作業のあれこれ
今日作品の仕込みをしてふと思い出したこと。
私は油絵科の学生だったんだけど(はるか昔ですが)
共通彫塑というカリキュラムがあって
多分彫刻科の学生は逆に共通絵画というものがあったはず。
その共通彫塑は
1年目 デカイ石を掘る →自画像ならぬ自刻像
2年目 石膏直付け →自画像ならぬ自刻像
3年目と4年目は木工と回転体だったような。
つまり1年と2年の時にひたすら自分の顔と向き合う
それも表面的なところではなく骨格と。
そして割とのらりくらりだった油絵科の先生に比べて
圧倒的に怖い先生に鍛えられるという地獄の時間w
石を掘っていくのは塊をひたすらマイナスしていく作業で、
石の塊は本当に重くて堅くて、素材の強さがどうにもならない感じが苦しく
手は血豆ができるし、少し慣れてきて顔の形になってきたところで
ちょっとした力の加減で鼻を落としてしまうという悲劇が(T_T)
その場合、全体をさらに一回り小さくして鼻を生み出さなくてはいけない。
それが形を作り出していく工程だということはわかっているけれども
とにかく厳しい制作過程で。
それに比べて石膏直付けというのは、少しずつ足したり引いたりができる。土台を木で作ってシュロ縄を巻いて全体を見ながら石膏をつけていく
石膏は乾くときに熱を発するので、作っている顔が温かい。
冷たい冷たい石に比べるとすごく好きかも、と思いました。
そして削る時も柔らかいし。
ある一方向に作っていくよりも、足したり引いたりができるというのが自分にはすごく合ってる気がします。局面局面で創造と破壊が可能というか。
そこで思うのは、絵画です。
あ、ここでは「絵画とは何か」という大きい命題ではなく
学生として描いていた油絵のことね。
油絵具は素材として足したり引いたりは可能で
パレットナイフで削ったり、人によっては剥離剤(確かストリッパーっていう名前の液だった)を使って過激に剥がしたりしていたけど
ほとんどの場合、一方向に出来上がっていくように思う。
表現のために完成に向かうというような。
でも、もっと作ることと壊すことが同居できるような技法があれば、
私の場合は風通しよく作っていけるような気がしていたわけです。
かなりぼんやりと。
下絵があって、少しずつ積み上げていき完成に向かうという絵を描くと
絶対に行き詰まる。そこを越えなくてはいけないと若い頃は思っていたけど
そうではなくて技法そのもの!と気がついたある日。
相当後になってからだけど。
何かの表現のために技法があるのではなく
技法そのものもまた表現であると気づいた日のことを
急に思い出しながら、今日は手を動かしていました。
今日の仕込み。まだ何かわからないものですが
本人はかなり楽しいです。むふふ。
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