見出し画像

「あの夏」

誰でも 心の中に 現実と夢が混ざっているような そんな風景を持っているのだろうか?
私はよく子どもの頃の夢を見る。
その夢の中で いつも思い出す夏・・・・・その懐かしい夏の中で 私はうさぎのような少女だった。

    
その① 祖父母の家で


小学校二年生の夏 私は父方の祖父母の家にいた。妹が腎臓を悪くして入院することになり 夏休みの間だけでも祖父母の家で私を預かりましょうとの ありがたい?ご招待だった。
妹は 幸いにも一ヶ月の入院で快方に向かったし 二人暮らしの祖父母にとって初孫の私と過ごす夏は楽しみだったのかもしれない。私にとっても ここで過ごした一月が 夏の思い出の中では 最高の日々になったので 考えようによっては いい経験だった。

祖父母の家は 陸の孤島と呼ばれている町にあった。 鹿島灘という大海原を擁し 遠浅の海と白い砂浜と 延々と続く松林が印象的な町だ。 県庁所在地からは かなり離れていて 県境に位置していたためなのだろうか 中央のお役所の偉い人達には なかなか目が行き届かなかったのかもしれない。本当に田舎中の田舎だ。

さつまいもや落花生 メロン栽培などで生計を立てている人と 漁業で生計を立てている人がほとんどで のどかな毎日を送っていたような気がする。
まだ 上水道が整備されてなかったから どの家も井戸水をポンプで汲み上げていた。
祖父母の家は ポンプの設備がなく 物干し竿にバケツを針金でくくりつけ 手動で汲み上げるようになっていた。
毎日 風呂時になると ちいさなバケツで汲み上げた井戸水を 大きめのポリバケツに入れなおし 五右衛門風呂へと運び 空になったポリバケツに また井戸水を汲み上げる そして また運ぶの繰り返しで かなり大変な作業だった。トタン材で囲われた釜場と呼ばれた場所が キッチンでありバスルームにもなっていて ところどころ穴のあいた屋根からは 月明かりが差し込んだものだった。
井戸から汲み上げた水でお米を研ぎ 茶碗を洗う洗い場の上は 青空天井で 一本のイチヂクの木から張り出した枝葉が 唯一の屋根がわりだった。 雨の激しい日には 首を肩のほうへ傾げて雨傘の柄を挟みながら 対応したのをよく憶えている。 今時の生活と比べたら 衛生的ではないし 不便この上ない生活環境なのに 体調も崩さず 明るく暮らしていた。 

祖父は近所の人たちから お地蔵さんと呼ばれていた。 口数の少ない人で とにかく目立つことや人前で何かをするというのが大嫌いな人だった。 私が何か気に障るようなことをすると 何故なのかという説明もなしに 突然怒りだし 逃げ出す私をひたすら追いかけてくる人だったが この鬼ごっこは けっこう楽しかった。
 
祖母はふくよかな体格で 性格もおおらかな人だった。 近所の人たちとの付き合いも 全部祖母がやっていた。祖母は和裁が得意な人で 年頃のお姉さんが たくさん 習いに来ていた。
畳の上に 午前中ずっと座りっぱなしで どうして足がしびれないのだろう?と不思議だったが 一枚の長方形の布が着物に変わっていくのは とても感動ものだった。
一定の収入がある祖母に対し 特に定職についてなかった祖父だが ふたりが喧嘩しているところは 一度も見なかった。
とりあえず この海辺の小さな町で 私の夏は始まったのである。

その② 東京オバサン

祖母に頼まれて 同じ町内にある本家に行くことが多かった。 まだ電話があまり普及していなくて 有線電話というものがあったが これでは同じ回線を利用している他の家の人たちにまで スピーカー越しに 話しの内容が聞かれてしまうので 身内だけの話のときは 都合が悪いのだ。それで私の出番ということになるわけで ことづけを伝えによく行かされた。
舗装されている道はほんの一部分で 車より馬車や牛車が やっと通れるくらいの細い農道ばかりで 糞がぽろぽろと落ちていた。私は それが嫌で 田圃の畦道や途中に一箇所だけある 草がぼうぼうの丘を 手足に引っ掻き傷をつけながら越えて行った。 それが近道でもあった。
本家に行くと 東京オバサンが よく出迎えてくれた。 東京オバサンは五十歳くらいだったと思うが 若い頃東京で働いていたことがあり 祖父の妹のわりには 話し好きで 東京のことをよく話してくれた。だから 東京オバサンと呼んでいた。


本家の近くには駄菓子屋があり 東京オバサンは必ず私のほしいものを買ってくれた。それが嬉しくて本家への用足しは喜んで引き受けた。
オバサンは独身で祖父の母や祖父の兄一家と暮らしていた。農作業で忙しい兄一家に代わり 家事やおさない子どもたちの面倒をみていた。オバサンには 結婚を約束した人がいたそうだ。 日本が戦争という悲しい時代の中にいたとき 兵隊として召集されて行ったその人の帰りを 長い間ずっと無事を信じて待っていたら オバサンになってしまったのよと 笑いながら話してくれた。今思うと もう少し 優しい言葉のひとつでもかけてあげたら よかった。


八月に入ったある日のこと。 本家の子どもたちがオバサンと一緒に映画を見に行こうと誘いにきた。病院を舞台にした怪談話の映画だったらしいが まだ 七歳の私には話しの筋書きがよくわからなくて 退屈なだけだった。中学生と高校生になる本家の子供たちは そろそろ怖いぞーと顔を手で覆い始めたそのとき 前の人の座席の下に 十円玉が一つ落ちているのをみつけた私は「あっ 十円玉めっけー」と大きな声で叫んでしまい 館内は爆笑の渦となり 肝心の場面はどんなふうだったのか 全然憶えていない。
町に一軒だけの この映画館はバスに乗って三十分のところにあった。 唯一の商店街の中にあったので このまま帰るのはもったいないということになり いろいろなお店の店先を覗いたり そこに来ている客の様子を見ているのは 新鮮で面白かった。 小鳥屋の前をとおったとき 「いらっしゃいませー」という声が聞こえてきたが あたりには誰もいないし もしかしたら 人間の言葉を真似するオウムかインコという鳥かな?と思いながらも「この鳥はなあに?」と尋ねたら 案の定 オウムだった。写真や本では見たことがあるけれど 本物のオウムを見たのは初めてだったので 奇妙な気分だった。

この商店街の裏側には 大きな神社があって お土産やさんが軒を連ねるように たくさん並んでいるから 祖父母に土産でも買って かき氷でも食べて帰ろうという話しになり みんなの後をついて行った。
映画は見ないで 初からこうしてたら よかったのに・・と 連れて行ってもらいながら 感謝もせずに そんなことを私は考えていた。


 その③ 防空壕

祖父母の家には 防空壕があった。 敷地の端のほうに設けられていて 実際には その中には ラッキョウをつけた壜や 梅干づけの瓶が並んでいただけだったが 第二次世界大戦のときに作ったんだよと祖母から聞いた。
昭和二十年八月 戦争が終って 進駐軍と呼ばれるアメリカの兵隊がやってきたときは 家族全員で隠れたりしたけれど そのうち アメリカ兵の人たちも家族を思い 平和を願っていたのは同じなのだというのが 周囲に知れ渡るにつれて 警戒心もだんだんと薄れていき 避難するために 防空壕を使ったのは数回だけで 今では 貯蔵庫がわりだと話してくれた。
祖父母の家は太平洋に面している海辺の町なので アメリカ軍の戦艦から いつ攻撃されてもおかしくないと思っていた。どの家庭でも 二人から三人の日本兵の世話をしていたそうだ。
「家族はなー サツマイモをふかして食べたけど・・兵隊さんにはなー お米のご飯を食べさしたんだよ」と祖母は言った。

祖父は体が小柄なため 軍の身体検査で不合格になり 戻されたそうだ。 本当なら この時代のこと 情けないやら 申し訳ないやらと思うところなのだろうけれど 祖父はほっとしたそうだ。二十年の七月には県の名前こそ違うが すぐ近くの千葉県銚子に 艦砲射撃があったりして いよいよ地上戦かと不安な日々を過ごしていたら 玉音放送の終戦の知らせに 体の奥の方から熱いものが噴出すようにでてきて しばらくの間 動くことができなかったと言う。正座した膝の上の握りこぶしに ぽたぽたと涙がしたたり落ちてきて 拭うこともせずにいた。 どれくらいの間 そうしていたのか わからないが その頃九歳だった父が祖父に「天皇陛下は 今 なんて言ったの?」と背中越しに聞いてくるので「戦争が終ったんだと 日本は負けたんだと・・・」絶望とも違う 安堵とも違う なんと説明したらいいのか わからない。そう答えるだけで精一杯だったそうだ。
若い年頃の女性は 言葉の通じない人たちに恥辱的な行為をされるのではないかとの噂がすぐに広まり 納戸の奥の方で息をひそめたり よその家の防空壕に隠れたという。
八月の真夏日の中 こんな薄暗い場所で 入り口の木の扉の木材の張り合わせの部分から わずかに入ってくる外の明かりと気配だけを頼りに もう大丈夫だよという連絡がくるまで ひたすら暑さと不安に耐えていたのかと思うと なんとも切なくなってくる。七歳の私には広く感じられた防空壕も せいぜい畳二畳ほどの広さだったから 窮屈な姿勢でいたんだろうな。
その防空壕もその後 家を建て替える時に 悲しい時代の思い出と共に なくなってしまった。

祖父母との暮らしにも落ち着きがでてきて 蚊取り線香の匂いと潮騒の中での就寝にも慣れ 多少のことでは目覚めなくなっていた私でも 起きだしてしまうような騒々しい出来事があった。
祖母の姪にあたる人が夜中に旦那の暴力から 助けを求めて駆け込んできたのだ。その姪の旦那という人が大声で叫びながら私の寝ている蚊帳の中まで探しにきたときは 怖かった。祖母が追い払ってくれたけど この夜のことは二年生の私にとって もっとも強烈な夏の思い出になった。 風がそよりともしない 蒸し暑い夜の出来事だった。

                                                     

その④ 藤の介

「どうして おんちゃんは おばちゃんを叩くの?」
「大人も子どもも一緒さ ときには喧嘩もすることがあるんだよ 気にしねえでいいよ」
祖母に尋ねても詳しい話は聞けなかった。
暴れる旦那を座らせては説教をし 暴力はふるわないと約束させるシーンを私は三回ほど目の前で見た。
四回目はない。
結局 その姪にあたる人は 子どもたちを残して家を出て行ってしまったからだった。
思わぬ理由から同じ年の男の子と三歳上の女の子と一緒に過ごすことになったのだが 私は 賑やかで楽しかった。
その男の子 藤の介は これでも私と同じ年なの?と思うほど 泣き虫で母親を慕っては泣いていた。
ときおり祖母宛に手紙が届いたが その中身は子どもたち宛だったらしく こっそり渡しているところを何度かみかけた。
一緒にお風呂に入ったときにみつけたものがあった。 これが男の子か・・とね。
私よりも泣き虫なのに それでも男の子なんだと 変なところで実感した。


この頃には 近所にたくさんの友達ができて 毎日 日が暮れるまで 真っ黒に日焼けした顔で遊びまわっていた。私は木登りが大好きで いつも祖母に 「女の子がそんなことして」と注意されていたけれど この木登りだけは やめられなかった。 ある日 いつものように登っていたら 靴が滑って右足のくるぶしを皮がめくれるほど すりむいて大泣きしたが その次の日も登って せっかく 瘡蓋になったのに また こすってしまって 血だらけになって戻っては 祖母に怒られ そして その次の日も同じことをして 怒られた。
でも 木登りはやめられなかった。 風が吹くと木の枝が揺れて 「ふわり~ ふわり~」と 両手を広げて飛ぶまねをしては満足していた。
藤の介は いつも少し離れた場所から私を見ていた。 とんでもないおてんば娘だと思っていたのだろう。
だから いつも私から話しかけた。

「藤の介~ すかんぽ食べに行こう  美味しいよ」
「すかんぽって?」
「知らないの? すっぱいやつだよ」
「知らない・・」
「ふ~ん じや 食べに行こう そのあたりに たくさん生えてるから・・ あと アケビもあるし ザクロもあるし ニッキは? ガムみたいな味がするやつだけど これは噛むんだよ 食べちゃダメなの・・・」
「アケビとザクロは 食べたことある」
「藤の介は どこかの お坊ちゃんみたいだな~・・・・・・とりあえず ばあちゃんに 梅干しを竹の皮に包んでもらおうか? しょっぱいけど元気でるよ~」
棒つきキャンディのごとく 竹の皮に包んだ梅干しをしゃぶりながら 私は藤の介を子分にして うさぎのごとく飛びまわって遊んでいた。
「藤の介 明日の朝 早起きして天神様へ行こうか?」
「天神様に?」
「そう 天神様に行くんだよ」
「なんで?」
「狐の嫁入りを見るんだよ」
「狐の嫁入り?」
「そう 狐の嫁入りだ おおばあから聞いたんだ  空が紫色になった日の朝に 天神様の境内を掃除しに行ったら 奥の方から灯りがゆらゆらとして鳥居に近づいてくるので なにかな?と思って目を凝らしていたら 狐が紋つき袴や留袖を着て 白無垢姿の狐を囲むように歩いてくるのが見えたんだって」
「そんなこと 嘘にきまってるよ」
「嘘かどうかなんて 行ってみなくちゃ わかんないよ  ねっ 行こう 行こうね」と 無理やり約束させ その夜は早く寝ることにした。

次の日の朝 私と藤の介は こっそりと家を抜け出して 天神様へ出向いた。
鳥居のあたりにしゃがみこんで 社の奥をずっと見ていた。
ほんのちょっとでも 灯りが揺れたら 息を止めて静かにしようと約束した。
空の色が紫のように見えたけど 紅色だったかもしれない
結局 狐の嫁入りは見られなかった。
「藤の介 ごめん せっかく早起きしたのに ごめん・・・・。」という私に 藤の介は 
「そんなこと言うな・・ もし 本当だったら どうする? ちゃんと確認できてよかったじゃないか?」と 言ってくれた。
「きっと空が紫色じゃなかったからだよね? 大人になったら また見に来ようね  約束だよ」と言う私に 「わかった 約束する」と私たちは 指きりした。
本家の子どもたちや 近所の子どもたち そして 藤の介の姉とも たくさん遊んでたはずなのに 私は藤の介の顔しか思い出せない。それは きっと藤の介が 泣き虫だったから・・・いつも いつも 私は そんな藤の介を気にかけていたから。

                             
その⑤ 夏の終わり


夏休みも あと一週間で終わりというときに 毎朝の天神様の境内で行われていたラジオ体操で仲よくなってた清子ちゃんの家に遊びに行くようになった。
清子ちゃんの家は 茅葺屋根やトタン屋根の家がほとんどのこの地域で ただ一軒のコンクリートの家だった。 アップライトのピアノがあり 学校の足踏みオルガンしか触ったことがなかった私は 黒光りしているその物体を自在に弾きこなす清子ちゃんは まるで お姫さまのように見えた。
建設会社の社長さんをしていた清子ちゃんのお父さんは マイクロバスを所有していて ときおり遠くの町まで遊びに連れ出してくれた。そんな清子ちゃんの家での最高な楽しみが ストローで飲むカルピスだった。
塗り絵をしたり 少女フレンドやマーガレットを読んだりと ひとしきり 遊んだあとにでる 水羊羹も好きだった。
夏休みの宿題の話しになり まだ工作と絵が終っていない私と清子ちゃんは藤の介も誘って その次の日 海に行って漁船や防風林の絵でも描こうかとか きれいな貝殻を拾えば何か作れるかもしれないと 一緒に海へ向かった。 淡いピンク色した浜昼顔の花がきれいな 砂の上をサンダル履きで歩いては ときおり触れる熱い砂に キャーキャーと歓声をあげながら歩いた。 結局 海遊びで終ってしまい 持ち出した絵の具セットなどは 砂だらけになってしまい 後始末が大変だった。水着などなくサンドレスのまま びしょぬれになって遊んでも 歩いて帰れるところに家があるということは 今考えると ものすごい贅沢なことだったんだ。ちなみに 宿題が終らずギリギリになって 大騒ぎしながら仕上げたのは言うまでもない。

やがて藤の介は 父親の親戚の家に引き取られて行った。
そして 私も迎えにきた父とともに 退院した妹と母が待っている家に戻った。
白うさぎだった私は すっかり黒うさぎになっていた。
父の手をつかみながら バス停まで ぴょんぴょんと弾みながら歩いた。
いつも木登りをして遊んでいた 大きな松の木の前を通りかかったとき 両手を広げて「ふわり~ ふわり~」と大声をだして駆け抜けてみた。
やはり飛ぶことはできなかった。

私の夢の中で でてくる場面は いつも同じだ。この夏の日々に出会った人たちのことを つい最近私は母に尋ねてみた。 東京オバサンと呼んだ人は 確かにいたが 映画館のあった町は 母方の祖父の家の近くであり 本家の子どもたちと見に行くなんて考えられないと言われた。マイクロバスのある家は 確かにあったが 遊びに行ったことはないとも言われた。 そして 藤の介という男の子のことは まったく知らないと言う。
でも 私は 確かに 右手の小指で約束した。
紫色の空の日の早朝に また 天神様で 狐の嫁入りを見ようねって。 

(了)
あの夏2003/08/07




2022/08/14追記

この短いお話しは、私の実体験と創作がミックスされております。文中に登場してくる「すかんぽ」という植物は、「スイバ」や「いたどり」と呼ばれるもので、私の祖父母地方では「すかんぽ」と呼んでおりました。食すると「甘酸っぱい味」がして、現在の「キーウイフルーツ」のような感じです。また「おんちゃん」というのは「おじちゃん」という言葉が上手く話せなかった私が実際に使用していた言葉です。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?