。
 いいタイミングだと店長は思った。おかげで返事をしなくてすむ。
 ところが。
「おかあさま、亡くなったでしょ」
 震える声に目をこらせば、川島さんは涙ぐんでいるのだった。きれいにセットしてある髪をさかんに撫でつけながら、もっと本格的に泣いてしまうのを、我慢しているのだった。
 その姿を目にすると、店長も、グッとくるものがあった。
「……それなのに、こんどはクロちゃんだなんて。あんまりじゃないですか。お気の毒だったらないわ。おひとりで、だいじょうぶなのかしら。あのかたは」
「心配ですね」つられて、つい言ってしまった。
「そうなの。そうでしょう」
 プードルがママの膝をひっかいている。どうしたの、ママはなんで泣いてるの。というように。
 ふいにこの犬の名前を思い出した。チョコちゃんだ。
「チョコちゃんも、心配してあげてるみたいですね」
 店長が言うと、あらま、ほんとね、と川島さん。騒ぐ犬を抱き上げてあやす。
「……ごめんなさい、取り乱して。それじゃあ、ごめんください」 
 会釈して歩きだしたので、店長も深々おじぎをかえした。
 店内にもどる。
 ブルーシートごしの光のおかげで、そこはなんだか深い海の中のようだ。
「なんで私に言うの」
 ひとりごとにつぶやいて、溜め息をつく。
「そんなに心配なら、自分でなんとかしなさいよ」
 うちだって被害者なのよ。なんの立場でなにができるって。
 犬散歩ともだち仲間とか。そういうひとたちで。なにかしてあげたらいいじゃないの。気がすむように。なんでもして、優しくしてあげればいいじゃないの。
「あの……誰が、死んじゃっ、たんですか?」
 眼鏡の店員が訊ねた。
 店長はふりかえった。
 すみません、聞こえちゃったもんで、と店員が言った。「気になって」
「あーそう」
 店長は“あたたかい飲み物”の棚に手をのばし、ブラックコーヒーの缶をふたつとり、ひとつを彼に手渡した。
「あ、ぼく、コーヒーだめなんです。ホットレモネードなら」
「好きにして。でも、ぬるいよ。ずっと電気とまってたんだから」
「スね。じゃ……えっと、どれにしよっかなー、これ、新製品だよなー、この際、おためししてみちゃおっかなー」
 眼鏡の店員が迷っている間に、店長はプリングをひっぱってコーヒー缶をあけた。
「黒いわんちゃんの飼い主さん、いたでしょ。あのひとの、おかあさんのことよ。宮野順子§よりこ§さん」
 眼鏡の店員はやっとえらんだロイヤルミルクティーを、ぶきっちょそうにすすっている。
「知らない? 有名人だよ。料理の先生で。テレビにも出てた」
「へー」
「三年ぐらい前かな。夜中に救急車で運ばれて。それっきりだったんだって」
 コンビニで偶然ばったりであったご近所さんどうしというのは、しばしば情報交換をする。店員にも、ほかの客にも耳がある、ということを、ちょっと忘れてしまいがちでもある。
 そうか。あのひと亡くなったんだ。
 ずいぶんあっけなかったんだ。
 そう思った。
 殺しても死ななさそうなタイプに見えたのに。
 感じのいいひとではなかった。すっとんきょうで、騒々しかった。
 コンビニに来ておきながら「まあ、また新製品がでたの! こんなに便利じゃ、いまどきのおかあさんがた、お弁当なんか作らないわよねえ!」なんてわざわざ大声で言ってみせるようなところがあった。身振りも手振りもやたら大きかった。
 めだつひとで、印象に残る。どこかで見たことがあるような気がしていたら、テレビに出るひとだった。名前を把握したのは、月に三回も四回も旅行バッグを地方に送ったからだ。発送先のホテルの住所を伝票に書く書類を無造作に見えるところに出していたので、名前と、先生と呼ばれる身分のひとだいうことが、確認できてしまったのだった。
 住まいは、例の隠居マンションだ。
 忙しいのか、深夜になってから、トイレットペーパーだの洗剤だの牛乳だの、かさばるものや重いものばかり買いにくる時があって、荷物持ちに若い女をつれてくる。たくさん買ってくれてありがたいのだが、連れにツンケン威張りちらし、ひどい意地悪を言うので、はたで聞いているだけで不愉快になった。お手伝いさんかな、お弟子さんかな、こんなワガママなひとに付き合うのはたいへんだろう、と思っていた。
 娘と知って、驚いた。
 まるで似ていないのだ。雰囲気も。服装も。あまりに段違いすぎて、格差がありすぎて、ママハハとシンデレラみたいだ。そういわれてあらためてしげしげ見ればたしかに顔だちや体つきには、共通するところもあったのだが。
 おとなしい、影の薄い娘さんだ。これまたご近所の噂によるのだが、なんでも、耳が少し悪いとか。なるほど。それでは、とうてい、あの強烈な母親にはさからえまい。一生牛耳られてもしかたがなかっただろう。
 残酷な支配的な母親がいなくなったら、生きていくのが楽になったのではないか。
 不自由かもしれないけれど。
 新しい人生がはじまるチャンスなのではないか。
  

      ☆


 気がつくとやかんが沸いている。
 宮野佳寿子は火をとめた。
 たっぷりと時間をかけ、丁寧にハーブティーを淹れた。
 マグカップにいれた茶を持って、ベランダに出る。ガラス戸の下に敷いてある古いバスタオルは、黒兵衛用の足拭きだ。梅の花のような型の足跡が、まだひとつふたつ、ついている。残っている。
 洗濯なんかできない。
 手すりにもたれ、ミルク色にくすんだ町を眺めた。
 駅がある。線路がある。博物館がある。大学の敷地に森があり、遠く高層ビル群が見える。見渡すかぎりどこまでも大小さまざまなかたちの建物が埋めつくしている。どこもかしこも、誰かの勤勉のたまもの、誰かがお金をかけて、設計して、建築した。誰かが住み暮らしている。働いている。みんなのけんめいの努力の舞台だ。
 数えきれないほどの大勢が、作りだした景色。
 電線も、看板も、駐車してあるたくさんの車も、みんな、みんな、ただあるんじゃない。自然に生えてきたんじゃない。誰かが考えて、誰かが作って、競って、直して、メインテナンスして、だから、そういうふうにある。
 私は、なぜ、なんの資格で、ここからそれを見ているのか。
 こんな高みに、いるのか。
 母が買ったからだ。
 父は若いうちに亡くなった。脳のどこかで血管が詰まって倒れたのだった。保険会社に勤めていたので、たくさん保険をかけていた。
 母はお嬢さま育ちで、それまで専業主婦だったけれど、心機一転はりきってお料理の先生になって、講習会をしたり、ケイタリングをしたり、テレビ番組にコーナーをもったりもした。せっせと働いて、ばりばりお金を稼いだ。
 その母がある日、このへんがどうも気持ち悪いと胸をおさえて訴え、自分で救急車を呼んだ。佳寿子には電話はできないから。緊急入院になって、意識がなくなり、それから三日ももたなかった。心筋梗塞だそうだ。まだ六十少しだった。
 家は母の名義だし、保険金も(父の手本にしたがって)しっかりかけてあった。
 佳寿子には、将来を悲観する必要はない。
 よほど馬鹿なことでもしなければ、寿命がつきるまで、静かにここで暮らしていける。
 でも、
 なにをして?
 おばあさんになるまで、あと何年。なんのために生きるの?
 手すりから少しだけ身を乗り出して下を見る。大きな樹もてっぺんから見ると、ブロッコリーのようだ。あのブロッコリーの根元まで、いったい何メートルあるだろう。ここから飛び出したら、何秒で到達するのだろう。
 風が佳寿子の髪を揺する。知らずしらずのうちに腕をこすっている。どうやら自分は、寒いと感じているのだと気付く。
 肩のちからをぬく。地面じゃなく、空を見上げる。遠くを飛んでいく鳥の群れを眺める。
 手に持っていたことを思い出して、カップの茶をすする。
お茶はあたたかい。良い香りがする。美味しい。自分はまだお茶を美味しいと思うことができる。
 そう。生きてればいいことがある。
 だから、生きていこう。
 元気だそう。
 佳寿子は笑い顔をつくりながら、部屋に戻った。
 ガラス戸をしめようとして、手がとまる。そこには犬ドアがとりつけてある。鼻でおして、いつでも好きに出入りできるようになっている。
 まぼろしの犬がからだをこすって通り抜ける。
 愛しい。

 あれはいつのことだったろう、もうずいぶん前だ。
 母が不在の日に届いた季節のご挨拶が、特上のステーキ肉の巨大なカタマリだった。さてどうやってしまっておこう。小分けにして冷凍しようか。どこをどう切ればいいのだろう、まないたにのせて、考えている時、また郵便物か宅配便かが届いた。判子を持って出なければならなかった。誰か来ましたよと忠実に知らせにきた黒兵衛が、佳寿子が配達員に応対している間に、ツイと、いなくなった。
 山なす届けものを受け取って、ドアをしめる。黒兵衛の姿がない。おや。どうしたんだろう。いつもなら、なにがきたんですか、どれどれ点検しますよ、と、つきまとってくるのに。
 見ると、寝室の入り口から顔を半分だしている。片目が見える。かくれんぼでもしているようだ。佳寿子と目があうとたちまちサッと隠れた。
 どうしたのかしら。
 台所にもどってみたら、肉がなくなっていた。
 あっけにとられた。
 まあ。クロちゃんったら! 
 おまえ、食べちゃったの。盗んだの。
 寝室の奥に追い詰め、腰に手をあてて見下ろすと、黒兵衛は申し訳なさそうにきゅーといった。ごめんなさい、床に這いずって平伏した。おなかをだして、あおむけになり、佳寿子の足にさわらないぎりぎりで足搔いて、甘えてみせた。
 もういい。わかった。
 佳寿子が手をさしだすと、起きあがって、その手を舐めた。
 台所にある食べ物に勝手に手を出すことなんてなかったのに。
 あまりにも誘惑的なものが無防備にほうりだしてあったので、理性がとんでしまったのだろう。
 さあ困った。母に、どう説明しよう。
 黒兵衛には可哀相なことをした。
 あんな大きなカタマリ、どんなにあわてて食べたのだろう? 時間は、ほとんどなかったはずだ。大急ぎでまるのみに飲みこんだのではないか。それでは、ろくに味わうひまもなかったんじゃない? 
 喉につっかえて、苦しかったでしょうに。
 やってしまったことに自分で驚き、苦しくて目をシロクロしている黒兵衛の姿を想像して、佳寿子は、ふきだしそうになった。
 おかあさんは、あんな高級なお肉を犬にあげたりするなんてとんでもないって怒るに違いないけれど。
 私が叱られればいいわ。
 そうね。たまには、思いきりゴージャスなお肉を食べさせてあげるわね。おかあさんに内緒で。こんどお肉を家で食べるときは、余分に買ってきて、おまえにもあげるわ。
 私はお肉なんてそんなに好きじゃないけど、おまえが喜んでくれるなら、もっと食べよう。
 おまえのために、贅沢をしよう。

――うん、ありがと、嬉しい。
 犬が笑ってみせる。
――お肉、美味しい。
 クッションのくぼみで。
 改めて、もっとしっかり見ておこうとすると、とたんに消えてしまう。
 いつまで、見えるのだろう。
 いつか、見えなくなるんだろうか。
 それが、成仏するということなんだろうか。
 まぼろしでもいい。
 ここにこのままいてほしい。
 いなくなってもらいたくない。
 そんなふうに思ってしまうのは、いけないことだろうか。
 自分を哀れんでいることになるんだろうか。
 可哀相なやつにしておきたがることに、なってしまうのだろうか。
――黒兵衛。
 みえない犬に話しかける。
――ねぇ、おまえは、どう思う?
 ママがほかのわんこさんを飼うことにしたら、いや? 

      ☆

 ぽこんと膨らんだ腹を出して待っていると、
「はい、こんにちは」
ペイパータオルで手をぬぐいながら産婦人科医が来て、スツールに座った。
「ちょっとひやっとしますよー」
 剥きだしの腹にゼリーがぬられる。超音波モニターのプルーブがさわる。よく見える角度をさがして、くるくる腹の上でゼリーがこねられる。
「二十七週、三十八センチ、千二百グラム」機械の画面とカルテを交互に見ながら、医者がいう。「いいですね。順調です。問題なし! 何か、気になるようなこと、ありますか」
「あの……」
 国井智美は舌でくちびるを湿し、考えをまとめようとした。
検診にくるまではいつも、あんなこともこんなことも相談しようと思っているのに。ここでこの台にあがってしまうと、いろんなことがうまく思い出せなくなる。先生はいつもあまり忙しそうだから、へんなことを言って邪魔をしてはいけないと思うし。ダメな患者になりたくない。迷惑かけて嫌われたくなくて、緊張して、あがってしまうのかもしれない。
「えっと、あの、少し、足がだるくて歩きにくいです。あんまり、はやく歩けないんです」
「それはそうでしょう。血液の状態がかわってきて浮腫みやすくなっているし、お腹もかなり大きくなりましたからね。バランスがとりにくいわけです。無理にはやく歩いて、ぶつけたり転んだりするといけません。なるべく、あわてない。ゆっくりのんびり、とにかく、気をラクにして、すごしてください」
「はい……」
「おなか、張りますか? この前、張り止め薬出してるけど」
「いえ、そんなには。いただいたウテメリン、まだあります」
「そう。じゃ、問題なければ、次も二週間後に。はい、お大事に」
 ありがとうございました。
 服を着て、廊下を戻る
 待合室の椅子に、そろそろ用心深く腰をおろす。会計を計算してもらうまで少し待っていなければならない。
 座り心地のよいソファはほとんどみんな埋まっている。妊婦たちが雑誌を読んだり、連れてきた幼児をかまったりしている。平日の昼間なのにつきそいの男性も三人ばかりいる。生まれる前からもうイクメンしてる。
 そのうちのひとりは、奥さんなのか彼女なのか、案外妹かもしれないけど、まだほとんどお腹のめだたない女の子に、ぴったり密着して寄り添っている。服でごまかしてるけど、あれはぜったいお互い手と手を握りあっている、と、智美は思った。
 外国のドラマを流しているモニター画面のほうに目をむけて、ふたりとも怖い顔で黙りこくっている。時々女の子が、ぼそぼそ何か耳打ちする。男のほうは、無言でうなずく。ちょー深刻そう。ひょっとすると、彼ら自身、涙ナミダのドラマの真っ最中なのかも。生むとか生まないとか。できたとかできないとか。
 まぁね。
 妊娠はドラマだよね。ふつうは。初産の妊婦にとっては人生はじまって以来の一大事だ。
 ぱたん。
 スリッパの足を踏み替える。
 幸太も前はついてきてくれたのに、と思う。工務店のシゴトは段取り次第お天第次第材料の届きかた次第だったりして、ポカッといきなり何日も続けてヒマになることもある。そんな休みには、あいつも、いっしょに来て、わたしの一大事に向き合ってくれてたのに。
 交通事故に巻き込まれるなんていうのは、そもそも滅多に起こらないことだ。だから、「妊娠=人生はじまって以来の一大事」よりも「さらに」レアな、何百倍かの一大事だっていうか、もっときっぱりドラマだったりしてしまうのは、そりゃあ、しょうがないけど。
 なにもこっちのドラマに割り込んでこなくったっていいのに。
 もうあんなに元気そうなのに、どうしてなかなか退院の許可おりないんだろう? 脳みそのなんとかをはかるとかって、むずかしそうな検査してばっかで……あいつがバカなのは検査しなくったってわかる。ほんとに必要なのかしら。あやしい。病院が、いっぱいお金をかせぐために、いらない検査してんじゃないの。
 どうせ保険だし、相手が払うんだから、いいようなもんだけどさ。
 それとも。
 まさか。
 一見元気そうだけど、見かけだけで、ほんとは幸太の身に、なにか恐ろしく悲劇的なことがおきていたりするんじゃ……?
 あああ。やだやだ。冗談じゃないよ。
 生んだとたんにシングルマザーとか、そういうの、あたしのキャラじゃないから。
 そういえば。
 生命保険って、あいつ、入ってるのかな。受取人、どうなってるんだろ。もしかして、あたしじゃないかも。いま死んだら、いったい、幾らに……。
 ぼこ!
「ウ」
 智美は腹をおさえた。
 すでに男子であることがわかっている胎児が、激しく抗議の「ぐー」をつきあげたみたいだった。 まるで男同士まだ見ぬ父親を庇ったみたいに。
 男はいつもロマンとかいう。女は現実的すぎるって。でもリアルに生活は進む。検診にだって、出産にだって、実際、お金はいるのだ。心配するの、あたりまえだろう。
 ぼこぼこぼこ! ぼこぼこぼこぼこぼこっ!
「わ、わかった、かんべん! いたい、痛いったら、そんなぼこぼこ蹴らないで!」
 智美の抗議に、そんな感触の身に覚えがあるのかもしれない女たちが、クスクス笑う。

       ☆

 駐車場もいっぱいだったが、芝生広場はさらに混雑していた。
 チワワに、ヨーキー、ブルドッグ。パグにパピヨン、ブルドック、セッター、バセット、シベリアンハスキー。ダルメシアンにチャウチャウに、サモエド犬。
 さまざまな犬種の犬が何十頭もいる。
 ドッグレスキュー『わんわん愛らんど』の譲渡会だ。
 犬たちは何頭かまとめて、または一頭ずつ、地面に固定した簡単な囲いにいれられている。首輪に鎖をつけペグで固定されている場合もある。おとなになりかけた犬が多い。吠える声も、きゃんきゃんもいるが、うおんうおんもいる。
 隅のほうに、少し状態の悪い子たちがまとめられていた。
 佳寿子はたまたま、そちらから見はじめてしまった。
 足が一本短くて地面につくことができない犬、アトピーなのか皮膚病か毛がボサボサで部分的にハゲている犬、目にどんより紗がかかり反応が鈍い犬。
 しげしげ見るのが痛ましいようだ。それでも、さらにもっと具合の悪い子たちはこの場につれてこられていない。カラー印刷をパウチしたもので紹介されている。包帯だらけだったり、まったく立つことができなかったり、とても老齢だったりする犬たちだ。一匹ずつ、身の上や経過、投薬や治療の記録が示されている。
 もちろん、元気で健康な犬たちもたくさんいた。
 ひとが通りかかると、犬たちは、それぞれの性格に応じて反応する。
 後足立って伸び上がったり、その場でぐるぐるまわってみせたりして活発にはしゃぐ犬もいる。潤んだ瞳でじっとみつめたり、ちょっと首をかしげてみせたり、情に訴えるタイプもある。そっと尾をふり、チラッと目をあわせるだけで、ため息をついて腹這いになってしまう、いたってシャイな犬たちもいる。
 犬と同じぐらいに、いや、もしかするとそれ以上に大勢のひとがいた。
 犬たちを見にきている。
 ほとんどの犬のところには、誰か、留まって様子を眺めているひとがいて、場合によっては何人も何組もいっしょにいた。犬をかまったり、お互いになにかを相談して話しこんでいる。
 来ているひとたちは、たいがい複数で、家族連れのようだった。たまに、ひとりで来ているひとや二人連れもいたが。
 年齢や構成や、雰囲気はまったく十人十色、さまざまだ。
 ゆっくり会場をまわって、全部の犬をともかく一度は見てみようとしているらしいひともあるし、これという子をもう見つけてしまったのだろう、その場にしゃがみこんでじっと動かないひともある。
 黄色い腕章をつけたひとたちがスタッフであるらしい。
 会場中央に大きなワンボックスカーを利用して簡単な屋根をかけたテントブースがあり、『わんわん愛らんど』のロゴと犬のキャラクターがプリントされたノボリがひるがえっている。そこで、数人の女性たちが、チラシを配ったり、客の質問にこたえたり、ノートパソコンに書き込んだり忙しそうに活動している。なにか問題でも発生したのか、険しい顔で携帯電話を使っている女性もあった。そういう様子ぜんたいを一眼レフの立派なカメラでせっせと記録している男性もいた。
 ちゃんと運営されているのね、と佳寿子は思った。
 にぎわっているけれど、混乱していない。整然と、なごやかに盛り上がっている。
 佳寿子には犬やひとの声を聞き取ることはできないが、だからこそ空気には敏感なほうだ。雰囲気は音が把握できなくても、感じとれる。
 きっと、みんな、犬が好きなのね。大好きで、この犬たちを、一匹でもおおく、なんとかしてあげたいと思ってる。そういう一心で集まったひとたちなんだわ。
「すごいねえ、大盛況」宝井志津枝は驚いたように言った。「このひとたち、みんな、犬をもらいにきたの?」
「様子見だけのひとも、いるかもしんないけどね……佳寿子ママ?」
 志津枝の次男坊である淳は、佳寿子の腕の肘のあたりをとんとん叩いて注意をひいた。
「どうします。どうしたいですか? とにかく、ぐるっと、ひととおり見てみるんでいい?」 
 ジェスチャーまじりに、ゆっくりはっきり大きく口を動かして、といかける。
 佳寿子はうなずいた。

 大学生の淳がネットでみつけた情報だった。
『ドッグレスキュー・わんわん愛らんど』では、廃業することになった業者から引き取った犬88頭の里親を緊急に探している。○月○日、日曜日、××川の河原の多目的グランドを借りて一挙おひろめするこので、引き取り希望のかたは、駆けつけて。

 ――もしかすると、ここに、佳寿子ママと出会うことになっているわんこがいるかもしれないって、ピンときたんですよ!

 淳はメールに書いてきた。

――ショップで買うのは気がすすまないって、ききました。でも、犬のほうが、助けを必要としているなら、どうですか。

[ありがとう。気にかけてくれて嬉しい。
 でも、急な話ね。
 ごめんね、ちょっといまは無理かなぁ。
 正直いってね、なんだか、まだ、はやいような気がするし……
 ほら、四十九日っていうかね、そんなの信じてるわけじゃないんだけどね]

 はかばかしくない返事をすると

 ――なに、もったいぶってんの。どうせなんの予定もないくせに。

 志津枝からメールがはいった。
 例によって辛辣な、歯にきせぬズバ断ぶりである。

――あれこれ考えてないで、とにかく、行ってみようじゃないの。
淳、あれで運転はうまいのよ。ドライブしよう。途中で、なんか美味しいものでも食べてさ! ね、きまりきまり!

 押し切られたかたちで、承諾した。
 たしかに。
 犬をみたい。犬が欲しくないことはない。
 だが、ペットショップで値札のついている子をえり好みするのは気がすすまないし、誰かが突然犬をプレゼントしてくれるわけもないし、通りすがりの道端にみかん箱にはいった捨て犬がちょうどうまいこと落ちていたりなど、めったにするものではない。
 それでも、佳寿子としては、なにかその手の天与のできごと――抵抗できない運命な導きのようなもの――がないと、どうも、まだ、だめなのではないかという気がしてしまっていたのである。そうでないと、黒兵衛に申し訳がたたないで。
 たぶん、バカなこだわりなんだろうとは思うが。
「里親」を必要としている子のところに行ってみる、というのは、中では、穏当で、しかも現実的で、建設的な、たいへん結構な、素晴らしい考えである気もする。
 もしかして、そこに、誰にも欲しがられない犬や、ものすごく助けを必要としている犬がいたら、ひきとってもいい、……漠然と持っていたそんな考えが、実際、ここに来てみて、たくさんの犬やひとを眺めているうちに、どんどん縮んだ。
 なぁんだ。
 だいじょうぶだ。
 大盛況だもの。
 わたしなんかの、出る幕、ない。
 がっかりしたような、ホッとしたような気持ち。
 いかにも健全で幸福そうなご家族が、数えきれないほど大勢いた。満杯の駐車場のナンバーを眺めたかぎりでは関東圏が多かったが、近畿、中国、山陰、それに東北からも、わざわざ大勢駆けつけている。
 ひやかしじゃない。優しいマジメなひとたちで、見るからに真剣だ。
 里親になる覚悟をきめてきたひとたち。
 視線の高さにあわせて低くしゃがみこんで、喉のあたりを撫でてやったり、指を一本たてて注意をひきつけて巧みにお座りをさせたり。とてもじょうずに抱っこしたりしている。
 犬を飼ったことがあって、犬のことがわかっている愛しているんだなぁ、というのが、ちゃんとわかる。
 犬のほうだって、もし選べるなら、楽しい家族の一員になりたいだろう。大勢にかわるがわる可愛がってもらえるほうがいいに決まってるし、遊んでくれるひとや面倒をみてくれるひとは、何人もいるほうがいい。
 素敵なパパと優しいママと可愛くてお利口なこどもたち。みんな元気で健康であちこちにおでかけしたり、冒険したりできるご家庭。そんな家族の一員になって暮らしていけるなら、なんて幸福だろう。
 ここには仔犬はあまり多くない。いかにも可愛いさかりというよりは、少し育ってしまった犬たちだ。でも、どの子も、なぜ売れなかったのか、誰にも欲しがってもらえなかったのか不思議に思うほど、かわいくて、愛らしい。人気の犬種の純血種にしか見えないものが、たくさんいる。
 そしてもちろん、里親候補のみなさんも、もう仔犬とは言えなくなった年頃の犬のよさを、その個性を、ちゃんとわかってあげられるひとたちなのに違いなかった。
 佳寿子はホッとしたが、ちょっと拍子抜けもした。
 内心、ひどく哀れなみじめな犬たちを目にするのではないかと怯えていた。アウシュビッツのような施設を想像してしまって、なんとか助けてあげなくては! とへんに気負いかけていた自分が恥ずかしい。
 目がとまってしまうのは、やはり黒い犬たちだ。
 二歳か三歳ぐらい、犬種不明、と表示されている雌のラブラドル・レトリーバーのように見える子が、端のほうの少し広い囲いにぽつんといた。かなり大柄だ。ただし、そこには、佳寿子よりも先にこの犬に目をつけた家族がいた。真面目そうなゴルフシャツ姿のパパと福々しくてよく笑うママと、やんちゃな感じの男の子とちょっと内気そうな女の子。もうすっかり夢中という感じで、みんなにこにこしている。男の子が目を輝かせながらもはにかんだ様子で、パパの耳元になにかを訊ねると、パパがうなずいた。大丈夫だよ、というような表情でなにかを説明する。女の子がおずおず手を伸ばしてさわろうとすると、犬は自分から進み出て、大きな頭をさしだした。撫でてもらった。
 ご家族の子になるのね。もう決まりね。
 いまさら、わたしもその子が気になる、なんて言いだしたたりしら、迷惑だ。
 諦めて、立ち去ろうとした時、笑っていたふくぶくしいママが急にハッと表情をかえた。何か言い、家族が驚いたようにいっせいに動きをとめて、顔をしかめた。ふくぶくしいママがトートバッグの中をさぐってウェットティッシュを出す。女の子の手をつかんで拭った。赤錆のような色がついた。
 犬を撫でた手が、汚れた……ってこと?
 佳寿子も驚いたが、淳も気付いたらしい。すぐに問題の家族たちに話しかけ、それから、係のひとを呼んだ。黄色い腕章の女性スタッフのひとりがやってきて、真剣な、深刻なともいえるような顔になって、しばらく何かを話した。スタッフは、ケージの中にはいって、犬を抱き寄せた。くちびるをめくりおろした。痛そうな傷が見えた。四人家族は顔色をかえて、しおしおと悄気てしまった。すみません、というようにからだを折って、首をふりふり去っていってしまった。
 淳とスタッフはその四人を目で見送った。しょうがないですね、というように共犯者めいた顔を見合わせた。
 なんなの?
 志津枝に目顔で訊ねると、スマホを出して、書いてくれた。
「あの子は怪我をしてて、治療が必要なんだって」
 口の中に傷があり、それが化膿してなかなか治らない。出血していて、かゆがってさわるから、からだにもその血がてんてんとついている。毛が黒いからよく見えなかった。そういうことらしい。
 でも、どうして口なんか切ったの? 
 佳寿子が訊ねると、志津枝がスタッフに聞いてみてくれた。
「缶詰だって」
 この犬たちはみんな、業者さんのところで、もて余した犬たちなのだった。
 たくさん飼いすぎ、ふやしすぎ、世話ができなくなった。忙しくて手がまわらなかったのかもしれない。将来を悲観するあまり自棄っぱちになったのかもしれない。ドライフードがなくなると、缶詰のフードを、ぞんざいにあけて、缶ごと犬舎にころがした。
 おなかのすいた可哀相な犬たちは、余すことなく味わおうとして缶をしゃぶった。そのために口の中を切っても。血を流しても、なめつづけた。
 ……痛かったね……
 佳寿子の目に涙がこみあげた。
 罪のない犬たちがもちろん一番かわいそうだ。けれど、そんなひどいことを平気でしてしまうような境遇になってしまったひとも気の毒だ。もとは犬が好きだったんだろうに。
 黒ラブは、無垢な瞳をしている。ひどいことをされたのに、誰も恨んだり怒ったりしていないように見えた。
 もしかすると自分にも、してあげられることがあるかもしれない。
 もし、この子が、必要としてくれるなら。
 聞いてみようか。
 申しこめばそれですむわけではないのかもしれない。登録とか、抽選とか、審査もあるかもしれない。
 もし、もっとちゃんとしたひとがいるなら、ふさわしいひとがみつかるなら、もちろん自分はいちばん後回しでいいから。
 佳寿子の気持ちはかなり「欲しい」にかたむいた。
 ……と。
 スタッフの女性が、チラッと佳寿子のほうに目をくれた。鋭い顔をして、淳になにか訊ねた。答える淳の様子がへんだった。困ったような、言い訳をしているような顔だ。
 なんだろう? 
 どうしたんだろう。
 淳が、なにか説明すればするほど、女性スタッフは険しい顔になった。淳が言いおわらないうちに、たたみかけるように、ものすごい剣幕でものすごい速さでなにか言う。さらに言い募る。高速で動くスタッフの女性の唇を、読もうとして、なにを言われているのか少しでも理解しようとして、佳寿子は前に出ようとした。すると、グイとおさえられた。志津枝に、腕をつかまれたのだ。
「行くよ、オカズ!」
 志津枝は佳寿子をひっはった。ずんずん大股に歩いてしまう。風に髪がなびいて、志津枝のおでこの端が、太く青筋をたてているのが見えた。ものすごく怒っている。
 志津枝は佳寿子をつれたままどんどん進んだ。駐車場に向かった。
なに。なんなの? どうしたの?
「いいからっ! もう帰るよ! ほら、淳も速く乗って、くるま出して!」

いったいどういうことだったのか。
訊ねると、あとで淳がメールで答えてくれた。

――耳が聞こえないひとには、犬は譲れないって、言われたんです。

やっぱり。

――聞こえないなら、犬の要求がわからないだろうからって。誤解をとこうとしたんですよ。そんなことない、佳寿子ママは、黒兵衛とずっと暮らしていたんだって。そう言ったんですけど。いま独り暮らしだってわかったら、ますます激しく、拒絶されちゃって。

 たぶん、ほんとうは、もっときついひどいことを言われたのだろう、と、佳寿子は思った。志津枝があんなに本気で怒るような。たぶん、失礼で差別的なことを。

 パソコンで『わんわん愛らんど』を検索してみた。あっさり見つかった。
 譲渡会は大成功だったらしい。もう詳しい報告が記してあった。
 88匹のうち60匹があの日のうちに里親候補にめぐりあった。その多くは新しい家族のもとで幸福な生活をおくることができるようになるだろう。残りも大半、何組かの希望者の間で相談中だったり、治療の途中であるため様子見だったり、事情が整うのを待っているそうだ。
 グループの代表だという女性が、書いていた。

[病気だったり怪我だったり、けっこう年のいった子もあって、こんな大勢みんなちゃんとひきとってもらえるだろうか、ダメな子もいるんじゃないだろうかと心配しましたが、杞憂でした。『誰もほしがらない犬をください』、『最後まで残った犬をください』と、申し出てくださったかたが、何人も何人もありました。
 こういう時、神さまってちゃんといるんだなと思います。レスキューやっててよかったです。みなさま、ありがとう。ほんとうに素晴らしいご縁にめぐりあえたわんちゃんたちに変わって、お礼をいいます。そうそう、ご寄付もたくさんいただきました。なによりです。どうもありがとうございます]

 里親が決まって無事にひきとってもらった犬たちの何匹かについて、それぞれ詳しい報告が載っていた。新しい家族といっしょの微笑ましい楽しい写真も掲載されている。
 口に怪我をしていたあの黒いラブラドルレトリーバーがいないか、佳寿子は画面をどんどんスクロールして探してみた。いた。チャッピーちゃん、という名前がついていた。横浜のイニシャルKさんのところに、もらわれることが決まったそうだ。
 ナイキのジャンパーを羽織った中学生ぐらいの女の子が、嬉しそうに、犬をハグしている。ショートカットで色が黒い。きっと、スポーツが得意な子だ。
 運動好きな子のおうちにもらわれたのだ。きっと、毎日たっぷりお散歩をしてもらえるだろう。いっしょに走ったり、ボール遊びだって、してもらえるかもしれない。
 テラスには、素敵な寄せ植えやベンチが見える。センスのいい裕福そうなおうちだ。だったら、お金にいとめをつけずに治療をしてもらえて、栄養のあるごはんも食べられて、怪我なんか、すぐなおってしまうだろう。
 あの子は、二度と、飢えて苦しまない。乱暴にあけた缶詰を、いつまでも舐めたりしなくていい。
 あは、と笑う。
 ばかね。
 もちろんそうよ。大丈夫。わたしごときが、わたしなんかが心配しなくったって、大丈夫に決まってるでしょう。

 佳寿子はサイトに書いてあった口座番号をメモして郵便局に出掛けた。窓口で用紙をもらって、寄付金を送った。
 郵便局のかえり道、あの交差点にさしかかった。
 壊れた信号機は新しくなり、コンビニの入り口にも新しいガラスがはまっている。すっかりきれいになってしまって、つい先月、あんなひどい事故があった形跡など、どこにもうかがえない。
 家に帰る方向の信号は、赤だ。
 ちょっと迷ったが、寄ってみることにした。
 この町に住んでいるのに、ずっとこの店を避けて暮らしていくのはいやだ、そう思ったのだ。それは、なんだか不自然な、カサブタの中で傷が膿んでしまうことのような感じがした。
 事故後すぐ、前から見知っていた女性店長さんと、コンビニの本部とやらの偉いかたが、菓子折りを持ってたずねてきた。わんちゃんにお線香を、と言ったが、仏壇がないと断った。
 父と母の位牌ならあったが、母は黒兵衛を好きじゃなかった。犬なんかといっしょにしないで! 化けて出てきそうだ。
 佳寿子と会話をするのが難しいのを知ると、コンビニの偉いひとは困ってしまった様子だった。何度も深々とお辞儀をして、すごすご帰っていった。
トラック運転手や運送会社からは、何も言ってこない。運転手さんも怪我をして入院しているらしい。規則違反ぎみのノルマで居眠りしたそうだ。なおるをまってその運転手さんを逮捕するのか、会社側に罪を問うのか、まだ決まっていないらしい。
 自分はそういったことには関わることはないだろう。
 佳寿子がガラスドアを押して店にはいると、レジのところにいた眼鏡の店員さんがいらっしゃいませと顔をあげ、すぐに、あ、と、気づいた。
 佳寿子は、静かに微笑みながらカゴをとった。自分は別になにもこだわっていていないし、害意も他意もないのだと、わかってほしかった。雑誌コーナーに行こうとすると、店員はカウンターをまわってやってきた。
 なにか話しかけられた。たぶんあの時はすみませんでした大丈夫でしたかみたいな話だろうと思った。うなずきながら、耳と口にさわって、だめなので、とジェスチャーをする。
 サッと赤面した若者はスマートフォンをとりだした。佳寿子には信じられないほど素早く巧みに親指をあちこちに動かして、文章をうちこんだ。
――黒いわんちゃん、お気の毒でした。残念でした。あの子かわいくておりこうで、大好きでした。いいなぁ、あんな犬欲しいなぁと思ってました。あんなことになっちゃって、ほんとうにかわいそうでした。
 えーんえーん。激しく泣くスタンプ。
 スマホ画面を佳寿子にみせながら、店員はクシャッと自分も顔をゆがめてみせた。
 佳寿子は、ありがとう、と口を動かた。
――きっと、すごくつらいと思いますけれど、どうか、元気だしてください。
 ファイト! のスタンプ。
――みんな、心配してます。応援してますから!
 うん。
 ありがとう。
 えらいね。若いのにそんなに気をつかってくれて。
 口を半月のかたちにする。ちゃんと笑っているように見えるだろうか。
だいじょうぶだよ。心配させてしまってごめんなさい。わたしは元気です。
店長さんによろしく。
――すんません、店長は、いまちょっと配達にいってて。お弁当の。仕出しで。
 へえ。そんなこともしてるんだ。
 そんな忙しいときにごめんなさいね。じゃあね。
 マンションの入り口にたどりついてから、そういえば、なにも買ってこれなかったことに気がついた。

     ☆

 眠っている。
 患者が。
 総合病院の病室の、ベットのふとんの上で。かけぶとんをかけず、その上に横になっているのだ。からだのかたちにふとんがくぼんでいる。
 両手と両足を同じ方向に投げ出した横倒し。首をすこしだけ逸らしている。両手、両足がへんにそろっている。どうも、人間というより、犬の寝相だ。時おり、ふがふが鼻をならし、手でなにか掘ってでもいるような動作をするので、なおさらだ。
 患者はふいにヒクヒク足掻き、もがいた。かけぶとんに皺がよる。
 きゅーん。
 鼻声の寝言が聞こえる。
「……ね」
 かすかにあけた病室の戸口で、女性看護士が言った。小さな声で。
 戸口には、ふたりの顔がかさなっている。
 上のほうに首をつきだしているのは背が高い後輩看護士のほうで、下が、いま発言をした先輩のほうだ。
 先輩の手にしたペンライトが、戸口の隙間に上下ならんだ看護士二人の顔を、ホラー映画のように照らしだしている。
「わかる?」
背の高い後輩は、目玉が落ちそうな表情で、ガクガクうなずいた。
 ふたりはそーっとドアをしめ、なるべく足音をたてないように廊下を戻った。
 ナースセンターまで引き返して、それぞれ愛用の座席に腰をおろし、ようやく息をつく。
「みたわね?」
「みました」
「言ったとおりでしょ?」
「はい」
「きのう、採血があったの」先輩看護士は、カーディガンの襟元を寒そうにかさねあわせながら、後輩のほうににじり寄った。
「注射器刺したら、あのひと、……キャンっていったの」
「キャン」
「キャン。まるで仔犬」
「キャン……ですか」
「で、本人、けろっとしている。ふざけないでくださいって言ったら、なにがですか、って。わかんないみたい。どうやら、自覚、ないみたいなの」
「キャンっていってる自覚が?」
「そう。ないのよ」
 看護士たちは神妙な顔をみあわせ、廊下の向こうのかの患者のいるあたりの様子をうかがうように目をやり、また顔を見合わせ、眉をしかめた。
「間違いないですね」
後輩はごくりと唾をのみ、手首にかけてある数珠にさわった。
「憑いてますね」

     ☆

 また朝が来る。
 佳寿子は朝のルーティーンをはじめる。
 お湯をわかす。
 テレビをつける。
 洗濯物をまとめて洗濯機にほうりこむ。
 ときどき画面に目をやりながら、朝食のしたくをする。
 天気予報、ドラマの予告、季節の話題。全国あちこちの名物、ご当地自慢。
 今日はいやなニュースや大きな災害はなかったようだ。
 なんの話題だろう。幸せそうな家族が紹介されている。おじいちゃんおばあちゃんからお孫さん、曾孫さんだろうか、小さな赤ちゃんまで十人以上くいる。みんなで黒光りする卓袱台を囲んでいる。はじける笑顔。飾らないふつうのお惣菜。
 犬もいる。
 顔のまわりに毛が密集した、テリアっぽい顔の犬がいて、はしゃぎまわっている。
 大家族がみんなでどこかの町を案内している。なにかを指さし、路地を曲がり、川に出る。鉄橋の上を電車が通っていく。
 こどもたちと犬が、思いきり走りだす。
 ――ああー、そういえば、ずっと走ってない、と、佳寿子は思う。
 たまには運動しないと。少なくとも、外にでたほうがいい。もっとお日さまにあたらないと。
 今日の最高気温は何度だったろう。もう暑くなってきたかしら。
 南向きのベランダは日差しでいっぱいだ。まぶしすぎて、よく見えない。
 その光の中でまぼろしの犬が尻尾を振っている。
 行きましょう、というように。
 いい天気ですよ。さあ、でかけましょう、というように。
 そうね。黒兵衛。
 きみがいてくれれば。
 きみがいてくれたら。雨でも、台風でも、出かけるのにね。ちゃんと毎日、お散歩していたもんね。ついこないだまで。
 アスファルトが熱くならないうちに。
 雨がひどくならないうちに。
 お天気を気にして、気温を気にして、混みかげんを気にして、きみの汚れを気にして。
 いろんなこと気にして、よく考えた。
 ベランダから見えた素敵な景色をめざして、でかけていくこともあった。そうやっていっしょに、いっぱい歩いたよね。桜吹雪の中を、満開のぼたんのお寺を、蝉時雨を、黄金色のイチョウの葉っぱがじゅうたんみたいにしきつめられた道を、しんと静かな雪の道を。
 きみと、たくさん、歩いた。
 ずっと、あんな日ばっかりだったらよかったのに。

 黒兵衛をくれたのは、箱根のオーベルジュの谷藤夫婦だ。
 母とイベントで出会い、気が合って、良かったらぜひ一度、と招待してくれたのだった。
 敷地内の小川で渓流魚を釣り、水車で粉を挽いて自家製パンを焼き、裏山の畑から花や野菜を収穫して客に供する暮らしぶり。谷藤さんたちは、まるで小さなお城の領主さまのよう。長靴をはいてゴミバケツの中身をコンポストにあけにいく、働き者の城主さまだ。
 朝な夕な霧のかかる美しい庭には、犬が放されていた。ひっそり静かで、ほとんど動かなかったので、いる、ということにすぐは気がつかなかった。エジプトの壁画に描かれた神さまのような、ワイマラナ犬。まるで生きている置物だった。動く時も、優雅に、ごくゆっくり、すべるように、流れるよゔに、舞踏会のように、動く。
 灰色ですごく大きかった。瞳は黄色い縁のあるブルー。耳はひらひらで、薄くて、垂れ耳になっている。
 なんだか怖いわ、と、母は小声で言った。恐ろしい顔をしている。吠えないのね。吠えない犬って嚙むんじゃない?
 だいじょうぶです。おとなしい、おりこうな子ですよ。谷藤氏が請け合った。
 佳寿子はしゃがんだ。そばにおすわりさせてくれたので、犬の背中に、そっとふれてみることができた。あたたかかった。じわっと、てのひらいっぱいに、熱がつたわってきた。若い盛んないのちの熱が。びろうどのような手触りの下に、たくましく筋肉質のからだがあった。戦いをおそれないだろう肉体があった。
 放すことができなくて、いつまでも撫でた。ふと、耳元に、なまあたたかい風を感じてふりかえると、すぐそこに別のワイマラナ犬の顔があった。ガラス細工のような瞳で、こちらを見つめたまま、じっと立っていた。ぜんぶで五頭いるのだという。イノシシよけなんですよ、と谷藤さんは言った。サルとかカモシカも。電気柵は設置してあるんですけどね。ところどころ、抜け穴ができちゃう。すぐ気がつかなくて、なかなか目が届かなくて。油断すると、やられるんです。ちょうどいい具合になりかけの実とか、キャベツとか、食べられちゃうんです。
 この子たちがいれば、安心なんですよ。
 ワイマラナ犬たちは、オスもメスもいて、年齢もさまざまだそうだ。全員グレイのむだのない体格で、あまりにもそっくりで、佳寿子には見分けがつかなかった。五頭そろっているときでも、彼らは実に静かだった。絵画の中の影のように、ぴたっと動かず、静かだった。
 怖かったわー。帰り道、母は何度も言った。なんか不気味で。悪魔みたいじゃなかった? ゾッとしたわ。
 佳寿子はそうは思わなかった。ぜんぜんそんなふうには思わなかった。神殿に飾られた彫刻が、魔法で動きだしたようだったと思っていた。美しくて、凛々しかった。
 母はへきえきしたようだが、佳寿子はすっかり谷藤夫妻とその犬のファンになった。
 以来、熱心に年賀状などをやりとりした。
 彼らがブログをはじめると、すぐ読者になった。引っ込み思案な彼女としてはめずらしく、熱心にコメントをつけ、感想を書いた。
 リンクをたどってみると、ネットには、知らない世界がひろがっていた。たくさんの犬や猫やほかのさまざまな動物たちの記事や画像もあるのだった。楽しくて面白いものが、たくさん見つかった。はりあいができた。知り合いもできた。
 耳の聞こえに難がある佳寿子でも、ネット上ではほとんど問題にならない。短いことばをやり取りするだけの相手には、自分が、どこの誰でどんなやつなのかわからないし、名乗る必要もない。
 障害者だとわからない。
 宮野順子の娘だもわからない。
 そうだと説明する必要がない。
 知らない相手と、素の自分が「ふつうに」「気軽に」「ほかのみんなと同じように」つきあうことができるのは、新鮮な体験だった。自由で、楽しくて、めざましかった。
 たとえ、ごく浅い表面的なつきあいだとしても。
 その場かぎりの、共鳴や称賛でも。
 礼儀正しく、立ち入りすぎずに、他人と気持ちを通じるのは、素敵なことだった。
 そういう場所に連れてきてくれた五頭のワイマラナ犬と、オーナーの谷藤夫妻に、佳寿子はいつも感謝の気持ちを持っていた。
 ――と。
 ある時、言われたのだ。

[犬を飼いませんか。東京まで出かける用事があるので、良かったら連れていきます]

 裏山で保護された犬だった。廃屋にもぐりこんで隠れているところへ、ワイマラナ軍団が主人を連れていったんのだ。
 首輪はしておらず、捨て犬か、迷い犬か、どこかを脱走した犬なのか、なんの手掛かりもない。警察と役場に知らせ、近県の猟友会に届け出て、飼い主からの連絡を待ったが、誰も現れなかったのだそうだ。
 メールに貼付された仔犬の画像を見た。
 なんだかクシャクシャした、ぞうきんのような、ごみのかたまりのようなやつだった。
 モップのような毛玉の間に、黒いビー玉みたいな目があって、
 その目が、きらきらだった。
 宇宙みたいだった。

[名前はくろべえです。
 仮の名ですが、奥さんがそう呼んでます。
 たぶん、一歳ちょっと。仔犬から若犬になりかけぐらいの、男の子です]

 欲しい。
 佳寿子は思った。
 この子が欲しい。
 ひそかに思っていた。犬と暮らしてみたいなと。谷藤夫妻のように。ブログで出会ったり垣間見たりしたよそのひとのように。もし、なにか、若い生き物といっしょに生きていくことができたら、なにか、違う世界がひらけるような気がした。
 しかし自分のような(ただでさえハンディキャップをかかえている)ものには無理な、大それた願いなんだろうなと思って、押し殺していた。
 そのことに、自分で気づいたのだった。

 ほかにも欲しがる候補がいるかもしれないと思ったので、大急ぎで返事をかいた。ぜひ、どうか、おねがいします。
 私にください。
 電話ができないのが悔しかった。一刻もはやく伝えたかった。メールはいつ読んでもらえるかわからない。相手次第だから。
 かわいがります。犬のことはよく知らないけど、覚えます。教わって、なんでもちゃんとします。ぜったい、ぜったい大事にしますから。
 黒兵衛ちゃん、私にください。
 母にも相談しなくてはならなかったのではないかと気がついたのは、谷藤氏から、了解の返事をもらってからだった。
 母は絶句した。あっけにとられた。
 犬は好きじゃないのよ。母は言った。きらいだし、怖いの。前に言わなかったかしら?
 でも、ちっちゃなこいぬよ。
 佳寿子はいった。
 ちょっと嘘だったが。母には若犬なんてわからないと思った。
 おかあさんが嫌がったワイマラナじゃないのよ。
 雑種犬なんだって。黒い子。ほら、みて。かわいいわ。
 母は写真をチラッとみると、ブルッと震えた。
 なんだかオオカミみたい。
 獰猛じゃないの。目が怖いわ。何考えてるかわからない。けだものの目。すごい牙だってあるでしょ。噛みつくでしょ。
 血統書つきのシツケのゆきとどいた犬ならまだしも。
 裏山で?
 拾われた?
 もと野良犬?
 問題外のそと。考慮の値なし。あなたにはどう考えてもまったく無理よ。
 ――そんなこと

ない!

 母に楯突くなんて、人生はじまって以来のことだった。反抗期っぽい時期にも、まともに逆らいもしなかった。佳寿子は気持ちをおもてに出さないタイプだし、一時が万事母まかせで、母のほうがえらい母は正しいと、つねに諦めていた。なんでも母に合わせ、母が言うとおりにしたのだ。期待に沿いきれないときももちろんあるが、あからさまな衝突なんか一度もしたことがなかった。
 一生母の言うとおり、母に頼りきりで、判断とか選択とか命令はみんな母のすることで、それでいいのだと思っていた。歯向かうなんて、逆らうなんて、自分にはありえない。できることではない。
 しかし。
 今度ばかりは話が別だった。
 自分でも驚いたが、佳寿子には、引き下るつもりがまったくなかった。
 口では言いかえせないので、文章にした。淡々と。黙々と。ぜったいに譲れない決意と考えを書いた。堂々と。熱情のほとばしるままに。
 長い文章になった。
 プリントアウトしてみたら、びっしりA4で三枚あった。
 活字の羅列を見ただけで、母は目玉を大きくし、それから天井のほうにぐるりとまわした。
 そんなふうに、佳寿子が自分の気持ちをあらわそうとしたのははじめてのことだった。なんとかわかってもらいたかったし、わかってもらわなくてはならないと思った。主張、などということをしたことがなかったので、言いたいことをかたちにするのは難しかった。それでも、なんでも、できるかぎり、頑張った。やりとおさなくてはならなかった。
 おかあさんにはめんどうをかけない。
 わたしが全部ちゃんと世話をする。
 もし、それでも、おかあさんが、どうしてもどうしても、どうしてもいやなら、
 ――家をでます。

「これは脅迫です」
 母は返事に書いてよこした。
「おまえは穏やかに和やかに私を説得しなくてはならないところで、要らぬけんかを売っている。
 おばかさん。
 コミニュケーションの基本がわかっていない。
 ま、つまり、私の教育が悪かったってことですけど。
 第一ね、あなた、この書き方じゃあ、母親と犬の二者択一なら犬を取るからね、と、そういっていることになるでしょ?
 そんなこと言われて、ああ、そうですか、では、負けました、お犬さまといっしょでいいです、って、返事するひとがどこにいますか」
 しかし、母は、譲歩したのだ。
 そうまで思い詰めているなら、しかたがない。おまえの好きになさい。でも、犬はベランダで飼ってちょうだい。わたしのキッチンには近づけないで。

 母娘はどちらもあまり運動神経がよいほうではなかったし、それまでに犬を飼った経験もなかった。過酷な自然をサバイバルしてきたもと野良犬に、かなうわけがなかった。
 雨ざらしのベランダの一角に設置された犬小屋を、黒兵衛はあまりお気に召さなかった。そりゃあそうだろう。空調がきいたキッチンやリビングのほうが、がぜん居心地がよいし、敵(母娘)二名の気配を察知しやすい。
 無理につかまえようとすると巧みに逃げた。抱きとめても、釣った魚みたいに激しく暴れて脱出した。彼が潜伏できる場所は無数にあった。カーテンの陰、段ボールの裏、ベッドの下。まさかのタンスの上。食材の奥底。ここかと思うとまたあちら。たったいまA地点にいたかと思うと、次の瞬間にはもうB地点にいる。
 母娘はこの子は犬に見えるが実は魔物なのではないか悪魔なのではないかとぼやきあった。もしかすると瞬間移動できる能力があるのでは?
 なんとかしてベランダに出すことにたまたま成功した夜、黒兵衛は遠吠えの才能を発揮した。哀れな犬のセレナーデはバリエーションが何種類もあるようだった。佳寿子には聞こえないのが残念だった。ご近所に苦情をいわれる前に母が降参した。
 そもそも、考えてみれば、もしベランダの小屋に住まわせていたとしても、散歩につれだすには、そのたびにどうせ室内をとおって玄関まで連れて行かなくてはならない構造だった。
 室内を御法度にするのは、もともと、無理な計画だったのだ。
 キッチン聖域計画もまったく実現しなかった。
 そこは犬の嗅覚にとってあまりに魅力あふれた場所であって、彼の執着心を断ち切ることはかんたんでないのがあまりにはっきりしていた。
 母親はドライで現実的な性格だったので、これもあっさり認めて譲歩した。この子がキッチンにいたいなら、わかった、いいわ。そうさせてあげる。でも和室はだめ。寝室もいや。
 それと、トイレのしつけをちゃんとしてね。
 たしかに畳は犬が走るといたむだろう。どうせほとんど使っていない。四畳半の小あがりで、壁際の押し入れにたどりつくための通路でしかない。押し入れには、引き出物や到来品の箱や来客布団などなどふだんは用のないものがしまってあるだけなのだから。かくて和室は密室となった。あけはなたれていたふすまをたてて、ないことになった。リビングは少々手狭になった。
 谷藤氏の助言によって、ベランダの一角、犬小屋の横に、トイレを設置した。基本的には散歩に出かけたときに、外で排泄させたいところだが、がまんしすぎるのも身体によくないからである。ベランダに至るガラス戸の一部にしかけをはめ、自分で押してあけて通ることができるようにした。黒兵衛は、まるで最初からすべてお見通しだったように、たくみにしかけを操作し、行って用をたした。用をたすときには、なにか哲学的なことでも考えているような顔つきになる。そして、さっさと室内に戻ってきた。
 黒兵衛は用心深かった。
 やすやすとは気を許さなかった。
 だが、やがて、いつも佳寿子のそばにいるようになった。見えない牽き綱があるように、室内でも、佳寿子が動くといっしょに動き、佳寿子が座るとそばに腰をおろした。
 疑って見張っていたのかもしれないし、甘ったれだったのかもしれないし、もしかすると、ずっと不安をひきずっていたのかもしれない。また捨てられてひとりぼっちになることを? 遠くへ車で運ばれることを? 山で自活していかなくてはならないことを? 犬にそんな思惑があるものだろうか。過去のトラウマがあるものだろうか。
 ともかく黒兵衛は家じゅうどこでも佳寿子のあとをついて歩き、でかい図体で、ちょこまかまとわりついた。あまりくっついているものだから、ときどき佳寿子は黒兵衛にブロックされてつまづいた。敵の足先を踏んでしまうこともあった。それでスリッパをやめにした。踏まれても、追い払われても、黒兵衛は懲りずについてあるいた。トイレにはいっている間さえ、見失うことが耐えられないのか、ドアの下の隙間から鼻面をつっこんだ。ほんとうにそこにいるのを、確かめたがっているかのように。
 佳寿子は黒兵衛の捕虜だった。
 監視対象だった。
 軟禁されているようだった。
 黒兵衛がぐっすり眠っている時やうっかりなにかに気がそれている隙に、佳寿子がたまさか大きく居場所をかえることがあると、見失って、狼狽した。面食った。母がいうには、そういう時、彼は、なんとも哀れを催す声で嘆きの歌を歌うそうだ。
 だが、賢い黒兵衛は、やがて佳寿子は耳がうまく機能していないのだということを理解したようだった。吠えてうったえても意味がないことを悟った。それから、知らせたいことがあったり、一刻もはやく注意をひきたい時には、他の手段をとるようになった。ちょっと前肢をかけたり、服の端を噛んで軽く引っ張ったりするようになったのだ。
 驚いたわ。母は言った。
 あなたは、いい耳を手にいれたのね。
 鼻もね、と佳寿子は思った。
 突然手や頬にぴとっとくっつく、冷たく濡れた鼻。
 もしもし。
 雄弁な鼻はささやくのだった。
 ちょっと僕のほうを向いてくれるひまはありませんか?

 寝室不可侵条約も、まぽろしに終わった。
 寝室には絶対にいれないで、いれちゃだめ。何度も母はいった。
 そうできるならそうするけれど、娘はかえした。でも、調べてみたの。犬は群れで暮らす動物だから、家族のそばにいたがる、それがあたりまえなんですって。寝室にきたがるのは、黒兵衛が、おかあさんとわたしを自分の家族だと思ったからだわ。それをゆるさないなんて、一種の動物虐待なんじゃないかしら。
 じゃあ、じゃあ、じゃあ、ええい、そんなら、いれてもいいけど、でも、ベッドの上はやめて! と母はいった。ふとんはだめ。汚されたくない。クリーニング代で破産する。
 寝室の床のよさげな場所に素敵なラグマットを置いてやった。最初はそれですむと思っていた。ひとつのベッドで眠るつもりではなかったのだ。犬は床にいるものだろう、と思っていた。それで満足するのだろうと。
 もしベッドに乗っているところを見つけたら、発見ししだい、厳しい顔をし、だめだめとジェスチャーで叱り、降ろした。決然と。
 母が見つけた場合には、憤怒の形相で金切り声をあげ、持っているものをぶつけたり(コントロールが悪いのであたらない)、なにかを激しくふりまわしたりした。
 黒兵衛は、すなおにおりた。すまなそうな顔すらしてみせた。こそこそ遠くに逃げ出しもした。節分にマメをぶつけられた鬼のように。
 ――シジュホスだった。
 黒兵衛はこれを一種のゲームと見なしたらしい。どちらのチームがよりうまく相手をだしぬくか、一日に何回得点できるか。オフォンスは一瞬の隙を突けば勝ち。ディフェンスは一瞬でも隙をみせたらアウトだ。試合時間が無制限であるなら、攻撃側がだんぜん有利だし、やっていて楽しいに違いなかった。
 叱ってやめさせるのが億劫になり、いちいち押して落とすのも重たくなり、寝返りをうとうとした時にうっかり蹴ってしまっても、もうどうでもいいやと諦めた。ふとんの中までは、はいってこない。
 はじめは遠慮して足元のほうにうずくまっていたのが、だんだん、大胆な場所をしめるようになった。顔と顔が見つめあえる位置にあがってきて、図々しくすっかりリラックスした。大きな図体を大胆なポーズにゆるめて寝るのである。いっちょ前に枕の端のほうに頭をのせて、満足気に鼻の穴をうごめかしていたりする。 
 分厚くて専門店でしかクリーニングできない刺繍の細かなベッドスプレッドを、洗濯機で洗えるマルチラグに取り替えるほうが利口だった。ベッドカバーを、ちょっと頻繁に洗濯すればいいだけ。犬は洗濯機では洗えないけれど、カバーなら洗える。
 寝室はひとつだった。母娘は隣り合わせに、それぞれクイーンサイズのベッドに寝ていた。本気でいやがられたせいか、香水がきらいだったのか、黒兵衛は、母のほうには近づかない。あくまで佳寿子のそばにいる。
 亭主でももらっちゃったみたい、と佳寿子は思っていた。いまさら、この歳になって。ずいぶん毛深い旦那さまだけど。
 散歩以外、一日の大半を部屋の中ですごす。ベッドカバーやソファや絨毯などに、からだをこすりつける。家じゅうに犬毛が飛んだ。持って生まれた天然毛皮をそうしていつもピカピカに磨いて、黒兵衛はますますみごとに真っ黒になった。真っ黒くろのツヤツヤで、王さまのマントのようにゴージャスだ。
 もうオオカミには見えない。
 ちいちゃい子でも安心して撫でられる、おおきいけどやさしいわんちゃん。

 母が死に、母のベッドを使うひとがいなくなった時、佳寿子は、ベッドふたつをぴったりくっつけることにした。大きな大きな、縦より横のほうがずっと長いベッドができた。
 どこでもごろごろ好きに使えばいいのだが、いつも(お互いあまり近くにいるのがいやなぐらいの熱帯夜以外は)もとから佳寿子の側だったサイドに、くっついて眠った。どちらからでも手をのばせば、すぐ届くところに。
おおきな頭は抱き寄せるといい具合に腕になじんだ。
 漆黒の毛に顔をうめると、埃っぽく、くすぐったい、お陽さまの匂いがした。
 横向きにさせて背中を引き寄せて、スプーンを重ねるようなかっこうになる。ずっしりとした黒兵衛の存在感が、なんとも頼もしかった。ぬいぐるみではないその重み。生きて動く抱き枕。
 自分を、この世に、世界に、つなぎとめておいてくれる重力だった。
 抱けば手は犬の腹に触れる。毛が薄くてピンクに透ける腹の皮膚。急所だ。妙に無防備で、しっとり湿ってあたたかい。オスにだって乳首がある。六つだか八つだかある。ちいさなイボのようなでっぱりが、哺乳類の証拠。
呼吸ひとつごとにふくらんだりしぼんだりする内臓を、おたがい、皮膚一枚へだてて重ね合わせている。
 いのちは精密にできている。
 いのちははかなくできている。

 だまされたみたいに思うのは間違ってる、と佳寿子は思う。
 もともと永遠なんてないのだ。はじめからないのだ。
 必ずいつか別れるさだめだった。
 母とも。黒兵衛とも。
 誰だってみんな、いなくなるのがあたりまえなのだ。
 ひとりぼっちが、あたりまえなのだ。
 なら、なぜ、こんな喪失感を味わうのだろう?
 こんな気持ちになるぐらいなら、好きにならないほうがましだったかもしれないなんて、そんなことは、思ってはいけない。

       ☆

 退院する日が来た。
 用が済んだものはおりおり小まめに持ちかえって、せっせと片づけていたはずなのだが、いざ引き払うとなるとおおごとだった。最後に残っていた分だけでも、けっこうな大荷物になった。
 智美は妊婦。幸太は怪我あがり。
 ギプスは簡単なものになった。メッシュなネットを固めて副木にしたのを包帯を巻いてとめるスタイルで、軽くてじゃまにならないし、風呂にもはいりやすい。それでも、まだ利き手を三角巾で吊っているのは、こじれるとやっかいだからだ。
 つまり動かせない。
 結局のところ、母の奈々が、旅行鞄や紙袋をいくつも重ねて腕にはめ、玄関と病室を往復することになった。
 看護士さんや理学療法士さんが何人も来て、別れを惜しんでくれた。
 合間に、幸太はイヤカフとピアスをはめた。智美に頼むのはいやだったので、三角巾から出して、こっそり右手をつかった。
 よっしゃー! ばっちりだぜ! 
 ほったらかしの髪は伸びすぎで、もう黒いほうがだんぜん多い。前髪が長すぎて、目にかかる。ま、これはこれでいいかも。いっそ、メッシュでもいれてみようか。

 荷物をトランクにおしこめ、嫁と母が後部座席に、幸太が助手席に乗り込んで、タクシーが走り出した。
「あー。ようやく退院だ。うわー! おおお、町だー!」
 幸太は景色に興奮した。
 ひさしぶりのシャバ。
 目にはいるもの、みな愛しい。
 なかでも特に電柱が。電柱がかわいくてたまらない。
 次々に来ては去っていくたくさんの電柱。それぞれに個性的でありつつ、でも、しっかりと電柱である電柱。
「わぁ、電柱! 電柱電柱! 電柱だー! 電柱がいっぱいある~! うほほーい」
 なぜ電柱を見るとそんなに嬉しいのか。胸がはずむのか。幸太自身にもさっぱりわからない。そしてその感覚がどうも変だという自覚もない。
「今晩、何食べるー?」
 そんなことにはまるで知らない気がつかない智美が訊ねた。
「あたし、丸勝で降りて買い物していこうかな」
「なに食べたいか? そりゃ肉だ。肉でしょう。やっぱ。焼き肉!」
 幸太は電柱から目をもぎはなして、妻を振り返った。
「だんぜん焼き肉。ぜったい焼き肉。お願い焼き肉。ありがと焼き肉! カルビにミノにロースにタン。うわ、食いてーーー! 超食いてー! よだれでてきた。今晩なんて殺生なこと言わないで、いま行こう、すぐ行こう、このまま、行こう行こういこうワオーン!」
「いっスねぇ」
 焼き肉好きらしい運転手さんがつられて舌なめずりをしたが、
「えー」智美は顔をしかめた。「やきにくぅ?」
「なんで。いいじゃん。トモだって好きだろ。快復中の俺のからだが、熱烈にタンパク質を要求してるんだぜ。肉体疲労時の栄養補給だぜ!」
「だって、あたし、飲めないしぃ」智美は口をとがらせる。「焼き肉屋さんに行くのに、ビールなし、悔しいし~? 第一、トランクにぎっしり詰まってる退院荷物。どうすんのよ?」
「牛角にふたりで行って、先に食べてて」奈々が言った。「あたし、荷物を置きにいく。あとで合流する。お財布もって」
「あ、え? あら、でも、そんな、おかあさん」智美は声音をかえた。「それじゃ、あんまり申し訳ないですう」
「いいのいいの」奈々は笑った。「おめでたい退院の日だし。遠慮しないで」

 午後二時すぎの焼き肉店は、妙にぽかんと空いていた。ランチタイムの混雑が一段落して、店員さんたちもホッと一息。空気にこもった匂いと熱気と、テーブルごとにうずたかく残された誰かの食事の痕跡が、兵どもが夢のあと、だ。
 いちばん奥の、堀り炬燵式の座敷にあがらせてもらった。
 智美は腹がテーブルにツッカエないポジションをさがしてもぞもぞする。
「ランチ、まだいいっスか?」
 さっそくメニューを開きながら、幸太が訊く。
「はい、だいじょうぶです」店員が答える。「二時半が、ラストオーダーになります」
「やた。ねー、じゃ、この『ご機嫌セット』どう? お得だしー? ちょっとゼイタク?」
「お金は平気。おかあさんおごってくれるって」
 差し出されたメニューをイヤそうにおいやり、遠ざけて、智美は、壁によりかかった。眉間に皺がきざまれている。顔色は灰色っぽい。
「気分悪いの」
「……ん……」
「赤んぼ?」
「そ」
 他になにがあるっての? 余裕のないトモミの表情は、ちょっと凶暴だ。
「ここ、くさい。空気悪い」
「えー? あっ、ちょっ。だめだよ。そんなこと言って。店員さん聞いたら怒るっしょ。そんなことないよー、俺には、ちょーいい匂いだよー!」
「……(あんたはいいわね的な目つき)……」
「……痛いの?」
「痛くはないの。つらいだけ。へんな感じで、苦しいだけ。別にたいしたことないんだよ! こんなの。陣痛なんか、もっともっとすごいんだって!」
 攻撃的に、自棄っぱちのように言う。からだは壁ぞいにずり落ちて、もうほとんど仰向けだ。
「たたた、うう、ああ、やだ。ごめん……ちょっと、いまだめ。……悪いけど、しばらくかまわないで。ほっといて……ああ、うう」
「あのさ……」
「話しかけないでッたら!」
 幸太はピシャリと拒絶しておいて、
「はーい。だめだからね~。まだだよー、ベビベビ、いまはやめてねー、だめだからね~、まだはやいからねー」
 お腹の子と話している。
「お願いだから、いい子にして。おとなしくしてよ。おかあさんいじめないで……ふーう。ふーう」
 優しい声でいって、ふくれた腹の底のほうにむくんだ手をあてがっている。
 冷や汗の浮いた額がテカっていて、熱っぽく赤い目がうつろで、すごく苦しくてつらそうで気の毒だが、はっきりいって、かなりブスである。
 化粧もしてない。汗でとれちゃったのか。もともとする余裕がないのか。眉もまつげもない顔は、知らない誰かみたいだ。
 腹はいまにも破裂しそうだし、姿勢は昼寝中のトドみたいだし、脚なんかムクんじゃってありえないほどぶっとい。
 目のやり場に困る。
 つらそうなひとを見るのは苦手だ。まして愛する妻がつらいところなんて。自分が痛い目にあうほうがマシ。
 ていうか、俺だって、ひとに同情してもらっていいはずの立場じゃねぇ? 
 全治二カ月。退院したて。もうちょっとで死んでたかもしれない身の上。
はい。そうです。わたしが、悲劇の主人公です!
 なのに。
――なんだよ。
 別に。トモは、わざと意地悪してるわけじゃないと思う。俺のこと気づかってくれる余裕がないぐらい、ほんとにつらいだけだ。なにも、先回りして具合悪くなってみせたわけじゃない。わざと同情ひいてるわけじゃない。
けど。
 なにも、このタイミングで、そんなに具合悪くならなくてもいいのに。
 あんたなんかより、こっちのほうがずっと大変なのよって、クギ刺されたみたいだ。
 イヤミじゃなくて、芝居じゃなくて、ほんとに具合悪い、わかってるけど。
 あー。おふくろ。なにしてんだ。はやくこないかな。
 もてあまして、無意識にシャツのポケットをさぐって、煙草のパックをひっぱり出した。一本抜いてヒョイとくわえ、殺気を感じてふりむいた。
智美が見てる。
 信じられないものを見る目で。
 そりゃそうだ。ここで吸うわけにはいかない。妊婦の前で。汗かいてふーふーうなってるヨメの鼻先で。腹の子のそばで。そりゃあ、タバコなんか、吸えません。
 そうでなくても、店内禁煙かも。
 なんというか――いろんなことが「うまくかみあってない」感じがする。
大好きなはずの焼き肉屋に来たがらなかったトモミ。なんだよ、ノリ悪いなぁって思ったけど。
 かわっちまったのか。知らないうちに。俺のヨメって立場から、赤ん坊のママって立場に。もうすぐそっちに完璧なっちまう。なっちまったら、たぶん、二度ともどらない。
 赤ん坊なんてふつうだと思ってた。そこらじゅうのカップルがあたりまえに赤ん坊つくる。タフな女の人は、産む直前までガンガン働いてたりする。
 智美は弱虫なのか? 甘ったれなのか。妊娠にむかない女なのか。
 タクシー乗る前からやたら不機嫌だった。そんなつらいなら、はやくウチにかえって、横になりゃいいんだ。
 てか、待て。俺がじゃましたのか。焼き肉いこうとか無理いって。
 だったらさあ、でもさあ!
 言ってくれよ。わかるように。そんなのやだって。ぜったいだめって。
 はっきり言ってくれないとわかんない。言わずにわかれとか、無理。
 ああ。ほんと、すまないけど。その顔。信じられねーほどブスい。
よく奥さんの妊娠中に旦那が浮気って話をきく。それひどいだろ、ひととしてどうだ、と、思ってたけど。あれにはこういう理由があったのか。いまならわかる。そういう気持ち。ものすごくわかる。わかりすぎちゃう。
ああ、もう!
 タバコ、吸いてぇ。
「悪り。ちっと、出てくっから」

 スニーカーの踵を踏んでズルズル歩いて、焼き肉屋の入り口にたどりつく。レジのあたりにいた店員に、ちょっとコレ、と煙草を持ち上げてみせて、外に出る。
 駅前までつづく通りに面した商店街。
 事故の前とくらべても特になにも変わらない。どこも違わない。いつものとおりだ。あたりまえだ、入院してから退院するまで、そう何カ月もごぶさたしていたわけではない。
 でも、
 あー。
 いいな。好きだ。この町。
 ホッとする。
 タバコに火をつけ、吸いこむ。ふかす。
 右手は三角巾だから左手をジーンズのポケットにつっこんで、空をみあげる。もちろんビルと電線だらけだ。狭くジグザグに切り抜かれた青。典型的な都会の空。たなびくたばこの煙に目を細めながら、風を感じる。みみもとでチャリとかすかに鳴るイヤカフとピアスをつないだ鎖の音を、楽しむ。
 あー。わー。娑婆だわ。
 かえってきたー。
 ご生還!
 俺は、この町に、もどってきた。ごっつ、いい気分だ。

 なんてことない町だ。
 たぶん、なんの思い入れもないひとが見たら、どこがいいのかわからない、ありがちのふつうの町だろう。
 でもその全体に、なんというか、「俺の町」らしさがある。
 雑多な種類の店舗や事務所が三階建てぐらいの小さなビルになってひしめきあっている。商売を守り、テナントをいれ、ご近所の用を足している。銀行、コンビニ、酒屋にラーメン屋、薬屋、時計屋、ペットの病院。ホテルにパン屋、貸しビデオ屋、松屋に大戸やに、ロイヤルホストに、ケンタにマック、はいったことないお高いチョコ屋、気取った花屋と、フレッシュネスバーガー。古いものと新しいもの、残っているものと入ってきたばかりのものが、ごっちゃに順不同に同居している。百円均一の雑貨屋やブックオフがあるかと思うと、老舗の和菓子屋とか、謎の和服屋とか、日本刀や甲冑をかざった骨董屋なんかまでさりげなくあったりする。ちょっと前までそこの角には画廊兼画材用具屋があった。プロっぽい絵の具のチューブがたくさん並んでるのとか、好きだった。あの店がなくなって、寂しい。
 幸太はタバコをつまんでくわえなおした。右手を三角巾にもどしなおし、左手をもう一度ポケットにつっこむ。手をつかわずに、歯とくちびるの動きだけで、たばこをずらし、煙を吐きだす。
 そうしながら、道のあっちこっちを眺める。
 このあたりはぜんぶ、ナワバリだ。肌になじんだ、自分の場所だ。
 勤務先の末吉建設は、道路のあっち側にある。電気屋の角をまがってむこうにちょっとはいっていったほうだ。
 そっちの狭い通りを曲がっておれて、ちょっといった先には、昔住んでいた家があった。公園の横、ふるーいふるーい、ほとんどお化け屋敷みたいなおんぼろ公団がかつてあった。その一階のすみっこが、育った家だ。なつかしいなつかしい、いまはない家。
 古くなりすぎて、取り壊されて、整備されて、跡地が公園の一部になった。

 幸太はこれまでに七回家出をしたことがある。
 記念すべき第一回は小学二年生の夏。とにかくどこまでも行ってみようとひたすら自転車をこいだ。家に帰りたくない気持ちが底のほうにあったけれど、それをまっすぐ見つめるのはつらいから、とにかく、ここじゃないどこかに、なるべく遠くまで行ってみようとした。行ってみたかったんだ。聞かれればそう答える用意もできていた。
 夕暮れ、知らない町の狭い坂道で、ダンプに幅寄せされて、ビビッて側溝に落ちた。
 よそのおとなは親切だ。こどもが、すりむいた膝っ小僧をこすりながら座り込んでいると、どうした、大丈夫かって、声をかけてくれた。チェーンがとれた自転車は軽トラの荷台にのせて運んでくれたし、おまわりさんは新発売のカップ麺を食べさせてくれた。
 大声でののしり合ってモノを投げ合っていた両親がそろって迎えにきてくれて、おまわりさんにアタマをさげてくれた。叱られるかと思ったけれど、殴られるかもとも思ったけれど、ふたりはやけに優しくて、シオラシイ感じだった。反省したようだった。小さな子に苦労をかけるような親でいてはいけないと。しばらくは、親も仲良しで、いつになくお互いに親切だった。
味をしめた。家出には良い思い出ばかりがある。イヤなことは瞬時に忘れるからかもしれないが。
 なかでも良いのは「帰る」ことだ。
 家に帰ること。
 自分のナワバリに、町に帰ること。
 中学生ともなると幸太の背はひょろひょろ伸びた。あれよあれよという間に父より大きくなってしまった。すると、父の身勝手さやふがいなさが目につくようになった。親父のシャツとか靴下が、やたら不潔なものに見えた。
そうでなくても狭い公団。
 息がつまる。
 親同士がけんかをすればなおさらだ。
 やれやれ。またか。そろそろ潮時か。いつでも準備はできている。
 思い立ったら家出する。
 失踪者にしてはノンキな顔つきだからか、年齢のわりにおとなっぽい見た目だったからか、幸太はよく自分さがし旅行中の青年と間違われた。モラトリアムという言葉を誰かに教わっておぼえた。どうもそれだと言われがちなのだ。わざと装ったり、だますのではなく、相手が勝手に誤解する。
 よそのおとなは旅行者に親切だ。自分探し中の若者に親切だ。おとなしくて、人好きのする笑顔で、礼儀正しくて、お金がなくて、みるからに助けを必要としている若者には、特に親切だ。
 嘘はつかなかったけれど言わなくてもいいことは口にしないことを覚えた。勘違いされても都合いい勘違いだったら、訂正しない。
 すると、だいたい、うまくいった。あったばかりのひとに泊めてもらったり、ごはんをおごってもらったり、車に乗せてもらったり、面倒をみてくれそうなひとにつないでもらったりするのである。
 あちこちで、いろんなひとに親切にしてもらった。
 家出少年だと見抜かれて通報されるまで。
 知らない土地を見て歩いた。楽しかった。
 ほとけの顔もなんとやら。愉快な家出も頻発すると、だんだん効力が発揮できなくなる。何度もくりかえすうちに、親もあきれ、慣れ、ぜんぜん心配してくれなくなる。
 幸太の年齢もあがった。次にやったらもう知らないから、迎えには行かないからね。冷たく宣言されるようになった。それでも成功体験は忘れられず、「あー、なんか、どっか行きてえな」思いつくとプラッと出てしまうことがあった。後先考えずに。
 迎えに来ない母も、帰ってくるなとは言わない。
 後から思えば、信じられないほどラッキーだった。後に知り合ったひとにもしみじみそう言われたし、自分でもふりかえってみるとゾッとした。どんな危険な目にあっていても不思議じゃなかったし、どんな悪いやつに捕まっていても逃げ場がなかった。
 しかし、怖いもの知らず。
 なにも疑わず、なにも起こらなかった。
 何度かそんなことをしているうちに、いつだったか、海にたどりついたことがある。そうだ漁師になろう、遠洋漁業に出れば外国にもいける、さすがの母も心配するだろう、ざまあみろ、と思ったのだが、漁船は酔ってだめだった。
 小さな温泉街でバイトしていたら中居さんに気にいられたこともある。女に食わせてもらってる男ばかりが吹きだまるスナックがあり、恐ろく居心地がよかった。俺もヒモになっちゃうおうかな、と思っていると、賭けだか浮気だかがこじれて揉めて大乱闘になり、巻き込まれ、補導されて、身元がばれた。
 この時、母は迎えにきてくれなかった。施設にはいるか、工務店で見習いとして働くかを選べと言われた。
 末吉建設は民生委員兼任の親父さんが三代めの地元企業で、昭和の昔に栄えた男子寮をもっており、素行の悪い少年が集団生活をしながら大工仕事を教わることができる。
 「家」を作る現場は面白かった。図面を引き、整地し、足場を組み、コンクリを流す。さまざまな分野のプロたちが結集し、またバラけていく。材木を組み合わせ、屋根をかける。断熱材や外壁材をスポスポはめる。石をつみ、レンガをならべる。ガラスをはめる。
 建築は特大の工作だ。腕のいい大工は、化粧パネルで隠してしまうような場所にも、きれいな誇り高い仕事をした。たくましくて寡黙な男たち。分厚いからだ。皺のかたちに日焼けした顔。幸太の胸ぐらいまでしか背のないじーさんが、めっちゃ重い材をなにげにかついで、高い狭い足場をすたすた歩く。
 角度、平行、割合、勾配。そこで使われていたのは、算数で、物理で、美術だった。聞き流してきたこと、読まずに捨てた教科書を、はじめて後悔した。
 勉強しておけばよかった。
 計算ができないと、理屈がわからない。ちゃんと設計して組まないと、かたちはゆがむ。柱がたたない。ドアがあかない。住めない家になる。
 設計図がひけるって超かっこいいなぁ、と、幸太は思った。ひとんちデザインして、建てて遊んだら、楽しそうだな。何級建築士とかになるには、どうすればいいんだろう? どういう進路があるのだろう。自分のアタマでも、いまからでもまだなんとかなるのだろうか。学費もかかっちゃうよな。
 相談しようと覚悟をきめて連絡をとってみたら、父がいなくなっていた。死んだそうだ。ひさしぶりにあった母をおずおずとハグしてみたらなんだかやけに痩せていて、しげしげ顔をみれば、ずいぶん婆さんになっていた。
 甘えたことを言いだせる雰囲気ではなくなって、末吉建設でバイトをしながら定時制をやってみることにした。高校に行かなくても良かったのだが、親父さんがそれぐらいは出ておけというし、「勉強しておけばよかった」とついさっき思い知ったばかりだったので。
 自分からすすんで行ってみた学びの場は、ありがたく、めぐまれていて、授業も面白かった。「せんせい」は、こわいひと、えらいひと、わけのわからないことをいっておさえつけてくるイヤなやつではなくて、「聞けばなんでも相談にのってくれるひと」「いろんなことを教えてくれるひと」だった。
 教えてもらっても、できるとは限らない。勉強も、実作業も。ためし、失敗し、コツをつかみ、わかったと思うが、それじゃまだ通用しない。だめだ、違うと言われる。辛抱強く続けていれば少しはなにかが少しはわかってくる。いつの間にか覚えていて自分でびっくりしたりする。慣れれば手ばやくなり、同じ時間にたくさんのことがこなせるようになる。時間にゆとりがあると、じっくり考えて取り組めるようになる。
 なにかひとつのことがデキるようになると、もっといろんなことをやってみたくなる。いっしょうけんめいやってみたくなる。幸太はいろいろな免許や資格をとった。
 末吉建設の寮には若い子が何人も来て去った。親父さんが身元引受人になるからだ。不良少年。非行少年。学校にいけない子。親に捨てられた子。どんな子もこばまない。こばまないが深入りはしない。自分で自分をどうにかする気にならないかぎり、どうにもならない。
 可愛がっていた後輩が急に消えてしまったこともある。誰かとある程度以上仲良くなると、それが逆にプレッシャーになりストレスになって、いたたまれなくなるという、なんとも気の毒でめんどくさいやつだった。
 目をかけた後輩が逮捕されたこともある。ダークなひとりごとを言わずにいられないやつで、通りすがりのサラリーマンに誤解され、ボコられそうになって反撃したら相手が弱すぎた。
 そんなこんなの暮らしのどこかで、智美に出会った。カラオケ屋で、誰かのこどもの誕生日会かなんか。智美はべろんべろんに酔っていた。吐くまで飲まないと飲んだ気がしないやつの飲み方で、家が最悪だったころの母親に似ていないこともなかった。
 なにしてんだおまえ、もうちょっと自分をダイジにしな、みたいなことを言ったら、自分なんて少しもダイジじゃないもん、と不貞腐れた。聞けば、上に姉がいて下に双子がいて、父が病弱で入退院のくりかえしで、母はいくつも仕事をカケモチでやつれてくたびれていて家族の生活を誰かがまわさなきゃならないから姉さんが子どものころからずっとがんばってるけど自分はこの姉が苦手でうまくいかなくて叱られてばかりで、とかなんとか。
 ほっとけなくなった。
 その家からひっぱりだしてやろうと思った。
 しかし末吉建設の寮は男子オンリー。女の子をかくまったりしたら追い出されるに決まっている。部屋を借りようにも甲斐性がない。そもそもこの町が好きだ。離れたくない。どこか郊外の家賃相場の安いところに住むか。通勤か。そのぐらいなら、職場をかえるか。バイトをさがすか。
 どうしよう、どうしたらいいか、なにならできるか、考えているうちに月日は流れ、気がつけば智美の腹が大きくなっていた。
 待ったなし。
 頼るは実家。
 行ってみると、なんと懐かしの公団がなくなって立派な公園になっていて、母は近所の別のアパートに引っ越していた。前の家よりは広かった。二部屋風呂付き。寮まで徒歩七分。願ってもない充分な環境。
 幸太は頭をさげた。すまん、こいつがこんななんで、同居させてくれ。部屋のすみっこを貸してくれ。月々、家賃をいれるから。できるだけはやく独立するから。
 奈々は意外そうな顔もせず、入籍はしたの、とたずねた。できたら結婚式はしたほうがいいよ。ウェディングドレスを着て写真撮るだけでも。女の子にとっては、大事なことなんだから。ああ、そう。赤ちゃんが生まれてから抱っこしての写真でも、いいね。
 ここまでの人生に立ち向かわなければならないことをいくつもウワバミのように飲み下して消化してきた母は、こまかなことを聞かず、なにごとも根にもたない。太っ腹なタイプだ。仕事は保母だからこどもにも妊婦にも慣れている。
 実に頼りになる。
 おかげさまで、助かる。
 まったく頭があがらない。
 いつかは恩返ししなきゃ親孝行しなきゃとアタマでは思っているのだが、そういえば家賃のこともいつしかすっかり忘れている。

 

 花の植えられたブロック。歩道を走るおばちゃん自転車。ハザードを出して停車中の運送トラック。横をぎりぎり擦り抜けていくピザの配達。
 いつもながらの光景。
 見慣れたそれらが愛しくて、なんだかいやに嬉しくて、鼻の奥がツンとしてくるのは、もしかして、死にかけたからだろうか?
 俺はラッキーな男だ。
 母親にも、ヨメにも、めぐまれてる。
 俺は俺が好きだし、ここが好きだ。この町が。
 ここは俺の町だ。
 駅前通りは信号が少なくて、歩行者にしてみれば、横断できる箇所があんまりない。自動車はたくさん通る。スムーズに流れる。だから、わりとスピードを出しがちになる。せっかくの流れを途切れさせないように。うっかりいったん減速すると、曲がるやつや脇道からの流入のせいで一回の青信号で脱出できる台数が少なくなり、後続にうんざり舌打ちされたり、フォーンをならされたりする。だから、なるべく止まりたくない。
 曲がる先にも横断歩道があり歩行者がトロトロ歩いていたりするが、勢いよくまがれば、そっちがどく。信号の黄色の変わり端、突っ切る意志を示して運転者はさらにスピードをあげる。俺だってそうするし、ここらの道に慣れたやつならきっとそうするし、プロのドライバーは忙しいから迷わずそうする。
 で、事故る。
 たまに。
 例の大破したコンビニは、変形ぎみの交差点の頂点、緩いカーブの外側にあった。事故の起こりやすいロケーションだ。あんなひどいのは今度がはじめてだったが、そこそこの物損には何度もあっていた。ガードレールがへこむぐらいの事故は数えきれない、と、コンビニのひとが言っていたそうだ。
 ちりんちりん。
 通りすがりの自転車にベルを鳴らされて、ちょっとよけた時、ふと見えた。
 道の向かいに。そのひとが。
 八百屋というか花屋というか雑貨屋というべきか判然としない店に、知っている顔がいた。
 籠もりの桃を指さしている。店のひとが、袋を出して品物をいれはじめた。
 あのひとだ。
 あのひとがいる。
 笑っている。

 タバコが落ちた。

 走り出そうとして、つっかけただけのスニーカーがすっぽ抜けて、転んだ。立ち上がろうとしたのだが、利き手がギブスで三角巾。あわてて余計にバランスをくずしてもがくうちに、顎をコンクリでざりざりすりむいた。それでも起きようとした。また転んだ。
 どうしたの、あなた、大丈夫? 通りすがりのお婆さんが心配そうに言う。
 すません、急ぐんで。
 口走り、ぺこぺこ謝り、不器用にお辞儀をして、もう一度起き上がる。ギブスがどこかにひっかかり、モタついたが、こんどこそ、なんとか起き上がり、走れる態勢になった。
 猛ダッシュ。
 靴が、片方ないのに。
 走るうちにもうひとつもあっけなく脱げて、両足裸足になった。三角巾も無意識のうちにむしり取り、ほうりだす。ギブスの腕を大きく振った。
 捨てた布が、走ってきたクルマのボンネットに弾かれた。
 耳をつんざくフォーン。急停車のブレーキ音。バカ野郎。なにしてんだ! 気ィつけろ! 怒鳴り声。
 たまたまその場に行き会ったきれいな服のおかあさんはハイソな制服の園児を繋いでいた手にギュッと力をこめて、ごらんなさい、真似しちゃダメよ。あんなおにいさんになっちゃダメ。ほら、あのひと、お怪我をしてるでしょう。おばかさんにはばちがあたるんです。ハイソな幼稚園のこどもはおじけづいて、ブルッと震える。
 すっぽぬけた靴はその間にはじかれて、車道の中央付近に飛んだ。何台ものくるまに次々に轢かれ、みるみる潰れ、ぺしゃんこの残骸になる。すっ飛んでいくそれに、通りすがりのよその犬がビックリしてワンワン吠える。

 宮野佳寿子は桃の代金の釣り銭をうけとって歩きだした。
 停車していた佐川急便のトラックが発進して、その姿を隠す。
 車列のかげで見えなくなり、車の群れが途切れると、また見える。
見失わないようにするためには、とにかく必死に追いかけなければならない。
 飛び出す。怒鳴られる。何台ものくるまが怒りをあらわにする。急ブレーキの音をさせ、窓をあけて怒鳴る。信号でもなんでもないところに、不規則な停滞が生ずる。
 なにか事故でもあったのだろうか、舗道のひとびとが顔をあげる。店先で立ち話をしていた婦人たちは、つないだこどもの手をギュッと握りしめる。
行き交うひと。自転車。車。あっちにいく、こっちにくる。たくさんの方向。それぞれの用事。見知らぬ大勢の通りすがり。
 いつもの町。
 特別なことなどなにもない日常の風景を、宮野佳寿子の横顔が遠ざかる。人垣の向こう。見えたり見えなくなったりしながら。
 ああ。みえなくなっちゃう。
 それでもまだ、かすかにみえる。がんばって走れば、たぶんなんとかなる、追いつけるぐらいの遠さ。
 だから、
 走る。ひたすら。まっすぐ走る。ハダシで走る。
 擦れ違うひとに肩がぶつかり、並んでおしゃべりしながら歩いていたひとたちの間に割ってはいる。なにすんの。ちょっと。文句を言われても、とまらない。走りつづける。追い抜きざま爺さんの自転車に触ってしまってなにするんだきみ危ないじゃないかと怒鳴られた。ごめんなさい、すみません、通してください。どいてください。つぶやきながら、謝りながら、走る。走る。走る。おいかける。
 ひとをおしのけ、けんめいに。
 なのに、距離が縮まらない。はかどらない。
 人気ラーメン店の順番待ちの列に並んでいるひとの頭ごしに、彼女が道を横断するのが見えた。青信号をゆっくり渡っていく。
 ええっ、そうなのか! マジで! うそだろ!
 がっかりした。
 だったら、最初に、無理に渡ったりしないで、そのままあっち側にいればよかったのだ。ああー。失敗した。
 気落ちしたとたん、いま彼女の渡った歩行者用信号が点滅をはじめた。ここで引き離されたら見失ってしまう。赤になれば、そう簡単には変わらない。
 思わず無茶をした。ガードレールを飛び越えた。横断歩道でもなんでもないところを斜めにつっきった。車の間をうまくぬった。つもりだった。間に合わなかった。
 もう信号がかわっていた。たくさんの自動車が殺到してきた。フォーン。ブレーキ。怒鳴るひと。罵声。悲鳴。目の前をふさぐ風と金属の壁。

 ――ママ!

              ☆


 呼ばれたような気がして。
 佳寿子は足をとめ、ふりかえった。
 ぐるりと目をまわしてみた。見慣れた町のいつもの風景があるだけだ。誰もこっちを見てないし、手を振ったりしていない。まして助けをもとめてはいない。
 駅前通りからひとつ曲がってはいった路地。ガス会社の事務所。下着やおしゃれ小物の小さなブティック。食べ物屋さんのガラス扉。短い坂道の底に、すぐ別の角。折れ曲がっていて狭いが、交通量が多いところ。立ち止まっていると、通行のじゃまになる。
 佳寿子はまた歩きだした。
 行き交うひと。行き交うクルマ。いつもとなにひとつ変わりがない風景。
 バカね。
 自嘲的に笑う。
 なにを勘違いしたの。わたしを呼ぶひとなんていない。いるわけがない。呼ばれたって、聞こえないんだから。
 抜け道を急ぐ車がある。道路幅が狭くて、追い越しをかけられると怖い。買ったばかりの桃の袋をよその車にぶつけないように、からだにギュッとひきつけた。
 ゆっくり歩く、いつもの道。慣れた、慣れきった道。
 なのに、
 知らないよその道のよう。来たことがない場所のよう。
 この手は、からっぽ。牽き綱がない。

 ちょっと前まで、こんなふうにひとりで歩くことなんか、全然なかった。かならず、大きくて毛むくじゃらのたくましい生き物と、一緒だった。

 犬を連れていれば、人目を惹く。
 大きくてまっ黒でひょうきんな顔だちの黒兵衛を見ると、登下校のこどもたちや犬好きなひとが寄ってくる。
 わぁ可愛い。
 大きい。
 お利口なワンちゃん! 
 さわっていいですか。
 大丈夫ですか?
 どうぞ。佳寿子はほほえむ。黒兵衛も尻尾をふり、おすわりをする。ウエルカム。
 散歩のつど、道端で、何度も何度も、立ち止まった。よそのひとに黒兵衛をかまってもらった。撫でてもらった。時間帯によっては、なかなか進まなかった。
 なんて種類の犬ですか。何歳ですか。お名前は。
 話しかけられることの中身はたいがい決まっている。佳寿子にはしゃべって答えることができない。だからお散歩用バッグには、いつも紙をいれてあった。

「この犬のなまえは、くろべえ。オスのざっしゅです。
としは、じゅっさいぐらいです。
わたしは耳がきこえなくて、おはなしが、できません。
だから、くろべえが、たよりです。
おなかをこわすといけないので、おやつは、あげないでね。」

 何度も会ったことがあるこどもたちは、もう覚えてくれている。遠くから見つけて、駆け寄ってくる。
 黒兵衛だ、クロちゃんだ。このおばさん、お耳がきこえないんだよ。クロが代わりにいろいろ聞いて、危ないとか、誰かが呼んでるとか、教えてあげるんだって。
 すごいねぇ。偉いねぇ。
「給食のパンをもってるんですけど、あげてもいいですか。少しだけ」
 そうね。一枚なら。
 許すとすごく喜んでくれる。こどもだって、大好きな相手には、なにかをプレゼントをしたいものなのだ。
 黒兵衛も、なにかもらえる気配はすぐわかる。よい犬らしいきちんとしたおすわりの姿勢で、尻尾で地面を掃きながら待っている。
 ちぎったパンのかけらを上手に差し出すこども。黒兵衛のおおきな口がぱくっとパンを奪っていく。口のまわりの短い髭でこすられてくすぐったくて、ウフフと笑うこども。あげたい気持ちはやまやまなのに牙がこわくて待っていられなくて投げてしまう子もいる。寸前でパッとひっこめられると、おあずけみたいで、黒兵衛もつい反射的に追い掛けてしまう。ぱくっと口を閉じた拍子に、そんなつもりはなくても、歯があたってしまうことがある。唾液がつくこともある。
 その感触が、流血にでも思えたのか、ビックリして泣きだしてしまう子もいた。
 うちの子がおたくの犬に噛まれたといっています。怪我はたいしたことありませんが、ワクチンはちゃんとしておられますか。狂犬病になりませんか。あんな大きな犬を連れて歩いて、こどもに自由にさわらせるなんて、無責任じゃないですか。
 神経質そうな奥さんに怒鳴りこまれたこともあった。
 そのころはまだ母がいて、母が応対をした。玄関の冷たいところに正座したまま、ずいぶん長いことよその奥さんに責められた。叱られてくれた。
ごめんなさい、あとで謝ると、
 いいけど、よそのこどもにさわらせるなんて、もうやめにしたら。
 そう言われて、喧嘩になった。
 黒兵衛は悪くない。あのひとがおかしいのよ。
 こんどのことはそうかもしれないけど、実際になにかあってからじゃ遅いでしょう。
 なにかなんてない。あるわけない。黒兵衛はぜったいにひとを噛んだりしない。おかあさんは彼を信じないの?
 母と娘が喧嘩をすると黒兵衛は困ってどこかに隠れた。喧嘩が長いこと終わらないと、佳寿子のそばにきて、なぐさめるように、大きなけむくじゃらなからだをぴったりくっつけた。よりそった。黒兵衛の首を抱いて泣くと少しは気がはれたが、悔しくてたまらなかった。
 この子のことを好きにならないひとがいるなんて信じられない。
 犬を悪く思うなんて、どうかしてる。
 さわりたがるこどもがいたら、好きなだけさわらせてあげたいじゃないの。ゆっくり足を止めて、いくらでもつきあってあげたい。
 だって、おとなになるまで一度も犬にさわったことがないなんて(このわたしがそうだったみたいに)そんなの、あんまりだから。不幸だから。
 そんな子、なるべく、いちゃいけないに決まってる。
 自分のおうちで犬が飼えないなら、近所の犬と遊ばないと。
 大きな黒いうちのクロちゃんを大好きになって、そばで眺めて、いっぱいさわって、ああ、犬ってこうなんだ、こんなふうなんだ、そう、実際に感じてくれたらいい、わかってくれたらいい。好きになってくれたらいい。
 わかってくれないひとがいるのはしかたない。
 よそのひとに憎まれたって、平気。いちいち反省しない。傷ついたりもしない。

――誰もわたしに声をかけない。
 佳寿子は、しみじみ実感した。
 そりゃあそうよね。ふつうのひとりのおばさんなんか。黒兵衛をつれていたからこそ、話しかけてくれたのだ。
 ほんとうにかわいくてお利口な子だったから、ひと目で大好きになってしまうひとがたくさんいて。みんなにかわいがってもらえたんだわ。
 自慢で自慢でしょうがなかった。大勢のひとにほめてもらえて嬉しかった。
 そしてなにより、黒兵衛自身が、お散歩が大好きだった。
 だから、暑い時も寒い時も、毎日まめに歩いたのだ。ジョギングをしたし、買い物にもつきあわせた。
 よそのこどもたちのためだなんて、口実。言い訳。お為ごかし。
 私はただ、かわいいお利口な黒兵衛を、世界中に見せびらかしたかっただけ。

        ☆

 長い信号がようやく変わった。
 じりじりして、足を踏み替え踏み替えしながら待っていたから、青になったとたんに、すぐさま、先頭をきって走り出す。
 裸足で片手に包帯をしたまま血相かえて疾走する男。その異様な姿に気付いたひとは、ギョッとして二度見した。
 走る、走る、走る。
 ただ走る。
 あのひとが消えた角に。
 見失ってからもう長いこと時間がたっていたが、道を渡ってみれば、行く先は直感的にわかった。予測できた。よく知っている道だった。いつも、歩く道。
 おうちにかえる道。
 だから、もう迷わない。足をとめることもない。せっせと駆けた。
 坂をちょっと降りて、このお店の横を通ったら、あとはまっすぐ。もうじきだ! あとほんの少し。もうちょっと。すぐそこ。
 走って走って、走って、マンションの玄関前の短い階段を駆け降りる。
 ガラス戸が自動であく速度が待ちきれず、うっかりガツンとぶつかりそうになって、あわてて立ち止まる。
 その時、

 ……?

 違和感を覚えた。
 へんだ。
 ガラスに、うつっているものが。おかしい。

 どこがどう変なのか、なぜそう思うのか、理解する前に自動ドアが反応し、中央からわかれて開いた。迷ってる場合じゃない。前へすすめだ。考えるのはあと。ダッと駆け込んで、そこで、もう一度、こんどこそ完璧に当惑した。
 次のガラスが開かない。
右手にズラリと並んだたくさんの郵便受け。左手に管理人さんの事務所の窓。いまはカーテンがしまっている。勤務時間街だ。誰もいない。
目の前をふさいだガラスの手前にはオートロックの機械がある。操作をして、室内にいる誰かを呼び出して解除してもらうか、鍵をつかわないかぎり、ここは開かない。
 そうこうしているうちに、自動ドアが自動であいているように設定されている時間が過ぎ去ったものだから、後側のガラスも閉じてしまった。
 ガラスとガラスの間にとじこめられた。
 とじこめられた自分の姿が、ガラスにうつっている。二重のガラス、合わせ鏡に、無限の数ほど見えている。
 裸足で、ギブスで、根元が黒髪の金髪の若者。

 耳もとで、鎖がしゃらんと鳴る。

 小学校の下校時間と犬の散歩時間が重なることがあって、小学生たちはよく給食の残りのパンをくれた。クラスで残った分をビニール袋にいれて給食袋にいれて、ランドセルの横にぶらさげてもってきてくれた。
 水色のギンガムチェックに飛行機のアップリケがついた給食袋。
『くにいこうた』と記名してある。
 なにも塗ってないパンも美味しいけれど、半分に折ってたたんで、マーガリンや、カスタードや、ジャムが塗ってあると、もっと美味しい。
 白くて甘い特別のクリームの時もあった。
 思い出すと唾がわいてくる。
 あれは、ほんとうに、素晴らしく美味しかったなぁ。

 蘇った幻の味に思わずうっとりした瞬間、夢の中で足を踏み外したみたいに、なにかがガクッと動いた。

 フラッシュバック。

 事故の朝。
 雨上がりの匂い。ジョギング散歩。
 おんなのひとたちがお買い物するとき、男は、外で待つ。
 ひとりと一匹。
 ぼくたち。仲良し。古いともだち。
 秘密をうちあけあったことがある。頬をなめたことがある。鼻をなめられたことがある。
 一枚のパンを半分こして食べたことがある。
 あの日も仲良しだった。気持ちのいい朝。もうじき生まれてくる赤ちゃん。長生きしろ。 
 そこへ、あの音。
 地面が地震みたいに揺れて、空気が裂けた。大きなかたまりが落ちてきた。
 逃げようとした。店にはいりかけていた。ハッとして引き返した。いっしょに逃げなくちゃ。
 だめだ。間に合わない。
 目があった。


 ……暗黒……

 

 オートロックは内側から出る時には自動で開く。
 そのとき、隠居マンションの一階ロビーから外に出掛けていこうとした三人組があった。七階にお住まいの池畑さんのところの小さな男の子とそのママ、それにママのおともだちだった。彼らが歩いていったので、ガラスが開いた。池畑一家プラス一名は、ガラスとガラスの間で立ち尽くしている闖入者に気付いた。
 知らない顔だ。このマンションの住人ではない。汚れた包帯を巻いて、裸足で、髪が半端に金色だ。季節外れのハロウィーンか、ゾンビのコスプレでもしているかのような、ひどい様子。
 ギラギラあぶない目つき。
 麻薬でもやっているひとなんじゃない?
 良家のママとそのおともだちはこういうタイプとはふだんまったくお付き合いがないので、ギョッとして、とびあがって、警戒して、内側のガラスの手前で立ち止まった。
 なに? なんなの、どうしたの、このひと?
 なんでそんなところにいるの? なぜ立ち止まってるの?  まさか誰か獲物がくるのを待っているの? どうしてそんなひどい格好?
 近所で事故でもあったのか。困って助けを求めにきたひとか。だったら知らんぷりしちゃ悪いけど……それとも、……やっはり、見た目のとおり、関わり合いになっちゃいけないひと?
 小さな池畑少年はおびえたママの手をギュッと握り、ママとそのおともだちは当惑顔の目と目をみかわした。いったん開いた内側のガラスがまた閉まった。ママたち三人は玄関ホールに、ガラスとガラスの間には謎のうろんな若者が、そのままに残された。
 すると、こんどは、外側のガラスが開いた。ちょっとした外出からかえってきたのはご隠居のひとり。五階の松島さんのお爺さん九十七歳まだまだお元気であった。彼はいつもの習慣どおり、散歩杖を小わきにはさんでオートロックの機械に近づき、ポケットにあった鍵を手にしていた。
「や、ども」
 かぶっていたハンチングをちょっと摘んで浮かして、ガラスごし、顔見知りの池畑さんのママに挨拶をした。彼女たちがこちらに向かって歩いてきてくれれば自動ドアが開く。わざわざ鍵を操作する必要がない。当然そうしてもらえると思ったので、鍵をさしこむのを中断し、あらかじめお礼をいったような具合だった。妙な空白が生じた。ガラスがあかない。どうやら池畑さんは来ないらしい。なぜだ? けげんに思い、ようやく、原因に気付いた。
かたわらに見知らぬ若者がいる。
 はじめから視野にはいっていたのだが、宅急便屋かなにかだろうととっさに判断し、「自分には関係ないもの=ないもの」として処理していたのであった。あらためて見れば、そやつは見るからに怪しい。
「なんだね、きみは」
 松島さんのお爺さんは、海軍じこみの腹に響く声を出した。若いママたちの手前、怯んではいられない。
「どこに用だ」
 知らない若者は、松島さんを振り向いた。金魚みたいにはぷはぷと、口をあけたりしめたりするばかりで、なにも言わない。
 ちゃんと抗弁もできないのか、腑抜けめ、と松島さんは思った。男のくせに、ちゃらちゃらして。なんだその頭。ガイジンになりたいのか。しかも、耳に、ハトの足環のようなものまでつけている。
「用がないなら、出てってもらおう」
 松島さんはじわりと近づいた。必要とあらばいつでもふるえるように、散歩用ステッキを油断なくかまえる。松島さんは剣道四段。小さな男の子や若いママさんたちの励ますような祈るような視線をあびているのだから、ひるむわけにはいかない。
「む? 怪我をしている。どうしたのだ。なぜ裸足なのだ? 靴はどこにある。おかしいじゃないか」
 畳みかけるように尋ねると、あやしい若者は、いや、だめ、だめ、というように弱々しく首をふりながら、じりじり後退した。
 さらにそこへ別のひとと犬がくわわった。日課のお散歩からかえってきた四階の武島さんと柴犬のジロだった。
 ジロはギプス男を見たとたんに顔の真ん中にクシャッと皺を寄せ、牽き綱をグンとひっぱって、うわわわわわわんわんわん! と吠えた。物凄い声で。
「どうしたジロ」武島さんがあわてる。「ああ、ども、みなさん、こんにちは」
「うわわわわわわわわわん!」
「おいおい、なにをそんなに怒ってるんだ?」
 包帯男はジロを見て顔をひきつらせながら無理やり笑った。へんな態勢に姿勢をかがめ、吠え猛るジロに近づく。
 このバカ、とお爺さんは思った。なぜなら若者は犬同士があった時みたいなことをしようとしていたからだ。シッポをあげて、互いの尻の匂いを嗅ぐ。あれだ。
 がっ! 
 押える暇もあらばこそ、ジロはギブス男にとびかかった。とっさに首筋をかばって前にさし出したギプスにがぷりと牙をたてた。ギプス男が悲鳴をあげながら後退ったので、ジロは噛みついたままひきずられる。 
 その瞬間、

「……え……あっ、ええっ!」
 国井幸太は叫び、たちあがった。
「……うわ、なっ、なんだ? なんですか、これ!?」
 居合わせた全員が彼を見た。
 あっけにとられた顔で。
「ど、どうして、こんな……あっ、あの……うわあ!」
 ギブスに食らいついていた柴犬が力尽きておりた。というか落ちた。包帯の切れっ端が、牙にひっかかっている。
 飼い主の武島さんが「じろ~、どうしたんだよ、きょうは、なんだってそんなムチャなことするんだよ~! ダメじゃないか~」と泣いているような怒っているような上擦ってひっくりかえった声でいいながらそそくさと退き、ひきとめられないのを幸い、逃げるように立ち去っていった。見知らぬ怪我人にいきなり噛みついた責任を追求されたくなかったのだろう。
 犬の牙攻撃にゆがんだギプスを、幸太はぼうぜんとみている。
 目をぱちくりさせる。
 ここ、どこ? 俺、なんで、裸足? 指がおそろしく汚れている。ひっくりかえしてみると、足の裏は真っ赤で、ところどころに小石だのなんだのが刺さっている。まるで、そこらを裸足のまま、走りまわったみたいだ。
記憶がない。なんでそんなことをしたんだろう? 
 しかし、どうやらやったようだ。恥ずかしくなって、頬がひくひくした。
「あ……あの……?」
 おそるおそる、幸太は言ってみた。ちょっとだけ微笑みを浮かべてみた。
 隠居マンションの玄関一帯に深い沈黙が落ちた。掻き分けたら緞帳のように重たそうな、分厚い沈黙が。
 居合わせた全員が困惑しきった顔をしている。
 たがいにチラチラ視線をとばしあう。誰もなにもいわない。誰かがなにかいうのを待っている。
 てへ。幸太は、典型的なごまかし笑いをした。会釈のような、詫びのような、そのどちらでもないようなかたちに頭を下げて、「あの、えっと、んじゃ」みたいな手つきをした。
 と。
 奥のほうからバタバタと足音がした。
 幸太が顔をむける。
 すると、走ってきて急停止した宮野佳寿子と、顔を見合わせることになった。
「ああ!」
 幸太は笑った。
 よかった。あえた。

       ☆

「ひどい……」
 焼き肉店の奥の座敷で、智美はグシャグシャな目にオシボリをおしあてた。
「なんなの。あのバカ、いったいどこに消えたの? 信じられない!」
「ごめんね」奈々はせいいっぱい普通の声を出した。「こうちゃん、きっと、なにか、急な用事ができたのよ」
「急な用ってなんですか?」痛みをこらえてかいた冷や汗で、智美の前髪はザンバラだ。「だからって、黙っていくことあります? こんなとこに、あたしをおいて! ったく、なに考えてんだろ!」
「ほんとにねえ、ごめんなさいねえ」
「そもそも幸太が、焼き肉食べたいって言ったんじゃないですか! だからわざわざ来たのに! なのに! ひとくちも食べずに消えるって。どういうこと?」
「ひどいわねぇ。悪い子ねぇ。とりあえず、なにか頼もう」
「はい」智美は涙を拭きながらうなずいた。「おかあさん、すみません。でも、あたし、もうおなかがすきすぎて死にそうです」
「なんでも好きなだけ食べて」
 智美が、「やた!」と笑った。奈々が店員を呼ぶボタンを押した。店員かきて、言った。
「あの、もう、ラストオーダーなんスけど」

        ☆

 幸太がにこにこする。
 宮野佳寿子もいかにも当然のように頭をさげた。
「なんだ、お知り合いですか。これは失敬」
 それまで無理やりいかめしい顔をつくっていた松島さんのご隠居がホッとして眉をさげる。池畑さんの坊やとママとそのおともだちの三人組も、アラなんだ、そうなんですか、と言った。宮野さんちのお客さんだったの。存じませんで、まことに失礼しました。びっくりしちゃって。
「それじゃ」
「ども」
 空気から解放された清々しい表情で、おのおの、もともと行こうとしていた方角に退場した。
 気がつくと、オートロックのガラスドア周辺には、幸太と宮野佳寿子のふたりだけが残されていた。
 ぽつねんと。
「あの、えっと、ども……」
 幸太は、つかえつかえ言った。
「黒兵衛、だめだったんですよね。すみません。……助けれなくて。俺、自分だけ助かっちゃって。ほんと、ごめんなさい!」
 深々と頭をさげる。
 海の底のように静かだ。時間の動かない半地下玄関。宮野さんは、まじまじと幸太をみつめている。
 あんなに急いで、いかにも何か急用ありげに走ってきたのに、ここにぴたりと立ち止まって。なにか、考えこんでいるような、度肝をぬかれたような、魂を抜かれたような、なにかの欠落したような顔をしている。
「あの……だいじょうぶですか? いま、どっか、行くとこだったんじゃないんスか?」
 自分がいて、邪魔にでもなっているのだろうか?
「どうぞ。行ってください」
 あとずさって、からだを開いて、手でさらにきっぱり合図をして、通ってもらおうとした。
 宮野さんはギュッと目をつぶった。それからまた目をあけた。
 突然、なにかを決心したようにダッと近づいてきて、幸太の手をとった。もちろん、怪我をしていないほうの左手を。掴んで、ねじりあげるようにして、ひっくりかえす。
「え? え? なんです? あ」
 宮野さんは、幸太の掌に、指で、一字一字、書いた。

[な・ぜ・ハ・ダ・シ・?]

「あ。……あー。えっと、いやぁ……それが」
 幸太は立ったまま自分の足の裏をひっくりかえして眺め、情けない顔で、くへへ、と笑ってみせた。
「すんません。俺にもさっぱり。わけわかんないんです」
 宮野さんは、溜め息をついた。あまり日にあたっていないような白い顔を能面のように無表情にして、幸太を見た。間近に。しげしげ眺め、じろじろ眺め、臆せずひたむきにじっと見た。
 あまりに無遠慮に眺められて、視線の熱光線で穴があきそうだった。
 目は口ほどに物を言うというが、口がきけないひとの目は、しゃべらない口の分のパワーを発しているようだった。
「あ……あの……?」
 ごまかし笑いをする。
「俺、そろそろ、おいとま……」
 来て。
 宮野さんが唇のはっきりした動きで示しながら、もう一度、幸太の手をとった。
 うちに、来て。

        ☆

 エレベータであがった。玄関の鍵はあけっぱなしだった。はいるとすぐに、宮野さんは、片手をパッとひらいて下に向けた。ステイだ。待てだ。
わかりやすい指示だ。
 幸太はすなおに従った。その場でぴたりと動作をとめて待った。
 いいけどさあ。いまの、犬にする命令じゃね? ちょっと苦笑しながらもおとなしく待っていると、宮野さんは水でしぼったタオルを何枚か、持って戻ってきてくれた。
 あがりかまちに腰を掛けて足裏をよーく拭わせてもらった。
 はいれ、とハンドサインをするので、こんにちは、おじゃましまーす、と、立ち上がった。
 玄関ホールから正面と右にそれぞれ部屋がつづいている。宮野さんが姿を消した方向である右側を戸口に立って覗くと、一面ぜんぶ窓になった大きな居間である。宮野さんは窓辺の明るいところに置いてある洒落た雰囲気のデスクの前に腰をおろして、タブレットの液晶画面をたちあげているところだ。
 正面はキッチンだ。タオルはさっき、こっちのほうから出てきたようだった。じゃ、とりあえず、これ、返しておこうか。
 踏み込んで、どこに置いたらいいだろうか、見回して……
 視野の隅っこになにかが見えた。なにか、すごく気になるもの。
振り向いて確かめようとしたら、グラッと、よろけた。
 冷蔵庫の横の壁際にそれはあった。使いこんでくたびれたクッション。誰かがいつもそこに座っていたかたちに、真ん中がぼこっと窪んだままの、
――赤いクッション。
 視野が曇った。涙がわいたのだ。
 なぜいきなり号泣なのか、こんなものがどうしてそんなにたまらなくせつないのか、意識する間もなく、脳みそが理解する間もなく、前置き抜きで、いきなり感極まってしまった。
 ……なんだこれ? 俺、どうかしちゃったの?
 茫然自失して立っていると、背中をつつかれた。
 宮野さんがタブレットを持っていた。画面をこちらにむけている。あわてて瞬きをし、それでも消えてくれなかった涙を、らんぼうに指でこすってひっこめた。

[退院したんですね。おめでとうございます。若いから、治るのもはやいのね。よかったです]

「あ、ども」
 幸太はヘコヘコと首をつきだすようにお辞儀をする。照れ隠しにあたりを見回して、つけくわえる。
「ここ、すごいっすね。すごい広いんですね。それに高くて、遠くまで、すごくよく見えるんだ。あれ富士山じゃないっすか? すげー最高。リッチですねー!」
 宮野さんは悲しそうな顔をした。
 それから、キッチンの小さなテーブルにタブレットを置き、音をたててスツール椅子をひきだし、意外に男前に乱暴な動作で脚をひらいて座りこむと、ものすごい速度で文字をうちこんだ。

[それほどじゃないです。親が買って残してくれただけ]

「はあ。じゃあ、ここ、ひとり暮らしなんすね?」
 つぶやいても、聞こえるわけがない。
 なんですか? みたいな顔をされたので、もう一度、正面から顔を見合わせておいて、「ひ・と・り・ぐ・ら・し?」はっきりゆっくり口にすると、理解してもらえたようだった。

[そう。わたしは、ひとり]

「こんなに広いとこに? ひとり? うわー。いいなぁ。うちなんか、そこの玄関ぐらいしかないっすよ。そこに、母親とヨメと三人ですから。赤ん坊ができたら四人暮らしですよ? いやー、ほんと、あこがれるわ。お金持ちでうらやましいです」
 持ったままだったタオルで、うっかり首筋をぬぐってしまいそうになる。
言ったことの全部は読みとることなどできなかっただろう、宮野さんはチラッと半端に笑窪を刻み、かぶりを振った。

[なにか、困ってるみたいだったから、お誘いしました。このマンションに、ご用だったんですか? 誰かお知り合いでも?]

「いや、それが。……うーん、なんていえばいいか」
 幸太は動くほうの手をあげ、タオルを持ったままであることにようやく気付いて、それをそこらに置いた。

「俺にもさっぱりわかんないんです。ぶっちゃけ、記憶とんでて。気がついたら、ここにいて」

 宮野さんはこちらを見ていなかった。


[ひょっとして、わたしに逢いにきてくれた?]

 ぱぱぱ。ぱたぱた。宮野さんの指がキーボードを踊るように動く。すばやく文字が表示される。

[さっき、黒兵衛に呼ばれました]

 幸太の胸がドキッとした。

[そういう気がした、ということですけれど。

『ママ、ママ! ぼくだよ、かえってきたよ』そう言ったの。
『はやく、はやく迎えにきて。ボク、ここだよ。ここにいる。ここにいるから!』って。

 でも、そんなわけないんです。
 聞こえるはずがない。
 わたしは耳がだめなんだし、黒兵衛は、]

 Shi …

 たたかれた文字は予測変換機能によって一瞬でかわってしまう
 
 死んだ

 宮野佳寿子が手をとめた。
 化粧っ気のまったくない顔が、ガラス窓にうつる。
 すこしずれた位置に、タブレットを見つめる幸太の顔がある。

[でも]

 彼女はまたうちはじめる。

「うそじゃないの。
 ほんとに聞こえた。
 気のせいかな。でも、聞いたの。あの子が呼ぶのを。

 それで。まさかと思ったけど、行ってみたんです。
 じっとしていられなくなって。下を見に行った。そしたら、
 そこに]

 手をとめた。
 振り返った。

 幸太がいる。
 よごれたギブスをはめた腕を反対側の手で無意識に支えている。
 どこかで三角巾をなくして、無造作にぶらさげていたら、だんだん重くなってちょっと痛いような気がしてきたのだ。

 どちらも動かなかった。
 なにも言わなかった。

 宮野さんがまた文字列をうちこみはじめた。

[何か、きみに、はけそうなものが、ないかな。
 足、何センチ?]

 幸太は、あっ、と言って、キーボードのテンキーに指をのばした。
 ひとさし指一本で、ぎくしゃくと、2のキーと、6のキーを押す。

[26? 
 大きいのねぇ!
 じゃあわたしの靴じゃ、ぜんぜん無理ね。
 スリッパかな。
 なにかないかな……
 そうだ。
 ちょっとまって。たしか、雪駄があった]

「ゆき? うん? って、なんですか」

[せった。ゲタみたいなゾウリみたいなものよ]

「……?」

[見たらわかるわ。
 昔、温泉で、買ったの。
 お庭を散策するのに、そこに備えつけてあるのを借りたら、なんか素敵だって、母が欲しがってね。
 でも、サイズがうんと大きいのしかなくて。
 結局、一度も、使ってないの。
 あれなら、きっとはける。
 ちょっと待って。たぶんあのへんにあるはず……
 探してみるから]

 宮野さんは立ち上がって、歩きだした。
 居間の一角が和室になっている。フスマに囲まれていて、そこだけ、30センチほど、床が高くなっている。
 ずいぶん大きな段差だ。というか、わざとあげるなら、もっと思い切って高さをもたせたほうがいい。ちょっと腰をおろしたりするのに楽なぐらいに。
 バリアフリーの時代になる遥か前の設計だな、と幸太は思う。
 でも、そんな昔にしては凝ったデザインだ。おしゃれだ。
 宮野さんがフスマをいくつかあけはなったので、中が見えた。
 小さな正方形型の畳が敷きつめてある。
 床の間があり、違い棚がある。
 和紙を使った照明器具がぽつんとひとつ飾りのようにあるばかりで、あとは、きれいさっぱりとなにもない。がらんとしている。
 すっきり片づいている。
 ほんと、金持ちだなぁ、と幸太は思う。
 駅からすぐだし、地価いくらするんだか。こんなとこで、これだけの空間と面積をぜんぜん使わず余してるなんて。
 あらためて見回してみる。
 ひとり暮らしには、広すぎる家だ。誰かが遊びにきたりすること、あるのだろうか。

 宮野さんは、押し入れをのぞきこんでいる。座布団や、化粧箱や、風呂敷につつまれたなにかが見える。それらをせっせとおろしたりどかしたりして、宮野さんはいっしょうけんめいだ。目当てがなかな見つからないらしい。畳にほうりだされたものの山が、どんどん大きくなってくる。
「あの……」
 幸太は言った。
「もう、いいス。べつに、大丈夫ですから」
 しまった。あっち向いてるときじゃ、しゃべったって聞こえないんだった。
 押し入れに半ばもぐりこんで、片足浮き上がっていた宮野さんのからだが、ふととまり、それから、ゴソゴソっとまた動いた。やがて、もどってきた。あった~! というように、高々となにか掲げている。
 デパートの袋にぐるぐるに包んである。
 にこにこ顔でこちらを振り返った、その宮野さんが、いきなり静止した。かたまった。手にしていたものがぼとんと落ちた。
「……え? ど? なん? みっ、宮野さん!?」
 幸太は仰天し、悲鳴のような声をあげた。
「どしたんですか? あの、……だいじょぶスか? 救急車呼びますか~?」
 ううん、ううん、いいの。首を振った宮野さんの顔面が崩壊しかかっている。
 幸太は驚いて、おろおろ、なすすべもない。
 やべえ、泣かれちゃう! と思ったのだが、宮野さんは、こぶしをかためて、我慢した。
 大きく息をつく。
 ふうっ、と、大きく。
 そして、眠くなった子どもみたいにごしごし乱暴に顔を拭いながらこちらにやってきた。
 幸太のそばまで。
 幸太は和室の入り口で待っていたのだった。彼女が捜し物するのを見守る態勢で。その時の、その場で、その姿勢で。そのまま。居間の床に膝をついて、お尻を残して、両手を……汚れたギブスのはまった右手と、ひょろりと長い左手を……タタミの上に伸ばしていた。
 高さの差を利用して、上半身だけタタミの上に伏せをしているようなかっこうだ。
 
 これならいいよね。
 まぼろしの犬が笑う。
 はいっちゃダメなとこに、あがってないよ。
 おてて、ちょっと、のせてるだけ。

 宮野さんが溶けたみたいに落ちてきて、幸太の背中にかぶさった。
 声をださないひとが泣く声を、幸太は、背中と、頬や首の皮膚で聞いた。
 ひくひくと、肺が、動く。
 肋骨が、こまかく震える。
 心臓は地味な働き者らしくひたすら規則正しく、トクトクトクトク鳴っている。幸太の心臓ももちろんトクトク鳴っている。ふたつのトクトクは、そうやってぴったりくっついていると、どちらからともなく歩み寄って、やがて、ひとつの鼓動になる。
 共鳴のように、悲しみがしみてきた。
 どんなにさびしいか、どんなにうつろか。なにも言わない宮野さんは、いい匂いがした。やわらかく、甘い、清潔な匂い。
 なんだか、よそのひとではないような気がした。かけはなれた世界にすむひとではなく、ずっといっしょにいた、家族のように親しいひとであるような。すごく大事な、全力で守らなければならないひとだという気が。
 宮野さんの指が幸太のどこかを撫でて、髪を梳いて、頭のかたちをなぞった。愛しそうに。何度も何度も。そして……ふと、指が耳にさわり、つきあたり……しゃらりとピアスの鎖が鳴る。
 指がとまる。
 抱擁はいきなり、やんだ。

 ごめんなさい。へんなことして。ごめんなさい。
 宮野さんはからだをはなし、ぎこちなく笑顔をつくりながら早口に、たぶんそんなことを言って、指と手でがしがし自分の顔を拭った。
 大急ぎでとってかえし、和室の途中に落としていたあのデパートの包みをひろいあげ、もどってくる。包み紙を乱暴にビリビリ破ってあける。
 時代劇でみるようなハキモノが出てきた。
 さあ。
 と言うように、宮野さんはそれを幸太の手におしつけた。
 あげます。持ってって。
  
 はやく帰れって言われてるな、と幸太は思った。
「じゃ。遠慮なくお借りします。……こんど、返しにきますから」
 宮野さんはこっちを見ていない。だから、聞こえてない。通じていない。
 幸太はひとりで玄関にいった。真新しい雪駄をたたきにおろし、足をいれてみた。足の指をうごめかせただけでは、うまくはけなかった。しゃがみこんで、手を添えて、無理やり力付くで、やっとなんとか鼻緒にハダシを押し込んだ。ちょっと、いや、かなりキツかったけれど、でも、まぁ、はいてはけないことはないだろう。
 指の又が痛くなるかもしれないが。
 立ち上がる。
「どうもおじゃましました。……なんか、すんませんでした」
 宮野さんは出てこないから、聞こえてない。
「ありがとうございましたあ!」
 玄関ドアをあけて、外に出る。
 会釈をして、ドアをしめた。

 ドアがしまる振動を感じた。
 行ってしまった。彼は、行ってしまった。
 佳寿子はようやく顔をあげた。
 誰も、いない。いつもの我が家だ。
 玄関に行き、ふたつある鍵をどちらもかけ、チェーンをまでして、ふうっと息をつく。
 無意識に指をいじりながら、キッチンや、リビングを意味もなくうろうろする。
 和室のフスマが開きっぱなしだ。押し入れも開けたまま。佳寿子は畳にあがってみた。さっきいたのは、たしかこのへん。ここだったろうか。こんな姿勢だったろうか。
 ふりかえる。
 犬はいない。
 黒兵衛はいない。 
 いないけれど、思い出なら見える。

 笑ったようなかたちに口をあけているのは、実は、犬は緊張しているのだ。ママにそんなふうにじーっと見られると、ますます緊張してしまう。息が苦しくなる。鼻が渇いて、すぴすぴいいそうになる。思わず舌が出てしまうし、ハアハアしてしまう。
 大きな顔ぜんたいがかすかに上下に揺れる。ピアノの毛ばたきのようなかたちの尻尾がぽそ、ぽそ、と、間をあけて揺れる。
 それでもなお見つめつづけていると、こんどは耳が寝る。三角のヨットの帆のようなかたちの耳が両側にたおれながらぺしょりと折れて後ろ向きになって、床と平行の線を描く。
 ママ。どうしたの。どうしてそんな怖い顔?
 なにか、ぼく、悪いことしちゃった?

 こみあげてきたものを目蓋をギュッと閉じて開けて逃がしてから、もう一度あけると、もう、見えなかった。
 当然だ。あたりまえだ。
 いない犬なのだから。死んでしまった犬なのだから。
 あたし、どうしたんだろう。どうかしちゃったんだろうか。
 白昼夢? ストレスがかかりすぎて、脳の配線がおかしくなった?
 よその若い男の子を、犬と見間違うなんて。
 どうかしてる。

 でも、黒兵衛だった。
 あの子は黒兵衛だった。なにかが。ぜんぜん違うのに。なにかが。
 オーラ? 雰囲気?
 気配?
 まるで、黒兵衛がいるみたいだった。

 佳寿子は畳にすわりこむ。
 ……もっと、いて欲しかった。なぜか、急に途方もなく恥ずかしくなって、いけないことをしてるような気がして、あわてて追い出したけど。
 なにも悪いことなんかしてない。ひとさまに恥ずかしいことなんか、ないのに。
 息をすると、空気にかすかに桃の匂いがした。
 ああそうだ。さっき桃を買ったんだ。ほうりだして、忘れていた。
 彼は、桃、好きだろうか?
 むいて食べさせてあげれば良かった。
 ううん、そうじゃないわ。あそこの奥さん、おなかが大きいんだから、持ってかえってもらえばよかった。おみやげに、してもらえばよかった。
 よくしてあげたかった。あんなつっけんどんじゃなくて。
 もう後悔してる。
 帰らせたくなかった。ずっといてほしかった。
 だって――錯覚だけど――彼ったら、まるで黒兵衛なんだもの。

 そんなふうに思いつづけていたら成仏できない。
 志津枝にいつか脅された。
 まさか、そんなこと本気にしていなかったけど。

 ほんとに、そうだったら?
 黒兵衛、おまえ、成仏できないの? ほんとに、おばけになっちゃったの?
 天国にいけなくて、さまよっちゃっているの?
 それは、ひょっとして、ママがひとりぼっちになるから? 
 ママのことが心配で、逝けないの? 
 だから、あのひとの姿を借りて、おうちに帰ってきてくれたの?

 なにしろあの若者は、黒兵衛といっしょに事故に巻き込まれたのだ。

 長いこと入院していたと聞いた。
 まさかだけど、まさかだけど、もしかして、と佳寿子は思う。
 事故のとき、魂が混じっちゃったんじゃないかしら。
 からだが、壊れて、ダメになって、もう生きていられなくなった時。
 それでも、魂が、どうしても、どうしても、なんとしてでも、生きていたいって、思ったら。
――そばにあった別のいれものに――別のからだに。彼のからだに。
 なぜなら彼のほうもいきなりの大怪我で、ちょっと瀕死で。魂が一瞬、抜けかかっていたりして。そのいれものは、すこし油断で、あいていて。からっぽで。鍵がかかってなくて。
 椅子とりゲームで、ひとつの椅子に、ぴったり同時にふたりで座るみたいに。
――思わず、飛び込んじゃっ……?

 あははははは!
 佳寿子は笑った。
 そんなこと、あるわけないでしょ。

 でも。
 好きだったマンガを思い出す。宝石の名を持つ王女は、生まれてくる前にふたつの心をのんでしまったのだ。男の子の心と、女の子の心。どちらかひとつは、かえさなくてはならない。だから、いたずら天使が地上につかわされてくる。
 ひとつのからだに、心がふたつ――魂がふたつ――。
 はいれるの?
 はいっちゃうことが、あるの?
 二重人格とか、もっとたくさんの人格とか、そういうことだって、あるらしいわ。心って、不思議なものだわ。
 だったら。
 まさかまさか。まさかだけど。
 もしかすると。
 そう、もしかすると、ぜったいないとは言い切れないぐらいの、極小の確率で。
 ごくごくたまに。
 ある、かもしれない。
 地上に生き物は何億何百億といる。神様だって、時には油断して、うっかり間違っちゃうことが、あるのかもしれない。

 あまりに幼稚でご都合主義な空想に、佳寿子は笑った。
 愉快になって心から笑った。
 自分がまだこうやってちゃんとおもしろがってなにかを笑えるということが嬉しくて、笑った。
 それから頬が濡れてしまっていることに気がついて、あわててゴシゴシぬぐった。
 あははははは。
 傑作。
 おかしいわ。
 ばかみたいね。
 でも。
 でも。
――ああ、だったら、だったら、いいのに! 
 ほんとうに、そうだったら、どんなにいいか! 

 黒兵衛?
 ねえ、くろべえ、聞こえてる?
 ためしにいってみるんだけどね。
 おまえが、もしまだほんとうには死んでなくて、魂というものがあるのなら。
 お願い。ママのところにかえってきて。
 幽霊でいいから。おばけでいいから。そばにいて。うちにいて。
 だから、くろべえ。くろべえ。
 かえってきて。

 大のおとなが、つっぷして泣く。号泣する。でもこのおとなは、声を出せない。

      ☆

 慣れない雪駄に痛む足をひょこひょこさせながら、焼き肉屋まで戻ってみると、午後の休憩時間になっていた。店の入り口には鍵がかかっているようだ。扉をちょっと押してみたが、開かなかった。軽く揺すぶってみても誰もでてこない。
 店の前の舗道の花の植え込みの枠に、ボロボロになったスニーカーが片方だけ、ちょこんと載せて置いてあった。見回してみたが、もうひとつは、どこにも見当たらない。幸太はしょうがなく、その片方を拾った。
 気にいってよくはいてたアディダス。靴というより、その残骸だ。これはもうどうしようもない。
 困った。
 幸太が頭を……耳の上のほうを……ひっかくと、ピアスの鎖がしゃらしゃらと鳴った。
 智美は物を大切にするほうだ。というかケチだ。まだまだ充分長持ちするはずだった靴がいきなりこんなにめちゃくちゃにダメになったりしたら、悲しむ。悲しくなると咄嗟に怒るのがあいつの性格だ。
 怒られても困るんだけど。
 だって俺のせいじゃねーし。
 だが、智美は説明をもとめるだろうし、じゅうぶん納得がいかないうちは怒りを鎮めはしないだろう。そうでなくとも、すでにひどく怒っているに違いない。わざと置いてきぼりにされたと誤解をして。妊婦なのに、ちっとも大事にしてくれないとかなんとか。

 自動車の流れの途切れたところを狙って道路を渡り、薬局の角をまがる。住宅街の細い路地をくねくね歩くと、やがて、家のあるアパートが見えてきた。
 よくある二階建ての賃貸住宅だが、最近外装を塗りなおしたばかりなので、わりと小綺麗だ。まぶしい陽差しを浴びてどこのウチのベランダにも蒲団やら洗濯物やらが満載なのを目にしてから、そういえば、宮野さんちのマンションには、どこの部屋にも、蒲団とかそういった生活のニオイのするもんが全然外にかかってなかったなぁ、と思った。
 地続きなのに、なんかぜんぜん別の世界だ。
 商店街のある道路のあっち側とこっち側。「異文化」ってやつなのかもしれない。
 外階段をのぼりながらジーンズのポケットをさぐってみたが、鍵はない。そりゃそうだ。退院帰宅の途中でまさか連れとはぐれるなんて思わないから、用意していなかった。もし家に誰もいなかったらどうしようかと思ったが、ブザーを鳴らしてみるとあっさり智美が出てきた。
「ただいま」思わず必死に作り笑いをしてしまった。「ごめん、トモ。悪かった」
 妻は、むっつり、不機嫌な顔をしている。いかにもなにか言いたそうに口をひらいたが、考えなおし、黙ってくるりと背を向けて、部屋に戻った。
ただのひとことも、口をきかない。
 やばい。これはやばい。超本格的に怒っている。そこそこの怒りなら、機関銃のように喋りまくるのに。
 幸太は片方だけの靴を玄関におろし、雪駄を脱いだ。
「まことに申し訳ありませんでした。ごめんなさい。ほんとうに。すみませんでした」
 妻のあとをゆっくりと追いかけて、キッチンを抜け、ベランダ側の部屋に進んだ。蒲団が一組、簡単にたたまれただけで絨毯に積んであるのは、臨月も近い智美が具合が悪くなった時にサッと敷いて横になるためだ。ただでさえ狭いスペースがこれのせいで、余計に足の踏み場もなくなっている。
 直射日光が平行四辺形の光のかたまりを落としている中、智美は、洗濯物を畳んでいたようだ。古くなって端ががさがさになったタオルやバスタオル。パジャマ。Tシャツ。幸太の病室から出てきものが多い。
 すげえ世話になってるんだよな、俺。
 臨月間近の妊婦さまに、迷惑かけてる。
「焼き肉、どうだった? いっぱい食った? うまかった?」
 智美は脚をななめに流して座り、顔だけうつむけて手を動かしている。腹はどっしり大きい。まだ口をきかない。
「ねぇったら。……どしたん? こっち、見てくれない?」
 幸太はなるべく甘い声で囁いたが、妻はうつむいたきりだ。
「おふくろは? でかけたの?」
 返事がないので、自分で、カレンダーを見あげてみた。
「そっか。今日は夜勤の日か」
 奈々は電車で一回乗り換えをして二駅先にある保育園に勤めている。いまどきは働くママが多いので、保育園も夜遅くまで需要がある。ぜんぶのこどもたちにちゃんとお迎えがくるまで、誰かが責任をもってこどもをみていてあげなければならない。
 スマホや携帯が普及して良くなった部分とあまり嬉しくなくなった部分がある、と奈々は言っていた。緊急事態にいつでも連絡がとれるのは、そりゃあ安心だ。しかし、ともあれ連絡さえすれば、なんとか都合をつけてもらえると、そうでなかった時ほどは必死に時間厳守でなくなったりする。遅れたり、ドタキャンしたり、急に予定を変更するのはしょうがない、みんなお互いさまなんだから笑って許さなくてはならない。なんとなく、最近はそういう風潮が多くなってきてる感じだ。
 実母が子育てを長年しごとにしているということは、幸太にはおおいに安心なことだ。プロフェッショナルとして、いろんなこどもを見てきてるんだから、智美の赤ん坊のことも任せとけモンだろう。突然ある日ハハオヤになり、生涯はじめて子育てにかかわることになる智美にとっても、頼りになるお義母がいてさぞかしハッピーだろうと思う。
 畳まれて積まれていく下着やパジャマを眺めているうちに、ふと、ここに、もうじき、赤ん坊のモンがくわわるんだなぁ、と思った。たぶん、ちっちゃな、オママゴトみたいな洗濯物が。家族が増えるのは、洗濯物が増えるってことだ。
 やがて、畳むべき洗濯物が尽きてしまった。それをきっかけに顔をあげてくれるだろうと思って、そのタイミングを待っていた。だが、智美は下をむいたまま、幸太の視線を無視したまま、くるりと背中を向けて、箪笥に向き直った。バスケのピボットみたいに。それができるぐらい、狭い家だ。
 手順よく畳み終わったものをしまう。それから、いかにも妊婦らしい重そうな感じで立ち上がると、なにも告げずに、どうやら風呂場にいったらしい。ざあざあ水をだしはじめる音がする。
 わざと、大きな音の出るようなことをしている。
 なんだよ。その拒絶。
 そんなに俺と話がしたくないのか?
 ていうか。
 そういえば、いつか妊婦雑誌をひろげて、記事を指さして読まされたっけ、と幸太は思い出した。風呂の掃除は旦那さまにしてもらっています、みたいな、よそんちの妊婦の記事だった。風呂桶をこするのは、滑りやすかったり、妊婦にはかなり厳しい姿勢をとらなきゃならなかったりして危ないから、妊婦のやっちゃいけない家事ナンバーワンであるらしい。
 だから、今日から、お風呂掃除はあんたがやって。
 きっぱり言われて、ハイハイわかりましたと安請け合いしたものの、実行は困難であった。現場から帰ってくれば全身ドロドロ、風呂はもう焚きあがっている。自分のほうが後につかうことになるが、はいって出たらそのとたんにすぐ抜いて洗うのも、なんだかいまのいままで気持ちよくつかることができていたお湯があまりにももったいないような気がする。だいいち、残り湯を智美は洗濯や植木のみずやりにつかったりしているらしい。じゃあいったい、いつなら、風呂が掃除できるのか? たまの休みに、だろうか。日頃の疲れを解消するための寝坊なんかはあきらめて、朝もはよから起きだして「さぁ、楽しい風呂掃除だ。その他なんでも、俺のすることになっている家事をやろうじゃけないか! たまった用事は、ここに、ドンドンじゃんじゃんもってこ~い!」と、腕まくりしてはりきってみせなければならないのか?
 そんなことする男、マジ、どこの世界にいるんだ……。
 約束だおれでやらずにすんでいるうちに月日は流れ、その気はあってもチャンスがないまま、例の事故にあって入院して、結局幸太は考えてみると、「今日から」やってと言われたその日からただの一回も風呂を掃除していない。
 ということにも、いま、こうして改めて考えてみて、ハタと思い至ったので、ようするに口先だけはハイハイと返事をして、その場が丸くおさまればそれでよくて、実際のところはすぽんと忘れていた、というだけなのだが。
 そんな俺に聞こえるように、わざわざ掃除なんかしてみせるっつーのは、厭味っつーか、イジクソ悪いっつーか、露骨にあてこすりだろうよ、それは。
 ……かわいくねぇ……。
「なぁおい、智美よォ」
 風呂場の入り口までいって、立って、呼ぶ。妻は振り向かず、腰をかがめて掃除をつづけたままだ。いらだちが声ににじまないようにしないといけない。だが、いつまでも下手に出ているというのも不愉快だ。
「なぁったら」
 こっち向けよ。つっかかってくるなら相手になってやる。退院直後と出産直前で、お互い、マジ本気の金網デスマッチとはいかないだろうが、そこそこ気分を発散するぐらいのすったもんだなら、やってやるぞ。つきあう。おまえ、ストレス解消したいんだろう、そうやって暴れることで?
 そっか。
 俺の入院中、おふくろと、ずっとふたりで。ヨメとシュートメが狭いとこで顔つきあわせてたんだもんな。ひょっとすると、いつも仲良くやってるようでも、内心それなりに煮詰まってるとことかあって、そんで、俺にアタリたいと? あー、そういうことか?
 いいぞ。やるならこい。
「ヘイ?」
 カモーン?
「国井智美さん。トモちゃん? トーモー?」
 言いたいことがあるなら聞こうじゃないか。なんなら戦闘開始でいいぞ。うけてたつぞ。そういう含みでいったつもりだ。
 だが、智美は湯船の縁からあぶなっかしく身を乗り出して、プラ湯船の内側をなにかでごしごしこすっている。やっとたちあがったかと思うと、またジャアジャアと水を出す。さかんに飛沫をはねらかす。
「なぁ。それ、なにもいま、やんなくたっていんじゃないの」
 チラッと、妻はこちらを見た。そして、「わたしは猛烈に不機嫌です」と標識を出しているような顔のまま、掃除用具のはいった青いバケツの底のほうから、古ハブラシを探し出して、タイルの目地のカビ退治までもわざわざ、おはじめになったようだ。
 なんで、よりによって、いま。
「おい。なぁ。聞け。頼むから」
 ジャブジャブジャブジャブ。ごしごし、ごしごし、ごしごし。
「足とか濡らすと、冷えて、腹によくないんじゃねーの?」
 がしがしがしがし。ザアザアザアザア。
 ダメだこりゃ。
 そーとー根強くこじれてる。
 幸太はストンと肩を落としざま溜め息をついて、風呂場のドア枠にもたれた。そのまま全身脱力して、ずるずる床に座りこむ。
 脱衣所と風呂場の境目のあたりの床板が、湿気で少しはがれている。いくら智美ががんばって掃除をしても、古くて安っぽい家だ、そうそうきれいにならない。どうしようもない。変形三角にはがれかけた床の材の一層下のザラついた表面を指でたどりながら、所帯臭さや貧乏たらしさが、ふいに堪らなく厭になる。
 別の家の記憶。
「俺、宮野さんち、行った」
 ゴシゴシが一瞬とまり、それから、いっそう速くなって再開した。
 うるさく音をたてて、聞こえないようにしたいように。
「すごいうちだったぜえ! 窓でかくてさ、空が広くてさ。うーんとあっちのほうまで、全部見えるんだ。富士山まで見えた」
「好きだもんね」
 吐きだすように、妻が言った。
 智美は洗剤の泡のついた掃除ブラシを手にたっている。風呂場のタイルの上に両足を踏ん張って、幸太を見下ろしている。
「幸太、あのひとのこと、大好きなんだもんね! そんなに好きなら、宮野さんと結婚すればよかったのに」
 バン! と、力任せに投げつけられたブラシはタイルにはずんで、幸太の頬を直撃した。泡が飛び散る。
「なにすんだよ」
 睨むと、
 どす!
 むくんだ足首が床を踏みしめた。
 妻は大きなお腹の向こうから、幸太を見下おろした。妊娠前には想像もしなかった巨大なカタマリが、どす、どす、と向きをかえ、向こうに行ってしまう。
「……お、おい。なんだよ、智美! 待てよ!」
 ついた汚れをぬぐいながら、立ち上がった。
 が、またすぐ妻が引き返してきたので、おもわず「えっ、やるのか?」とビビッてしまう。
 智美は部屋を横切ると、危なっかしく爪先立ちし(それも妊婦には禁忌のポーズなはずなのではなかったか?)飾り棚の上のほうに置いてあった大事な豚さんの貯金箱を掴みとった。一瞬、鼻の穴をふくらますと、それを高々とかかげ、床に叩きつけた。陶器の豚さんはこなごなになり、金があたりに散乱した。コインがほとんどだが千円札も混じっている。大きな五百円玉が多いのは、五百円コインをお釣りでもらったら、必ず、そこに入れて貯める約束だからだ。マジメに守ると小遣いがすぐ足りなくなるから幸太は三回のうち一回ぐらいしか協力していないのだが。
 それは生まれてくる赤ん坊のための貯金だった。
 ずっしり重たくなって、充分たまったら、郵便局にもっていって、赤ん坊の名前で通帳をつくるのだ。
「……おい?」
「もらう」
 智美は札と五百円玉だけを拾い集め、獅子舞の獅子のような顔をして、幸太を睨んだ。
「ここ、かたしといて」
「は、はい、わかりました……って、お、おい……ちょっ……ま、智美!」
 幸太はあわてて立ち上がり、追いかけた。
「待て。ほら、これ持っていけ」
 笑顔で振り向いた智美に、キッチンの椅子の背から、彼女のいつも持ってあるいているトートバッグを取って渡した。
 智美は、見るからにガッカリし、気の抜けたような顔をした。
「軍資金でもくれるのかと思ったら」
「なにいってんだ」幸太は言った。そんなのあるわけないじゃないか。「保険証と、母子手帳、持ってないと。なんかあったらまずいだろ?」
 智美の目に一瞬で涙が満ちる。だが、怒りは去らなかった。
 彼女はキュッと顔をしかめた。
「大ばか野郎」
 つぶやくように言って、家を飛び出した。

      ☆

 前々から目をつけていたのは、駅の近くのエステ屋だ。
 階段をのぼってガラスの扉をあけた。
「はじめてなんですけど」智美はいった。「フットスパとか、疲労回復とか、なんかそういうコース、ありますよね。やってみたいんですけど」
 疑いようもない智美の腹を見た受け付けのひとが、ちょっとお待ちくださいませ、と奥にはいっていった。
 店長が出てきた。
「足の裏などには、赤ちゃんによくない影響をしてしまうかもしれないツボもあるので、そういう部分を避けての施術になりますが」と彼女は言った。「万が一、具合が悪くなったらすぐにおっしゃってください」
 何度も念を押されて、ようやく、揉んでもらえることになった。
 ゆったりした椅子にかけ、香りのいいお湯で足をあたためてもらう。ついで、マッサージをしてもらう。訓練をうけたエステティシャンが、足元の床にすわって、ひとの手で、直接、凝ったところをほぐしてくれるのだ。優しく。ゆったり。じっくり。太ったエンゼルが金色のラッパを吹きながら頭のまわりをぐるぐる飛んでいるような気分だ。
 ああ~、極楽、極楽……。
 脳内イメージと宗派が微妙にズレた感想を抱きながら、智美は胸の底の底のほうにたまってカチコチになっていたものが、少し溶けていくのを感じた。
 らくちん。
 気持ちいい。
 幸福。
 ハッピー。
 わたしにはこれがいま、必要。とてもとてもすごく必要。
 そもそも、たとえば脚がむくむなんてことすら、これまでの人生ではただの一度も体験したことがなかったのである。なのに、妊娠し、安定期にはいったかなぁと思う頃から、いきなり足首が自分のものではないようになり、あたりじゅうゾウのように太くなりはじめ、ふくらはぎなど、不気味にぶよぶよになった。押すと指のかたちに変形する。離しても、そのまま、なかなかもとにもどらない。さわりごこちがおそろしく悪い。
  妊婦というのはカラダに水分をたくわえるものなのだそうだ。赤ちゃんとへその尾ごしにスムーズなやりとりをするために、血液がおそろしくサラサラに、つまり、薄くなる。アメリカンだ。水割りだ。水血症とかいうらしい。これが行き過ぎると母体が貧血になる。水があまると、むくみになる。
脚がこんなにむくむと、ものすごく疲れる。ダルい。
 自分のからだじゃないとこに住んでいるみたいで、ものすごく、違和感がある。
 いくら「この程度は正常の範囲内、よくあること」だと言われても。
「がまんできるはず」と言われても。
 もっとひどい目にあうひともいるとか、入院しないといけなくなると大変なんだとか、流産の危険も母体の生命の危険も最後の最後の瞬間までわからないのだとか、言われても、ぜんぜん救いにならない。
 ひとはどうだか、なんて、関係ない。
 とにかく、アンビリーバブルにダルい。
 だから、……ああ、極楽! ……こうして、ちょっといたわってもらうだけで、もう涙ちょちょぎれるぐらい感激だ。
 ほんとうにほんとうに、なんてラクになるんだろう。
 エステばんざい。嬉しい。ありがたい。
 いまは「赤ちゃんのためを第一に考えなきゃならない時期」だ。自分のことを二の次にしなくてはならないのはしょうがない。どこのおかあさんもみんな通ってきた道で、多少の不便ぐらいがまんできないなんてワガママだ。てなことは誰にいわれなくてもじゅうじゅうわかっている。息子であることが確認されたベイビーが大事じゃないわけじゃない。かわいくないわけじゃない。
 けど、
 わたしだって、現に、いまここにいる、のよ! と思う。
 赤ん坊のただの「容器」みたいに言われると、ほんと、悲しいよ。
 こんなの、このいまのこれは、本来のわたしじゃない。 はやく元気で可愛くてスリムなもとのトモちゃんに戻りたい。
 だから息子にはトットと生まれてきて欲しい。もちろん、早産とか、手術とかじゃなく、正常の範囲内でなるべくはやくって意味だけど。
妊婦やるのも、いい加減飽きた。
 生まれてはじめてのプレママ生活は、もうじゅうぶん味わった。みんなにおめでとうおめでとうと言われて、なんだかすごく嬉しい気がしていたが、あれはおめでとうというコトバでごまかして辛抱しなさいという作戦なのではないか。こんな不自由で不便な状態、はやくなんとかしてほしい。ブザマにデカい腹から、はやく解放されたい。
はやく自分に戻りたい。
 自分らしい自分になりたい。
 なのに、幸太め。大バカ無神経野郎め。
 ったく、何かんがえてんだ。
 なんでミヤノなのよ。どうしてよそのひとには優しくできるのに、あたしには、そうしないの?
 母子手帳持ってけ?
 なんでそんなとこにかぎって神経細かいわけ。
 わたしの気持ちなんか、全然考えてない。
 そんなの、ほんと失礼だし、サイテーで、メチャむかつく。
 だいたい、この状態の、少なくとも半分はあいつに責任があるはずっていうか、原因はおまえだろっていうか……なのに、なんで女ばっかりひどい目にあうんだろう。悔しい。ほんと男ってバカで幼稚でズルくて、どうしようもないよ。
「……あ」
 胎の児が動いた。
 エステティシャンもハッとしたように手をとめた。だいじょうぶですか、と聞かれたので、だいじょうぶです、胎動ですから、と答える。
「赤ちゃんが、ちょっと起きたみたい」
 そう、胎動は、やたらよく動く時とそうでもない時がある、どういうことなんだろうかと産婦人科で聞いたら「そりゃ赤ちゃんにだって寝てる時と起きてる時がありますから」といわれてひっくり返るほど驚いたのだった。まさか、胎児が、おなかのなかで、睡眠をおとりあそばしているとは知らなかった。だって、そんなところに、朝も夜もないではないか。別に、特にすることないんだから、ずーっと寝てるのかと思ってた。
 でも、
 起きるのだ。
 生きているのだ。
 わたしとは別の、ひとつの生き物に、ひとりの人間に、なりつつあるのだ。
 超音波診断の画像に出てくる赤ん坊は、当初ほんの2センチほどで腹の虫みたいだなと思ったのだが、だんだん少しずつ大きくなり(ならないと困る)、最近ではちょっとした時、顔が見えたような気もすることもあった。
 することがないどころではない。彼は成長している。成長をするという、おそろしく大切でたいへんなことをしでかしている真っ最中なのだ。胎児も、無事に成長するためには、ただ漫然と寝てばっかりいてはいけないものらしい。運動も、適度にしなくてはいけないらしい。子宮の中でたいそうをやる。手や足やいろいろなところをせっせとコマメに動かして、たいいくしている。体育! まさに! 字のとおりに! 生まれてから、そのからだが、ちゃんと使えるようになるように、いまから練習している。
 生まれてくる準備を、しているのだ。
 連日まったく日もささぬ子宮という祠の羊水の中で、赤ん坊はゆっくりと育ち、寝たり起きたりし、起きたら伸びをし、あくびをし、からだのあちこちを伸ばしたり畳んだりする。ぐるぐるまわってみたり、退屈しのぎに「そこらの壁」=ハハオヤ=わたし、を、ちょっとばかり押したり、ぶったり蹴ったりもしてみてくれる。究極の家庭内暴力の最初の一歩かもしれない。
 逃げることもできない「そこらの壁」は、無頓着に暴れられるととても痛い。やめろ壊れると苦情をいいたくなる。大家も同じである。かといって、静かすぎてぜんぜんまったく音沙汰がないと、それはそれでおそろしい。赤ん坊の身に何か良からぬことが起こったのではないかと心配になる。ようするに四六時中まったく気がやすまらない。
 まさか自分が「壁」になるなんて!
 セックスをすればやがて妊娠出産ということになる可能性があると知らなかったわけではない。幸太となら、それでいいと思った。だからそうなったのだ。だが赤ちゃんとママといったら、白いふわふわの布にくるまれてにっこり笑った天使みたいなのと優しく抱っこして幸福そうに笑う素敵な女の人で、つまり使い捨ておむつのコマーシャルみたいなあれだ。
 まさか胎内型「壁ドン」、内臓方面からゴンゴン蹴られるのが、親子の最初のコミュニケーションだったとは。
 知らぬ間にマッサージがゆるやかに再開している。コリコリに凝って、ぱんぱんに張っていた足の裏が、エステティシャンの力強い指先に押されたり揉まれたりして、やんわりほぐされていく。ぱぁっとなにかひろがる感じがする。滞ってたものが解放され流れ出す。足だけではなかった。施術者は足しかさわっていないのだが、肩とか、背中とか、脳みその中まで、ほぐされて、あたたかなものが流れていく。なにかが、ザアッと流れて、つまっていたものを取り除き、きれいにしていく。
「あう~、ぎぼぢいい~」
 よだれをたらしそうになりながら思わず呻き、この素敵な技を幸太がマスターしてくれたらいいのに、と思う。習ってほしい。毎晩やってもらいたい。五百円払う。
 幸太ったら。
 恋人だったころは、実に気のつくマメ男だった。こっちが何かして欲しいと思いもしないうちから嬉しいことをしてくれる。テレビで見ていいな行きたいなと思った店の電話番号をメモっておいてくれたとか。気にいった曲をいつの間にか着メロにいれておいてくれたとか。先回りテレパシー。そんな不思議な特技のある彼氏ははじめてだった。
 顔がいいとか、金持ちだとか、けんかが強そうとか、男の「良さ」にもいろいろあるが、「メンタリズム」は幸太がばつぐん。先輩夫婦など見比べてこっそり検証してみたが、たぶん自分がいちばんラッキー、勝った、と、ひそかに思っていた。
 そう、これが、愛されるってことなのよ!
 なのに……どうしたことだ。
 こどもがデキて、おなかがふくらんで、身動きとれなくなったいま、まさに、気配りを人生もっとも必要としているときに、掌をかえすとは。これが世に言う「釣った魚に餌をやらない」か。
「国井さま。このあと、かかと中心にゴマージュをいたしまして、それから、パックにはいります」
 エステティシャンが、優しい上品な声をかけてくれた。ああ、そうよ。あたしはこういうふうに、あなたはお客様です、大切なかたです、全力でいたわっています、って感じにしてほしいの。つまり、きちんと、心をこめて、だいじに扱って欲しいのだ。
「はい、おねがいします」
 ほら、こっちだって、丁寧になる。
 さあて。至福の時間ももうじき終了。終ったら、どうしよう。
 家にはまだ帰りたくない。そんなにはやく降参したくない。幸太のバカとあの狭い家で面と向ってふたりきりになりたくない。
 顔をみたらまた文句をいってしまいそうだ。
(生きててくれただけでもサンキューなのに)
 ちくしょう、LINEで誰かつかまえて、ひさびさに、カラオケでもいくか。

       ☆

 夜勤から戻った国井奈々は、外階段をのぼりながらジャケットのポケットに手をいれて鍵をひっぱりだした。ご近所衆迷惑にならないよう、スチールの階段をあまりガンガン鳴らさないように気をつけて歩く。なにげなく部屋を眺め、灯が消えているのに首をひねった。幸太と智美が、ふたりしてどこかに出掛けでもしたんだろうか。それとも早寝をしてしまったんだろうか。
 小さな鈴のついた鍵をちりんと鳴らしながら、まわす。
「ただい……え!」
 ドアを開けてすぐ、なにかにつまずいてよろめいた。倒れそうになりながら、壁のスイッチをいれる。照明がつく。
「こうちゃん? ……そこでなにしてるの」
 息子は玄関マットの上に半ば腹這い半ば膝を抱えるようなかっこうで小さくうずくまっていた。ギブスも包帯もしたままだ。
「ちょっと。風邪ひくよ」
 デカい息子を抱えあげるのは奈々には無理だ。揺さぶると、息子は、ううーん、とうめいて姿勢を変え、またくたりと床に伸びた。起きない。
 それにしてもなんでこんなところで、と、奈々は思った。
 迷惑ねえ。
 犬じゃあるまいし。なにも玄関で寝なくったっていいのに。また夫婦喧嘩でもしたのかしら。
「ちょっと。どうしてもここで寝るなら、毛布もってくるけど」跨ぎ越えながら、言う。「智美さんは? なにかあったの?」
「……ぱん……」
「え?」
「ぱん」
 息子はつぶやいた。顔が、幼稚園児になっている。あどけなくて、単純だったころ。まっすぐだったころ。美味しいものを食べているみたいに口をもぐもぐ動かしている。かと思うと、いきなり、パアッと笑った。大きなひまわりみたいな笑顔で。笑った拍子に縮めてからまっていた腕がほどけて、ガクン、と、動く。
 輪郭がブレる。
 と、変わった。
 はるか昔の幼いころの彼ではなく、最近のいつもの息子になった。
 いきなり目をあけた。
「……あ。ああ。……なんだ。夢か」
「なによ」
 奈々は流しの水道をあけ、手をあらった。
「がっかりした声だしちゃって。よっぽど美味しいもの、食べてたみたいね。夢の中で」
 水切りかごからコップを出して、うがいをした。
 外からかえったら、手洗いうがい。こどもに教えることを、ちゃんと自分でも守っている。
「パン」
 頭を掻きながら、幸太はあぐらを組んだ。
「給食のパン」
「えー?」
 聞き捨てならない。
「それが、あんな、特別美味いものなのー?」
 これでもさ。働くおかあさんは、食生活、頑張ったんだよ。せいいっぱい、時間つくって手作りして、いわゆる“おふくろの味”を食べさせようと心がけていたのに。
「がっかり。味しみしみの肉じゃがも、カレーも、ハンバーグも、給食に負けかい」
「……白くて甘いやつ」
 息子はぼうっとした顔で、去りゆく夢をたぐりよせる。
「ね、おふくろの時も学校で、給食って、あった?」
「なんだそれ、あったよ失礼な。ひとをどんな年寄りだと思ってるんだ」
「給食に、白いクリームって、あった? パンに塗って食うやつ。バターやマーガリンじゃなくって。ジャムでもなくて。白くて、甘いの」
 息子は入院中に伸びてしまった髭のざらざらを無意識でてのひらで撫でている。
「ひとクラス分、ボウルでたっぷりもらっても、好きな子が多いからさー、いつも取り合いになって。順番はやい子があんまごっそり取りやがると、おわりのころなんか、なくなっちゃってさあ。ひとのこと考えろって、まじケンカした」
「へーえ」
 ポットの湯がたりなくなっている。捨てて、ゆすいで、水をたして、再沸騰ボタンを押す。
「それが出る時って、パンは、生のさ、トーストしてない食パンで。パンに塗ると、ケーキみたいで、すっげーうまかった」
「知らないなあ。生クリームじゃないの。ホイップクリーム? ケーキのかざりになっているような」
「近いんだけど、ちょっと違うんだ」息子は首を振った。「あそこまでふわふわじゃなくて。もうちょっと、伸びるっていうか」
「へーえ」
「食べてえな」あこがれをこめて、息子は言った。「あれ、もう一度。食いてえ」
「あらまあ」母は笑う。「じゃあ、こんど生クリーム買ってきてあげるわ。それと、生の食パン? その組み合わせがいいわけ?」
「……うん……それでいいかもしんない」
 息子がぼんやりうなずくと、その腹の虫がグウと鳴った。
「あ。だー。腹減ったー」
「え? なによ、あんた、まさか」母は声をとがらせる。「まさか昼から、あれっきり、なにも食べてないんじゃ?」
「そーだよ」息子は情けない顔をする。腹の虫もますますぐーぐー騒ぐ。「あー、腹減った。死ぬ」
「しょうがないわねぇ」母はどことなく嬉しそうな声になってしまう。エプロンのひもを結びなおし、水屋や棚、冷蔵庫をのぞいていく。「すぐ食べられるもの、なにがあったかな」

       ☆

 妊婦は池袋の駅近くのカラオケビルの小さな部屋で、18番であるDo As Infinityの『遠雷』をヴォリームいっぱい熱唱している。そんなに気合いれて腹圧かけると赤ん坊出ちゃうんじゃないかと、女ともだち数人がハラハラ見守っている。

       ☆


宮野佳寿子さま

                    平成×年6月吉日

       領収証    金壱万円    
             

               『ドッグレスキュー・わんわん愛らんど』
                  代表取締役  太地 萠

 このたびは『ドッグレスキュー・わんわん愛らんど』に、ご寄付いただき、まことにありがとうございました。 感謝申し上げます。
 いただいたお金は、わたくしどもの活動資金とし、助けをもとめている犬たちのために役立たせていただきます。毎年三月にその年度の会計をしめ、ホームページ上で決算報告をしておりますので、どうかご確認ください。ネット環境にないかたで報告をご覧になりたいかたには返信用切手同封の上郵送でお申し込みいただければプリントアウトで対応させていただきます。ただし、多少お時間をいただく場合がありますことをご了承ください。
『ドッグレスキュー・わんわん愛らんど』は、今後とも、犬たちの幸福と安全と健康の助けとなるべくさまざまな活動をおこなっていく所存です。引き続きご支援・ご協力をよろしくお願い申し上げます。また、ヴォランティアをしてくださるかたかも募集中です。

 印刷された文面のあとの狭い空白に、手書きのペン書きがあった。

 ――お礼とご挨拶のためにお電話をしようとしましたが、電話番号の記載がありませんでした。ほんとうにどうもありがとうございました。もしよろしければ、どちらでわたくしどもの活動をご覧になられたのかなど、お知らせいただければ幸いです。moe

「……へぇ」
 宝井志津枝は老眼鏡を鼻先にずりおとして、上目遣いに佳寿子を見た。
 隠居マンションの佳寿子の部屋の居間である。
「これ、あの、いつかのとこ?」
 そうよ。佳寿子はうなずいた。
 淳くんがつれてってくれた里親募集のイベントを、やっていたところ。
「おカズったら、おひとよしねぇ。あんな厭な思いさせられたのに、一万円も寄付してあげたの」
 だって。
 実際、ここの活動のおかげで助かったわんちゃんたちが、あんなにたくさんいるって知って、感動した。すてきなことだと思った。その気持ちに、いつわりはない。
 ちょっと、ここを見て。
 ノートパソコンを持ってきて、志津枝に向ける。
 『わんわん愛らんど』のサイトだ。
 太地萠§たいちもえ§のブログ日記の、ある日の記述に、心ないデマや中傷に傷つく、という記述が載っていた。
 どうせ寄付金の大半を着服しているんだろうとか、タダでひきとった犬を売って儲けているんだとか、売名行為だとか、警察や役場にまかせればいいことで差し出がましいとか、さまざまな悪口を言われているらしい。

――よくもまぁこんなことを思いつくなってことをうるさく言ってくるひとがいて、悲しくなるし、うんざりします。ほんとうに迷惑です。

と、『わんわん愛らんど』代表は書いている。

――けどね。こういうひとたちは、気にしないことにしました。
本気に相手するの、時間がもったいない。そんな暇があったら、わんこたちを一匹でも多く、一回でもたくさん、散歩につれてってあげたいし。それでも気力や体力が余ったら、シャンプーしたり、ブラシかけしたり、病院につれてくとか、施設の壊れているところを修繕するとか、いくらでも有用な活動があるので、そういうことをしたいと思います。
だから、ひとつひとつの中傷メールと戦ったりしないし、わけのわからない言いがかりをつけてくるひとに反論も言い訳もしません。逃げかもしれないけど。
すみませんね、へんなこと言ってきてくれるひとたち。
そんなに私のことを気にかけてくださっているのに申し訳ないけど、無視しますから。

ひとの考えはさまざまで、どんなことにだって、反対するひと、不愉快に感じるひと、わかってくれないひとが、いるものなんじゃないかなと思います。
すべてのひとに理解してもらいたいとか、拍手して大賛成してもらえないことは「だめ」なことなんだ、なんて思ってしまったら、どんな行動もできなくなってしまう。
進んで助けてくれるひと、一緒になって活動してくれるひと、遠くから支えてくれるひと。わかってくれるひとたちだって、たくさんたくさんいるので。

でも、ふしぎですよね。文句を言ってくるひとは、相手をしないといつまでもしつこいのに、応援してくれるひとは、ひそかで、めだたなくて、おとなしい。大声をあげたりせず、誰にもわからないように、黙って遠くでうなずいていてくれる。そう思います。
サイレントマジョリティってことばがあるように。見えないけど、わざわざ表明しないけど、がんばれって思ってくれてるひとたちがいる。そう思ってます。楽天的に。
ま、そうでもしないと、やってられないので(笑)

だから、moeママは超ハッピー。
むかつくことがあっても、なるべくすぐ忘れる。
お日さまをみあげて、空が青かったら、それだけで力が湧いてくるタイプ。
でも、それは、いつもいつもはげましてくださるみなさんがいるからこそです。
おかげさまです。ありがとう!


それで? というように、志津枝が見るので、佳寿子はカーソルを動かして日記を先送りする。別の日の、やはり太地萠が書いたもの。最新から三つ目ぐらいの日記だ。

――きょう、88匹の里親大募集ちゃんの最後の一匹、ビーグル犬のマッキーくんが、出発した。横須賀のパパとママに迎えにきてもらい、新しいおうちにつれてかえってもらうことができた。これで、ほんとのほんとにようやく一段落、一安心、この前のイベントは、ほんとのほんとに大成功となった。
めでたい! 
バンザイ!
やっほー!
……と書きたいところなんだけど、moeのこころに、ひとつ、あとひとつだけ、ひっかかっていることがある。

あの時、N川の河川敷にきてくださったおおぜいの中のあるかたに、わたしは、ひどいことをしてしまった。かもしれない。と思う。のだ。
なんだか回りくどい書き方ですみません。
もちろん悪気じゃなかったんです。その時は本気だったし、とっさにしてしまったことで、わたしとしてはそうするしかなかったのだけれど、あとからよく考えると、もしかしてすごく失礼で、間違っていたんじゃないかって気がしてきてしまった。いったんそう思うと、どんどんいやな気持ちになって、胸が苦しくなって、気になって気になって、どうにもならない。
だから……こんなところに私信みたいに書いても、そのひとに、肝心のひとに、見てもらえるかどうかわからないけど、あの時のあなたに、この場を借りてお詫びします。
ごめんなさい。
ほんとうに、申し訳ありませんでした。

どういうことなのか、説明しますね。そのひとは、しゃべることができないひと、たぶん耳が聞こえないひとでした。


志津枝が、おやまぁ、というように目を見張る。
「あ。そうか。これ、あの時ギャアギャア文句つけてきた、あの女なんだ」
 佳寿子は、まあ、たぶん、というように肩をすくめた。

――飼っていた犬を亡くしたばかりだ。
そう説明を聞いたとたん、moeは、カッとなって、頭が煮立ってしまったのです。
こいつは犬を道具にして、使い捨てにするようなやつだ。きっと、その死んだわんちゃんも、酷使されて、寿命いっぱい生きられなくて、若死にしたのに違いない。ひどい、ゆるさん、と思ってしまって。
『わん愛』サイトにうんと前からきてくれているひとならとっくに知ってる話をまたまた蒸し返してごめんなさいなんですけれど、以前、moeは、だまされたことがあります。盲導犬や介助犬を訓練したり老後をケアしたりする施設をつくる、日本でいちばんの素晴らしいセンターを作るという夢のような話に、のせられてしまった。
その話を持ってきた詐欺師が、からだの不自由なひとでした。
相手は凄腕の詐欺師です。へたなことをすると、すぐ個人攻撃だとか名誉棄損だとかなんとかいって裁判ふっかけてきそうなので、名前はもちろん言えませんし、どういうタイプでどういう障害のかただったのか、あまり具体的に説明できません。
でも、ひと目で「あ、このひとは、ハンディキャップのあるひとなんだな」とわかるひとでした。
いっぱい犬を飼ってました。
そのひとに、そのひとの犬たちは、みんな、とても懐いていて、可愛くて、忠実でした。正直、かなり驚きました。
「犬は、見かけで判断したり、差別したり、しませんから」って、そのひとは言いました。「だから、わたしも犬たちに感謝をしている。彼らに、できるかぎり、恩返しをして、幸福にしてあげたいのです」    
moeは、ショックでした。
それまで犬は「正常じゃない」ひととはあまりうまくやれない、なぜなら、ナメてかかるだろうから、と思っていました。ライオンなどは、獲物にする草食獣の群れの中から年寄りや幼児や病気の個体を見分けて狙うというではありませんか。動物は、健康な個体とそうでない個体を区別するだろう、そう思っていました。
自分が無知でサベツ的な感覚でいたことが恥ずかしかったし、反省したし、そこんちの犬たちのかわいさに、すっかりやられて、ほだされてしまいました。
そこに付け込まれたんですね。
気がつくと、この詐欺師の思いどおりにあやつられてて、騙されて、のせられて、悪事の片棒をかつがされていました。ひとに紹介したり、信頼できるひとだって保証までしてしまったりして、たいせつなともだちやヴォランティア仲間に被害をひろげてしまった。
この時のことは、思い出すだけで、いまも、恥ずかしくてたまらなくて、穴があったらはいりたいし、はらわたが煮えくり返るし、胃がきりきりします。
だから、すみません。障碍のあるひとと犬という組み合わせが、鬼門でトラウマでした。でも、それはわたしの都合。
そのせいでいやな思いをさせてしまっていたら、ほんとうに申し訳ありませんでした。


 
「なに、このひと!」
 宝井志津枝は、ずらした老眼鏡の上から叫んだ。
「えらい強烈なキャラやね。思い込み激しすぎ。それに、えらそー。なんだかんだ自分の都合ばっかり言ってサ」
 そうだけど。
 佳寿子は苦笑した。
 わたし、けっこう好きかも。こういうひと。
 ウラオモテがなくて、信じられると思う。
 いつも直球勝負で、建前とか、計算とか、見栄とかごまかしとかなくて、なにかをするのにためらいがない、ピュアで真っ正直なひとなんだと思う。
 ノートパソコンの画面上にメモ帳を出して、パタパタと打ち込んだ。


[モエさんってひと、気にしてくれていたのよ。
 私の電話番号がない寄付をみて、ハッとしたんじゃないかしら。
これはあの口がきけないやつかもしれない、って、ピンときたのよ]


「それはちょっとうがち過ぎなんじゃないの」志津枝は半端な笑い顔をした。「そんな、いちいち、推理する?」


 ひらめいたんじゃないか、と、佳寿子は感じた。
 モエさんにしてみれば、なんとなく後味が悪いことだった。
 でも、わたしは、あの日はじめてで、すぐにいなくなってしまって、名刺とかも、置いていかなかった。連絡のとりようがなかった。
 だから、寄付をみたとき、もしかしてと思った。

[ほら……]


 手紙をもう一回見せる。最後の手書きの部分、『……よろしければ、どちらでわたくしどもの活動をご覧になられたのかなど、お知らせいただければ幸い……』というあたりを指でなぞる。


[ここは、わたしが、その人間でも、そうでなくても、通用するように書いてある。
 別人だったら、困るから。
 そして、この手紙につけなかった追伸みたいなものとして……ブログに、この日記を出した。みて。日付も一致してる]

そうやって、もしご縁がつながるならつながるし、つながらなかったらあきらめよう、みたいな、そんな気持ちだったんじゃないかしら。


「けどさ」志津枝はまだ疑っている。「名前のわからない寄付なんてしょっちゅう来るんじゃない? そのうちどれがあんたか、わかるかな」


[たしかに。犬がいるイベント会場とかで、募金箱だしていれば、名前のわからない寄付がたくさん集まると思う。
 でも、ブログをみて郵便局から振込なんかするひとは、そんなに多くないんじゃないかな。
 もとから知り合いだったり、犬のことで問い合わせがあったひととかを除外すると、いかにもそれらしい時期に、いきなり寄付をしたのは、案外、わたしひとりだけだったかもしれない。
 それに、彼女も書いてるように、電話番号がなかったことがヒントになるわ]


「ヒント」


[うちには電話はあるけど、通信専用回線。
 わたしに通話はできないから。
 わたしが犬を亡くしたばかりでひとり暮らしだってことは、彼女は知っていた。
 本人が聾唖でも、家族がいれば通話可能。
 電話番号が書いてないってことは、通話不可能。これはもしかして、って]


「個人情報をやたら教えたくないひとなんだなって考えるほうがふつうじゃないかなあ。いまどき、イエデンを持たないひとも大勢いるらしいし。
 知らないひとに、携帯の番号は教えたくないじゃない。
 ……寄付はするけど、匿名、ってひともいるでしょう」


[……そうかな……]

 佳寿子は手を止め、ちょっと考えて、また打ち込んだ。

[ごめんね。勘違いかもね。でも、見てもらいたかったの。志津枝に。
 あの時、不愉快な思いさせられたのは、わたしより、むしろ志津枝や淳くんだったでしょう?
 このひと、ちゃんと気がついてくれたよ、反省してくれてたみたいだよ、って、わかって欲しかったの]


「そうやって他人に気ぃつかうから、アンタ太らないのよ」
 志津枝はがらっぱちに笑ってみせる。
「あのねぇ。あたしもちょっと身に覚えがあるから、自戒をこめていうんだけど。
 彼女にかぎらず、善意のひとって、だいたい変人で、傲慢なのよね」 
 ……ごうまん……?
「『地獄への道は善意で舗装されている』ってね。こんなこと許せない、ほっといちゃいけない、自分がなんとかしなきゃって、行動にうつすのは、間違いを正すことが好きなひと、つまり、正義感の強いひと。おおきなお世話で、おせっかいなひと。
 テロリストも狂信者も、はじまりは、義憤とか善意の塊。
 しかもさ、自分のことじゃなく、他人とか、物言えぬ動物のために働こう、なんてひとってのは、なにかを……吹っ切ってるでしょ」
 ふっきってる?
「だってさ。
 助けを必要としている誰かは、世界じゅうにいっぱいいるんだよ。
 いまにも飢え死にしそうなこどもとか。戦争も、環境破壊もあるし。
 問題は、山ほどある。
 そのたくさんの中で、どれがいちばん重要かなんて、どうやって選ぶの。
そもそも自分が生きていくのがぎりぎりだったら、よその誰かのためにエネルギーをさいたり時間をさいたり、できない。
 それができるぐらい、めぐまれているということ。
 もちろん、それぞれで、程度問題で、いろんな事情があり、いろんなひとがいるに違いないんだけど。
 それでも、ざっくりいうけど、こういうことをしたがるひとっていうのは、幸福なひとなんだよ。
 だからおカズ、このひとが傷つこうがつくまいが、あんたには関係ない。責任ないし、どうすることもできない。つまり、彼女のためにとか、アンタが心配したり、あれこれ考えたりする必要はないよ。
 もう二度と会うこともない赤の他人だし。
 一万円もあげた。それで充分!」
 この最後の部分は、手を握って、顔と顔をつきあわせて、唇が間違いなく読めるようにして、強調しての発言だ。
 それでも。
「……納得いかないって顔だね」
 いたずらっぽく佳寿子を見る。
 佳寿子は頬が赤くなっているような気がした。
「あんた、この女にほれちゃったんじゃないの。
 いいよ。そんなに気になるんだったら、返事しなよ。すればいいじゃん。
 はい、わたしはあのときのあいつです、って。ちゃんと名乗って、教えてやんなよ。
 お友達になれるかも。
 ひょっとして、あの犬を助ける活動、手伝ってくれないかって言われたりするかも」
「……」
「いいじゃない。気がむいたら、やってみればいいんだよ。もし、やってみてだめだったら、ノリがあわなかったら、いつだってやめればいいんだ」
 たたんだ老眼鏡を、胸元のブローチの輪っかにぶらさげる。
「ねえ、オカズ。いっちゃなんだけど……アンタ、ヒマすぎんのよ! なんかやることがあったほうが、ぜったいいいって!」
 思いがけないところまで話を進められてしまった。佳寿子は、そうか、自分はこのモエというひとに、妙に惹かれていたのかと呆然とした。
 志津枝は佳寿子の肩をバシンとたたきながら立ち上がり、さあさ、お茶でもいれよっかなぁ、と勝手知ったるキッチンにはいっていった。戸棚をあけ、紅茶の缶をみつけて出し、ポットに浄水器から水を注ぎ入れる。
 壁の窪みの古クッションをチラりと眺め、フフン、と肩をすくめる。
「クロちゃん、あんたのママ、少しは元気が、出てきたかね」
 ごく小さな声でつぶやくだけなので、佳寿子にはむろん聞こえないわけだが。
「だったらいいんだけどねぇ」

      ☆

 単に外来の待合室に座っているだけだとしても、ついこの間までしばらくの間入院していた病院には、どこか身内感・縄張り感がある。出戻り患者というか、入院OBというか。顔見知りの看護士さんなどが、通りがかればなおさらだ。
 擦れ違いざまに、ども、と手をあげ、ニッコリ笑顔を作ったのだが、相手はギョッとしたようだ。飛び上がって、逃げるようにソソクサ去ってしまう。
 なんだよ。そんなにいやがらんなくたっていいじゃん。
 それとも、不審者? もう、忘れられちゃった?
 国井幸太は少しがっかりする。
 しょうがないか。病院スタッフにしてみれば、患者は多すぎるもんなぁ。次から次にやってきちゃあ、どんどん出ていくもんなんだろうから。

 背ばかりはスラリと高いがまだ新米の看護士は、なにげない様子で歩きつづけたが、角を曲がると、ダッシュでナースセンターに駆け込んだ。カーディガンを羽織って書類整理をしている小柄な看護士の机に手をつき、ハアハア息をきらしながら、しゃがみこむ。
「せ、先輩ぃ、で、で、出ました、出ちゃいましたぁ!」
「なにが」
「例の、犬です。犬の憑いてる患者さんですう~!」
 ふたりは眉を寄せた顔を見合わせ、スッと姿勢を低くした。書類を屏風のようにして、ナースセンターの他の看護士たちの視線を遮りながら、こそこそ相談する。
「まだ憑いてた?」
「ぜったいです。間違いないです。だって、あたしを見たら、とたんに片足あげました。電信柱にであった犬みたく」
「………………」
「さすがに人前で放尿はしませんでしたけど」
 それはいくらなんでもまずいものね。先輩は額に皺を寄せて顔を曇らせ、ブツブツ言った。
「専門家に連絡してお祓いしていただいたほうがいいんじゃないでしょうか」
「主治医って、誰だっけ? 榎本先生? 工藤先生?」
「古賀先生です」
「あー! よっちゃんか……じゃ気付くわけない。あの先生、霊感とか、全然まったくないもん」
「……いやですよう、こわいですう……病院全体に霊障が及ばなきゃいいんですけど……あのう、せめて、こっそり、盛り塩はしときます」
「だね。手術室と、あの彼がいた病室と。あと、目立たないとこに、お札貼ろう」
「クリスタルはどうでしょうか」
「いいね。浄化作用の強いやつ、あちこちに置こう」
「いまのところは、そのぐらいしか、できないですかね」
 看護士ふたりは、妙にウキウキとがっかりした。

       ☆
 


 くにいさぁん、と呼ばれて、幸太は診察室にはいった。
 ギブスを外した。先生が言うとおりに、腕を動かしてみる。なんだかぎこちない。エネルギー切れ間近のロボットかなんかみたいだ。どこにどうちからをいれるんだったか、かげんがわからず、ふわふわ頼りない。でも、とりあえず動く。
 これで、外科的にいうと「すばらしい回復ぶり」なんだそうだ。先生はカルテにせっせとなにかを打ちこんだ。
 長いことギブスをしっぱなしだったので、そこらの肌がむきだしになるのはひさしぶりだった。なんだかスウスウする。無意識のうちに引っ掻いていると、垢がいくらでもポロポロ出た。払い落とそうとしたら、看護士さんににらまれた。消毒綿をもらって、ごしごしこすって、ちゃんと膿盆の上に垢を落とした。
「予後は良いです」
 カルテを書き終わった医師が断定する。
「今日はもう一回、シーネをつけときますけど、たぶん、あと二週間ぐらいではずせると思います」
「はあ。それはよかったです」
「なにか、気になることとか、ありますか」
「はぁ。骨折のほうはいいんですけど……あの……せんせい」
「はい?」
「いや、こんなこと、聞いていいかな」
「なんでもかまいません。ご遠慮なくどうぞ」
「じゃあ、あの」幸太はちょっと息を整え、思い切って言ってみた。「……魂って、どこにあるんですか?」
 霊感のないよっちゃんこと古賀嘉晴医師は、あごをガクリと開いた。デスク上のカルテ方面にむいたきりだった顔をはじめてこちらに向けた。重たそうなレンズの眼鏡の後ろのギョロ目ぎみのマナコを、面食らったように瞬いた。
「たま……しい、ですか?」
 ごめんなさい、すんません、国井幸太は謝った。やっぱりこんなこと言いさなきゃよかった。でも、……知りたい。できれば。専門家の意見をきいてみたかった。
「お医者さんはどういうんだか知りませんが」もう一度、強調する。「魂とか、こころとか、じぶんとか。この俺が、俺だと思ってる俺ってのがありますよね? それ、あるんだから、ぜったいどっかに、あのー、どういえばいいかなぁ、宿ってるっていうか、専門の場所を、持ってるはずでしょ。それがいる場所みたいなもん。その場所があるとしたら、よそじゃなく、このからだの中のどっかですよねえ?」
「……いや、いのちは……」古賀医師は面食らった様子で、眼鏡をなおした。「特定のどこかではなく、肉体の、全体にあるんじゃないでしょうか」
「はあ。……あのー、たとえばなんですけど。もしかして腕がなくなっちまっても、俺は俺だと思うんです。この俺であることから、あんまり変わらないっつーか。厳密イコールじゃなくなるかもしれないけど、でも、だいたい俺だっていうか、ほぼほぼ俺っていうか。この俺の延長線上。けど、首がなくなったら、俺じゃないだろうなぁと。だったら俺、こっから上にあるのかなって」
「いや首がなくなったら、あなたじゃなくなる前に、いのちがなくなります」
「ですよねぇ。でも、じゃ、心臓はどうスか? 心臓なくなっても死ぬとおもうんですけど、移植ありじゃないですか。他人の心臓もらっても、俺は俺? なんか、そーゆーこと考えると、どんどんわけがわかんなくなるんです。……医学は、そこらへん、解明してんじゃないんですか」
「いや……そういう問題は、医学の分野ではなくて、哲学とか神学とかじゃないでしょうか」
 古賀医師は眼鏡の中心の鼻にあたるあたりを、指で、ツイッと持ち上げ、それから、その指を自分のコメカミに置いた。
「個人的見解を申し上げてよろしければ、そういうものの所属する場所があるとしたら、たぶんこのへん、ここらのどこかです」
「オデコ」
「脳です。あいにく、脳の中に魂という部品があるのではありません。魂を取り出してみせることはできません。インターネットがどこにあるかといったら、世界中のネットワーク全体にある。人間個人の精神も、おそらく脳全体にバラまかれて存在している。たぶん大脳の前頭連合野がもっとも重要で、人間らしさやそのひとらしさの本質にかかわる部分だと考えられていますが、ボクはあいにく脳の専門でなくてよくわかりません。ただ、精神活動は、脳みそ以外ありえない。他のどこかには、行き場がないです」
「そうなんスか?」
「恐竜ならともかく」
「恐竜は違うんスか?」
「ある種の恐竜は,シッポの付け根のあたりに、小さな脳の一種があったことがわかっています。からだが大き過ぎて、頭部にしか脳がないと、うまくうごけなかったんです。動作が間に合わない。いわゆる、総身に知恵がまわりかね、です」
「……ああ、ウドの大木ですね!」
 ちょっとちがうんですが、とモゴモゴつぶやいてから、古賀医師はつづけた。
「ちなみに、心臓にはこころという文字がつかわれていますし、英語でもハートという。♡は臓器のことであり、感情の器です。両方兼用です。臓器としての心臓は精神活動に関係があるはずがありません。ただの血液循環ポンプですから。ただ、コレが止まると、まもなく死んでしまうし。感情の動きに応じてドキドキしたりします。わかりやすい。それで、昔のひとは、こころは心臓にあると思ったんでしょう」
「へーえ」
 幸太は自分の胸を手でさすり、コメカミに指をあてがってみた。
 なるほど。自分というのは、なんとなく、だいたい顔の後のほうにあるような気がする。左右の真ん中、鼻と目の両方の奥のどこかに。すくなくとも片手の指先とか、臍のごまには、自分はない。少なくとも精神の中心部分はそんな僻地にあるはずがないと思う。
「ていうか。あの……俺……もしかして、脳みそ、いじられてないっスよね?」
「は? 違和感があるんですか」
 たちまち気色ばむ医師に、いや、違います、違います、と、手をかざし、ただね、と、幸太は言う。
「事故の時、オレ、一週間ぐらい目がさめなかったでしょう? ときどき、なんか、ぼうっとしちゃうんです。いま自分がどこにいるのか、夢なのか現実なのか、とっさに、わかんなくなる。こういうの、前は、あんまり、なかったと思うんです。もちろん、起きぬけとか、酔っぱらったとかは別ですけど。なんか、近頃わりとしょっちゅう、気が遠くなるっていうか。リアル感が薄れたり。ワープしたみたいになってたり。記憶もちょっとへんで」
「意識障害があるということですか!?」
「いや、そんな、大げさなものか、わかんないんですけど」
 なんだか恥ずかしくなってきて、うつむいてしまう。
 相手は医者だし、大怪我のあとなのだから、なんでも言っていいはずだし、こういうことを相談するのに、みっともないとか恥ずかしいとか思う必要はなんてないはずだ、と、思う、思いはするのだが……言いにくいものは言いにくい。
 だって……
 事故のあと、俺、なんか、前の自分と違ってるんじゃないかって気がするんです。
 もしかして、気を失っている間に、悪の組織とかに改造人間にされたんじゃないか、みたいな。ライダーファンの小学生だっていまどきそんな妄想しないと思うけど。
「なんか、自分が自分だってことに自信もてなくなくなってきて……その……疑って悪いんですけど。もしかして、気絶してる時、なんか、ありませんでした? 脳に電流ながされたり、謎のくすりを飲まされたり。……いえ、けっして先生を疑うとかそういうんじゃないんですけど!」
「CTスキャンも、MRI検査もしました」カルテを確認する。「事故直後で、救急車搬送の緊急時だったため、患者である国井さんご本人の承諾をうけずにこれらのことが成されたわけですが……駆けつけてくださったご家族から、了解のサインをいただいています」
「あ、そうなんだ! そりゃどうもすみませんでした。いや、えっと」
 この疑わしげな目つき。いかにも事務的な用語。もしかすると、あれだろうか。誤診だの医療事故だの、訴えてやる! だのといった方面に話がいくみたいに誤解されてる?
 古賀医者の顔つきがふだんより堅苦しく、態度がなんとなくよそよそしいのは、そのせいかもしれない。まさか! そんなことしたくない。
「いや、あのですね、先生に文句言いたいとかそういうんじゃなくて、ありがたいと思ってます。ただ、なにか、ふつうじゃないことがなかったか、そのへんを知りたいだけなんです。自分のことっスから」
「特に注意を要するべきだと思われるような所見は、ここには書かれていません」
「そうなんだ」
「しかしですね、ご心配なら、再検査なさったほうがいいです」
 医師は真摯なプロの態度を崩さない。
「たとえば、脳のごく細い血管などに、発見しにくい傷があったとします。事故当初はなんともなくても、ちょっとしたきっかけで、血圧が高まるなどして……たとえばお風呂にはいるとか、そういう日常の何げない行動のせいで、不意に出血をしはじめたりすることがあるかもしれないんですね。脳は繊細な器官で、そのどこで異変がおこるかによって、さまざまな身体症状が起こりえます」
「……の、脳みそ出血……?」
おびえる幸太に、
「みそは出血しません。出血するのは血管です」
 おもしろくもなさそうに言い切る古賀医師。
「また、出血したとしても、ごく微量で、発見されないということもあるんです。すぐにはなんら問題がない。ただ、ごくごく少しずつでも、ずっと出血が続いていると、だんだん血管が狭まったり詰まったりどこかを圧迫したりして、それではじめて影響が出てくることがある。いわば時限爆弾みたいなものになるわけです」
 こええ!
 ちっともなぐさめになっていない!
「ご面倒に思われるかもしれませんが、腕の治療で通院なさるんですから、ついでに、もう一度、詳しく、お調べになったほうがいいんじゃないですか。検査の予約状況、問い合わせてみましょうか?」
「いや、えと……あの」
 そんなことしたら、また、カネがかかる。もしかして長々と入院させられたりしてしまうかもしれない。
 智美の赤ん坊は、じき九カ月になるっていうのに。
 恐ろしいことはできれば知りたくないという気持ちも働いた。知らないでいればないことにできるわけでもないのだが。
「あの、ちょっといろいろ事情もあるんで、家族と相談してみます。もしかしたら、お願いするかもしれません。その時は、すんません、宜しく」

 支払いを済ませて、病院前の停留所でバスを待った。
 紫色と茶色を混ぜた色のプラ屋根を透かしてくる日差しがキラキラだ。おもちゃのゼンマイを何千個も巻いたみたいな、セミたちの声がする。なにげなく座ったベンチはアツアツで、我慢して座っているとズボンの腿やら尻やらがジリジリ焼けてきた。
 もう夏になるんだ、と幸太は思う。
 意識をなくしていたり、入院だリハビリだで忙しくて、ちょっとウラシマタロウになっているうちに、世間はめっきり夏めいた。まだ一度もプールにも海にもいっていないのに。
 今年も夏の盛りがやってくる。
 ただ座っているだけで首筋に汗がジワジワしてきた。トートバッグの中をさがすと工務店のタオルがでてきたので、汗を拭き、ついでに首にかけた。いつものカッコをすると、さすがに気分が落ち着く。
 末吉建設の事務所に顔を出そう、と思いついた。
 退院報告は電話でいれてある。みんなが見舞いにきてくれた頃にはデカくかさばっていたギブスが、こうしてずいぶん軽くなり、もうすぐはずせる。この姿を社長や仲間たちにしっかりと見てもらいたかった。
 できるなら、一刻もはやく現場復帰したい。そういうアピールもある。
 なにしろ子供が生まれてくるのだ。これまで以上に、まじめに稼がねばなるまい。

 晴れた日の午後遅くの事務所は、奇妙に明るく日当たりよく閑散としていた。吉見社長の長女のムツミさんがひとり、電話番をしながら、インテリアコーディネーターだかガーデニングマスターだかの資格をとるためのカラフルな教科書をひろげている。
 吉見家は親父っさんが一級建築士で、ふたりの息子がそれぞれ給水装置工事主任技術者と第二種電気工事士で、二級建築士の資格も持っていて、親父引退までに一級をなんとかゲットしようと勉強をがんばってしていたりする。おかあさんのほうは会計士だか税理士だかで、母方の兄弟には法律関係がずらずらいるらしい。一族郎党の免許・資格を全部あわせたら、ものすごい数になるだろう。
 幸太が家出と帰還をくりかえしていたころ、五年先輩で地元のワル集団の伝説のアタマのひとりだったのが、吉見孝哉、給水工事をやるほうの息子だ。当時からデフォルトとして腰骨にひっかかっていた工具ベルトにはスパナだのレンチだのが種類別大きさ順にズラズラーッとさがっていて、いつどこで喧嘩になっても、単車がコケておかしくなってそこらの他人の車から部品を調達しなきゃならなくなっても、実に頼りになるのだった。
「あら、こうちゃん」
 ムツミさんに微笑まれると、眼の奥や鼻の付け根や、もっと下のほうのさるあたりがジワッと熱くなる。中学三年の夏、ヒマならアンタちょっとつきあって、と言われて出掛けた知らない海で泳いで食って大はしゃぎしたその帰り、シートを倒した軽ワゴンで無理やり奪われた潮まみれ砂まみれのキスが、幸太にとって男女のことの生まれてはじめてであった。
 日焼けと海遊び疲れとなんだかんだでまいあがって朦朧としているうちに海岸沿いのいまはもうつぶれてしまったラブホに連れ込まれ、それからおよそ二時間かけて第四段階までイッキに教習していただいた。後で知ったが、その時、ムツミさんは、長年ズルズル付き合っていた妻子ある男となんとか決別しようと必死に足掻いているところだったらしい。ラブホのシーツにふたりでくるまってピースサインでにっこり、という、正気ならありえない恥ずかしい記念の写メ(当時)は、おそらく、その男につきつけてみせるためのものだったのだろう。新しい彼ができたからサヨナラ、あんたに未練ないから、こんどの恋人はこんなに若くてピチピチなんだよ! と。
「おかえり。退院おめでとう。でも、まだ、ギプスなんだ」
「うぁ~ぃす」
 意味があるようなないようなことを口の中でだけ言って、会釈をして、ぶらっとあたりを眺める。
「みんなは?」
「現場げんば。出払ってま~す。そりゃそうでしょ。こんな日に事務所で何人もぷらっぷらしてるようじゃ、経営危ういよ」
「っスね」
「ねーねー、快気祝い、なにがいい? みんなで相談してたの。でも、赤ちゃん、もうじきなんでしょ? だったら、ベビーのお祝いにその分上乗せのほうがいいんじゃないの。なんてったって現金が一番だろって意見も多くて」
「……あー。ども。すません。気ぃつかってもらっちゃって」
 首を落とすようにして、礼をする。嬉しいけれど、助かるけれど、とても恥ずかしいし、申し訳なくもある。
「あのー。俺。いつから来てもいいですかね」
「え? いつからって」
 ムツミさんはギブスをチラチラ見た。
「そりゃあ、ちゃんと良くなってからでしょう。あわてちゃだめだよ」
「けど。だと、まだ当分かかっちゃいそうなんスよ。ここんとこの骨、くっついたばっかで、力仕事はできないんで。でも、こっちの手だけでもできることはあるんじゃないかな。機械操作とか。なんなら帳簿とか、せめて運転とか」
「ああ……そういうことか。でも、……うーん、無理すると、ゆがんでくっついたりして、よくないらしいよ? 怪我をよくしておかないと、年取ってから痛むっていうし。まだ大事にしておいたほうがいいんじゃない。……それに」
 ムツミさんは手にしたペンをしばらく指先でいじっていたが、コトン、と、机に置いて、向き直った。
「こうちゃん被害者なんだから、胸はって、治療に専念すればいいんだよ。加害者とあっちの会社から、毟り取ってやりゃいいじゃない」
「…………」
「退院しても保険金は出るんでしょう。通院一日につき幾ら、って、請求できるはずだよ。この怪我のおかげで仕事ができなかったのが合計何日で、その補填に割合で、少なくとも幾らいくら、みたいなのが。ガメツいことじゃないよ。とうぜんだよ。被害者なんだから、がんばって早く治ってみせようなんて思わないほうがいいって。……いったらアレだけど……ウチとしても、まともに働けない社員に出勤してもらっても困る」
 正直にホンネを言ってから、言ってしまったコトバの冷たさに自分でギクッとしたのだろう。ムツミさんはあわてて、言い足した。
「だって、ほら、仕事中なら労災だけど、きみのこんどのそれは、ウチは、ぜんぜん関係ないから。でしょう?」
 もちろん、わかる。
 景気がいくらかマシになりはじめたといっても、その昔のようではないことも。
 自分が、もしかしたら、たまさかこっち側にころがりこんだ“被害者”に過ぎず、“加害者”だったかもしれない、あのひとだって気の毒だ、という気分が、どんなにしても。
 幸太は耳をかいた。
「あーんじゃ、俺、もうしばらく、ぷらっぷら遊んでます」
「うん、うん、そうしなよ」ムツミさんは、ほっとしたように笑う。「ぜひ、そうしてください」
「わかりぁした。じゃあ、帰りますけど、みんなに宜しく言っといてください」
 ふざけて笑って、いつものように、両手をポケットにつっこもうとして、張り替えたばかりのギブスと三角巾に阻まれた。怪我人はふだんの得意ポーズすらも決まらない。
「考えてみれば、ちょうどいいんです。ほら、ヨメ、こんなで。いつ生まれてもおかしくないんで。シゴト休めるなら、そばにいてやれるんで」
 口にしてみたら、なんだよ、ほんとうにそうじゃないか、と自分でも思った。
 なんだかんだいっても、俺はついてる。超ラッキー。幸運体質。
 笑った瞬間、口の中に、突然、ふと、あの、甘いやさしい香りがしたような気がした。
「……あの。ムツミさん。もしかして覚えてないかなぁ。昔、給食にあったやつ」
「給食?」
「パンに塗るやつで、白いクリームみたいな。ほんのり甘くて、すげぇうまくて」
「あ。バタークリーム」
「え」
「それ、バタークリームでしょ」
 あっさり断定された。
「知ってるんスか」
 そういえば、ムツミさんは、幸太より孝哉先輩よりほんの少し年上なだけで、同じ学校だったのだから、同じ給食を食べていた可能性もおおいにある。
「覚えてる。人気あったよね。みんな欲しがって、とりあいだった」
「そうそう」
「あれはね、本来ケーキのデコレーションに使うものなのんだよ。生クリームは牛乳の濃いとこからつくるけど、あれは、バターをゆるめて、卵の黄身と砂糖を水でといて混ぜこんで作るの。だからバタークリームっていうの。西洋のお菓子の基本中の基本です」
「うわ、そうなんだ! なんだぁ。そうなんだァ!」
 幸太は嬉しくなって、去りがたくなり、部屋のなかほどまで戻ってきた。
「ずっと思ってたんす。あれ、もう一回食いたいって。名前知らないし。コンビニやスーパーでみたことないし。ホイップクリームはあるほど違うんですよね」
「そりゃ違う。卵がはいるし」
「なんでそんな詳しいんスか」
「うん。……あのね、彼氏、パティシエなんだ」
 ムツミさんはちょっとはにかんだ。
「ぱてぃしえって……ケーキとか作るやつだ」
「それ。だから、いろいろ、試食とかするの。バタークリーム食べさしてもらった時、あ、これ、どっかで食べた! って言ったら、彼氏がニヤニヤして、どうせ給食だろって。みんなよく言うんだって。その、受け売り」
「へぇ」
「こんど紹介する。味方になって。うちのパパ、まーちゃんのこと、ちょっと気にいってないから」
 まーちゃんっていうのか。ケーキ屋の彼氏。
「なんでスか」
「ガテン系じゃないからでしょう。ケーキ職人だって力と技術の仕事なんだけどさ、泥んこにはならないからね。男のくせに甘ったるいニオイなんかさせやがって、同じカマすなら腰いれてコンクリカマせ、とか言う。けど、要するにあれだよ。パパは愛する娘を奪われるのがいやで、どんな男が来ても反対ってこと」
「スねえ」
 幸太はうなずいた。
「ありがと、ムツミさん。名前わかって、よかった。さっそく、探してみます……えと、なんだっけ?」
「バタークリーム」

       ☆

「それでは、その場足踏みからグレープヴァインまで、続けていきますよ、ワン、ツウ!」
 スポーツセンターの二階、マタニティビクス・クラスにあてがわれている教室はやたら広い。小振りな体育館ぐらいあるホールなのに、インストラクターの稲嶺先生と向き合って居並ぶ妊婦はたったの七人、妊娠五カ月そこそこから臨月寸前まで腹の大きさはまちまちだ。四人、三人の二列になって、お互い充分な間隔をあけても、巨大な鏡にうつる姿は閑散としている。
 ラジカセのラテンな音楽にあわせてリズムよく足踏みをし、横移動をし、手をあげ脚をあげ、ポーズを決めて、くるっとまわる。踊りと体操の中間ような動きだが、妊婦の健康管理とお産の安全のために、よく考えられたものなのだそうだ。
 がんばりや成績重視のスポーツとちがって、これはあくまで、体調管理のための運動である。ちょっとでも気分が悪くなったりおなかが張ってきたりしたら、無理をしてはいけない。自分の判断で何度でも、動作をやめて休んだり、水分をとったりすることが推奨されている。キツイなと思ったら、見本がどうであろうと、デキるところまでしかやらなくていい。ついていける範囲でやればよい。
 なにしろ妊婦は腹が重たい。いかなる動きもキビキビはきはきとはいかない。億劫がってダラけた生活をし、自分をかばって動かなければ、妊娠周期がすすむにつれて、どんどんからだがナマっていく。
 しかし、出産という、気力体力を使う大イベントに備えるには、生命力や運動性能はなるべく落とさないでおいたほうがいいのだ。
「はい、みなさん、素敵。いい感じですね、じゃあ、もう一回いきましょうか、次のきっかけで右からでますよ。はい、ワン、ツウ!」
 稲嶺先生は、カッコよくていいなぁ、と国井智美は思う。うんと短いパンツにスポーツシューズ、足首あたりにクシュクシュッとさせた靴下がよく似合う、すらりと伸びて陽に焼けた脚。しなやかでキレのある動き、キマッてるポーズ。もちろんお腹はぺたんこだ。
 金色に近い髪のせいもあって超若くみえる先生だが、実は二歳の女の子のママだ。このお教室にくるようなプレママたちのうち、初産の連中にとっては、とにかく頼れる「先輩」である。時々自分の体験を話してくれる。経験者である先生が教えてくれるディテールはすごく参考になるし、いろんな心配事とかを質問して、前もって心構えをしておけて安心だ。
 さっき、受け付けのへんで見た先生のジーンズ姿、カッコよかったな。すんごい脚長で、痩せてみえて。
 あーあ。ジーパン、はきたいなぁ。
 カッコいい稲嶺先生の動きを追いかけて、なんとかかんとか踊りながら、智美は思う。
 そろそろ真夏。肌見せの季節だ。今年も透け感のあるチュニックっぽいのが流行ってる。古着風に脱色したローライズのジーンズに、フワフワでフリフリのベビードールみたいなのかぶって、うーんと踵の高いミュールとか。でもって、ググッとあいた衿元にヒカリもん。爪とか、髪とかにも、ところどころキラキラを散らして、みたいな。
 いいよなぁ。
 けど……。
 ずんどど、どどどん、ずどどん、どん。
 だいぶ前にはやったラテンのリズムに乗って、手を曲げたり、足をあげたり。踊るのは気持ちいいけれど、踊る自分の姿は、あまりにトホホで情けなくてみっともなくて、できれば鏡を見たくない。
 ビクスはかなり汗をかくので、運動前には着替えをする。今日持ってきたのは特売ワゴンで買った3LサイズのTシャツと、幸太の古い体操着のズボンだ。限界までゆるんだゴムの上に、鏡餅のような腹がぽこんと乗って、はみだしている。
 妊婦にはふつうの服は入らない。そんなことは当たり前だ。妊娠の週数がふえれば、腹はふくらむ。もちろんだ。刻一刻体型がかわる。先週まで辛うじてはけたズボンが、膝のあたりでひっかかる。着られるもの、着ていてラクなもの、着心地の良いものの範囲がどんどん狭まる。
 ふつうのデブなら、少々きついものを無理に着て、多少脂肪に食い込ませてもなんとかなる、平気かもしれない。だが、妊婦のまんまる腹は皮膚が薄く、ふくらました風船のように引き延ばされて張りつめている。ほんのちょっと内側はもう赤ちゃんの領域だという実感がする。そんなところには紐一本だってかけたくない。赤ちゃんの首に紐をしめるような気がするのだ。苦めるようなことできないし、こちらも、たった紐一本であろうとも、ゴロゴロして、ジャマくさくて、気になってならない。
 かくて、腹には、なるべくなにも触れさせないようにするほかない。
 腹帯やコルセットで全体をゆったりしっかり支えておけば安心なのだが、なにしろ夏。
 暑い。
 ハワイのおばさんの着るようなゆるいワンピースをテントのように羽織っておくか、いっそ、まるハダカになってしまうほうがいい。仰向けか、シムズの体位という横倒しで片膝を曲げた姿勢か、居心地のいい椅子にゆったり座ったかっこうで、夏掛けかタオルケットでもふわりとかけておいてもらえば、うっとりだ。
 下着はしょうがないから最低限つけているが、ともすると、腹をよけて、上下にズレてよれて、たまってしまう。
 こんな状態の女に、おしゃれなんてことができるわけがない。
 お気にいりのジーンズなんか、とっくにはけない。無理にはいてみようとしても、膝までも入らない。
 妊婦は転んじゃいけないし、お腹を冷やしちゃいけないのだ。真夏であろうとも臍出しパンツはNGで、スパイクヒールは無理にきまってる。
 母乳の準備なのか最近では乳房もすこい勢いでふくらんできていて、巨乳Fカップといえば聞こえはいいが、下のまるみの影方面に知らぬまに妊娠線のイナヅマ模様が発生している。腹には気をつけてセッセと予防クリームをぬっていたのであまりめだたないが、まさか、オッパイ下部がいつの間にか、スイカ模様になってしまっていたとは! ぬかった。知らなかった。ちゃんとなおるだろうか。消えるんだろうか。不安だ。
 もちろんそんな妊婦生活はやがて終る。遠からず妊婦でなくなる時がくる。こんな拷問みたいな無残な時期は、一生のうちほんの何カ月かでしかない。妊婦でいる期間ぐらいは、おとなしく自重し我慢するのが正しく慎ましい日本の母というものだろう。
 しかし……それにしても。
 この、最悪の体型。ダサい服。ボロボロの顔。過敏になって、ファンデーションひとつ塗れない、化粧できない肌。
 みじめったらしいっていうか、みすぼらしいっていうか。ブスいというか、キレイじゃない、可愛くない、だらしない、不潔ったらしい、
 ゾッとするほどダサみっともない。
 ビクスにくるような妊婦仲間ならお互いさまだからしょうがないけど、妊娠したこともない女ともだちになんか、ぜったい見せたくない、アンビリーバブルな、状態。
 こんなのが、自分だなんて。
 智美はしみじみ悲しくなる。
 あと、ほんのちょっとの辛抱なのだが、だとはいえ……花の生命は短くて、オトメの青春はすぎてしまえば戻ってこないというのに。
「……はい、あと四回しっかりがんばってぇ、フォー、スリー、ツウ……はい、オッケイ、お疲れさまですッ!」
 激しくカッコよくリズムよく踊りながらほとんど息も切らさず元気よく先生は言い、終ればすぐにニッコリ笑う。対する妊婦軍団は、いずれも、げっそりで、だらだらでろでろ、息も絶え絶えだ。
「それでは本日のメニューはここまで。このあと、クールダウンをします。各自マットを持ってきて、横になってください。飲み物をとるかたは、とってください」
 CDがかけ換えられ、BGMが、瞑想をさそうような、アルファ波をださせるような、不思議で神秘的でゆっくり静かなものになる。
 稲嶺先生の指導にあわせて、ゆっくり注意深くからだを横たえ、ならった方法で呼吸をしながら、なんでこんなにイラついてしまうのだろう、と考えている。
 もうじき赤ちゃんがうまれてくるのに。
 こんなに重大で幸福なことはないはずなのに。
 もっと充分にリラックスしなきゃいけないのに。
 幸福なおかあさんでいなきゃいけないのに。
 どうして、油断すると胸が真っ黒になるんだろう。冷たく濡れた大きな大きな毛布がべっとりまわりを覆い尽くしているみたい。くるまれて、手も足も動けなくなる。まだいいけど、まだ大丈夫だけど、こんなのそう長くは続けられない。そんなにがまんできない。そのうちきっと窒息しちゃう。そんな気分。
 誰かタスケテ、あたしクルシイ。
 コワイよ。
 なんだかよくわかんないけど。
 なにかが来る。じわじわ近づいて来る。知らないもの。正体のわからないもの。
 そのなにかがとてもとても怖い。どうせ来ちゃうんで、怖がってもしょうがないけど、避けられないし、逃げられないけど、でも、怖いものは怖い。
コワイものはコワイ。
 喉の奥のほうがごつっとした。天井を眺めている目の目尻から、ひとすじ、涙がこぼれる。悲しんでいるのだということに自分で気付かなくても、涙はこぼれる。

 ビクスのあとには、ケンタやマックやドーナツやケーキやコンビニの新作スイーツをしこたま買って帰る。それが、国井智美のひそかな愉しみである。
 いまどきの妊婦は太りすぎをかたく戒められている。体重増加は、ふつう体型なら妊娠前プラス8キロまで、元がよほど痩せていた場合でも10キロ増までに納めておくよう忠告される。それを越えると、糖尿病やら高血圧やら高脂血症やらを引き起こすし、ひいては、難産になりやすいからである。
 しかし、妊婦は太るようにできているのだ。
 ずんずん巨大化するからだが大儀でたまらないのにかてて加えて、暴れたり無理をしたりして赤ちゃんにもしものことがあってはいけないので、運動不足になる。すべての動作は能役者のごとくソロリソロリと緩慢になり、他人任せにしていいことはどんどんサボる。腹が張ったり具合が悪くなったりした時には、スワとばかりに横になる。
 睡魔は妊婦に影のようにへばりついた友達だ。寝ても寝ても眠い。いくら寝ても眠い。朝から晩まで、一日じゅう眠い。眠りは浅くて胎動を感じるとすぐ起きてしまう。だが、またすぐ眠くなる。重いし、眠い。だから、なにかというと横になる。ひねもす、のたりのたりかなである。
 激しいツワリや早流産しかかったせいで、ゲッソリ痩せてしまう妊婦もなかにはいるんだそうだ。が、健康で、経過が順調であればあるほど、よほど気をつけてがんばって抵抗しても、「すこぶる太りやすくなっている」「ちょっと油断するとどんどん体重がふえる」それが妊婦のナチュラルなのである。
 妊娠中のホルモンの狂乱と、なにかとかかる精神的ストレスが、多くの妊婦を食欲魔人にさせる。年輩の婦人などは日本人の平均が貧栄養だった時の常識をもち出して「赤ちゃんのために二人分食べなさい」などといったりもする。妊婦も胎児のために「バランスよく、たっぷり栄養とらなきゃ」とついついそう考える。21世紀の平成の飽食日本の妊娠可能な女性はすでに日頃から充分な食生活をしており、場合によってはやや過剰な食生活をしているというのに、さらに「赤ちゃんの分」を足してしまうのだ。そうして余分に食べたものはもちろんみな脂肪になる。体重になる。
 臨月まで二カ月を残して智美は既にリミットぎりぎりだ。
 妊娠前の体重は47キロだった。ほんとうはもう5キロ落としたい。雑誌のモデルのように流行の服をカッコよく着こなすためには、太腿や腰骨まわりをもっとスリムにビシッと締めなくてはいけないと思う。ちゃんとマジメに毎日腹筋運動をするか、ヨガかダンスでも習えばすぐにもそうなれるはずだ。そのはずだ。なにも、ガリガリでなんかなくていい。ほどほどで、しなやかで女らしい感じがいい。
 ……というのは、前世のような昔のことに思える妊娠前の話。
 いま、下着も靴下も全部脱いでトイレに行ってだせるものはだせる限り最後の一滴までなんでもすべてだしてだしきって計測した値で、さらに、朝昼晩でいうなら起き抜け朝食前トイレ後、つまり、一日でいちばん痩せている時で、56・5キロもある。四捨五入すればすでにきっぱり「プラス10キロ」である。
 産婦人科の検診のたびに、「太りすぎ」「痩せなさい」「何度もいったろうに、なにをやっている」と叱られるのではないかと、ビクビクしている。
 なのに、妊婦雑誌や先輩ママたちによると、臨月にはいると、この上さらにいちだんとものすごく太りやすくなるそうだ。それはそうだろう。腹はよりデカくなり、動作はより緩慢になり、疲れて座りこんでしまったりサボってダラダラしたりせずにいられなくなり、睡魔はさらにさらに強力になるのだから。そうなってしまうと、もはやほとんど抵抗のすべはない。水を呑んでも太るどころか、空気を吸っただけで太るらしい。腹八分目をこころがけても、甘いものや炭水化物を必死に我慢して、肉や脂肪分をコンニャクやキノコにとりかえても、食べたいものを三回のうち二回は我慢しても、どんなに根性や意志の力が強くても、赤ん坊には勝てない。妊婦がただふつうに健康で生きてぼうっとしているだけでこの時期には間違いなく3キロは増える、と断言するひともある。
 やってられないよ、と智美は思う。
 そんなの戦いきれない。
 なにしろ、妊娠は二七〇日間もあるのだ。一週間や一カ月なら根性で辛抱もできるが、何カ月もただただじっと、したいことをせずに耐え忍ぶ一方なんて、いくらなんでもつら過ぎる。無理だ、不可能だ。不自然だ。
 そんなことできるわけがない。
 多くのママがみんなそうだと思う。理想論はどうであれ、実際には、そうだと思う。
 かくて……
 激しく運動して、疲れて、発汗して、ぜったい少しは痩せたはずのマタニティ・ビクスのあとだけは、思いきり食欲を解禁することにしている。なんでも食べたいものを買って帰って、好きなだけ食べたいだけ、こころゆくまで、満足できるだけ、食べにたべる。とことん食べる。食べまくる。
それを自分に許す。
 ……というのが、智美の考えついた妥協案である。
 なにかを思い切り食べたくなったら、雨が降ろうと眠かろうとサボらず用意してトテトテ歩いて電車とバスを乗り継いでビクスにいって、ちゃんとみっちり先生のやるとおりに動かなければならない。あまりにも具合の悪い時はさすがにやめておくが、いけるかぎりせっといく。これなら、ただ家にいてダラダラしながらも欲しいものをじりじりガマンするだけよりは、まだしもラクだ。ご褒美めあてにがんばれる。ただだらしなく食べたいだけ食べたりしないで、ちゃんとまず運動をするなんて、なんて健気なわたし!
 お利口。えらい。ちゃんとバランスがとれてる!
 と、智美は思うのだが。
 間違いである。
 不幸な間違いである。
 ほんとうは「食べたあとで」といっても直後はキツいので30分ほどあけたところで、運動をするほうが良いのであった。それなら逆よりは太らない。エネルギーとして、いま食べたものを使うからである。第一、少しあとでマジメに運動をしようと思ったら、そんなにたくさんは食べられないはずだ。飛んだりはねたりする時に胃が重たいと、気持ち悪くなる。血糖値があがりすぎ、消化にエネルギーをとられすぎていると、からだはちゃんと動かない。
 「運動したあとで」食べるのは、これとまったく反対のこと。
 朝ハヤオキをして空腹のうちに激しく稽古してから、ちゃんこを食べ、満腹したところでゆっくり休息しグッスリ眠るというのが、若い関取候補をもっとも効率よく肥育させる相撲界伝統のパターンであり、自分のやっていることがこれにあまりにもそっくりであるということに、哀れ智美は、まったく気付いていないのであった。
 こんなに律儀に健気に必死にがんばっているのに、なぜだろう、どうしてズルズル太っちゃうだろう、と思っている。
 自分は本来そんなに太るほうではなかったのだから、これはお腹のこどもが、生まれながらの……いやまだ生まれてもいないうちから……大食漢だということなのではないかと疑っている。つまり自分のせいではない、自分は悪くないはずだと思うのだが、事実、推奨されている以上に太ってしまったことは、後ろめたい。妊娠という人生の一大事に対して不真面目であるような気がして、ひけめに思う。
 産院の先生や、幸太やその母に、正々堂々顔向けができないような気もする。
 そのプレッシャーやストレスを解消するために、甘いものやジャンクなものが必要となる。いましか食べられない「季節限定」スイーツが必要となる。
 どうしても何か食べるなら、赤ちゃんのために良いというニボシ(EPA、カルシウム)とか納豆(ビタミンB)とかそういったものを食べたほうが良いにちがいないということはわかっているが、そういうのを食べても嬉しくない。もともと好きじゃないし、美味しいと思わない。だからストレス解消にならない。だから、そういうの「も」ちゃんと食べて、その上、自分の好きなもの「も」食べる。
 これが恐怖の肥満スパイラルである。
  
 禁断のおやつを詰め込んだコンビニ袋をさげて帰宅し、どうせ誰もいないにきまっているので特にただいまも言わず無言で靴を脱ごうとしていると、家の中から「おかえりー」と言われたので、ギョッとした。
 そういえば冷房がやたら強烈についている。たとえ無人になる時でも完全にオフにしてしまうと、このごろの東京では戻ったあとがあまりに地獄なので、出掛ける時にもドライにするか最低レベルではつけていくようにしているのだが。
 エアコンは壊れそうな勢いでゴウゴウうなっている。ブリザードみたいな風が吹き出している。
 んもう! と智美は思う。
 強過ぎる冷房は不経済だし、妊婦のからだに、とても良くない。すごく良くない。なのに男は暑がりだ。特に一日肉体労働をしてきたあとの幸太ときたら、夜中まで、あちあちあちあち言いまくりだ。寝る時など、せめてタイマーにしてくれといくらたのんでも、冷房を強く運転しっぱなしにされる。すっぱだかに近いかっこうでだるそうに団扇をぱたぱたやっている幸太の横で、タオルケットも毛布もふとんもみなかぶってギュッと内側から自分にくっつけた智美が長袖のパジャマにトレーナーまで着込んで震えている、みたいなことに、なりがちである。ふだんですら。
 妊婦は、さらに、さらに、さらに寒さに弱い。
 あー、もー。
 こんなやつ、入院しててくれてたほうが良かった。
 チラッと思ってしまう。
 亭主元気で留守がいい、って、ママが昔いってたけど。あれはこういうことだったの。
 アパートのドアからすぐのキッチンに、その亭主の幸太はいて、エプロンをつけて、なにやらカチャカチャ音をたてている。
「なにしてんの」
 不機嫌な口調でいいながら、踵をかまちにこすりつけた。
 妊婦は足もむくむ。ふだんの靴がはいらなくなる。緩いものやつっかけサンダルなどをはいていてすっぽ抜けて転んだりすると危ないので、踵が低くて足指がちゃんとひろがるような……つまりまったくオシャレではない実用いっぺんとうの、ドタ靴を、しかもちゃんと紐をしばって足にあわせてはかなくてはならない。しかもデッカイ腹がつっかえるし、重心がちょっと狂うと転びそうになるので、しゃがんだりたったりの動作が素早くできない。
たかが玄関の出入りのたびに、ちょっとしゃがむだけでミがでそうになる。圧迫される腹の苦しさに思わず「みゅう」と声をもらしてしまう。自分がいまふつうの体調でないことをいちいち思い知らされる、それが妊婦というものなのである。
 ようやくなんとかめんどくさい靴が脱げて、家にはいれるようになった。智美は溜め息と不愉快を押し殺して、ヨッコラショと立ち上がる。声でもかけないと重たくて動けない。期待と罪悪感のかたまりであるコンビニ袋は、からだの後ろ側に隠してある。
 ビクスで消耗し、初夏の町をてくてく歩いてきてまた汗をかいた。部屋についたら、すぐにもコーラに氷をいれてガブ飲みし、チョコとナッツとキャラメルソースの季節のゴージャス・パフェをむさぼり、こってり甘くなった口の中をゴマ煎とサラダ揚げで中和し、あまりにもショッぱくなりすぎたら、次は、食物繊維が豊富でローカロリーなマンナンライフの蒟蒻畑(ほらこれでも少しは気をつかっているのよ)でバランスをとり、とどめはやっぱりミルキーでしょう。ほっぺにいれておいて、ゆっくり溶かせば、あとあとまで長いこと幸福な味がするから。イッコじゃすぐおわっちゃうから、最低でもニコは一度に口にいれないとだけど……そこらへんまでの一連の流れを思い描き、それはそれはうっとり愉しみにしていたのに。炎天下を長々歩いてくる間じゅう、ずっとずっと。心待ちにしていたのに。
 食べられないではないか。
 ひとまえでは。
 亭主は、なにも、おあずけをしろと言ったりしたわけではない。智美がひとりで自分の好きなものをたくさん食べたとしても、別に文句をいったりしないだろう。もともと本来あまりおやつ好きではない彼は、たぶんほんとに何にも気にしていない。なぜそんなジャンクなものばかり食べるのかとか妊婦ならもっと健康に気をつけろとかそもそもおまえはもう太りすぎなのではないかといった建設的な意見をいったりもしない。智美が好きで幸福ならそれでいいじゃんべつに、というのが幸太である。
 それでも、
 見られたくないのだ。
 幸太のたてている音はどうやら金属ボウルでなにかをかき混ぜている音だ。亭主は驚いたことになにかをわざわざ自分で手づくりしようとしているらしい。ギプスと三角巾をつけた成人男子が。である。
 こう暑くなってからというもの、料理にもっとも近い行為がトーストを焼くのと炊飯器のスイッチをいれることで、ほとんどのオカズはデパ地下かスーパーの惣菜コーナーかコンビニから買ってきたそのまま(あるいはそれらを冷蔵庫でたくわえてあるののチン)である智美にとって、これは、大いにショックであった。重大な裏切りであると同時に不意打ち的に突然で辛辣な批難行為でもあった。
 昼食をヌキにしても、いかにもからだに良くなさそうなジャンクな菓子ばかりしこたま貪り食いしようとワクワクはずんでいた心が、羞恥と憤怒に真っ黒に染まった。平手打ちでもされたように顔がカッとした。
「なにしてんのってば!」
「あー、うん」
 妻の殺気もショックも動揺もなんらいっさい気づかずまるで理解せず、幸太は作業を続ける。なにしろ片手がギプスで不自由なので、思うようにいかない。
「ちょっとね。つくってみてるんだ」
 作業のほうに頭の大半がいっているため、まるでなんの説明にもなっていない。
「ちょっとって……なにを? だいいち、なんで? 幸太なんでウチにいるの? 病院いったら、今日から会社いくって言ったじゃん。家でブラブラしててもしょうがないって」
「いったけどー」
 幸太はチラッとふりかえった。やりかけの作業の途中で顔でもこすったか、頬になにかしろっぽいものがついている。
「追い返されちゃった」
「えー?」
「もっと休んでろってさ。ギブスとれるまで、くるなって」
 幸太の要約はあまりに単純で結果本位である。ボウルをシャカシャカするほうに必死なので、あまりちゃんと考えて発言していない。
 だが、智美にしてみれば、なにそれ、そんなのアリ? だ。
 それで、アンタ、へぇそうですかって帰ってきちゃったの!?
 それに、この男、今日だけじゃなくて、とうぶんずっと家にいるってこと? マジで? いやだ。めっちゃじゃまなんですけど。
 腕がちょっと折れていたって、治療は順調に進んでいるそうだし、憎らしいぐらい元気ではないか。お茶汲みとか電話番ぐらい充分できるでしょう。会社も、そのぐらいさせてくれたっていいのに。
 幸太は成人男子としてはそう特別に背がでかいほうではないが、肉体労働者なので脱げばマッチョだ。男であるだけで充分かさばる。ひょろりと長デカい図体で狭い部屋に居すわっていられると目障りだ。テレビのチャンネルなども勝手にする。智美がつけて見るでもなくなんとなく眺めているのを、「なんら悪意なく」脇から横はいりしてカチャカチャかえる。「やだ、見てるのに!」というと、「え、見てたの? うそ、見てなかったじゃん」などという。
 メッチャむかつく。
 せっかく義母がいないこの貴重な自由な時間帯に、家が、自分ひとりの天下にならないなんて!
 好きな時に食べたり寝たり、思い切りだらしないかっこうでゴロゴロしたり、ぜんぜんできなくなってしまうなんて!
 ちくしょう、こんなはずじゃなかった。
 グズグズしていると大事なパフェも溶けてしまう。
 なまじ冷凍室にいれておくと、幸太や奈々に見つかって食べられてしまうかもしれないし、そんなものを買ってきていたことや食べたがったこととかがバレてしまう。悔しい。誰にもみられないうちに食べて、そんな事実も隠してなかったことにしてしまいたかったのに。
「なにをつくってんのよ」
 臨月間近の巨体を楯につかって……わざわざそんなことしなくても、どうせ亭主はふりむきもしないのだが……コンビニから買ってきたものをザッと分類し、冷やしておかなくてはならないものは冷蔵庫のなるべく目立たないあたりに、あとのふたりに見つからなさそうな付近に押し込み、常温で大丈夫なものは食器棚の影にさりげなく確保しながら、智美は言った。
「バタークリーム」
「バター、クリーム?」
 聞くからに危険な、コレステロールやカロリーがメチャ高そうな名称である。
「うん、給食でね、食べたやつ。思い出して」
 ようやく制作作業が終ったらしい。幸太は銀色のボウルを自由なほうの左手に持ち、三角巾に縛られたままの利き手で8枚切り食パンを抱いて、茶の間方面に移動した。部屋のど真ん中あたりにある卓袱台型の低くて真四角なガラステーブルに、それらを置いた。
 見れば、ボウルの中は、黄色というかベージュというか白がにごっているというか、なんとも不気味な粘液物体である。包装を不器用に乱暴にむしりとって一枚とりだした生の食パンに大さじでそれをしこたま塗り付けた幸太は、期待に満ちた表情であーんと大口をあけて、あんぐりつっこみ、食いちぎり、むしゃむしゃ噛み…… 停止した。
 顔に、クシャッ、と皺が寄った。
「……をぇ」
 えずいた。
 ゲロまずいらしい。
「なに。なんなの。なんなの」
 智美はようやく元気がでてきた。そうだろう、そうだろう。男が突然料理ゴッコなんかはじめて、そうそうまともなものがデキてたまるもんか。
 いひひ。ざまみろ!
 涙目になって、しかめ面になって、とほほ顔になる、幸太。口の中でネチャつくものを、飲み込むかそれとも吐き出すか、どうしようか、考えているらしい。考えているうちにまたさらに気持ち悪いものがこみあげてきたようだ。をえ、とやっている。まるでつわり中の妊婦のように。
「なんか飲む?」膝で擦り寄る。「水? 麦茶? コーラ?」
 夫はうなずく。涙でいっぱいの目で助けを求める。
 景品でもらったデカグラスに、水道の水をたっぷり持っていってやった。夫は口の中のものはしょうがなく飲んだらしい。気持ち悪いなら出せばいいのに。水でゆすぐようにして、後味をなんとか消そうとしている。ティッシュを何枚もとって、口をふいている。
 そんなにひどいのか、と思うと、興味がわいた。智美は小指の先でちょっとだけ、黄色いものをすくってみた。まずは、ニオイを嗅ぎ(そんなにものすごくとんでもなくはない)次に、ちょっと舌で触れてみた。たちまち全身にぞぞぞと震えが走った。甘い。甘過ぎる。言語道断に甘い。暴力的に甘い。あきらかに、尋常ではない分量の砂糖をブチこみすぎている。それに、なんかナマグサイ。不気味にずるずるした感触は、はなみずというか、ジジイが道端に吐く痰みたいだ。うわー、こっちまでゲロりそうになってきた。
「なに、これ!」
 質問ではなく、批難である。
「まっずー! サイアク! なにやってんのあんた、バカねぇ」
「……おかしいなあ……」幸太は悲しい声で言った。「確かに、バターと卵と砂糖だって言ってたのに。食えるもんと食えるもんと食えるもんを合わせただけなのに、なんで食えないもんができるの?」
「バター?」
 自分ようの水を汲みに行った智美の脳裏に、新たなレッドランプが灯った。
「ちょっと。幸太まさか神津牧場のバター使ってないでしょうね?」
 亭主はハッとして、ドキッとして、サッと目をそらした。
「うそー!」
 智美は叫んだ。
「マジで? ひどい! なんでよ! あれは、普段用じゃないんだよ。特別のおとっときなんだよ。高級なんだから。値段高いんだから。ほんとにほんとに美味しいバターを、たまにちゃんと食べたい時用に、大事に大事にしてたんだよ!」
「バターぐらいいいじゃん」幸太は小さく言った。「なんだよ。ケチ。また買えば」
「だから、あれはー! ここらじゃ売ってないんだってば! たまたまやってた産直フェスティバルでみつけたんだよ。幸太だって知ってたよ。ジャガバタとか明太スパにしたら、抜群にうまいって。えらそうにアンタが言うから! なによ嘘つきほんとはそんな微妙な味なんて全然わかんないくせに!」
「いや、あの、えっと」幸太は口をとがらせた。「パンにはマーガリン使ってるだろ。ぜいたくしてない。それに、バターは太る」
 わかってるじゃない。 そのとおりよ。なのに、なぜ、そんなアホな実験みたいなときに、せっかくの特別のバターを大量消費するわけ? ……あっ。
「まさか」
 冷蔵庫に走っていき、ドアをフルオープンにしていくら眺めても目的のものが見つからないので、信じたくない気持ちながら流し台に目をやって、智美は本気で貧血をおこしそうになった。バターの瓶が、ほうりだしてある。
「全部使ったの~!? だいじなバターを~!」
「だってほんのちっとしか残ってな」
「うそ。半分はあった。ひどいよバカ。バカバカ!」両足をふんばって罵った。罵ってやるだけの理由はあると思った。「あたしのバター全部使って、犬も食わないようなゲロまずなモノ作るって、なんなの? いやがらせ?」
 亭主はムッとした。答えなかった。さすがの智美も、ちょっと言いすぎたかと思った。
 しかし。
 不貞腐れたような顔で、かじりかけの生パンを千切ってこねてたたんで時々口に押し込んでいる亭主をみていると、むらむらと腹がたつ。
 臨月間近な妊婦妻には、ややこしいこととか、難しいこととか、混乱するようなこととかは、タブーなのだ。焦ったり慌てたり悩んだりしたくない。怒りたくないし、心配もしたくない。ましてミジメな気持ちや、しみじみ悲しい気持ちには、ぜったいになりたくない。
 胎教によくないにきまっている。
 なのになんだ、この男は!
 いいたいこと百のうち九十九を粉砕して、智美は溜め息をついた。
「バター、買ってきて」
「え?」
「バター、買ってきてよ」
「いや、でも、さっき、あれはこのへんには、売ってないって……」
「同じじゃなくていい。近所にあるうちで、いちばん美味しそうなの買ってきてよ。はやくいけよ、買ってこいよかえせ弁償しろよバカ野郎!」
「ああもう、はいはいわかったから、泣くことないだろ、たかがバター……あっあっ、やめて。モノを投げないで! また壊すってば。リモコン壊すって、やめてトモちゃん、智美さん、お願いしますもうやめてくださぁい~!」

        ☆

 ……わけわかんねえなぁ……。
 駅前商店街の前の道をとぼとぼ歩きながら、幸太は深々と溜め息をつく。
 なんであんなに気がたってるんだろう? 妊婦だから? バターのニオイがよっぽど気持ち悪かったのか。
 暑くて不機嫌なのか。
 確かに失敗だった。本気でゲロまずかった。台所もさんざん汚して申し訳ない。ギプスのせいで、うまくおさえておけなくて、さんざん撥ね散らかした。そりゃあ奥さんは不愉快だろう。わかる。認める。でも、なにも、だからって、いきなり、涙だーだー滝みたいに流して泣くほどのことはないと思うんだが。
「……おんなって、わっかんないよなぁ……」
 思わず口にだしてつぶやいてしまったのを、たまさか擦れ違った余所の女性に聞き咎められてしまったらしい。きれいにヘアメイクした美人さんだったが、思いきりにらまれた。
 スミマセン、と、とっさに深々謝ってしまうぐらい非難がましい顔だった。
 ちぇっ。ひとりごとぐらい言わせてくれよ。肩をすぼめて歩きだそうとして、ふと、甘い匂いに鼻をくすぐられた。横を見ると、ケーキ屋である。
 そーだ。ケーキを買ってってやろう、と幸太は思いつく。
 美味しいものを食べたら、食いしん坊の智美はコロッと機嫌をなおすだろう。うまいものを腹一杯食べて、グウグウ寝ておきたら、きっと、ハッピーな家庭にもどれる。
 さすが夫。その直感的洞察力はおおむね正しい。彼がアパートをでるやいなや、妻は「一刻もはやく食べたくてならなかったのにおあずけだったモロモロ」を急いで出して貪り食い、食べおわって、あっけなくとろとろまどんで、座布団を二つ折りにしたのを枕に横になって、すうすう眠りだしている。その平和な幸福な姿を目にすることができたのなら、幸太もホッとしただろうに。
 金あるかなー。
 サイフをのぞいてみる。夏目漱石が二枚いる。まぁ、なんとかなるだろう。ケーキショップのガラス戸を、こんにちはぁ、と開けながら、あっ、そうか、ひょっとして頼んだらバタークリームわけてもらえるかも、と思いつく。テキトー自己流ではうまくいかなかった。専門家に相談するのがはやいかも。コンクリートだって、なんも知らん素人がつくるとまったくダメダメなことがあるのだ。
「どーもー」
 外からくらべるとすこし薄暗い店内、愛想のいい顔をつくって、店員さんにバタークリーム分けてもらえませんかと言おうとして「ば」のかたちに口をあけようとしたところで、先に店にいた客が、なにげにこちらを振り向いた。
 宮野佳寿子だ。

 ケーキ屋さんの店員にバタークリームのことを訊ねると、今日はもうつかってしまったのでありませんが、お入り用ならご用意できます、と言った。ええ、お分けしますよ、たとえば明日なら大丈夫です。その遣り取りを目で聞いていた宮野さんが、なに? と訊ねたので、これこれこういうわけなんですと説明をした。ああ、それなら、わたし、できるわ、と宮野さんは言った。
 店でもらったメモ用紙に、手書きの文字が短く走り書きされた。


[うち、くる?]


 ギプスをしていないほうの手に荷物を持ってあげて、宮野さんを、家まで送った。途中、スーパーマーケットで「無塩バター」というものを探した。それがないとバタークリームは出来ないと宮野さんがいったからだ。給食にでてくるようななるべく飾り気がなくてむこうが透けそうなぐらいの薄切りになっている食パンも、一斤、ゲットした。
 宮野さんの家について、高級そうな紅茶をいれてもらい、いま買ってきたばかりのケーキをお相伴させてもらいながら、宮野さんのノートパソコンでウェブ検索で「バタークリーム」をさがす。
 あっけなくみつかった。


 無塩バター二二五グラムを室温に戻し、泡立て器でやわらかくする。
 これと、『パータ・ボムブ』をあわせる。
 おわり。

 ずいぶんと簡単だ。
「『パータ・ボムブ』って、なんすか?」
 宮野さんの指がそう書いてあるところをクリックすると、手順写真いりの詳しい説明がでてきた。よしよし、というように宮野さんがうなずく。頼もしい。


[いっしょにやってみましょう]


 宮野さんがにっこり笑う。

 無塩バターは買ってきてからずっとそのまま冷蔵庫にいれず調理台に出しっぱなしにしてあったので、そこそこやわらかくなっている。それを、さらに薄切りにして、きれいな大きな銀色のボウルにはりつけるようにして置く。はやく室温にもどすためだそうだ。別のボウルに卵みっつを割って卵黄だけを取り出し、泡立てる。卵白みっつ分を、宮野さんはタッパーにいれて冷蔵庫にしまった。
 小さめの鍋に砂糖百五十グラムと水五十ccを入れて煮詰め、透明の金色の飴のようにする。これを卵黄のボウルにほっそいリボンのように垂らしいれながら、さらに泡立てる。飴の熱が卵にうつり、全体が重たげなクリーム色になる。
 パータ・ボムブのできあがりだ。
 ボウルの無塩バターのほうも、すっかりやわらかくなっているようだ。
「で、こっちとこっちを混ぜるんだ!」


[もうちょっと待って]


宮野さんは少しフクザツな内容の時には、ノートパソコンのメモ帳に文字を書く。パタパタと走る指がピアノでも弾いているみたいだ。


[こういうふうに、なにかとなにかを混ぜ合わせる時は、混ぜるもの同士がだいたい同じ温度にならないとダメなの。それを、テンパリングといいます]

 へえー、そうなんだ。
 そういうもんか、と幸太は思う。
 なんか、たぶん、そのへんで思いきりまちがったな、俺。
 バターは「無塩」で、卵は「黄身だけ」で、砂糖や水は「えっ、うそ、たったこれっぽち?」だった。
 もしかすると……
 何かをちゃんとつくるのには、やたらに足したり増やしたりがんばってかきまわしたりといった余計なことをするよりも、むしろ、少なめにしたり引いたり加減したりといった、どちらかというと「減らす方向」が大事なことがあるのかもしれない。
 ふたつのものが、ちょうど同じぐらいの温度になるまで、紅茶のおかわりを飲みながら、ボーッと待つ「なにもしない」でいる、そんなことが、たいせつな場合も。

 飴混ぜこみ卵黄がじゅうぶん冷めたと判断した宮野さんがオーケーを出したので、いよいよバターとパータ・ボムブを混ぜあわせることになった。
 不思議だ。別々だった時にはどっちも黄色っぽかったのに、混ぜているうちに、どんどん白くなっていく。つやつやと内側から輝く白だ。まるで真珠がクリームになったみたいだ。とてもきれいだ。
 適当に混ざりあったところで、薄切りパンに塗ってみた。おそるおそる、食べてみた。
「……うわあ、これだ! これこれ! これですよ!」
  
 

 道端で、こどもたちが犬をかまっている。
 黒くて大きなわんちゃん。若き日の黒兵衛だ。こどもたちが小さいので、熊のようにみえる。おりこうなサーカスの熊のように、きちんとおすわりをしている。
 牽き綱がついているが、だらんと垂れている。散歩の途中だ。
 上級生たちより一足早く下校する一年生のやんちゃボウズたちに出くわした。
 幸太がいる。ランドセルの横っちょにぶらさがった給食袋に、マジックででかでかと、くにいこうた、と書いてある。
 ほかの子たちが怖がって遠巻きにするのに、こうたは平気だ。前にもかまったことがあるので、黒兵衛がおとなしくて人なつっこいのをわかっている。首輪のあたりや背中はもちろん、顎の下だって恐れず撫でる。黒兵衛は目を細めて、尻尾を振る。犬のお尻のほうからほうっと近づいてきた子の足にバシバシあたるほど、何度も振る。
 こうたはじゃまなランドセルを道路の端にほうりだした。給食袋の中から、ティッシュにくるんであったものをつかみだした。
 ――あげていいですか?
 パンだ。握りしめすぎて、ちょっとつぶれている。
 生真面目な顔で見上げる先には、みやのさんがいる。クロちゃんのママ。
うん、と、うなずく。いいよ、笑ってくれる。とくべつだよ。
「やた!」
 真ん中から半分畳みにしいパンには、たっぷりと白いものがはさんであった。真珠のようにツヤツヤ輝く白いクリーム。
ひと口食べて黒兵衛く驚いた。「!」という顔をする。目をみはり、それから、うっとり笑顔になる。ゆっくりとべろをつかい、口の中の味をもういちど丹念に味わった。それから、次ちょうだい、もっともっと。前肢をつかって催促をした。
「なははは。うまいだろー」
幸太は笑う。
 みやのさんは、ノートをとりだして書いた。
[それ、なに? 気にいったみたい。ありがとう]
「給食で、人気で。オレも、ちょー好きなの。クロに、いちど食べさせたくて。もってかえってきた」
 まぁ。
 みやのさんは、また書いた。
[そんなに好きなのに、くれたの? 。
 自分でたべちゃわないで、クロちゃんに?]
 こうたは頬をちょっと赤くした。
 ほんとは、あまったパンを手をあげてジャンケンでゲットしてクリームもしっかりぬらせてもらって、もちろん自分で食べる気だった。でも、ふと、家にもってかえってもいいなと思ったのだった。
 そうしたら、クロに、あったから。
 こりゃ、ぜったい、喜ぶだろうなと、思ったから。
「あ、くにい、ずれえ!」
 クロにやるはずのパン、ひとくち、自分の口にほうりこんだ。
 ああ、やっぱり、おいしい。
[もっと。ちょうだい、ちょうだいよ]
 クロが乗り出してきた。ふんふん鼻をつかう。クリームいりパンをだすと、指まで食いちぎらんばかりの勢いでむしゃぶりつき、奪い取った。むぐむぐ。もっと! もっと! おかわりー!
「はやい!」
「味わって食えよー」
「こえー、牙すげー」
「おれにもあげさせて」
「わたしも」
 ほかの子もよってきた。
「もうねえし。おまえら、自分で持ってこいよー」
 わおん。悲しそうにクロは吠え、こどもたちを見回し、上目づかいに少年を見つめた。きゅーと鼻を鳴らし、前肢であがき、もうないの、ほんとに? 顔をよせてさかんににおいを嗅いだ。
「ごめんな。もうおしまい」
 こうた少年はパンを包んであったティッシュをひらひらさせてみせ、畳んでポケットにおしこんだ。
「また今度、給食に出たら、持ってきてやるから。な!」
 黒兵衛がきゅー、と悲しそうな顔をするので、思わず大きな頭を、両手ではさんで、顔と顔を、見合わせる。
「マジで。約束する」
と。少年の肩に、黒兵衛が前足をかけて立ち上がった。鼻に鼻をちかづけて。口を、ぺろん、舐めた。
「うぎああ!」
「やべー!」
「くにい、ちゅーされてやんのー!」
「きたねー、きたねー、エンガチョだー!」
「狂犬病がうつるぞお!」
 こどもたちがわあわあ囃し立てると、
「うるせ、バカ!」こうたは耳まで真っ赤になった。「エンガチョすんな。クロ、きたなくねーし! 狂犬じゃねーし!」
 みんなすぐにシーンとした。ほんとは妬ましかったのだ。こんなでっかい犬と仲良くできるなんて、こうたすげえ。勇気ある。かっけー。キラーパンサーを懐けるゲームの主人公みたいだ。バカだけど。
 黒兵衛はキスの効果を理解しているかのように、ちょっととぼけたにやにや笑いをこらえているみたいな顔をしていた。
[みんな、どうもありがとう。気をつけてかえってね。バイバイ]
 みやのさんが、紙に書いた。お別れの時間だ。
 黒兵衛も腰をあげ歩きだした。ぴかぴかツヤツヤの真っ黒な尻が、楽しそうに左右に揺れている。
「バイバーイ、黒兵衛~!」
 こうたはランドセルを背負いながら叫んだ。黒兵衛がくるりと振り返った。だから、みやのさんも、こっちを見た。
 細っこい両足をアスファルトにふんばって、黄色い安全帽のゴムのゆるんだのを半端に垂らしながら、こうたは全身で叫んでいた。
「またなー。また、あそぼうなー!」

「うんうん、そう。これ。んまいんまい」
 いま、幸太青年はひとりうなずきながら、嬉しそうにうなりながら、バタークリームを塗ったパンを食べている。
(この彼がねえ……)佳寿子は思っている。(あのときのあの子。よその子って、ほんと、すぐに大きくなっちゃうのねえ)
 給食で出る白いクリームときいて調べてたぶんこれだろうと教えてくれたのは亡くなった母だ。当時はまだ携帯電話がようやく出始めたころで、なんでもネットで検索することができるような時代ではなかった。
 西洋菓子の専門書をひもといてバタークリームをつくってみると、黒兵衛はもちろん狂喜乱舞したが、そうひんぱんにやるわけにはいかなかった。甘すぎるしカロリーが高すぎる。材料費もかかりすぎる。たまに記念日などで母がケーキを手作りすることがあると、黒兵衛にはボウルをなめさせたし、ひとのお皿にくっついた残りはあげた。母が亡くなってからは、自分のために、ケーキなんか作ったことは一度もない。
(だから、黒兵衛も、ずっと食べてなかった) 
 いつの間にか大きくなって髭まではえた幸太青年は、どんどん食べて、食べて、ギプスのほうの手もつかって食べて、とうとう、パン一斤まるごと食べ終わろうとしている。名残惜しげに全部の指をじゅんぐりにしゃぶっていたが、ふと姿勢がさがり、ボウルに顔をつっこんだ。そのまま、ぺろぺろなめはじめた。
 佳寿子は目を丸くする。
 ……それって……!?
 また、見えた。見えないはずの犬が。
 そこにいるのは、半金髪の無精髭の青年なのに、まちがいなく国井幸太なのに、ボウルをなめてるその姿は犬である。その目。その表情。そのたたずまい。なにより、その満足そうなうなりかた。
 ピアスの鎖がキラキラする。
 これは現実、それとも、夢?
……もしかして、いまなら、あえるかも……
……くろちゃん……? ……黒兵衛……!
 こころで呼んだだけなのに、そこにいるのか訊ねただけなのに、幻の犬はハッとしたように顔をあげ、優しい懐かしいあたたかな目をして「きゅーん?」と、甘い鼻声で返事をした。

 と。
 スマホが鳴った。
 ジーンズの尻ポケットで。

 幸太はひっぱたかれたように宙でからだをひねった。一瞬、四足歩行と二足歩行のどちらをやっていいのかわからなくなったみたいだった。スマホが鳴る。前肢ではない手、ギプスのあるほうの手でスマホをなんとかしようとして、うまくできず、何度かお手玉して落としそうになりながら、ようやくかろうじて耳にあて、モシモシ? と言った。
「なにやってんの!」
 妻の声が炸裂した。
「バターひとつ買いにどこまで行ってんだ! はやく帰ってこーい!」
 からん。からん。からん。
 どの足が蹴とばしてしまったんだろうか。空になったボウルが転がっていく。

        ☆

 その晩、国井奈々がアパートにかえると、息子は台所の隅に座布団をぞんざいに敷いて丸くなっていた。
 部屋ぜんたいが冷え冷えとし、シーンと静まりかえっていて、智美の気配がない。また喧嘩をしたんだろうか。嫁の生理的周期からすると、確かにそろそろ怒りが沸点に達する頃合いではあるが。ひょっとすると今度という今度は、実家に戻ったかもしれない。あまり好きじゃないと言う実家に。
 それならそれでもいいけれど、と奈々は思う。
 里帰り出産ってものをするひとだってあるのだから。嫁は、実家のある埼玉には産院がみつからなくてこっちで生みたいと言っていたが。
 ぎりぎりになって考えがかわるというのはよくある話だ。
 こうちゃん? と呼びながら肩を揺すると、息子は、グッスリ寝ている犬がいかにもやりそうなかっこうでヒクヒクッと四肢を動かしてから、目をあけた。
「あ、……かあ……さん……」
 息子はうつろな眼差しをして、つかえ、つかえ言った。
「俺、へんかも。……なんか、やばいかも」
「まあ。どこが。具合悪いの?」
 奈々はしゃがみこみ、息子を助け起こした。
「救急車、呼ぶ? 病院に連絡する?」
「そゆんじゃなくて」
 幸太はかぶりを振った。どこでもないどこかを見つめるような目で、母親のほうを眺めた。指で、自分の頭を指さした。
「ここに、犬がいるんだ」
「いぬ?」
 なにをいわれているのかわからない。
「宮野さんちの黒兵衛。あいつが。たぶん、いる。ここに」

        ☆
     


「……かいりせい……どいつせい、しょうがい?」
「国のドイツではありません。同一です」
 霊感のないよっちゃんこと古賀嘉晴医師は、国井親子が目をパチクリさせるのを見ると、薬品メーカーのメモ用紙を引き寄せて、解離性同一性障害、と、難しい漢字を書いてみせた。なかなか達筆だった。
「解離性というのは、あるべきものがそこにない、離れてる、ということです。傍から見ただけではわかりにくいのですが、この状態の患者さんは意識がない。専門用語では、せん妄状態、というのですが、目はあいてる、まっすぐ立ってる、でもボーッとしてる」
「ボーッと」と幸太。なるほど、とうなずいている。
 確かにこの子はボーッとしてる、奈々は思った。生まれつきの性格だと思ってたけど、最近、特にボーッとしてるかもしれない。
「解離性同一性障害には、その昔、二重人格と呼ばれたものがふくまれます。本来の自分がボーッとしている間に、違う人格が出てきて、肉体を支配し、行動します。その『別のキャラ』が、ふたりも三人も二十四人もいたりする。治療中にどんどん増えるのも確認されたので、二重人格、って言えなくなったんです。自己意識のある人格に同一性が保持できない。だから、解離性、同一性、障害」
 そういうドラマを、見たことがあるような気がするわ、と奈々は思った。息子はそんな奇天烈な病気になってしまったのだろうか?
「必要に応じてって」息子はあいかわらず他人ごとのように、のんきに質問なんかしている。「それ、どういうことなんですか?」
「得意分野に応じて、分担したり交代したりするようです」医師は言った。「たとえばですね、争いごとが嫌いな内気でおとなしいひとが、しょっちゅう両親が喧嘩する、ひどい喧嘩でいたたまれない、という環境におかれてしまったとします」
 幸太も奈々もギクッとしたが、霊感のないよっちゃんは空気の読めないよっちゃんでもある。まったく気がつかなかった。
「もとのキャラでは対応できない。こんなところにいたくない、どこか遠くに逃げ出したいと思う」
 ギク。ぎくぎく。
「すると、からだはそのままその場にいるのに、心が逃げるんです。もとのキャラがひっこんで、まったく別の人格が出現する。陽気にふざけて場の雰囲気をかえたり、激しく暴力的になって親を恫喝するなど。本人にはできないことをして、対応する」
 幸太と奈々はこっそり目を見交わした。
「それ……便利スね」
「ま、ある意味では」
「オレ、マジメで勉強できて宿題やるの好きなやつ、欲しかったかも」
「ママも。うんと疲れてる時、かわりに働いてくれるひと欲しい」
「ですよねぇ」
 医師ものんきに笑った。
「でもですね、複数の人格に対立や不公平感が出ると、たいへんらしいですよ。同じからだなのに、誰かに美味しいとこだけ取られて、いつもワリを食う役割ばっかり担わされちゃうキャラもあるわけですから」
「やだなそれ」
「解離性遁走、というのもあるそうです」
「とんそう」
「自覚的にはただぼんやりボーッとしているのに……本人の意識や記憶がまったくない間に、じっとしていないんです。サブ人格が活発に行動する。いくつも電車を乗り継いで、知らないどこかまで行ってしまう。なにかのきっかけで、突然、ハッと我にかえるらしいです。我にかえった時、その時点までしばらくの記憶がない。なぜどうやってここに来たか、なにもわからない。時間が飛んだ感じがするらしいです」
 幸太は黙り込んだ。
 飲みすぎるとあるな、と母は思った。なにも覚えていないが、ちゃんと家に帰る。タクシーに乗って道を説明してお金も払ったようだし、鍵をあけてお風呂にはいって歯をみがいて洗濯までしてる。もしかして自分にはサブ人格がすでに存在しているのではないか。
「あの」
 こうたがおずおずと手をあげた。
「多重人格っていいますけど、人じゃないのもありですか?」
「は?」
「たとえば、犬は。ありでしょうか。……犬人格、ケンカクかな、そういうのが、たまたま宿っちゃうみたいなことが、あったりするでしょうか」
「いぬ」
 医師は首をひねった。
「……いや。不勉強で申し訳ないが、そういう症例は聞いたことないです」
 霊感のないよっちゃんは、困って鉛筆をひねくった。
「あの、でも、ボクは心の問題にはまるで素人だし。ウチの病院そういうことに詳しい先生、いないんですよ。なんなら、どこかお調べして、紹介状を書きますよ?」
 壁際で親子とよっちゃんの会話を聞いていた看護士二名が、顔を見合わせる。ものすごく言いたいことがありそうな顔をしているが、ぐっとこらえている。

 ありがとうございました。深々お辞儀をして診察室を出た。廊下を歩いていると、やがて、ひたひたと足跡がした。
 女性看護士二人組――やけに背の高いひととそうではないひと――が追いかけてきた。ナース服の上から邪気と戦うキャラのコスプレっぽい装束を身につけており、頭かざりや首かざりや念珠をはめ、独鈷杵と鼓を持っている。すばやく親子を追い抜くと、ふりかえって、行く手をさえぎった。
「をん!」と鼓をうつ。「あびらうんけんそわか!」
「りんぴょうとうしゃ!」独鈷杵で右から左から斜めに空を斬りおろす。「かいちんれいざいぜん」
「ぎょ~~」声をそろえ、両手をこちらに向けて、ビラビラする。
 国井親子はぽかんと口をあけている。
「邪気浄化!」
「怨霊退散!」
「はらえどのおおかみ!」
「おんべいしらまんだやそわか!」
 鬼気せまる顔つきで、わけのわからないことを次々に言うがだんだん迫力が落ち、もじょもじょ自信なさげになってきた。
「だめだ! どれも効かない!」
「不動明王真言はどう? のーなまにさぱやんぷりま!」
「えっ、それ知らないです、先輩~!」
 幸太は溜め息をついた。
 おでこに手をあてて、悩んでいたが、いきなり、典型的な変身ヒーローものっぽい適当なポーズをとり、ドヤ顔できめると、言った。

わん!

 きゃー、と叫んで、看護士さん二名が逃げていった。

 渡り廊下は日差しがおだやかだ。ガラス窓越しに、色とりどりに咲き誇る夏の花々やてっぺんがまぶしい黄金色に輝いた新緑がみえる。
 とてもふつうだ。
 異常なことも特別なことも信じがたいようなこともなにもない。特に変わったことなんか、なにひとつない、平日の午後。
 世界はとても美しい。

「……気がついたのは、たぶん、オレより、黒兵衛のほうがはやかったんだと思う」
 ひとりごとなのか、ゆっくり隣を歩いてる母に聞かせるためなのか。自分でも、どちらなのかはっきり意識しないまま、幸太は喋る。
「なんか変だ、おかしいな、って。思ったろう。そりゃそうだ。自分が変わっちゃったんだから。犬のからだに、いないんだから。ふだんのくせで動こうとしても、足とか、まるでぜんぜん違うわけだし。尻尾ないし」
「かわいそうに」
奈々の感想は、当事者の母親としては変わっているかもしれない。母がこういう母でよかったと幸太は思う。
「俺は、最初は、なんか記憶がへんだと思ってた。事故で頭ぶって、脳みその配線がいかれたんじゃないの的な。だったらたまに空白があっても、しょうがない。そう思ってた。
でも。だんだん。少しずつ。
わかってきたんだ。
黒兵衛がここにいて、ふだんはじっとおとなしくしてる。
俺がどくの、待ってる。
最初は黒兵衛がでてくると、俺は、ひっこむしかなかった。うまくいえないけど、「現担当」の座からおりるっつーか。舞台からさがって、脇からみてるみたいな感じ。
この俺のからだを……乗り物みたいにして、交代で、時間シェアで使ってるみたいな感じ? 
そのうち、お互い慣れてきて。テキトーに譲り合うのもできるようになった。ご同席お願いできますか、的な? 運転席の座席はちょっと狭いけど、ハンケツでいっしょに座れます、みたいな。
相手が前に出てきたがっているのがわかるときとかもあって、どっちもうっすら出てられるようになって、いまはもううまくやってる。
黒兵衛は、そりゃ、ことばは喋らないよ。でも、頭はよくて、もしかすると俺よかりこうで、いろんなことがちゃんとわかっているよ。テレパシーみたいなので、わかるんだ。やつが感じてることとか、やつの覚えてることとか、俺にも伝わってきちゃう。
やつはいまもここにいて、ほんとここにいて、俺が言うの聞いて、「そうそう」ってうなずいてる。つまり、俺たち一心同体なんだよ」
 渡り廊下が終って待合室にはいると、急に光線が少なくなる。
 明るいところに慣れた目には、あたりはとても暗くみえる。
 会計に受付カードを提出し、空いた待合室の合成レザーの長椅子に腰かけた。

「黒兵衛は、ほんとは、宮野さんのところに帰りたいんだ」
 奈々は、息子を見た。
「すごく心配してる。
 ほら、あのひと、ひとりぼっちになっちゃったから。
 あんまり人づきあいマメにするほうじゃないし。
 クロの散歩がなくなったら、ジョギングやめちゃったみたいだし」
 幸太は膝に肘をついて組んだ手で額を支える。
「……ああ、もう!
 どうしよう。俺、へん? 頭おかしい?  
 これ、ぜんぶ、妄想だったらどうしよう。
 だって、クロがここにいるためには、幽霊とか霊魂とか、たましいってもんが、実在しないといけないよね。肉体ぬきで。そんなの、無理だよね。ありえないよね」
「ありえない?」
「ありえないだろ!」
幸太は怒ったよう言った。
「幽霊ないだろ」
「なんで?」
「だって、迷信でしょ。子どもだましでしょ。じゃないなら、俺、親父にあえたと思うから」
「おやじって……お、おとうさん……?」
 奈々は驚いて、すっとんきょうな声をあげた。
「なんでそこでおとうさんが出てくんの?」
「だから。親父が死んだってきいた時。俺、マジ本気で、必死で祈ったんだよ。幽霊でいいから、一度帰ってきてくれないかって、頼んだんだよ」
 幸太はすこし頬を赤くして、ふくれっ面をした。
「俺、親父に優しくなかったから。まともに話もしたことなかったから。だって、まさか、家出してる間に死んじゃうなんて思わねえじゃん? 話したいこと、すげえいっぱいあったような気がしたんだ」
「……」
「だから、いかないで、おばけでいいからもういっかい出てきてって、ほんと、すっげぇ真剣に祈った。まだほんと子どもだったから、そりゃあ純粋な気持ちだったと思う」
奈々はまじまじ息子をみつめる。
「喧嘩ばっかしてたけど、これっきりと思ったらさあ、ものすごいおっきなもの、なくしちゃったのかって思ったんだ。死んだものはしょうがないけど、生き返れってのは無理だろうけど、せめて幽霊でいろ、出てこいやーって。
ほら、よく、大きな事故とかの時にさ、親戚が夢に出てきてよせあの便には乗るなっていってキャンセルしたら助かりました、みたいな話、あるじゃん? ちょうどそんなテレビ見たあとだったんだ。だから、親父が幽霊になったんなら、この際……って言い方もどうかもと思うけど……利用しなきゃって思ってさ。……そんな顔しないでよ。俺、ほんと、ガキだったんだってば。親父にはさ、なにかしてもらってあたりまえと思ってて、なんかまだ全然充分、してもらってないし! なに逃げてんだよ、って、怒ってたよ。
で。おとうさん、きこえますか、いるなら、なんとかしてボクに知らせてください、って、何度もすげぇ真剣に祈ったし、コックリさんもやってみた。けど。
親父はこたえてくれなかった。いっぺんだって。
だから、もう、あー、死んだら帰ってこないんだ、家出とはちがって、いっちゃったらもうそれっきりだ、って。
幽霊はいない。残念だけど。あの時俺は、そう、さとったの」
「…………」
「けどさあ。とすると……おかしいんだよね。幽霊がないとしたら、この、クロ、なに?
 突然、死にそうになって、えっ、いやだ、まだ生きていたい! って必死に思って、そんで、そばにいた俺にしがみついたら、なんか知らないうちにこうなってたって。たぶんそういうことだって。クロはそう言ってるんだけど。これ、どうよ? ぜんぶ俺の妄想?」
 奈々は返事をしようとした。
 御会計のひとに、名前を呼ばれた。
 院内処方の薬を受け取り、金を払い、おもてに出た。ふたりつれだって。
 中庭の噴水の横に、並んで座る。
「とりあえず俺のいまの感じを言うね。黒兵衛はいて、――ここにいて――そんで、とにかく宮野さんのことばっか、考えてる。なにしろ、宮野さんが、好きで好きで好きで大好きでたまらないんだ。ひきはなしておくなんて、かわいそうでしょうがない。ていうか、あまりそばでずっと好きだ好きだ大切だあいたいあえなくて悲しいって思われて、俺までひっぱられちまって、もう、すっかり同じ気持ちになっちゃった気がする。しろくじちゅう、宮野さんのことばっか考えちゃうし、あのひとの顔がずーっと頭に浮かんでる。大好きだ。消えない。トモにはほんと悪いと思うんだけど、正直いって、できることなら、俺、宮野さんとこいって、あのひとと暮らしたい。あのひとが死ぬまでそうしたい。けど、無理だよね。そんなのぜったい、ありえないよね。だって赤ん坊だって生まれてくるんだし! そう思うと、クロもさ、なるほどたしかにそれはそうだよねって、しかたないよね、って、納得はしてくれるんだ。でも、ちょーせつねえの。おあずけくらってんの。鼻がきゅーっていっちゃうんだよ。かあちゃん、どうしよう、これ、……不倫か?」
「……う……うーん……」
「どうすればいいんだろう」いいながら幸太は犬みたいな目になって、ぽろぽろぽろぽろことばをこぼす。「ママがかわいそう。ママは、ひとりぼっちだ。ぼくは、ママの、おみみでしっぽなのに。ぼくがいないと、ママ、すごくこまるのに」
 炎天下。かげろう立つ道。
「……こうちゃん?」
「…………」
「魂ってね、あるんだと思うよ」
「そ、そう?」
 幸太は急に胸がいっぱいになって、思わず母の手を握りしめた。
「ありがとう、かあさん」
「いや。そうじゃなくて。気休めとかじゃなくてね」
「……?」
「あのね。おとうさんのことは、なんの証拠にもならないから。霊魂とか、幽霊とか。いないことの証明に、ならないから」
「へ?」
 幸太は、奈々の顔を見る。
「なにいってんの?」
 母はちょっと不貞腐れたような表情で、道路の上のなにかをサンダルの足先でほじる。
「おとうさん、死んでない。病気で亡くなったって、おまえには言ったけど。蒸発したのよ。他の女と。大喧嘩したら、出てって、帰ってこなかった。あたしのへそくり、すっからかんにしてった。それきりなんの連絡もないけど……たぶん、いまも、どっかでまだ生きてると思う。だから幽霊じゃないんだから、化けて出られるわけないでしょ? あんたがいくら祈っても、霊界からのメッセージ、来るわけないよ」
 幸太の顎はだらんと落ちた。
 もどらなかったので、手ではめなおした。
「……マジで? 」
「追求しないで。つらいから」
「お墓参りに行った気がするんだけど」
「お彼岸に。代々のご先祖さまのお墓にね。行ったことあるね。それ勘違したんじゃないの。とうさんの名前、書いてなくても、気がつかないでしょう、あんた」
「……た、たしかに」
「とうさんのことは二度と口にするなってわたしが頼んだら、それっきり、言わなかったもん。こうちゃんは、かあさん思いのやさしい子だから」
「待って。俺、結婚したよね。届け出したよね? 戸籍ってやつみたら、わかりそうなもんじゃないの?」
 ふん。母は鼻で笑った。
「あんた、住民票、見たことあんの? ていうか手続きとか意味とかわかんの? めんどくさいのは全部わたしがやったでしょ」
「……うっ、たしかに……」
「智美さんの赤ちゃんが生まれたら、あんたが届けをだしにいって、それで、いよいよバレるかな~とは、思ってたんだけどね」

       ☆

 やっぱり帰ってくるんじゃなかったと智美は思う。
 夜九時すぎにたどりついた実家の玄関はウエルカムな雰囲気ではなかった。門灯が落ちてガッチリ鍵がかかっているのに気付いた時、そこで引き返せばよかった。いや、帰宅ラッシュで大混雑している埼京線のシルバーシートの前に立っていたとき、もうじき臨月の妊婦の智美に気付いていないわけがないだろうに全員寝たふりの知らんふりをしやがった不人情なやつらの前で、カーブやブレーキのたびに押されてよろめいていたとき、降りて引き返すことにすればよかった。いや、そのさらに前、実家の鍵なんて持って歩いているわけがなくて万が一留守だと無駄足になるから事前に電話をしておいたほうがいい気付いたとき、いや、そもそも改札を通るとき、いやいや、そもそも、幸太と暮らす家から出てこようとしたとき、あのとき、やめておけばよかった。
 悪いけど今から行くんで泊めてねと電話までしているのに厳重に鍵かけて締め出してみせやがった姉とか、ただいまと言っても「あら、それはどうかしら、ここはもうおまえの家じゃないし」と皮肉を言う母だとか、うるさくて可愛くない甥や姪とくらべれば、幸太とその母といるほうがよほどいい。居心地がいい。気がやすまる。
 トモミさんはいったいどこに寝るんでしょう。本人がすぐ横にいるのに、まるで透明人間ででもあるかのように無視して母にずけずけ相談する弟の嫁の慶子は、続けて、こどもたちといっしょでいいでしょうか、それとも、昌治さんのふとんを使うのでしょうか、今日だけのことなんでしょうか、それとも、しばらくウチにいらっしゃるんでしょうか、などと、どんどん先走って聞きたがる。ちなみに昌治というのは弟でトラックの運転手をしている。この夜のシフトでは、夜明けの四時にならないと帰宅しないらしい。
 いつ戻っても仮眠がとれるよう、もと物置の行灯部屋の三畳間に万年床を敷いてあるが、夜明けの四時に弟がこのふとんを使いたいと言い出したら、どうするのだ。そこに寝かしてもらっていたら、どうなるのだ。こんな腹なのに。
 きちんと説明をしたり先々のことを相談したり頼みごとをしたりするのはイヤだし恐ろしいし億劫だったので、弟の嫁がこどもたちを風呂にいれている間に茶の間の隅でころんと丸くなってテレビを眺めているうちに寝たふりをしたら、さすがに哀れに思ったか、母が毛布をかけてくれた。それはこどもの頃から高校を中退してこの家を出ていくまで長年愛用したアクリル毛布だ。ムーミン谷のスナフキンのニヒルな笑顔の絵がついている。スナフキンは智美のヒーローであこがれだった。いつかきっとこんな男をみつけてやると思っていた。
 古毛布に頭からくるまると、なつかしい気持ちになった。ほこほこあったかな自分のニオイ。過ぎ去った時間のニオイ。そのニオイのおかげで、よそのうちのような場所が自分の場所になり、肩や頸筋のこわばりがようやく少しほぐれてきた。疲れていたし、なにしろ妊婦だから、やがて、ただの寝たふりではなくて、ほんとうに熟睡してしまった。
 夜明け、ぬるい空気と共に勤務から戻ってきた弟と弟の嫁のやりとりがぼそぼそ聞こえた。はじめ囁き声だったのだが、だんだん口調が強くなり、やがて、いい加減にしろ、と弟の怒鳴り声がひとつ、さらに少ししてから、パンと、なにかぶったような、もしかすると頬を張られたのかもしれない音もした。それから、また静かになり、さらにしばらくすると、プルトップをあけるプシュッという音がして、嫁が言うのが聞こえた。
「どうせきっと浮気よ。幸太さんだって、男なんだから!」
 ざまあみろ、と、せせら笑うような、勝ち誇るような言い方だった。
 違う。そうじゃないもん。智美は口の中でだけ言い、かたく目を閉じる。そんなんじゃない。あんたんとこはどうか知らないけど、幸太はそんなやつじゃない。

 女が妊娠して腹が出たり、出産して子育てで死に物狂いになったりすると、彼女を妊娠させた張本人であるところの男は、必ず、間違いなく、例外なく、その女にうんざりし、別の女のところに行きたがる。男というものはどうしようもなくそういうふうにできている……と、確信している女たちは少なくない。そういう女のつれあいは、実際に、そういう種類の男である確率が高いものであるらしい。
 ビクス教室の仲間にも、そういうひとがいて、そういうひとなのにいまお腹にいるのは四人めだ。乳幼児の世話で目がまわらんばかりに忙しくてかまってあげられないと旦那さんはスネてどこかに行って誰かに愛してもらうのだそうだ。子育てが一段落するとなぜかわかるらしく、ふとした拍子にもどってきて遅滞なく次をしこむ。
 なぜそんな失礼なことをされて平気なのか、一度ならまだ「過ちだった」「気の迷いだった」「若かった」ということもあるかもしれないが、こんな父親の自覚がないやつに身勝手なことを繰り返させるなんてどうかしている。ようするに、こいつは、いつでも浮気するチャンスを虎視眈々狙っている。そのひとの奥さんでいつづける忍耐が、智美にはぜんぜんわからない。
 つかったマットをたたんで片づけている時にちょっと聞いてみると、
「駄々っ子なんだもの」
 彼女はタオルで汗を拭きながら言ったものだ。
「ウチの旦那さんはね、自分王国の王さまなの。おまえはオレよりコドモのほうを大事にするって怒るの。もっとちゃんと王さまらしくチヤホヤしてくれる女のとこいくわけ。上のおにいちゃんのほうがよっぽどしっかりしてるわよ」
 七歳児より幼稚と言われている。
「浮気相手も妊娠しちゃったらどうなるの」
「そのパターンはないなー。若い子みたいだし、商売がらみでしょ。デキてもサッサと堕ろしてんじゃない。知らない。そんなこと、あちらに心配してもらわないと」
「別れてくれって言われないの。こっちの女と結婚することにしたからって、言われるかもしれないって、心配じゃないの?」
「言わないわよう、そんなこと!」彼女はヤダヤダと手を振りながら笑う。「そんな勇気ないって。養育費も慰謝料も、ただじゃすまないもん。だって、四人もいるんだよ」
 どうしてそんな無責任男に、養育費がただじゃすまない「から」離婚しない、というような考えを期待できるのだろう。ラクなほうへ走って当然ではないだろうか。
 そんな男を夫にしたのに、どっしり安定してみえる彼女が、智美には、かいもくわからない。
 そもそも、たいへんな時に、よそで嵐をやりすごすみたいなことをされて、なぜキレずにいられるのか? 旦那にも、こどもの面倒をみてもらいたい。分娩そのものと生母乳を出すのはメス以外には無理だろうが、他はいくらでも手伝うことができるはず。いろいろ分担してもらわなきゃ困るではないか、と言うと、アンタ、アオイのねぇ、と、カラカラ笑われた。
 典型で四児の母である彼女ばかりではなく、他のビクス仲間や、稲嶺先生まで、ニヤニヤするのである。
「国井さんちって、ラブラブなのね」
「よっぽど優しい旦那さんなんだ、うらやましー!」
「赤ん坊ってさあ、パパたちにしてみれば、別に可愛くないし、大事でもないよ」
 ギョッとするようなことをしらっと言う。
「特に生まれたてなんてねー」
「最悪よねー。新生児。見た目、サルだし」
「四六時中ぎゃーぎゃー泣くし」
「夜中だってかまわずだもんね。旦那はオレには明日も仕事がある会社がある、だからつきあってられない、って、そりゃ言うよね」
「睡眠不足で産後疲れのこっちは、どんどん衰えてる。肌も髪もガサガサで、殺気だってる。男にしてみれば、こわい、鬼みたいって、思うらしいよ。そりゃあ、外にいけば、素敵に可愛いのがいくらでもいる。お化粧しておしゃれして女らしくしてる。そういうよそのひとに、クラッとするよ。わかる」
「国井さんとこ、こんどがはじめてなんだっけ?」
 稲嶺先生まで言う。
 おそるおそる、うん、とうなずくと、
「じゃあ、もしかすると」
「ちょっと、くるかな」
 みんな顔を見合わせて、クフフフ、なんて笑う。
「がっかりしちゃだめだよう。そんだけラブラブで苦労知らずだと。赤ちゃんデキたとたん、とんでもないことになるから。カレシ、がらっと変身しちゃうから」
「うんこひとつで逃げ腰とかね」
「ピーしたおむつなんか見た日にゃ、マジ具合悪くなるもんね男って。わるいけど俺には無理だこんなものさわれない、とか言われても、ひろい心で許してあげなきゃ。逃げ場つくってあげなきゃね」
「そそ。追い詰めると、男は心がすぐ折れるから」
「テリトリー、大事」
「家じゅう赤ん坊くさくなると、居場所がない、たまらんって思うみたいね」
「国井さんちって、じゅうぶん広い?」
「狭いよ。アパートだもん。彼ママもいるし」
「わー彼ママ」
「うそ彼ママ!」
「でも保母さんだよ」
「うそ、彼ってば、ひょっとして親ひとり子ひとり?」
「そうだったんだけど……」
「うわー」
「がっでむ」
「きゃー勘弁」
「あー。まー。そーかー。……んじゃ、とにかく。がんばれ! 見当を祈る」
「ご武運を!」
しまいに、握手されたり、肩にがしッと手をかけられてチカラをいれられたりした。
 バカにされている。幼くて、世間知らずで、罠にはまってると思われている。
 智美は、仏頂面で、ペットボトルにいれて持ってきた水を飲む。
「あーあ、ごめんごめん。そんな、暗い顔しない」
「だいじょうぶ、ほんの一年かそこらの辛抱だから」
「そうそう。こどもがちょっと育ったらこっちのもんだよ」
「たどたどしくしゃべったり、パパー、って走ってきたり、ちっちゃな歯のみえる顔でニッコリ笑うようになったら、心配ない。たちまちメロメロ」

 たぶん、と智美は思う。
 浮気をするひとは何度でもする。懲りてもする、繰り返しする。一生する。しないひとはしない。一度もしない。我慢してそうなのではなく、そういう回路がない。
 幸太は浮気はしない。しないやつだと思う。
 隠し事とか、ごまかしとか、デキる性分ではない。遊びとかゲームとかつまみぐいとかで、女をだませるやつではない。
 もし、彼が、するなら、それは浮気ではない。
 本気だ。
 雷にうたれるようなフォーリンラブ。
 いのちも、生活も、なにもかもうっちゃってかまわない恋。
 ううう。心配だ。幸太の気持ちは、いま、よそのひとにむかっている。
 あのひと。宮野佳寿子さんを。
 愛してるみたいにみえる。妻の直感。
 いくつだ。三十代ってことはない。少なくとも四十半ばだろう。おかあさんより年上かもしれない。ふつうじゃない。でも、ぜったいないとは言い切れない。
 そりゃあ素敵なひとだし。
 いっしょに事故にあった犬が死んじゃって、自分だけ生き残って、申し訳ない的なことを激しく思ったかもしれない。そのあまりの責任感とか。あのひと、耳が不自由だし。ひとりぼっちだし。同情が恋になるのはよくあること。
 ああ、でも!
 でも、そんなのひどいよ!
 あたしをどうしてくれるのよ。
 怖くて、不安で、とんでもなくて、胸が苦しくて、窒息しそう。おなかが破裂して爆発してしまいそう。
 もしも、もしも、ほんとうに、あいつが、わたしやこの子を捨てて、どこかに行ってしまったら? あたしはいったいどうなるの。どうすればいいの。どこでどうやって生きていけばいいの。
 そのほうが彼は幸福? だって宮野さん、お金持ちそうだし。すごい家にすんでるらしいし。優しそうだし。きっと性格のいいひとなんだ。あたしみたいじゃなくて。本気で愛しちゃったなら、しょうがない、誰にもどうにもできないことだ。あたしだって、幸太のことを愛している。たよりにしてる。でも、愛してるなら、愛すればこそ、愛する相手がより幸福になることを望むべき? 身をひくべきなの?
 ああ、もう、気がへんになりそう。
 ……どうしよう。どうしたらいいの。
 お願い、助けてスナフキン。

       ☆

 

 国井親子は、連れ立って、奈々の職場のこばと保育園に行った。
 庭じゅうに散って遊具であそんでいたこどもたちや保育士たちが、気付いて、顔をあげたり、挨拶をしたり、寄ってきたりする。おにいちゃんおててどうしたのー、可愛い声で聞かれた幸太はこどもたちと目の高さをあわせるようにしゃがみこんで、クルマにやられちゃったんだよー、と説明した。すっごく危なかったし、痛かったよー。だからみんなも、気をつけて。狭い道歩く時とか、道路をわたる時は、うんとうんと気をつけないとダメだよー。ちゃんと、止まって、右見て左見て、手をあげるんだよ。横断歩道をわたるんだよ。
 三角巾はもうなしだ。包帯だけだ。
 園長室にちょっと顔をだして、ことわりをいれて、事務室にはいった。園の行事アルバムを何冊かめくってみて、欲しいものをさがした。たぶんおととしのこのへんにあったはず、と、見当をつけてあった時期のファイルを探して、やがて目的のものを見つけた。ヴォランティア・グループの名前と連絡先を書き写す。
 幸太は自分のスマホで、さっそく電話をかける。
「あのー、すみません、はじめてお電話します。ちょっとヤヤコシイ話なんです。こばと保育園にですね、以前、そちらから派遣していただいたかたがですね……」

         ☆

 窓辺にたくさんある鉢植えは、シクラメン、シンビジウム、小型の洋蘭いろいろだ。
 母がもらったものを育ててきた。たまりにたまってこうなった。たいしてかまいもしないのに、枯れきらずに残っている。もうダメかいよいよ終りかと思いながらたまに水をやってカーテンごしの日にあてておくと、いつの間にかまた若葉が出てきて、復活する。あきれるほどたくさんの花を咲かせたりする。
 この部屋は窓が大きくて、温室のように日あたりがいい。
 と。警告の赤色灯がともり、壁や天井に、回転する光を投げかけた。咲き終ってちいさなセミの脱け殻のようになった花がらを、ひとつひとつ指先でつまんで集めていた宮野佳寿子の顔を、何度か、赤い光がよぎった。なんだろう。こんな時間に、宅急便はあまりこないけど。けげんそうに目をあげ、立っていって、インターフォンの画像をのぞいた。
 国井幸太が、料亭のマークつきの雪駄を画面にみえるように掲げて、はにかんだ笑顔で立っている。
 ちょっと驚いた。
 それ、あげるって言ったのに。もう返してくれなくてもいいよって。ひとの話をちゃんと聞いてないのね。
 ちょっと拗ねたような気持ちで思うが、訊ねてきてくれたことは嬉しい。正直なところとても嬉しい。
 オートロック解除のボタンを押す。
 紅茶か、コーヒーのほうがいいかしら。ケトルを手にとって、浄水器の水の下につっこんだ。お茶菓子はなにかあったかしら。それとも、もしかして、ビールとおつまみのほうがいいのかしら。
 冷蔵庫やら、食料のストック場やら、パタパタ忙しなくいったりきたりした。そんな自分の気分の華やぎに、ふと面食らって立ち止まる。
 いいえ、あの子は、あがらないわ。わたしとお茶をしたりしないわ。雪駄を返しにきてくれただけ。すぐ帰るのよ。
 きてくれて嬉しいなんて思っちゃだめ。ちょっと寄ってなんて、言っちゃだめ。
 寂しそうな顔はしない。ひまだなんて言わない。ぜったいダメ! 老醜っていうのよ、そういうのは。
 赤くなった気のする顔に、わざと、むっつり不機嫌そうな迷惑そうな表情を浮かべて、玄関のスチールドアに言った。チェーンと、鍵をはずし、ドアを少しだけ開けた。
 わざわざありがとう。さよなら。なるべく、冷たく、つっけんどんに、そういって、さっさと帰ってもらおう。
 エレベータの表示があがってくる。
 もうすぐ彼が到着する。
 まちがえず、予定した行動ができるよう、その気力と勇気をかきたてるよう、佳寿子はひとつ、息を吸いこみ、服装の衿元をなおして、軽く目を伏せた。
 エレベータのドアが開く。
 佳寿子の目がぽかんと見開かれる。



 
 黒い犬が、立っている。



 幸太が思いついたことを相談したとき、母の奈々は、えー、と首をひねった。
「それちょっとどうなの? ううん、わたしはわかるよ。わかるけどね。ひとさまからしたらさ。……なんか、不真面目? っていうか不謹慎? っていうか。ちょっと、あんまりウケねらいみたいだし。一歩間違ったら、ヘンタイさんじゃない」
「ヘンタイ! なんで? ……ひどくね?」
「だって。なんか昔いたよ。リス男? パンダ男だっけ? 通りすがりの、好みのタイプの女の子に声かけて。着ぐるみの下、ハダカだったって」
「げー、やめてよ、そんなのと一緒にしないで。ひどいなあ」
 幸太はなきべそ顔になる。
「しょうがないじゃん。だって、黒兵衛は犬なんだよ? 手じゃなくて、前肢があるはずなんだ。シッポがないなんてやだし。人間のかたちじゃ、いまいちしっくりこないんだよ」
「それはそうかもしれないけど」と奈々は言った。「わかってる? いま、八月なのよ?」


 黒い犬は、持っていた雪駄を見せた。押しつけるように佳寿子に渡した。
 それで両手があいた。
 詰め物をしてある頭部をはずすと、国井幸太の顔がでた。ぷはっ、と息をつく。茹だったように真っ赤になっている。汗がだらだらである。
「……す、すみません、びっくりさせちゃって!」
 顔が膝にぶつかりそうなほど、頭をさげる。
「あのっ、これ、どうぞ。読んでください!」
 畳んだ紙を渡し、首にかけていたタオルで顔じゅうを拭いて、また、犬頭をかぶる。
 全身から湯気がたっているようだ。
 宮野佳寿子は、紙を開いた。活字だ。プリントアウトだ。実のところそれは、奈々が保育園のワープロをつかって口述筆記したものだった。そのため、ところどころ、少し、幸太の口調らしくない。


宮野かずこさんへ

 先日はパンとクリームをごちそうさまでした。ありがとうございました。
 マジうまかったです。とっても懐かしい味がしました。
 あの時、これはもう決まりだ、間違いない、と思ったんですけど、
 前から、思ってたことがあります。

 オレの中に、クロベエがいます。
 あなたの犬のクロベエです。

 へんなこといってすみません。 
 頭おかしいやつだと思われそうですけど、本気でそう思ってます。
 たぶん、あの事故の時、まざっちゃったんじゃないでしょうか。

クロは、宮野さんのことばっか考えてます。
宮野さんにあいたくてたまらないし、そばにいたいし、
宮野さんちに帰りたくって、たまらないのです。
でも、すみません、
これは俺のからだなもんで、ぶっちゃけ、ちょっと、そうもいかないです。

クロも、それはわかってるんです。
つらいだろうに、不平はいいません。
にこにこしてます。
でも、心の深いところで、すっげえ、しょんぼりしてます。

ずっとはなればなれなのは、ほんとうに、かわいそうです。

だから、とにかく、一回、
ちゃんとつれてきて、
あってみたらどうか、と、思いました。

かといって、見た目が俺だと、宮野さんも困ると思うんで。
なんとか見た目をクロらしくする方法がないか考えて、着ぐるみを借りてきました。

 どうか、クロベエに、あってやってください。
 なんか、いつもクロに、してやっていたことを、してやってください。
 そしたら、あいつ、よろこぶと思うんで。

 クロベエと宮野さんが、
 もういちど、あえますように。
 ちゃんとうまくあえたらといいと思います。
 

                           国井幸太

 PS 冷房はちょっと強めにして欲しいです。



 一度ザッと読み、次に、指でひとつずつたどりながらもう一度読んだ。
 佳寿子はその場でかたまっている。
 幸太は困ってしまった。
 暑い。ものすごく暑い。
 八月には着ぐるみなんて着るものではない。
「あの」言ってみる。「み、みやの、さん?」
 聞こえない。聞こえるわけがない。なにせ彼女は穴があくほど紙をにらんだっきりだから。別に何度読んだからって、わったものが出てくるわけもないのだが。らんらんとした目で、手紙を見つめたっきり。
 これでは、気配も、唇も、読んでもらうことができない。
 幸太は溜め息をついた。熱い溜め息だった。
 宮野さんにちょっとさわろうと腕を動かすと、肌の上を汗が、つつつーーー、と走った。
 なんだか汚い気がして、手をひっこめた。
 しょうがないので、もふもふの手をいったん外し、スマホを出す。

[すみません、ちょっといきなりすぎましたよね。
 かえります。
 こんど、また、来ますから]

 書き込んで、画面をさしだした。
 紙と目の間につっこんだ。
 佳寿子はギクッとのけぞって、それで我にかえったようだった。
 スマホを見た。
 文面を読んだ。
 いやいや。首をふった。幼い女の子のように。
 そして次の瞬間、いきなり抱きついてきた。両腕をいっぱいにひろげて。
 
「うぉ……えゔぇぇ!」

 妙な音がした。宮野さんの口から。ザラついて、潰れて、音程すっとんきょうで、メチャクチャな声が。ちからいっぱい。
 幸太は仰天して、面食らって、スマホをおとしそうになって、それから、あ、と気付いた。
「え、も、……もしかして、しゃべってンすか?」
「うおぉお……あばぁえ!……!」
「マジで? え、しゃべれるんスか! うえ、知らなかった、ほんとはしゃべれんだ!」
「ぅぉー! えーえぇええ!」
 暴れ出るように、もがき出るように、声は出た。
 ずっと使っていなかった喉は、錆び付いて固まっている。
 うまくうごかないその器官に、はっぱをかけて、根性いれて、なんとかして出そうとしている。
 声を。
 封印していた声を。
 それは、運動音痴のひとの全力投球のようなもので、どこに行くかまるでわからない。投げても、投げても、ボールは、思っているほうに飛びゃしない。すっぽ抜けて後にいく。あさっての方角に行く。目の前にこぼれる。自分の頭に降ってくる。
 だが、やめない。ひるまない。恥ずかしくない。投げつづける。何度でも。
 何度も、何度も、何度も何度もやっていれば、そのうち、ちょっとぐらいはマシなほうに行くこともある。なにかのコツが少しわかるかもしれない。
 錆びて開かない扉が、あくかもしれない。
「ぉゔえ、くおえ、くーうぉうぇえー!」
 だって。なんとかして。届けたい。どうしても言いたい。
 あの子の名前を、呼ばなくちゃ……!
「くおえ。くろ、うべえええ! くろぉべえ!」
 ストライク! ボールがミットにおさまるパシンと小気味言い音がする。
 言えた。はっきり。名前を呼べた。
 ――ママ! ママ ママ! 
 まぼろしの犬が駆けてくる。ママに飛びつく。喜びいさんでぴょんぴょん跳ねる。
 ――すごい! すごい。やった! できた! 良かった!
「くもべ! ぅおろゃん! くぉちゃんーーー!」
 棒立ちの着ぐるみを羽交い締めにして、何度も呼ぶ。名前を。うまくできたり、できなかったり。それでも何度でも。たしかめるように。抱きしめるように。歌うように。祈るように。感謝するように。
 愛するものの名前を呼ぶ。

          

     ☆

 

 ヒマしてるんならちょっと手伝ってくんない、と弟の嫁に言われ、智美はスーパーに食料品の買い出しに行くのにつきあった。
 逆らうことなど思いも寄らない。まさか妊婦に重たい荷物を持たせはしないだろう、このひとはそこまで鬼じゃないだろうと思いながら、ちょっと警戒していたが、行き帰りはどうせクルマ、荷物はほとんどの距離をカートで運ぶ。
 頼まれたのは、さっぱり言うことをきかないじっとしていないこどもたちの見張りを、多少なりとも分担することであった。
「練習になるでしょ」弟の嫁は先輩風吹かして露骨に上から目線のうすら笑いを浮かべながら言った。「いずれ、トモミ姉さんだって、こうなるんだからね」
 いまどきのスーパーマーケットには、こどもを退屈させずに乗せておくことができるカートが常備されている。女児向けはキティで、男児向けはきかんしゃトーマス。
 上の男の子のほうがまだしも聞き分けがいいから、たのむね、と、預けられた。
 甥っこは、すいっち、オーン! しゅっぱつ、しんこー! と、絶好調にご機嫌である。この子のテンションはつねに高め安定。ゲームや戦隊ものの録画に没頭熱中してない時は、四六時中叫んでいる。「ぼくも」とか「やりたい」とか「ちょうだい」とか。つねに何かを欲しがっている。
 弟の嫁は、おしゃぶりを口にはめた別の甥を背負い、おしゃまざかりの姪をお姫さまのお馬車風のキティさまのカートにお乗せして、どこかにズンズンいってしまった。買いものリストのメモのうち、乾物と冷凍食品の部分を千切って渡されてある。これだけ揃えてくれればいいと頼まれたというか、むしろ命令されたわけだが、慣れないスーパーで何がどこに置いてあるやらサッパリわからない。第一、弟の嫁は、智美が手にとったこともないようなものばかり買う予定だ。
 車麸ってなんだ、どう読むんだ、しゃふ? どうやってつかうもんだ? てんめんじゃんは、とーばんじゃんとは違うの? ごま? ごまって。どれよ。白ごま黒ごま金ごま、煎ったの、剥いたの、摺ったの、大袋、中袋、小袋、メーカーの区別までいれたら、いったい何種類あるのよ。そのいったいどれを選べというのか。ちんぷんかんぷんである。
「ねー、タッくん、ごまって、おたく、いつもどれ?」
「しぁなーい、トオッ! さあこい、マグマスターだ! ガッタイだっ!」
 いつのまにか、なんとかジャーのなっとかレッドになりきっているらしい。
 乾物売り場の棚のいちばん下に置いてあるツナ缶の四つで特売なのを取りあげるべく、深々と脚を折ってしゃがみこんだ時、からだの奥のほうで、水風船が割れるような感じがした。
 智美は顔をしかめた。
 姿勢をもどそうとしたが、膝がいうことをきかない。腰が延びない。まっすぐ立てない。さるあたりに、なにかそれまでとは違う感触が出現した。よく奥歯にものがはさまったようだというが、それに近い。狭いところに何かがはさまった。とれない。問題の箇所は歯ではない。脚のつけね付近である。
「……う……」
 まず頭皮に、それから、背中の全体に、一瞬のうちに汗がわいた。
 歩けない。足が前にでようとしない。爪先もカカトもずっしりと重く、かんたんには動かない。持ち上げるなんて、どう考えても不可能だ。、床につけたまま十センチほどズリズリと摺って移動するのがせいいっぱいだ。それだけのことをするのに、ものすごい気合と集中力が必要だった。汗はもう全身にびっしょりだ。服ごとシャワーをあびたようだ。
 トーマスカートにつかまって、息を整える。
 骨盤だ。骨盤がひらいたのだ。さらにもっとひらこうとしている。たぶん、赤ん坊がおりてきたのだ。
骨が軋む。
 そこに、……ふだんはくっついている骨と骨の隙間に……赤ん坊のあたまが通るほどのゲートを開こうとしている。
「た……タッくん……」喉がカラカラだ。息が苦しくて、声も十分でない。「ちょっと。ママ呼んできて……」
「タコゾンビめ、どうだ、やぁっ!」
「タッくん、お願い」
「みたか、ざんげきけん! きめきめ~!」
 ああ、ちくしょう。ケンカなんてするんじゃなかった。智美は思う。つくづく思う。はるばる実家になんて帰ってくるんじゃなかった。
 オウチでいい子にしていれば、産院だって近かった。実母よりずっと優しくて頼れる奈々ママにサポートしてもらえた。幸太だって骨折なんかしてるけど、だからウチにいた確率が高い。なんとかレッドになったまんまの三歳児よりは役にたつ。 
 じゃなかったら、なんのために両親学級なんか受講したのか? お産とはなにか。産じょく期はどんな状態か。分娩室ではどういうことがおこるか。あんなに熱心に勉強したのに。予習したのに。
 立ち会い出産を希望する、って、言ったのはあんたのほうでしょうに!
 こうたのバカ!
 ちくしょう、どこにいるんだ!
 助けてスナフキン。じゃなくて、助けて、幸太。
 あなたの子が、生まれるのよ~!

           

       ☆


「くろうぉえええ!」
 ――ママ! ママ!
「うおえーちゃん!」
 ――ママ! ママ!
 喉も割れよと叫びつづける佳寿子の声と、まぼろしの犬のはしゃぐ声の合間に、沸騰したケトルのたてるピーという音が混じった。ぴー、ぴー! §フォント大§ぴー! 切羽詰まっていくその音に、ようやく幸太の意識がもどってきた。
 着ぐるみの中があまりに暑すぎるのと、嬉しくなった黒兵衛がいきなりでしゃばって意識の制御の座をひったくったので、失神していたのである。
「あ、う、すみません、ちょっとタンマ! おじゃあしゃーす!」
 幸太は家にあがった。樹皮にくっついたセミのぬけがらのように、しがみついたきり取れない佳寿子のからだをずるずるひきずって、幸太は台所にはいり、火をとめた。
 ケトルが静かになる。
 次にしたのは、エアコンのリモコンをさがすこと。見回す。あった! テーブルの上。とって、操作にちょっととまどって、迷わず最強冷房にする。
ひきずられているうちに、佳寿子も、じわじわ我にかえり、いつの間にか叫ぶのをやめている。自分で自分にびっくりしたような顔で喉を押えている。
 痛かった。喉はかなり痛かった。ガラスのタワシで引っ掻きまくられたようだ。息をするだけでもひりひりする。何か言うと咳き込みそう。唾を飲もうとしたら、涙が出た。
 へなへな崩れ落ちる佳寿子を、幸太があやういところで支えた。床に落とさなかった。
 どうしよう? どっか座らせてあげられるところないかな? なかば抱き上げ、なかばひきずるようにして、居間につれていった。ソファがあったので、かけさせる。
 こっちの部屋のエアコンはどこだ? リモコンはどこだ?
 佳寿子の瞳には、涙がもりあがりはじめていた。悲しいのか。嬉しいのか。ほかのなにかなのか。自分の感情がわからない。頭の中も胸の中も嵐のようで、びゅうびゅうしている。激しいが、あまりに複雑すぎて顔に出ない。
 表情が動かないかわりのように、涙ばかりがぽろぽろ落ちる。
「なんか飲んだほうがいいですよね」
着ぐるみが、素手でさわりそうになり、あわててもふもふしたものをはめ、大きな手でぶきっちょに涙をぬぐってくれた。
「お湯が沸いたみたいだし。なんか、テキトーに、いれてきますね」
 佳寿子はこくんとうなずいた。うなずいた姿勢のまま、ぽかんとしている。
 いま、なにが、起きたの?
 わからない。なにがどうなのか。なにをどう考えていいのか。さっぱりわからない。
 ぼうっとしていると、やがて、黒いものがもどってきた。思わずハッとするのは、その動きが、どこかとても見覚えがあるものだからだ。二足歩行しているのに。立って歩いているのに。
 着ぐるみはデカい手で持ちにくそうにマグカップを持ってもどってきた。感謝してうけとった。すすってみた。梅昆布茶だ。熱くて、だしがきいてて、すっぱい。ごくごく飲んだりしたら喉にしみそうなので、ゆっくり口にふくんで、じっくり味わう。
 おいしい。
 なんと。黒兵衛がいれてくれたお茶を、わたし、飲んでるんだわ。まぁ、びっくりね! まさかそんなことがあるなんて。なんだかいろんな意味でアンビリーバブルだ。


 いま、ここで、なにか魔法みたいなことがおきている。
 素敵な、はかない、ふしぎなこと。
 ささやかで、貴重なこと。


 目の前でとまってみせてくれている珍しい蝶々のようなものだ。身動きしたらそれだけで脅かして、飛んでいってしまうかもしれない。それっきりだ。雪の結晶のようなもので、てのひらでいまにもとけそう。
 せっかくのこの瞬間が、なるべく長くつづくように。
 少しでもとどめられるように。
 動けなかった。なにもできなかった。

「……えーと」
 着ぐるみは頭を掻いた。
 宮野さんは、かたまってしまって、どうにも動かない。
 困った。
「あの、宮野さん、ちょっといいですか?」
 話しかけてみたが反応しない。聞こえているかどうか、よくわからなかった。
 まいった。
 あー。交代。交代頼むよ。俺には無理だ。
 幸太は黒兵衛に話しかけた
 かわって、クロ。このひとに、どうしてあげればいいのか。おまえなら、わかるよな?
 
 バトンタッチ!

 黒兵衛は台所にいってクッションを持って戻ってきた。いつもの自分のクッションだ。赤くて、古くて、いい具合にぺしゃんこ。とてもいい匂いがする。おうちの匂い、大好きな匂い、幸福な記憶の匂い。
 クッションを見ると、ママは、あっというような顔をした。
 口でくわえようとしたんだけれど、着ぐるみの口はひらかない。だから、慣れない手で、ママの手をそっともちあげた。手をつなぐ。まるでリードでつながっているみたいだ。いつもと同じだ。
 和室に行く。フスマはあいている。畳の上に、ぽーん、赤いクッションをほうった。
 ここは、犬には立入禁止の場所だけど、でも、いまならいいよね?
 見ると、ママは、小さく、うん、とうなずいた。
 つないでいた手をはなし、先に畳にあがった。はじめての経験! 畳みのにおいをかごうとしたけれど、着ぐるみの鼻ときたらぜんぜん役に立たない。しょうがないから、赤いクッションに、のからだをあずける。ちょっとぎこちないけど、だいたいふだんどおり。いつものリラックス。
 落ち着く。
 ママがこっちにくる。ソックスの先からスリッパがすとんと落ちた。
 ママがそばに座った。
 手をのばして、撫でてくれた。それから、よりかかってきた。

 肩に、胸に、それとも、いったいどこなんだろう? とにかく黒い人造毛皮のどこか、重みをかけても大丈夫そうなところに、佳寿子は頭をもたせかけた。
 くっついて、横になった。
 いっしょに並んで、横になった。
 アクリルだろうか。改めてそばで見れば、いかにもフェイクな毛皮である。前肢がうらがえって作り物の肉球が見えている。フェルトのピンクがちょっと磨り減って、ところどころウレタンがはみだしている。
 借りてきた着ぐるみは、大勢の演者に何度も何度も酷使されてきたのだろう。だいぶ古びて汚れている。クリーニングができるのかどうか。何人分もの汗や体臭がしみついたままだ。
 けれど、佳寿子は、まぼろしの匂いを嗅いだ。
 愛する犬の毛皮に顔をうめて呼吸をしたときの、あの懐かしい匂いを。
「クロちゃん……!」
 佳寿子は愛犬を抱きしめた。
 目をつぶって、あたたかな黒い毛に顔をうめた。
 犬の前肢は抱きかえさない。そういうふうにはできていない。でも、ちょっともがいて、からだをすりよせてくれた。もっとぴったりくっつくことができるように。
 顔と顔をちかづけた。鼻と鼻をくっつけた。
 犬が、しっぽをふるふるしているのが見えた気がした。
 隙間なくくっついて、鼓動がひとつになる。ふたつでひとつの生命みたいだ。どこからどこまでが自分で、どこからどこまでがそうじゃないのか、もうよくわからない。
 そうしてただじっとしていると、伝わってきた。おのずと。伝えたかったことが。どうしも伝えなくてはならなかったことが。誰が考えているのとも、どっちが知っていたのだともつかず、思い出しているのとも、語ろうとするのとも違う、でも、大切な、ちゃんと伝えたかった気持ちがそこにあった。こころがオープンになって、すべて、ちゃんとつたわって、わかるのだった。

 たくさんのことがつたわった。きっと走馬灯のよう、という、あれ。ことばにしにくいこともいろいろあった。ひとつの印象からひもとかれる長い思い出もあった。
 それでもあえて数えると、とてもたいせつなことが、三つ、あった。

 ひとつめ。
 幸太は、実は、逝ってしまうところだったのだ。
 ――あの時。あの事故の時。
 肉体というちっぽけな容器からふわふわ漂いだした。そうしてみたら、これがなんともすっきりさわやか、解放感ばっちり、自由自在でハッピーるんるん。魔法のマントか、特別の自転車を手にいれたみたいで、最高の気分だったのだ!
 そこらは明るくて光のみちあふれた素敵なところだった。色とりどりで、キラキラしている。あちこちが虹色で、透き通っている。どこまでも広くて、どこへだって好きにいける。飛んでいける。泳いでいける。スキップしていける。なにをしてもいける。教わらなくたってなんでもできる。よおし、だったら、冒険だ。
 そうでなくても家出好き。家出には良い思い出しかない。このまま、いこう。どこまでも、どこへでも。知らないとこまで、ぐんぐんずんずん行ってしまおう。幸太は思い、そうしようとした。
 ……と。
 ガブリ! 
「痛ぇーっ!」
 右手に黒兵衛が噛みついていたのだった。
「なんだよ、よせよ」
 ふりほどこうとしたけれど、離れない。
「ふざけんなよ。なんのつもりだ? じゃますると、怒るぞ」
 すると、黒兵衛のほうがもっともっと怒ったのだった。すごく怒った顔で、うなった。鼻にすさまじく皺を寄せて、獰猛な、闘う犬みたいな顔になって、しかもいきなり巨大化しやがった。幸太なんか鼻の穴にすいこんでしまいそうなラスボス・サイズ。おっかない宿敵悪玉妖怪みたいになって、しかも、どういうわけだか、まだしつこくギリギリと噛みつきつづけている。
くるな。
 その黒兵衛の考えていることが、あたりいちめんにとどろく雷鳴みたいになって、マンガなら最大サイズのフォントで岩石みたいな装飾のがズシンと落とされたみたいになって、全身に、頭に、いや、なんなのだろう、とにかく幸太のぜんたいに、ガンガン響き、揺さぶった。
 だめだ。おまえはくるな。
 はやく帰れ。あっちにもどれ~!
 いつも優しい黒兵衛が、とびきりおっかない顔でそう言うのだ。
「えー? なんでだよ。あっちって、めんどくせーな」
 幸太はブツクサ言った。
「だいたいさあ、俺に意見するなよ。なまいきだろ。犬のくせに」
 黒兵衛はムッとした。見れば、彼は、翼をはやしていたのである。ばっさばさの、もちろん真っ黒の、ものすごく立派な翼だ。そういえば頭の上にワッカもついていた。よくある例のワッカである。
 そういえば、オーラが、なんだか神々しい。
 マジかよ、と幸太は思った。おまえ、天使さんになっちゃったの?
 でも犬。
 大きくても、偉そうでも、黒兵衛は間違いなくまだ犬のままで、黒兵衛の目は犬の目だった。わんころの、真っ黒くて、潤んでいて、輝いている、宇宙そのものみたいなあのきれいな目だ。無限にひろがる大宇宙をのぞきこんでいると、吸いこまれてしまいそうだった。だから、つい、言ってしまったのだった。
「え、おまえ、もしかして死んだの?」
 クロはムッとしたまま答えなかった。
「えー、ちょっと待てよ。そしたら、おまえこそやばいじゃん! だってさ、宮野さん、ひとりにするのか?」
――ぎゃん!
 黒兵衛が吠えた。泣いた。痛いところを突かれたらしい。
 やだやだ。というように首をふったら、噛んでいた口からすっぽ抜けた。
「うわあああああ!」
 ズシン! どばん、ひゅるるるる! 幸太はたちまち放り出された。遠心力で。ハンマー投げみたいに。巻かれた。落ちた。しぼられた。錐揉みになって、もんどりうって、あっちこっちメチャクチャ通り抜けた。世界と世界の境目を、ぎりぎりのきわきわ滑ってはずんだ。
 何かにぶつかるたびに、からだは重くなり、言うことをきかなくなり、ひどく痛み、気持ち悪くなり、目が回り、ばらばらになりそうになり、しんどくなり……そのうちとうとう気を失った。
――目覚めたら、病院だった。
 実にはっきり覚えていたが、まあどうせいわゆるありがちの夢だろうと幸太は自分で思っていた。単純に。死にかけて蘇ったひとがみんな見るという有名なお花畑。きっとあそこにいってきたんだろう。すでに故人であるご先祖さまとかに、おまえはまだこっちに来る時がきていないからって説教されて戻されるというのも王道パターンである。
 黒兵衛がなぜ登場したのかといったら、直前までいっしょにいたからだろう。
 夢ってよく、前の日にあったこととか、影響するし。
 しかし。
 意識を快復してから、いろんなことが起こった。「もしかすると」ただの夢ではなかったのかもしれない、そう思うようになるようなことが。
 自分は、この世とあの世の境目で、黒兵衛に「戻れって言われたのかもしれない。
 つまりあれはほんとうのたとだったのだ。錯覚でも、頭をうったせいでも、想像力の暴走でもなく。
 なぜか。
 怪我の治療をされるたびに目にしているものがある。ずっとギブスに隠れているので、担当のお医者さんと看護士さんと幸太本人以外、ほとんど誰も見ていない。だから、誰かに、これをどう思うのか、意見をきくってことが、まだできないのだけど。
 右手にクッキリと刻まれた痕跡。これは。
 ……でかい犬に噛まれたみたいに見えないか?

 つたわったことのふたつめ。
 佳寿子が(実は)声を出せる理由。
 そう、出そうと思えば出せる。出せないこともない。だが、黙っている。うまくしゃべれないから、黙っている。その理由。
 彼女は「耳が聞こえない」のではなく、「聞こえにくい」のだ。
 そのことの意味がわかったのは中学二年生になってから。それまで、つまり生まれてから十数年、佳寿子は異世界にほうり出されたように生きていたのである。
 ふつう、耳は、世界にあふれるあまたの雑音の中から、ひとの声、音楽、サイレンなど、「聞くべき」情報をピックアップする。無意識に。自律的に。佳寿子の聴覚は、それがうまくできない。
 「聞こえにくい」は、「聞こえない」ではない。「耳が遠い」のとも違う。
 聞こえなかったなら親も周囲も気づいたろう。対応することもできただろう。
 なまじ、聞こえた。いちおうは。音が鳴ればそちらを向いたし、名前を呼ばれれば反応した。
 そもそも幼いうちは、大人に言われることも、子ども同士で話すことも、それほど複雑ではない。だからさほど不自由でもなかったのだが、幼稚園に行き、小学校にあがるうちに、だんだん不都合なことが増えてきた。
「ほうきやって」と言われたのを「もうかえって」と聞いて帰り支度をはじめると相手が「なにしてんの、ひとバカにして!」いきなりカッとなって、つかみかってくる。
 クラスの子が何人かかたまって、楽しそうにおしゃべりをしている。親密で早口な会話は、ぜんぜん聞き取れない。外国語みたいで、ちんぷんかんぷんだ。わからないから反応しないと、なんで無視するの、感じ悪い、となじられる。みんなが笑うのでつきあって笑うと、かずちゃん、いまのわかった? 言ってみなさいよ。なによ、言えないくせに。知ったかぶりして。つるし上げを食らう。
 大勢がいっぺんに話している場所や、車通りの激しい道などでは、話しかけられても気がつかない。ノイズとそうでないものの区別がつかない。口頭の指示がわからず、置いてきぼりになったり、行方不明になったりする。
 スピーカやメガホンで増幅された音には、頭痛がしたり吐き気がしたり、耳の奥が痛くなったりする。気持ちが悪くなってしゃがみこんでがまんしていると、なにをそんなところでいじけているのと言われてしまう。なぜみんなと仲良くしないの。ごめんなさい、ここ、いやです、なんか気持ちが悪くて。正直な思いを口にすると、ワガママを言うんじゃない、みんないっしょうけんめい頑張ってるんだからねと説教されたり、え、もしかしてきみ霊感があるの、ほかのひとにわかんないものに敏感なんだ、ここになにか見えちゃうんだ、へーえ、すごいねえ。まったく思いもかけないイヤミを言われる。
 しかも絶望的に音痴だった。音楽や歌は大好きだ。しかし、歌ったり、笛をふいたりすると、まわりじゅう笑いころげるか、悲鳴をあげて逃げまどう。
 みんなと仲良くしたい。いろんなこと、ちゃんとしたい。できるようになりたい。
 なのにちっともうまくいかない。
 ていねいに話してくれるひとのことばはわかる。ゆっくり、よく響く落ち着いた声で話してもらえば、だいたいわかる。顔や手の表情が豊かだったり、目と目をあわせてくれると、わかりやすい。まくしたてるように一方的にしゃべるひとの声は聞き取りにくいし、ぼそぼそ言われたら聞き取れない。このような佳寿子の側の事情がわからないほうからは、まるで、彼女が特定の誰かだけを好いてヒイキし、あとを軽視し無視しているように見える。失礼な、鼻持ちならないやつにみえてしまう。
 聞き取れないときは、聞き返す。
「はい?」
「いまなんていったの?」
「ごめん、わからなかった。もう一度言ってくれる?」

 一度なら怒らない相手も、何度も聞き返すと、だんだんイライラしてくる。

 なんでちゃんと聞こうとしないの? 注意さんまんだよ。気をつけてなさいよ。ぼうっとしないで。
 みやの、うざい。
 顔だちが良いことも、持ち物や服装が上等で親がテレビに出る有名人だったりすることも、救いにはならなかった。むしろ、「あいつ、なんか勘違いしてんじゃないの?」「めんどくさい。かまうのよそう」と言われてしまうことになった。
 十歳にも満たない幼い子どもに――それも、「自分だけがこうで、みんなとは違う」ということに、まったく気がついていない子に――弁解など、できるわけがなかった。相談することも、説明することも、できはしなかった。
 聞くのが得意ではない耳をそれでも必死にすましていると、神経がやすまらなかった。へとへとに疲れた。玄関をあけてランドセルをほうりだすと同時にワッと泣き出したりすることもあった。熱を出すこともしばしば。じんましんも出た。登校しても保健室にいって、ベッドから一日じゅう出られないこともあった。
 必死で頑張るのは苦しい。あきらめてしまえば、楽だ。
 もとから、おとなしい、主張の強くない、ひとりでいるのが好きな性格でもあった。文字を覚えてからは本が友だちになった。文字なら、聞き間違えたり聞き逃したりしない。必要なことを間違いなくうけとれる。正しく知ることができる。
 佳寿子はますます無口になり、ひとを避けるようになった。仲間はずれにされる不安より、雑音に煩わされず、無駄に気をつかわずに過ごせるほうがましだったが、孤立は深まった。
 ともだちがいない、授業をきいていない。生意気で協調性がない、集団生活に適応できない、問題行動が多い。いじめられているようだ。たびたび親が呼び出され、注意をされた。
 中学から古風な女子校に進学した。おっとりしたお嬢さま学校なら、まだしもなんとかなるのではないか。勉強なんかできなくてもいいが、中学には行かないないわけにいかない。とすれば、なるべく静かに穏当に過ごせるところで。そう考えたのだった。
 その学校で、佳寿子は大石(旧姓)志津枝にであった。活発でボーイッシュな志津枝は人気者で、運動会や文化祭といったお祭り騒ぎではいつもリーダーになるタイプ。空の高いところで輝いている星のようなもので、自分とは縁のないひとだと佳寿子は考えていたのだが、その彼女がある時、突然、気がついた。
 宮野さん、もしかして、よく聞こえてない時があるんじゃない?
 志津枝は点字や手話を学んでいた。視覚や聴覚に障碍のあるさまざまなひととつきあいがあった。仲のいい年上のイトコにハンディキャップのあるひとがいて、影響されてのことだった。
 紹介してもらった病院でさまざまな検査をして、はじめて、佳寿子の耳がどういう状態だったのか判明した。
 感音難聴というものだった。
 聞こえないのではない。聞きとりにくい。音によって聞こえたり聞こえなかったりする。会話やことばの聞き取りは、単なる音の聞き取りよりもさらに難しかった。話者の声質や話し方に大きく依存した。
 色で赤と緑が区別できないひとがいるように、「ふつう」なら当然聞こえるはずの音、わかるはずのコトバが、佳寿子にはうまく区別できず、聞き取れていなかったのだ。
 いわゆる「聾」とは原因も症状も対処法もまったく違う。専門医でもこの分野に詳しいひとはそのころまだ少なく、検査機器なども充分ではなかった。症状や対処も個々にさまざまで、有効な対処方法を見つけるのはかんたんなことではなかった。
 補聴器は訳にたたなかった。ノイズを増幅するだけで、むしろ、より聞きにくくなるのだ。
 精密検査をしても耳や脳にこれといった原因を見つけることができなかった。「心因性」を疑われた。
 それでも、ともかく、診断がついた。
 本人も、親も「そうだったのか」と思った。なるほど。そういうことだったのか。
「だから志津枝は一生の恩人」
 佳寿子の心は饒舌に語る。
「わたしは、自分が、どうしてひととうまくやっていけないのか、知らなかった。
 みんながあたりまえにできることができない、ダメな子なのかと思っていた。
 でも、そうじゃない。
 そうじゃなかった。
 できないのには、できない理由があった」
 ちょうど世の中にPCや携帯電話がひろまる時代でもあった。文字でやりとりをするなら、耳のことは問題にならない。佳寿子は生まれてはじめて、友だちとたわいないおしゃべりをする愉しみを知った。チャットやメールで気持ちを伝えあったり、その日あったことを報告しあえた。
 テレビ番組にも文字放送や手話ニュースなどが広まりつつあった。パラリンピックのさまざまな競技、さまざまな選手の活躍に、多くのひとが驚いたり感動したりした。ショウガイには障害ではなく障碍という字をあてる世の中になってきた。
 以前より状況は良くなったが、彼女の耳はあいにく悪化した。幼いころより、もっと聞こえにくくなってしまった。高校生になるころが最悪だった。いつも体調が悪く、貧血で、低血圧で、だるくて、つねに耳に痛みや閉塞感があった。音はたわみ、ガサつき、突拍子がなかった。チューナーのあっていないラジオをヘッドフォンで聞かされつづけているようなもので、疲れたし、イライラした。思春期の女性にありがちの変調だろうと言われたが、ただでさえ微妙だった佳寿子の音の世界は、このストレスで、さらに削ぎ落とされ失われていった。
 強い違和感ははじめ右耳に出た。ざーざーがさがさノイズがうるさくて、耳栓をはめて髪で隠して登校し生活した。ある日、朝起きると、その右が、まったく聞こえなくなっていた。テレビの音がひずむので気がついたのだった。髪をかわかすドライヤーをつけてみた。左耳が聞く轟音を、右耳はまったくとらえることができなかった。
 進行性なのかもしれません、と、主治医は言った。残念ながら、いまのところ、あなたの聴覚を改善する方法が見当たりません。
 進行性? ということは、なんとか聞こえているこの左耳も、いつか聞こえなくなってしまうということなのか。 
 佳寿子は不安になった。
 ひとと会話することができなくなくだけではない。海の音も、風の音も。世界の音が、みんな聞こえなくなってしまう。音楽も動物の声も、何もわからなくなる。
 もしも、将来、好きなひとができても、そのひとの声を聞くことができないのだ。
 もう新しい歌を覚えられなくなる。どんなにひどい音痴だと言われても、佳寿子は音楽が好きで、歌が好きだった。誰かに聞かせるためではなくて、ひとり口ずさむだけでも、好きだった。なのに。
 いやな予感はあたる。
 難聴はゆっくりと進行し、やがて、両方の耳が、ごくごくかすかにしか音をとらえることができなくなってしまった。
 中途失聴者。
 聞きにくいひとではなく、聞こえないひとに。ほとんど、なってしまった。

「おかあさんにはさ、悪かったと思ってるんだ」
 赤いクッションの上、ひとつの生命のように重なって。佳寿子は思う。
「こんなへんな病気の子、面倒みるの、たいへんだったと思う。
 あのころは、特に暗かった。きっと、いやな子だっただろうなぁ」
 ティーンエイジャーの佳寿子は、深海魚のような目をしていた。膝をかかえてうずくまって、ぶちぶち、しじゅうなにかを引き抜いていた。
「ほんと、最悪だった。あのころ。絶望だった。
 ひきこもりで、殺伐としてた。聞こえないだけじゃなくて、目の前も真っ暗で。ちょっとでもいやなことがあるとキレたし、カッターで何度も手首をきった。
 死にたかったわけじゃないけど、消えてなくなってしまいたかった。
 本も読めなくて、ひとにあえなくて。ごはんも食べられなくて。
 なにしてたんだろう? なにもしてなかった。
 おふろにもろくにはいらなくて、髪なんかざんばらで、ガリガリの幽霊みたいだった。
 こんな娘が家にいるのに、テレビに出れば、楽しく陽気にふるまってなきゃならなくて。
 おかあさん、きっと、うんざりしてただろうなぁ。
 さんざん苦労ばっかりかけて、親孝行なんか、ひとつもしてない。
 ごめんねって、言う間もなかった。まさか、あんなにはやく死んでしまうなんて思わないもの。苦労をかけたからかなぁ。
 つまり、あたしが殺したんだよね?」
 罪悪感と恥ずかしさでいっぱいな気持ちで佳寿子が思うと、


 ――ちがう、それは、ちがう――!
 別の思いが押し寄せた。
 ――ちがうよ!

 犬は覚えている。
 そう、それが、だいじなみっつめ。
 犬や猫には基本「いま」しかないのだというけれど、でも、どこかに記憶がしまってある。過去のできごとと、それに影響されて変わった自分がいる。世界がある。
 それを覚えているといってもいいのではないか。
 覚えている。佳寿子が眠った夜遅く、いまは亡き宮野順子が――母が――時々、家で、お酒を飲み過ぎたことを。
 犬なんか飼いたくなかったはずなのに、台所にいれちゃだめと言っていたくせに、寝室はよせベッドはダメ、いれるな追い出せと、あんなに大騒ぎしたのに。
 母は、ぐでんぐでんに酔っぱらうと、犬をかまった。
 可愛がった。
 佳寿子の目の前では、ただの一度もそんなそぶりもみせなかったのに。ずっと、犬なんか好きじゃない、迷惑だといわんばかりの顔をしていたのに。
 こっそり、可愛がっていたのである……!
 ちょっとクロちゃん、おいで、ほらここにいらっしゃい。相手してちょうだい。
 酔って、ハイテンションになると、陽気にふざけた。ちょっかいをだし、からかって、おもしろがった。仔犬のときは、膝の上に抱っこして、ぬいぐるみのように頬ずりしたり、撫でまわしたりして遊んだ。目をのぞきこみ、鼻と鼻をくっつけ、キスをした。大きくなって膝にのらなくなるとスカートでくるんだ。自分のはいているそのスカートをふわりと黒兵衛の上にかけ、無理やりとじこめて、犬が困ってもがくので、きゃーきゃー笑った。
 そうして遊んでいるうちに、ふいに静かになって、さめざめ泣く。
 どうしよう、クロちゃん。私、ダメだ。悪いおかあさんだったよう。
 もう、もう、取り返しがつかないのかなあ。
 でもね、言い訳させてね。だって、しょうがなかったの。あのころは、若くて必死で。夫もいないし。なんとかうまくやってかなきゃならないって。そりゃあ必死でさ、うんと頑張らなきゃ、ひとにバカにされちゃいけないって、気負って、気をはって、余裕がなかったんだねえ。キリキリかりかりしていたんだねえ。
 立ち止まらなかった。
 じっくりなにかを考えたりしようとしなかった。
 悪かった。反省してる。あんなに無闇に肩肘はらなくても良かった。
 がむしゃらに仕事がんばるより、まず、いいおかあさんになればよかったんだ。でも、あのころは、そういうことがわからなかった。ただもうああしかできなかった。ああするしかなかった。
 取り返しがつかないのにねえ。
 順子は泣く。後悔と自責の念に押しつぶされて。
 かずちゃん。かずちゃん。かわいそうに。あんないい子に。かわいそうなことをしちゃったよ。どうして、どうして、気がつかなかったんだろう? 十三年間も! じゅうさんねん! なんで? 母親なら、もっとはやく、わかってあげられたっていいはずなのに。なんで気がつかなかったんだろう。
 なんで、気づいてあげられなかったんだろう。
 ……わかっている。
 わたしはあの子とまともに向き合おうとしなかった。あの子に注意を、エネルギーをそそがなかった。いまはそれどころじゃない。それより大事なことがある、そう思って。目の前のあの子から、目をそらしていた。
 あの子の声に耳をふさいでいた。悲鳴に、叫びに、ふりかえらなかった。
 あの子は、なのに、えらかったねえ。それでもなんとか、頑張り通したんだから。
 大石さんちのお嬢さんに、もし、出会わなかったら。ずっと、あのまんまだったんだ。ぞっとするね。
 あのときはほんとにびっくりした。おったまげたよ。まさか、そんなことがあるなんて、知らないじゃないの。聞いたこともないよ。耳が悪いっていったら、ふつう、聞こえないか、遠いかでしょう。それ以外のことがあるなんて、ぜんぜん思いも寄らなかった。
 説明されて、やっとわかった。
 そうだったの、ああ、そうだったのかって。
 それでいろんなことが納得できた。
 血の気がひいたよ。
 だって、それまで思ってたこと、やってきたこと、ぜんぶ、お門違いだったんだって、わかっちゃったんだからね。
 世界が、音をたてて崩れたみたいだった。十年もの時間が無駄だったんだ。
 言われて、あらためて考えてみれば、思い出してみれば、あの子は、確かに、そうだったんだなと思うよ。ほんとうにかわいそうだった。ソウゼツだったと思う。幼稚園とか、小学生とか。そんな小さい子が困ってるのに、苦労してるのに、誰もちゃんとわかってあげなかった。ほんとうのことをわかろうとしなかった。
 ひどい目にあったよねえ。どんなにいっしょうけんめいだって、無理なものは無理なんだからねえ。ずっと、ずっと、ひとりぼっちで。
 苦しかったろうにねえ。
 なのに、まいっちゃう。あたしは、あたしまで、ものすごい誤解をしてたんだ。
 あの子のことをさ、自分の娘をさ、……悪い子だと、怠け者で、ぐうたらなんだと思っていた。そうとうダメな、できの悪い、ふつうじゃない、世の中のお荷物になるような子なんだって、そう思っていたんだよう、思っちゃっていたんだよう、クロちゃん!
 だって、だったさ、そう見えたんだもの。
 何度言ってもわからないし。することなすことトンチンカン。へんな声で叫ぶし、歌を歌えば調子っ外れ。まさかまさか耳に問題があるなんて思わないじゃないの。ああ、この子は、ふつうのことができないんだ、わからないんだ、バカなんだって、そう思うでしょうが。
 どんな子だって、自分の子だ。見捨てちゃいけない、見下したりしちゃいけない、嫌っちゃいけない、親なんだから、大事に思って、愛してかばってやらなきゃいけない、よそさまにひとさまに迷惑かけないように育てなきゃ、そう思ってた。
 幸い顔は可愛いほうだし、女の子だ。どんなバカでも、明るく朗らかでひとさまに好かれる子になってくれって、そう思ったのに。あの子はねえ、暗くて、難しくて、ひとにぜんぜん打ち解けないでしょう。おともだち、ちっともできないでしょう。なんとかそこを直してやろうと思ったんだよ。そういう性格を。厳しくしつけて、根性たたきなおそうとした。ちゃんと、ひとと、うまくやっていけるように。社会に適応できるようにって。
 なのにさあ。
 ちっとも思い通りにならないんだもの。
 やってもやっても、通じない。くやしいじゃないの。腹がたつじゃないの。なんで言うこときかないのって、こんなにあんたのためを思ってやってるのにって、憎らしくなっちゃうじゃないの。
 申し訳ない。こっちがバカでした。肝心のことを、わかってなかった。すみません。
 でも、さ。
 わからなかったんだ。
 わかってないってことが、わからなかった!
 なんで佳寿子は、あんななんだろう、あたしの気持ちをちっともわからないんだろうって、いつもいつも思っていた。
 反対だった。根本のとこで。わかってなかったのは、わかろうとしなかったのは、私のほうだ。かずちゃんじゃなくて。あの子を信じようとしないで。認めようとしないで。わかろうとしないで。こりゃダメだ、どうせ無駄だ、って、さっさと決めつけて。
 ばかだばかだ。大馬鹿は私のほうだー!
「くぅーん?」
 しょんぱい頬を舐めて、黒い犬が鼻を鳴らす。あー、ごめんごめん、母は犬に謝る。ひとりで食べて飲んじゃって。ずるいねえ。おまえもなにかお食べ。どんどんお食べ。ほら、チーズ? さきいか? なんでもお好きにやって。どうぞ。
 感謝してるよー、クロちゃん。
 おまえが来てくれて、あの子は、かわった。外にでられるようになった。
 おまえを散歩につれだすために。
 すごくがんばったんだよ。
 ガリガリで骸骨だったみたいだったのに。外になんか行きたがる子じゃなかったのに。必死で歩いて。少しずつ、体力もついて。
 だんだん、いける範囲もひろがった。公園で、座って景色ながめたり、桜のはなびらをひろってきたり。ラーメン屋さんに『冷し中華はじめました』ってもう出てたよおかあさんって、話してくれたり。そう、あの子は、世の中に興味をもつようになった。世界と、かかわれるようなった。
 おまえのために。
 おまえがいたから。
 おまえをかまいたくて近づいてきてくれる小学生や、犬散歩ともだちとも、それなりにちゃんとつきあった。
 クロちゃん、だから、感謝してる。おまえがきてくれてよかった。おまえがいるようになって、あの子はたくさん笑うようになった。
 笑うだけでなくて。泣いたり、怒ったり。ちゃんとするようになった。
 人間らしくなった。
 目を輝かせるようになった。

 おまえがいたから。

 なのに、なんだろうねえ、ひどいねえ。あたしはそれに、うまくつきあえなかった。


 だって、ずっとあの子のこと、あきらめていたから。どうせダメだって、思ってたから。
 犬を飼いたいなんて言われたときも、問答無用で反対したからね。いまさら、言えないでしょ。犬って可愛いねえ、なんてさ。クロちゃんがきてくれてほんとうに良かったね、助かったね、なんて。言えない。言えばいい? やだやだ、無理だよ。
 だって、犬なんてさ、飼ったことなくて。ほんとにいやだったんだよ。動物なんて。ただでさえ忙しいのにまた迷惑なことがふえるって思った。なんでこんなに頑張る私に、おいぼれロバの背中にもう一本藁を足すようなこと言い出すんだこの子はって、そりゃあ、腹たてたからさ。
 大反対しちゃったでしょ。
 あたし間違ってた。きっといまも間違ってる。
 あやまらないといけない。ずっとそう思ってる。でも、うまく言えない。どうしてだろう。悔しいのかな。あの子のほうが正しかったなんて。あたしのほうが間違ってたなんて。恥ずかしすぎるのか。申し訳なさすぎるのか。言えない。言えない。
 どうしてあたしはこんなに依怙地で意地悪なんだろう。血のつながった実の母親なのに、まるでおとぎ話の悪いママハハみたいだね。
 素直に言えばいいんだ。はやく気がついてあげられなくて、ほんとうにごめんなさいって。やさしくしてあげられなくて悪かった、おまえの人生をだいなしにしてしまった、ごめんなさいって。
 言おうとするんだけどさあ。ここまで出てくるんだけどさあ。あの子の顔みると、なんかツンケンしちゃうんだよ。この娘がそんなへんな病気でさえなかったら、生まれつきそうだったりしなかったら、こんなもんもんと考えて、落ち込んだり、罪悪感もったり、しなくていいのに! って、また、ぜんぶあの子のせいみたいな、悔しいような、恨んじゃうみたいな、そんな気持ちのほうが出てきちゃうんだ。
 なんでかねえ。
 おまえたちは、そんなことないね。ちゃんと通じてる。すなおに、まっとうに、通じてる。コトバなんかないのに。仲良しだ。わかるんだね。うらやましいよ。して欲しいことをしてあげて、してもらって。お互い大好きで、やさしくできる。それって、ほんとは、単純な、かんたんなことなんだろうなあと思うよ。
 なのに、どうして。

 母は泣く。


 母が、そんな気持ちでいたなんて。
 ぜんぜん知らなかった。ぜんぜんわからなかった。
 思いがけない。

 その涙を、拭いてあげたいと思った。
 いいよ、って。ぜんぜんいいよ、おかあさんのせいじゃないよって。

 おたがい、苦労しちゃったねえ、って。

 いっしょに泣いて、笑いあって、抱きしめあいたいと思った。

 思うと、思っただけで、佳寿子はもうそこにいて、母もいて、黒兵衛もいて、赤いクッションがあって、まわりはふわふわの雲みたいな虹みたいなきれいなところで、光がふりそそいでいるのだ。
 ――おかあさん。
 ――かずちゃん。
 ――ママ。
 時をこえて。場所をこえて。
 ことばをこえて。
 人間だとか犬だとかたましいだとか意識だとか肉体だとか霊魂だとかこの世だとかあの世だとかとにかくなんでもいろんなものをこえて。
 わかりあう。つうじあう。聞き取る。
 つながった。
 ぴったりとかさなって、
 ひとつにとける。


 
 あなたのことが大好きです。
 あなたがいてくれた時が、あなたがいたこの世界が、大好きです。


 ……遠くで、……おぎゃあ、と小さな声がする。
 赤ちゃんがひとり生まれ、この有限の物質の世界に、またひとつ、生命という神秘をもたらす。
 産婦人科医の手がへその緒をたぐり、銀色のはさみをあてる。
……ぷちん……
 牽き綱がはなれ、銀の鎖がしゃらんと鳴る。

 世界はまわり、ぐるぐるまわり、洗面台の水が流れ出るように、永遠のむこうからもどってきて、ゆっくりともとの秩序にもどる。

 幸太はいつの間にか着ぐるみから、なまの顔をつきだしていた。髪がぐしょ濡れなほどの汗みずく。まぶたをつぶった真っ赤な顔は、なんだか新生児のようだ。彼はまばたきをする。ぼうっとしたまま、みみたぶにふれる。鎖をたぐって、あ、と呻く。
 鼻先から汗がしたたる。
「……いま、くろが……くろべえが……」
 佳寿子がハッとして幸太を見る。
「いき……ました。……どっかに……いっちゃいました……出てったみたい……ここから」
 ふたりは黙ってみつめあう。
 まるで、その時を、その瞬間をたくみにみはからったようにスマホが着信音を鳴らす。
 幸太はスマホをさぐりあて、耳にあてる。
「もしもし?」
「あ、こうちゃん! やっとつかまった!」奈々が言った。「うまれたってよ」
「え」
「赤ちゃんよ、おめでとう!」

 末吉建設で借りた軽ワゴンでの智美の実家までのドライブは、スリルとサスペンスに満ちたものだった。渋滞を避けたつもりでうろ覚えの田舎道を走っていると雨がふりだし、タイヤがひとつパンクし、しょうがないので路肩にとめてジャッキアップしてスペアタイヤにつけかえたら、そのスペアがつるつるの丸坊主だった。
 幸太には、自分のからだが、いまひとつうまく使えなかったのだった。着ぐるみが暑すぎて熱中症になりかけたし、ギブスは外したばかりだし、そもそも入院生活でからだがなまっている。奈々にはそう説明したが、その実、しばらくつきまとっていた身体的「犬感」の名残がまだぬぐいさりきれていなかったのである。
 嬉しかったり悔しかったりするたびについ「犬耳やシッポを」動かしたくなる。耳もシッポも動かせないなんて、ほんとうにガッカリだし、調子がくるう。いままでどうやってきたんだろう、俺はこの先もシッポもなしで生きていけるんだろうか?
 智美は素晴らしく安産だったそうだ。
 そういえば犬は安産の象徴である。
 ちなみに赤ん坊は見立てどおり男の子だった。
 疲れて眠りこんだ嫁の顔をおがんだあと、幸太は新生児室にいって、看護士にことわって、くるまっていたタオルごと息子を腕に抱き、顔を寄せて、そっと尋ねてみた。……ねぇ、もしかしてきみは、クロベエのうまれかわりかい? 赤ん坊はただただ安らかにすやすや眠っていて、まつげを震わせるばかりで、特になにも答えてくれなかった。

       ☆

 宮野佳寿子は『わんわん愛らんど』の太地萠あてにメールを書いた。
自分は耳に障碍があり、ひとと声で会話をするのは不自由だが、文字をつかってならコミュニケーションもできる、そんな私にもし手伝えることがあったらやらせてもらえないだろうか、と。
 たとえば、この間のイベントのような時に、軽食をだすのはどうだろう。サンドイッチとか、カナッペとか、グラタンとか、カレーとか。わんちゃん用のランチやクッキーもいいかもしれない。犬好きなひとがおもしろがってくれるようなメニューを提案したい。試食してくれるなら、今度、作って持っていきたいと思うのだが、どうだろうか。
 やがて返信がきた。
 その提案はとても嬉しいしありがたい、とあった。イベントの場合、遠くから来てくれるひとが多いし、スタッフも、いつもバタバタしていて、空腹のことなど忘れてしまいがちだ。犬たちの餌のことはぜったいに忘れないのに。
 お腹が減ってると、人間、つい怒りっぽくなってしまうよね。もし、おいしいごはんや甘いものがあったら、喧嘩っぱやいあたしも、しなくていい対立を避けて通れるようになるかもしれない。ややこしい取り決めがスムーズにいくようになったら、節約できた時間やエネルギーで、もっとおおぜいの気の毒なワンちゃんを助けてあげられるよね?
 何度めかのゆっくりと親しみをます世間話めいたメールのおまけに、佳寿子は、黒兵衛の画像を添付した。
 この子が、クロちゃんです。
 わたしの大事な大事な子。一生の恩人ならぬ恩犬。家族になってくれて、耳にもなってくれた、大好きな相棒です。彼のつかっていたクッションも、おもちゃも、まだ捨てることができません。いなくなったということを、まだ、ほんとうには実感していないというか、あまり信じたくないのかもしれないです。
 すると、間髪をいれずといっていいタイミングで画像つきメールがかえってきた。

「あのね。またまた誰か無責任なひとが飼育放棄してしまった子がいるんだ。高速道路の路肩にチョロチョロ出たりして危なかったのを、やっとこないだ捕まえて、きのう、あたしがむかえにいって、連れて戻ってきたばかりの子なんだけど。
 獣医さんによると、ちょっとおなかにムシがいるぐらいで、あとはとっても丈夫で、健康な子なんだって。
 ねぇ、この子、なんか、似てませんか。宮野さんちのクロちゃんに」

 あわててスクロールして画像を見た。
 まだ若い。仔犬からおとなになりかけだ。手足がひょろひょろ長い。真っ黒な毛は黒兵衛のようにまっすぐではなくて、カールしてクリクリしている。クリックして、画像を拡大してみた。
 ああ。
 ほんとうだ。
 佳寿子は液晶画面に指をはわせる。
 液晶が指のチカラに虹色にゆがんで、画面の犬が笑って見える。
 なにか近い。なにかが似てる。体格の感じ。表情の感じ。なにより……この目が。いたずらっぽい、賢そうな目が。
 オーラが。

「なにがどう組み合わさったのかよくわからない雑種なんですけど、とっても人懐っこいいい子です。歯をみると、生後四カ月ぐらい。小さいから、虐待とか放浪の悪影響からも、きっとすぐに立ち直れます。ワクチンをする準備をしているんだけど、……ウチであずかるなら、すぐに去勢してしまうんだけど、どうしましょう」

 どうしましょう。
 ああ、どうしましょう! どうしましょう!
 佳寿子は両手を握りあわせる。
 いくらまだ小さいっていっても、生まれたばかりじゃないんだわ。だったら黒兵衛の生まれ変わりのはずはない。この子がうまれた頃には、黒兵衛はまだ生きていたんだもの。
 でも、でも……助けてあげたい。
 いいかしら。
 いいのかしら。
 写真たてを振り向く。
 ねぇ、黒兵衛、どう思う?
 ママ、あの子を、飼ってあげてもいい?
 他の子をこのうちにいれるの、許してくれる?
 あんたのクッションを、あの子にゆずってあげても、いいの?

 佳寿子は仔犬の画像でひっかかってしまってそれより先に読んでいない部分があることに気がつかないが、そこにはこんなことが書いてあった。

「PS 
 ねえ、宮野さん、聴覚障碍のひとのブログとかを、読んだことありますか?
 気になったのでちょっと検索してみたんですけど、いろいろありましたよ。日記とかブログとか。フェイスブックやインスタグラムを熱心にやっているひとたちもあるみたいです。その中に、人工の内耳をとりつけて、うまく聞こえるようになったひともあるみたいでした。手術をしないといけないみたいだし、どういう種類の難聴なのかとかで、あうとかあわないとかいろいろあるみたいですけれども、いちど、調べてみたらどうでしょう?
 いまは、医学が、すごい勢いで進歩しているので、昔、打つ手がないっていわれたようなことでも、いまなら、もしかすると、なんとかなるかもしれないよ。
 それとね。
 音痴って話。
 自分の声が聞こえなくて音程がとれないひとは、チューナーを使うといいんですって。これはなんの音ですよって数値とか表示で出るから、目で確認して、正しい音がとれるようになるんだって。
 イベントのボランティアスタッフにそういうのにくわしいひとがいるの。ロックやってました的な不良親父だけど、わんこのこととなるとハートが熱く燃えちゃってね。前から、犬とひとの混声合唱団をやらないか、っていってたの。うぃあーざわーるどの犬版的な? 楽しくて素敵な曲を世界配信しようぜ! って。
 愛らんどの多彩にして未来志向の活動の候補のひとつだよ! 
 ちなみにいっとくとこのひとは一バツ。
 実現したら、宮野さんも、ぜひ、いっしょに歌おうね!」


     ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 

 わっしょい、わっしょい! 神輿が通る。都会の小さな商店街の秋祭り。
可愛らしいささやかな神輿だ。
 かついでいるのはこどもが十数人。おとなが数人サポートについている。
いっしょに練り歩く中にベビーカーが何台かいるのは、神輿をかついだ子の弟妹か。揃いの法被にねじり鉢巻、帯の尻には団扇をさして、わっしょい、わっしょい、通っていく。
 通りがかりのひとが、あっ、お神輿だ! と立ち止まる。道のこっち側やあっち側に並んでながめる。
 ガードレールのそばで見物しているひとごみの中に、スリングでまだ小さな赤ん坊を抱いた母親と、派手なマザーズバッグを斜めがけにした夫がいる。国井幸太智美夫妻とその息子のタケシだ。
 幸太が赤ん坊の顔にビデオカメラをむける。
「タケちゃんの、はじめてのお祭りです。ほら、見えますか。お神輿がきましたよー!」
 赤ん坊は大きな目をくるくるさせる。ねっしんに手をしゃぶり、あー、とか、だー、とか、ぷっぽう! とか言っている。髪はまだぱやぱや。白目が青い。まるで空みたいに青い。
 わっしょい、わっしょい! 神輿が通る。
 見物人たちはみんなスマホをむけている。
 智美がわっしょいわっしょいとガラガラを振ってみせると、赤ん坊のタケシもきゃっきゃと笑い、わっしょいわっしょいと手を振り回す。
 道の向こう、神輿の向こう、くだものやの角にコンビニの店長さんがいる。眼鏡の店員さんと並んで何かのちらしをくばっているようだ。
 そのそばに犬連れのひとがいて、店長となにか話しているようだ。身振り手振りをまじえながら。
 あ、犬だ。幸太は思わずビデオをむけ、ズームする。モシャモシャのクリクリの、真っ黒。あんな毛の犬はここらでは見たことがない。まだ仔犬だな。お囃子が楽しいのか、にぎやかで嬉しいのか、ひょんこひょんこ跳ねて飛んで、浮かれてる。
 ビデオカメラをちょっとふったら、牽き綱を握っているひとが見えた。
「……あ」
 宮野さんだ!
 そうか。
 宮野さん、新しいわんこ飼いはじめたんだ。……よかった……!
 名前なんていうんだろう? あいつも、バタークリームつきのパン、好きかな。
 神輿が目の前を通っていく。わっしょいわっしょい。わっしょいわっしょい。交通規制されているので車はいない。揃いの法被のひとたちが、元気な声をあげている。
「トモちゃん、あっち渡ろう」
「えっ、なんで?」
「いいから、ほら、行くよ!」
 手をつないで。
 おいで。いっしょだよ。
 宮野さんもこっちに気づいたようだ。手を振ってる。笑っている。仔犬がまるでバネでもついてるみたいに、ひょんひょんはねている。
行こう。行って挨拶しあおう。俺の家族とあなたの家族。 
 うちの新メンバーを紹介するよ。よかったら、祝福のキスをしておくれ。ぺろんとなめてやっておくれ。
 みんなで新しいハーモニーを歌おう。
 電線の横切る木の間からこぼれる光が風をキラキラさせている。幸太はきゅっと目をつぶる。まぶしくて、手をかざさずにいられない。 
 まだある気がしてしかたがないまぼろしのシッポを、おもいきり振らずにいられない。


                                 了


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