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【自己紹介】〜書く役者って何ですか〜

はじめまして熊田健大朗です。

本来であればもっと早くに自己紹介をするべきだと思うのですが「誰が興味あんねん」という心の中の客観視関西人が僕の指を止めた為、今に至ってしまいました。

noteを利用し始めて8ヶ月程が経ち、他の方の作品や記事を目にする機会が増えました。
その際にこの人はどんな人なんだろうと気になる自分が居て、もしかすると自分の作品や記事に対してもそう思って下さる人がいるかもしれないと思い、心の中の客観視関西人を押さえつけ今この文を打ち始めています。

noteのプロフィールには「書く役者」と表記しておりますので役者面、執筆面を中心に緩い自己紹介をさせて頂きます。ちなみに好きな食べ物はカルボナーラです。

僕が役者を志したのは中学三年生の終わり頃だったと思います。
家で母と姉が映画の再放送を見ながら涙しているのを見てふと「僕も泣かせたい」と思ったことがきっかけです。

というのも、その当時の僕はきっと凄く冷めた人間で映画で涙を流すことが理解できませんでした。
面白い映画だったな。素敵な映画だったな。そういったぼやけた感情はあったのですがそれが涙に変わることはありませんでした。

そんな中、母と姉が涙を流した。

しかも映画の再放送、作品までは覚えていませんが◯◯ロードショー的な時間枠の放送で途中CMが挟まり、なんだったらさっきまで映画に出ていた人が次の作品の番宣をしている。
作品としてはフルパワーで届けることができていない状況の中、母と姉が涙を流していました。

二人が涙することは別に珍しいことではなかったのですが何故かその時思ったのです。
「母と姉を泣かせる役者凄いな」「僕も泣かせたい」と。

そして高校に進学した頃「役者になる」と母に伝えました。
自分の夢を口にしたことは幼少期の「発明家になる」以降なかったので母も驚いていたと思います。

ある日、母から舞台に誘われました。

劇団☆新感線の「薔薇とサムライ」という作品です。
古田新太さん、天海祐希さんが主演の石川五右衛門をモチーフにした「五右衛門ロックシリーズ」の二作目。

歌ありダンスあり、笑いあり涙ありの舞台に僕は心を奪われてしまいました。
賞賛 憧れ 嫉妬 高揚 
いろんな感情が混ざり合い、カーテンコールで自分の両の手の平は自然とぶつかり合っていました。

その日から「役者」というざっくりとした夢から「舞台に立ちたい」と少し具体性のある夢に変化していきました。

後に母のブログで知ることになるのですが、母が僕を舞台に連れて行った理由は役者という仕事の難しさを伝え諦めさせるためだったそうです。

実際の母のブログより抜粋

劇団☆新感線が大阪芸術大学から発足した劇団であることから僕もそこに通いたいと思い母や担任に伝えましたがもちろんすんなりと受け入れてはもらえませんでした。
担任の気持ちもわかります。ある程度の進学校であったことから良い大学への進学率を上げないといけないですし。
母の気持ちもわかります。母子家庭の中、息子をしっかりと大学に通わせるため選んだ高校でもありましたから。

折衷案として母が指定した大学に入れば役者としての活動を認めるということになりました。

結果、僕はその大学に無事入学し18歳から演劇への道を歩み始めたのです。

演劇のイロハもわからなかった僕はとりあえず大学の演劇部に入学することを決めました。
その時のプランとして、まず在学中最初の二年間はここで演技の基礎を学びながら舞台に出演する。
残りの二年間は大学の劇団以外にも出演し腕を磨く。卒業後はオーディションなどを受けプロの世界へ。
なんてことを考えていましたが良くも悪くもその通りにはいきませんでした。

まず、演劇部に入部して絶望したのです。

何故なら本気で役者を目指している人がほとんどいなかったから。
僕は勝手に大学の演劇部に入部する人は全員プロを目指していると思っていました。
しかし、現実はそうではなく「高校演劇の延長線上で」とか「勧誘されて面白そうだったから」とか「人前に立って自分を変えるため」とか、もちろんその入部理由を否定はしませんが当時の自分にとってはショックでした。
いうなれば甲子園を目指さない野球部に甲子園に憧れた少年が入部したようなもの。

とはいえ他に当てもなくとりあえず入部することを選びました。
今思うとこの選択は正しかったと思います。
というのもこの演劇部はかなり古くからある部活で、演技のトレーニングとしては古典的ではあるものの基礎を忠実に、顔の筋肉のトレーニングに数十分かける日もあれば体力をつけるために大学の外を走ったりと演劇に必要なスキルを毎日の様に養うことができたからです。

当時の僕はとりあえずガムシャラに取り組みましたが心のどこかで「ここにずっと居ても夢は叶わない」と思っていました。

そして入部して3ヶ月が経った頃、こっそりとプロの劇団の出演者オーディション受け合格したのです。

「こっそりと」というのは伝統深い劇団だったからこその柵があったからです。
自劇団以外の舞台に出演することがあまり良く思われていませんでした。
他の舞台に集中する暇があったら自劇団に尽力せよ的な風潮があったのです。

「外部で出演した分、自劇団に貢献する」と同期や先輩に話をし、中には応援して下さる先輩もいたことから徐々に僕の活動の仕方は認められる様になっていきました。

お金を頂いて舞台に立つ意識、何十年と舞台に経ち続けているプロの技をその頃から学べた事は自分の財産だと思います。

そんな風に自劇団とプロの劇団で場数を積み、多い時には年に11本の舞台に出演するなど今思うとゾッとする日々を送っていましたが順風満帆ではありませんでした。

それはプロの劇団で良い役を、台詞を貰えなかったからです。
もちろん舞台において不必要な役はありません、台詞が一言でもそこに魂を注がないといけません。
それを理解した上で上手くなることに焦っていた僕は場数だけでなくとりあえず沢山台詞を吐かないと上手くならないと感じていました。
自劇団では外部の活動の甲斐あってある程度メインの役を務めていましたがプロの劇団ではそう上手くはいきません。

できるだけ台詞を吐きたい、一秒でも舞台の上で表現したい。
そんな想いが絶頂に達した20歳の頃、全てを解決できるアイデアが舞い降りてきました。

それが「一人芝居」です。

「一人芝居なら自分がずっと舞台に立てる」「台詞も全て自分のものだ」と馬鹿馬鹿しい程に真っ直ぐなアイデアでした。

もちろん劇場を借りるお金も無ければ客席を埋め切る集客力もありません。
脚本や演出を依頼するお金も自信もありません。

ここから僕の「書く」ことが始まりました。

知り合いのイベントの幕間などに時間を設けて頂き
自分が書いた作品を自分の演出で自分が演じる。

ありがたいことに一回目で主催者の方からもお客さんからも好評を頂き、以降上京するまでは年に1〜2回一人芝居をすることで役者としても書き手としても経験を積むことが出来ました。

くまたけんたろう一人芝居より 上「からっぽ」左「蛹の目」中「思い出のかくれんぼ」右「銀色のゾウ」

ちなみに僕が初めて書いた作品は「からっぽ」という生まれつき感情を持たない男性が涙の味を研究する物語で #創作大賞2022 で入選した「手紙〜間宮家の34通〜」内にも登場させています。どうでも良い豆知識です。

それから活動を続けていく中で徐々にプロの劇団の方でも役を頂くことが増えるようになりました。

大学の演劇部界隈での活動
プロの劇団での活動
自主的な一人芝居

この3本柱が僕の駆け出しを支え熱意を体現できる居場所でした。

そして23歳になり次のステップに進むため上京することを決断します。

関西で売れている芸人さんが関西でのレギュラー番組を捨てて上京し不安な日々が続いたなんて話をテレビでしている事がありますが本当にそんな気持ちでした。

演劇部という場所はもちろんなくなり、可愛がって頂いた関西の劇団さんからのオファーも減る、一人芝居をする環境も余裕もない、いつも観に来て下さるお客さんも東京まで足を運ぶかというとそうではない。

不安でした。

結果的にご縁もあって後に今でいう2.5次元舞台に出演させて頂いたり、海外でお芝居をさせて頂いたりと役者としてのステップアップを刻み上京に意味を見出す事はできたのですがその過程で生じる孤独感と焦燥感を僕は「書く」ことで埋めていきました。

「書く」といってもただ何の目標も無く書くわけにはいかない。
とりあえず認められないと。と思いカフェでパソコンを開き【脚本 募集】的な検索ワードを入れた結果出てきたのが「ブックショートアワード」というものでした。

短編小説のコンテストで確か8ヶ月間募集期間があり毎月優秀賞が数本選出され、最後に月間の優秀賞の中から年間の優秀賞が選ばれ、大賞は賞金とショートフィルム化的なものだったと思います。

まずはこれにチャレンジだと小説は初めてだったものの頭の中で物語を膨らまし、構成を整え、キャラクターを生かし何とか書き終え提出。
これが月間の優秀賞に選ばれ更には年間の優秀賞にも残り、凄く嬉しかったことを覚えています。

「拝啓、赤ずきんさん」 ←実際の作品です。

この評価が引き金となって関西時代に知り合った役者さんたちの作品を書かせて頂く機会も増えていきました。
そしてもっと色んなカタチの表現を身に付けたいと脚本、小説だけでなく絵本や漫才といったコンテストにも応募し、大賞を取ることは出来ませんでしたがそれぞれ入選させて頂きました。

もちろん湯水の如くアイデアが湧いてくるわけではありませんから日々の中でメモを取ったり、人と話す時の耳の傾け方が変わったりと私生活にも変化が出てきました。

こうしてプロフィールに書かれた「書く役者」が形成されていきました。

個人的には「書く」という行為と「演じる」という行為の相互関係が面白く、書いているから演じられること、演じているから書けること、が自分の武器だと思っています。

どちらかに重きを置く瞬間もあるとは思いますが自分の中ではこの二色で自分のキャンバスを色付けていきたいと思っております。

長くなってしまいましたがこの先も様々なカタチで創作活動に励んで参りますのでどうぞ応援よろしくお願い致します。

熊田健大朗


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