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キモクセ

キンモクセイの樹は実家の庭にあって、さして枝葉を広げるわけでもなく、普段は目立たないのに、秋になるとちゃんとあの、秋爽の雰囲気を香らせるので小さい頃から気に入っていた。

私がなんとなく偏屈になったのは小学四年生の頃で、学級委員とリレーの選手と音楽会のピアノ奏者を恣にしていた私の、高々とした鼻がへし折られたのもその頃である。春のいじめは大人しい子が、秋のいじめは活発な子の身に降りかかるのだと、後々発達心理学の授業で習った。

元々たくさんの大人の中で育ったので、自分以外の他の子供があんなふにゃふにゃとしていて、たくさん集まると虫みたいにうるさいとは知らなかったのだ。私は子供が嫌いで自分が子供なのが嫌いなごく普通のませた子供だった。

当時好きな男の子がいたような気がする。たぶんその子はサッカーをしているタイプの、日に焼けて手足の長いチョロチョロした子で、癖のない真っ直ぐな髪をおかっぱにしているのがキュートだと思っていた。その子の隣の席になれたので私は内心とてもはしゃいでいた。

立方体かなんかが印刷された厚紙が配られて、切り取って組み立ててみよう、みたいなたのしい方の算数の授業中のことだった。おかっぱくんのお道具箱のスティックのりがカピカピになっていたため、私に「のり持ってる?」と聞いてきた。私は幼稚園の頃から使っているあの、青いチューブに入って黄色い蓋の付いたでんぷんのりを差し出して、「こののり、キンモクセイの香りがするんだよ」と付け加えた。ロマンチックだと思ったので。すると彼は「キモクセってなに?石川ののり、キモクセなの?じゃあ要らない」と断られたのだ。

私は親切を断られたショックと、自身のロマンチック観をないがしろにされた恥ずかしさを、この世の子供全体の無知無学無教養への呪いにすり替え、大いに呪った。

石川のでんぷんのりが臭いこと(臭くない)はその日のお掃除の時間までには忘れ去られたが、私はその日以来、明確にグレた気がするし、それ以外にもたくさんの要因があった気もするが、それ以来ずっとのりの貸し出しを断られたことを根に持ち、住宅街を歩いていると必ず思い出して「キンモクセイの香りがするのりをロマンチックに思って大切にしていた当時の私」を思い出して肝を冷やす。今年はでんぷんのりを買って嗅いでみたい。黄色い蓋のでんぷんのり、文房具やさんにあったら教えてください。嗅ぎ直してみたいので。

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