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姉上(あねじょう)と呼ばれた祖母。

生まれて今年で28年目。
何気ないときに、ふと思い出す言葉や、情景がある。

わたしにとって、それが姉上(あねじょう)と呼ばれた祖母と、その弟である大叔父にまつわる記憶だった。

祖母は、大分の酒屋に生まれ、男5人、女1人の賑やかな兄弟の第2子として育った。太平洋戦争が起こったときは、まだ女学生だったそうだ。

とても元気で、器量が良く、料理もお裁縫も得意な祖母は、きっと兄弟の中でもしっかり者だったと思う。

「どうせしないといけないのなら、好きになったほうがいいじゃない」
と、いいながら作る祖母のごはんは、どれも美味しくて、手の込んだ煮物や黒豆、いかなごのくぎ煮、上用饅頭は、親戚だけでなく、ご近所にもよく配っていたのを覚えている。

お母さんと喧嘩をしたら、いつも助け船をだしてくれた祖母。
「怒られたら、とりあえず以後気を付けます。と言っておけばいいのよ」といつも耳打ちしてくれた。

算数がどうしても出来なくて、勉強がいやだと泣いていたら「賢さは美しさ。内面から知性美を磨いてね」と、優しく諭してくれた。

「ローマの休日」がテレビで流れると、自分はオードリーヘップバーンと同い年であることを自慢げに語る笑顔が、とてもチャーミングだった。

そんな自慢の祖母。虫歯もなく健康で、ボケることもなく家事をこなす。
みんな100歳まで生きるだろうと言っていた祖母は、ある日をきっかけに、77歳で急逝してしまった。

当時わたしは14歳で、あまりに突然の出来事が、信じられなかった。
家族や親族は皆、同じ気持ちだったと思う。

小さい頃、わたしが泣いていたら「そんなに泣いていたら、おばあちゃんのお葬式のときには涙がなくなっちゃうよ」と、祖母は笑っていたけれど、涙が枯れるはずもなく、毎日泣いていた。

お通夜とお葬式には、親族や友人など多くのひとが集まってくれた。
もちろん、そこには祖母の弟たちもいた。

兄弟といえども、顔も性格はさまざまで、4人もいると覚えるのが大変だ。
わたしは、小さい頃から独自の呼び方で、祖母の兄弟を見分けていた。
その中のひとりが、帽子とタバコのおっちゃん(以下、大叔父)だ。

いつも帽子を深くかぶり、タバコをふかしていた姿が印象的だったから、勝手にわたしが命名した。

祖母の兄弟は、みんな穏やかで優しくて、いつもお菓子やお土産をくれる。
その中で、大叔父だけは、いつも仏頂面で幼い頃のわたしは少し怖かった。根は優しいと、みんな言っていたので、昔気質で不器用なひとだったのかもしれない。

お通夜をした夜、葬儀場には寝泊まりする場所があって、遠方からきた親戚たちは、そこに布団を敷いて寝ていたと思う。

今となってはうろ覚えだが、そのとき大叔父だけは、祖母の棺の部屋で、夜を明かすと言い、ひとり暗い部屋に籠っていた。

わたしが廊下を歩いていると、その部屋から声が聞こえた。
いつも怖い顔をしていた、大叔父が泣いていた。

そのときに、はじめて聞いた言葉が、「姉上(あねじょう)」だった。

「姉上、姉上……」と、低いしゃがれた声で、隠れて泣いていた姿は、忘れられない。

一番年の近い姉弟だったからか、思い入れも、人一倍強かったのかもしれない。

姉さんでも、姉貴でもなく、姉上(あねじょう)。
あねじょうという響きが、わたしにはとても神聖なものに聞こえた。

大人になり、意味を調べてみると、豊後地方の方言で、尊敬する姉のことを、姉上とかいて「あねじょう」と呼ぶことがあるらしい。

兄弟の中で、唯一祖母のことを「姉上(あねじょう)」と呼んでいた大叔父。ぶっきらぼうで、不器用な姿を思い出すと、余計に感慨深い気持ちになった。

ひとつの単語だけで、その言葉をつかう真意まで表現できる日本語は、美しい。

デジタル化や、スピードを求められる現代では、流行り言葉や、省略言葉をつい使ってしまうけれど、昔ながらの大和言葉や方言にも、奥深い魅力がある。

祖母にかけてもらった言葉や、当時の記憶は、時間とともにどうしても薄れていってしまう。

いま「姉上」と書いて、あねじょうと呼ぶ人は、どれだけいるだろうか。

消えてほしくない、美しい日本語は、他にもきっとあるはずだ。
日本語について学びなおすことは、きっと奥深く面白い。

▼天狼院書店
ライティングゼミの課題として書きました。


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