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日本語教師など「先生」と呼ばれる人は、利他主義が求められると思うお話し

日本語教師を目指す人とか、外国での暮らしを望む人からよく聞くのが「架け橋になりたい」とか「相互理解をすすめたい」とか、他にも「日本の良さに気づいてもらいたい」とかです。

すごいなって思います。また、同じような動機で海外に飛び出していく人もいます。

でも、最近思うのが利他的な理由のようで、本当は自分の欲望を満たすことが第一になっている人も結構多いってことです。

例えば、教師になって若者を助けたいという人が大勢います。でも、その教師の授業がまったく若者の育成に役立ってないってことがあります。

自分の言いたいことを話し、学生のニーズに応えません。学生が応えられないと、学生の能力や姿勢を批判します。つまり自分の夢を実現するために、学生を利用しているわけです(口悪すぎ

わたしは生きるために日本語を教えているので、やはり学生を利用していると言われても仕方ないと思ってます。

さて、それはさておき・・・先日、華村さんが興味深い記事を投稿されました。

記事のなかで、華村さんは千羽鶴をウクライナ大使館に送ることに、送り手の気持ちを満足させること以外の意味がないと言及されてます。そして、その上で、次のように意見を述べておられます。

しかし一方で、じゃあ他者にとって何が役に立つかとか、何がうれしいかを想像してその行動を正しく取ることって、そんなに簡単じゃないのでは? ということを考えると、あまり騒ぐ気にはなれませんでした。

正しく行動するって本当に難しいと思います。そもそも、何が役立つかまでは想像できても、何が嬉しいかなんて想像できません。

昔、ボランティアに参加したことがあります。わたしは事務方で暖かい室内でパソコンを使って作業をしていたのですが、友人は雪やみぞれがちらつくなかでの作業を行ってました。

わたしは、寒いし甘いものがあると嬉しいだろうと思って、当時その友人が好きだと言っていたキャラメルのお菓子を買って、休憩時間に届けに行きました。

すると友人は「わたしにこれを渡せばいつでも喜ぶと思ってるの?」と怒りだしました。ちょっと驚きましたが、「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだよ」と言うのが精一杯でした。

おそらく友人は、わたしの気遣いに偽善を感じたのかもしれません。わたしも相手を気遣っている風で、自分の後ろめたい気持ちをスッキリさせようとしたのかもしれません。

こんな小さなことでも、人の気持ちに影響を与えるのですから、ましてや戦争で苦しむ人やコロナで苦しめられている人にどのように接するかは、慎重に考慮すべきだと思います。

良かれと思って行ったことが理解されないってことは、良くあることです。問題は、自分の気遣いが相手にとって良くなかった場合、または期待に添えなかったときにどうするかです。

わたしの好意が受け取れないのかと腹をたてたり、気分を害したりするのではなくて、次回どうすべきかを考える方が建設的です。

でも、経験上、何をしてあげても満足しない人もいます。そういう人に出会ってしまった場合は、完全に距離を取ることくらいしかできません。そうする方がお互いのためかなって思います。

また教師も同じく、どんな方法をとるにしても学生の成長と進歩に役立つことに注力すべきだと思います。そうしないと、こんなに苦労しているのにお前たち学生は!とか言いだすトンデモ教師になってしまします。

なんだか、まとまりに欠いたnote になってしまいましたが・・・、つまり、誰かのためにと思っていても、実際は自分のために行っていることが多いってこと。

そして、ある種の職業は本当の利他主義が求められるってことがあるなって思ってます。特に、教師や指導者には利他主義が求められます。だからこそ、先生と尊敬されるのだろうと思います。

これからも精進します。

今日も最後まで読んでくれてありがとう。また明日。

ぜひぜひ、サポートをお願いします。現在日本円での収入がなく、いただいたものは日本語教材や資料の購入にあてます。本当にありがとうございます。