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関心事からもたらされる繋がり

 綺麗ごと或いは当たり前のことかもしれないが、昨年は改めて「人は一人で生きているのではなく、支え合って生きている」と実感した年だった。また、これまでも記事を発信することにより、思いがけないところからレスポンスを頂く事もあった。

 noteで触れたことはないので説明すると、私は2007年の「不思議な経験」に直観を得て、一つの物語として昇華させたいと考えていた。1930年代から1940年代のドイツ周辺。個人的な調べものだからかなり偏ってはいるものの、その時代に生きた人々(民間人や軍人)や文化を、第一次世界大戦100周年の直前年まで熱心に調べた。生の声が聞きたいと海外の友達から家族の話を「慎重に」聞いた。私の関心事といえば、第三帝国やその組織下にいながらも反発したか、イデオロギーに葛藤しつつ自分の仕事に専念した人々だ。ただ、私の調べている人々がホロコーストの関与者ではないとは断定できない。逆らえば命がない可能性があるので、嫌な仕事もしなければならなかったであろう。誰も手に掛けていなくとも、この時代の人々誰しもがホロコーストに加担していたと言えなくもない。難しくデリケートな研究題材だが、その中でも第53戦闘航空団「Pik As」の戦闘航空団司令を務めたヘンリ/アンリ(Freiherr von Maltzahn)は私の関心事の一つだ。既に軍務から退いていたにもかかわらず、1951年から1952年にかけて新生ドイツ空軍の人員計画が譲渡されたブランク事務所(Amt Blank, 独国防省の元となる)を連邦政府から任された件は、戦中から指揮官としての資質を買われていた事をうかがえる。彼の渾名のHenriは通常アンリと読まれるが、ドイツ人なのでヘンリで進めることにする。(読みに関する情報がございましたら、メッセージ頂ければ幸いです)

 2016年秋、彼の誕生日に自身の歴史ブログ「History Notes by Kumiko Sakaki」にヘンリのアートワークを添えて記事にしたところ、昨年末になってその記事にレスポンスを頂いた。今はオーストリア=ハンガリー二重帝国を調べているし、ちょうど長期入院中だったので退院してから返事を書いた。すると間もなく、その方から再び返信を頂いた。
「キューバ海域でU-176に乗艦し亡くなったハルトヴィヒの人生に非常に魅了されています。(略)私はキューバの法人類学者として、他の乗組員と共に彼の遺体を水域から回収するプロジェクトに従事しようとしてきました。しかし、キューバとドイツの両政府は同意しません」
 その名を聞いてピンときた。ハルトヴィヒは1916年2月14日生まれ。ドイツ海軍大尉であり、1943年5月15日に海で戦死した。彼はヘンリの弟のひとりだった。

 ヘンリ自身の事はある程度記事になっているが、彼の家族に関してはこれといった資料が見つかりにくく、ドイツ空軍の彼の部下や同僚の手記、海外の掲示板や戦中戦後の情報誌、家系に関するアーカイブ情報にて断片的に知ることができた程度であった。ポンメルンのヴォダルに建つマルツァーン男爵家は廃屋となっている。(古い家柄なので他の男爵家より資料は多め。その分情報は混乱する)今回の法人類学者の御返事を頂き、ヘンリの弟ハルトヴィヒという人物像が一部鮮明になった。IXC型のUボートU-176は訓練艦だったが、1942年8月1日からは第10潜水隊群に属し、艦長ライナー・ディークセン海軍少佐(1908年3月24日-1943年5月15日)の下で群狼作戦に参加。ハバナの北東にあるフロリダ海峡でキューバの巡視艇CS-13からの爆雷により沈んだ。ハルトヴィヒは機関長を務めていた。

 法人類学者さんによると「ハルトヴィヒは両親や兄弟の愛情に囲まれて、幸せな子供時代を過ごしました。いつも陽気で、愛情深く、ややいたずら好きな子供で、機械玩具、特にその構造に関心を持ちました。お気に入りは、様々な機械的オブジェクトを組み立てるために使用した材料と金属部品のキットでした。彼を知る人々は、勤勉で穏やかで非常に誠実な若者だったと記憶しています」

 私は初めてハルトヴィヒの肖像写真を見た。この記事への掲載は控えるがドイツ連邦公文書館やドイツの写真屋で買ったヘンリの写真と見比べるまでもなく二人はよく似ていた。兄を細面にした(比べて垂れ目ではない)、誠実そうな優しい表情の弟。彼は27歳のまま、故郷から遠く離れたキューバ海域に眠っている。

情報元
uboat.net Korvettenkapitän Reiner Dierksen Bundesarchiv - Bilddatenbank

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