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私の居場所の「Being」

「Being」を直訳すると「在る」となるのだろうか。Beingとは価値観や潜在的な能力、本心に向き合うことで自己理解を得る、といったようなことであるが、日本語を当てはめるのは難しい。いろいろ考えたけれど、やはり「在る」が最もしっくりくる。もしくはこれは「自分の軸」でもある。

自分は何のために生まれ、何のために生き、何故死ぬのだろう。過去から未来に綿々と命を繋いでいくためなのだとしたら、繋いだ命のたどり着く先はどこになるのだろう。そしてこの流れの中で、自分はどのように「在」れば良いのだろう。

日本の教育においては、知識の詰め込みが中心で、この「Being」を深掘りをするということはあまりなされていなかったように思う。学生時代は受験だ国家試験だと、脳のキャパシティいっぱいにがむしゃらに知識を詰め込み、得た知識を解答用紙にひたすら書き込むということの繰り返しだった。お給料を頂いて働き出すようになってからは、これまで得た知識を実践しようと長らく苦戦してきたが、自分が本当にやりたいと思うことのために、蓄積してきた知識や経験をつぎ込むことができるようになってきたのはアラフィフといわれる年代に差し掛かってからかもしれない。それはこの「Being」の姿を自分がぼんやりととらえ始めた時期でもあった。

私の転機は欧州にて訪れた。海外出張先のホテルで夜中に一人、庭に出て、星が瞬く夜空を見上げながら、グローバルでのコミュニケーションはしんどいな、とため息がでた。自分の考えをアピールしろと言われても、三歩下がって他人の後ろを歩きたい自分の性格にはそれが合っていないのではないかと思った。日本語とは主語と述語の並びも違えば文字も異なる英語も、頑張って学んでいるつもりでも一朝一夕に上達するものでもなく、心が折れそうだった。文化的な背景や個人の性格、言語の違いや物理的な距離などを乗り越えられるようなコミュニケーションの仕組みが世の中にはないものかと考えたとき、ないのであれば、それをつくることこそが自分がやりたいと願っていたことではないかと思い至り、目の前のもやもやした霧が晴れたようにすっきりとした。

自分に残された時間を思うと「Being」について若い頃にもっと理解を深めていれば、より早くに自分がありたい自分に向かって邁進できたのかもしれないと、残念な気持ちもある。一方で、自分の心の居場所を見つけるのに半世紀近くかかってしまったが、もしかしたら見つけられないままにこの人生を終えたかも知れないと思うとぞっとする。

大学の教員として、産学連携に関わる業務を主に手掛けているが、これから社会に出ていく大学院生たちの教育にも関わっている。弊学の大学院では「知識(Knowing)」「実行力(Doing)」に加えて「価値観(Being)」の要素のバランスよくとりいれることで、マインドフルな状態で「自らを導けるリーダーシップ」を発揮して、社会の各所で活躍できるような若手人材の育成を目指した一連の講義を、人材育成のプロフェッショナルである株式会社ファンリーシュの志水静香先生の多大なご協力のもと3年前から実施している。「Being」についてあまり深堀する機会がなかった若人たちの心にどうか響いてほしいと願いながら講師陣に教鞭をとっていただいている。

医学、薬学の分野の大学院生の多くが、医療従事者の卵、もしくはすでに医療従事者としての経験を有している者たちである。大学受験のための勉強に明け暮れた学生達が、ある日医療現場に投げ出され、人の命に向き合ってくださいと言われる。医療従事者としてどのようにふるまったらよいのだろうかと悩む彼らとともに、ぜひこの「Being」を考えていきたい。

京都大学大学院医学研究科「医学領域」産学連携推進機構
鈴木 忍

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