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美しい、って言ってみて

私は、「美しい」と表現することが好きだ。

Beautifulと美しい、は同じイメージかと聞かれるとそうでないし、でもそうあることもできると思う。

一度、「日本人は美しい、っていう言葉は馴染みがない。美しいっていうと、完璧とか非がないっていう感じで好きじゃないから、自分のことを美しいと言われたくない。」という話をした人がいた。その人と私はだいぶ長い間その話題であーだこーだと言い合った。

結局、どちらも折れないから、お互いに意見を変えないまま終わったのだけれど。

美しい、って言ってみるとき。

人についても、物についても、風景とか作品とかについても、美しいって表現したいとき、どういう感覚なんだろうか。

私は、その話の相手とはむしろ正反対で、その人(や物)にしかない、再現できないコピーできない味の出ている感じ、練られてきた感じを、美しいと表現したいんだけど。

だから、例えば一人一人の人生の歩みというのは、どんな失敗や後悔や成功や成果や出会いや経験があっても、その人が自分の歩みに関して「これがわたしです」と所有権をしっかり掲げられるときに、美しいと言えるものだと私は信じている。そうでなくても、美しいことは美しいのだけれど、アーティストが何かを創ってそれを破棄してしまうのか、自分が創った一つとして認めるのかで、作品であるかそうでないか決まってしまう、そんな感じなのかな。

私は自分の人生のある時期について、恥ずかしくて誰にも知られてはいけないと奥底で感じていたことがあったんだけど、つい最近まで実は何年もの間今よく聞くインポスター症候群のような気持ちでいた。でも、その時期の自分をちゃんと直視することができたとき、自分に対して理解と愛情を感じられるようになったとき、堂々と「わたしの人生は美しい」と言えるようになった。むしろ、神の愛がどこまでも深くて忍耐強いことを体験すると、壊れたところがあるからこそ神の手が加わるからすごく美しいものに変わる、なんていうことを本気で確信している。

どんな経験も、美しいと言えるものになると。

目を背けたくなることはたくさんあるけど、神といっしょにあえて凝視するとそこに美しさが見えてくる。

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