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尊厳ある死を迎えるために

タイトルにちょっと違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、お盆も近いことだし、お付き合いください。

最近、親を見送った同世代の仲間たちと、尊厳を持って最後を迎えるために必要なことや終末期について考える勉強会を始めました。その一人から、『死すべき定めー死にゆく人に何ができるか』(アトゥール・ガワンデ著)という本を勧められ、今日読んでみました。著者は、臨床医であり、数多くの重病患者と接し、終末医療のあり方について悩み、研究し、実践を繰り返してきた方です。

本書は、余命いくばくもない人たちに対して、どこまでも「治癒」をめざす医療を続けることが果たして意味のあることか、人生の終わりをどのような形で迎えることが幸せであり、そのために医療は何をするべきか、家族はどうするべきかを繰り返し問いかけてきます。

米国では、ホスピスサービスを受ける人が増えていること、ホスピスサービスを受けた人の方が、病院で治療を受け続ける人よりも幸せを感じ、25%も長命である結果がでていること、残された家族の鬱症状がでる割合が低いことなども記されていました。

人生の終末期を考えることは、誰もが避けがちです。けれども、そのことによって、本人も家族も、その最後に悔いを残すことになりかねません。最近は、リビングウィルという自分が病気になった時に、どこまで治療を求めるかを事前に申告することを求める病院も出てきています。何も起こらない時にこそ、どのように最後を迎えるかを家族で話し合っておくことは、実は、とても大切なことだと思うのです。

この本を読み、私は、父と過ごした最後の3週間のことを思い出しました。私たち家族が父を見送ったのは15年前の事です。父は末期のすい臓がんと診断され、余命半年と言われました。父は、インターネットで様々な治療法を探したり、可能性のある治療は全て受け、治癒を目指しました。しかし、病状は悪化する一方でした。

実は、父は昔から「老後は富士山の見えるところで過ごし、富士山の見えるところで死にたい」と言っていました。そのため、私は東京に出て来てから、父のためにいつか富士山の見える家を買うことを目標にしていました。そして、2002年に、ついに富士山の見える家を見つけ、購入することにしました。購入手続きの際には、父にも立ち会ってもらいましたが、その時の父は、糖尿病の疑いがあって最近食欲がないのだと言っていました。

その契約から数週間後、父はすい臓がんの診断を受けたのでした。

入退院を繰り返し、大阪の病院で治療を続け、半年が経過した頃、父に、病院を出て、富士山の見える家に移らないかと提案しました。当時、山梨県に「土地クリニック」という新しいホスピスができたところで、父のことを相談してみると、土地医院長が、富士山が見える自宅にも往診してくれるとのことでした。

大阪の病院のお医者様からは、今、山梨に移動したら、もう大阪には戻ってこれないかもしれないと宣言されましたが、父は、山梨に移ることを決断しました。新幹線の個室と寝台タクシーを乗り継ぎ、父の大好きな富士山が、夕焼けで赤く染まった8月3日、父は山梨にやって来ました。

そして、翌日往診に来てくださった土地先生に、父は、「来月京都で、息子の結婚式があります。体調を良くして、結婚式に出たいのです」と言いました。しかし、先生は、「残念ですが、来月まで命はもたないと思います」とはっきりと父に向かっておっしゃったのです。富士山の麓で奇跡が起きるかもしれないとやって来た父と私たち家族にとって衝撃的な一言でした。

それでも、私たちは、何か奇跡が起こるかもしれないと、家族や父の兄家族が、何度も山梨にやってきては励まし合い、富士山に祈り、日々を過ごしました。一時的に父は、回復したかに見えましたが、次第に痛みがひどくなり、痛み止めの貼り薬を増やした結果、意識が混濁したり、死ぬことへの恐怖を口にするようになりました。それは、私たち家族にとって耐えられない悲しみでした。

10日後、いよいよ貼り薬だけでは痛みを抑えきれなくなり、父は、ホスピスに移ることになりました。ホスピスでは、患者それぞれに個室が与えられ、私たち家族5人は、何十年かぶりに、同じ部屋で布団を並べて眠りました。子供の頃の夏の家族旅行を思い出し、みんなで遅くまで語り合いました。それはとても幸せなひと時でした。

ホスピスに入って1週間ほどが経過した日、看護師さんから、ホスピスで、弟の結婚式をしてはどうかとの提案がありました。弟とフィアンセは合意してくれ、結婚式には、父の友人や親戚たちが山梨まで来てくれました。ウェディングドレスも、山梨のボランティアの人たちが用意してくださり、ホスピス内にバージンロードを作り、さらには、参列者として大勢の地域の方々が集まって、人前結婚式を開いてくださいました。

ほとんど話せなくなっていた父でしたが、弟夫婦の姿に、涙を流していました。

そして、その翌日8月18日の昼、父は旅立ちました。

私は、今も父を山梨に呼んだことが正しかったかどうか、判断できずにいます。けれども、父が富士山の麓で終末期を過ごせたこと、家族みんなで最後の数週間を過ごせたこと、そして、何よりも、父が弟の結婚式を見ることができたことは、言葉でうまく表現できないのですが、残された家族にとって、父を見送るために、できる限りのことができたという感覚が残りました。

旅立つ本人にとっても、いかに旅立つかはとても重要なことですが、残される家族にとっても、いかに見送るかはとても重要なことなのだと、その時しみじみ思いました。

まだ62歳だった父には、まだまだやりたいことがありました。私も父ともっともっと話したかったし、もっともっと一緒に過ごしたかった。でも、父は、人生の終わりに、勇気を持って山梨に来て、家族に、かけがえのない時間を与えてくれました。

旅立って15年が経ちますが、父は私の誇りであり、いつも私の心の中に生きています。


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