温泉の話 7 岐阜

野麦峠の悲劇 岐阜県 塩沢温泉

野麦峠は飛騨と信濃を結ぶ古くからの峠道である。静寂に包まれた深い山あいの道であるが、明治から大正にかけては何千、何万人ともいわれる製糸工女たちがこの峠を越えた。当時、日本の富国強兵政策の支柱であった諏訪地方の生糸産業。それを支えたのは、貧しい飛騨の寒村から真冬の野麦峠を越えてきた、まだ幼顔の工女達であった。山本茂美の小説「ああ野麦峠」は、この製糸工女達の証言を基に、明治の時代を映した記録文学である。私は大学3年生の時、ゼミの課題を完成させるために「あゝ野麦峠」の舞台を巡ったことがあった。そう書くと格好が良いのだが、実際はそれにかこつけての温泉旅行であった。
 諏訪湖畔の上諏訪温泉にある片倉館は、諏訪地方での生糸産業で巨万の富を得た片倉財閥が、福利厚生施設として建設したモダンな温泉で、一度に100人が入れるプールのようなお風呂が有名である。深さが110cmもあり、底には丸石が敷き詰められていてとても気持ち良い。片倉館の建設は大正時代なので、「あゝ野麦峠」の時代よりも少し遅いのであるが、私は大金持が作ったプールのような浴槽に工女達が立ったまま100人位でつかっている様を想像すると少し切なくなった。それでも温泉を堪能し諏訪湖をあとにした私は、長い山道を車でひたすら登り、午後の3時ごろに野麦峠に到着した。今なお山深い野麦峠には沢山の工女達が手を合わせて通り過ぎていったのであろう地蔵堂が、車道から少し登ったクマザサの中にひっそりと立っていた。冷たい風が吹き、気がつくと冷たい雨が降っていた。
 本当ならここから飛騨に向かって下ってゆくのであるが、私の本来の目的は野麦峠から車で20分程の物凄い山奥にある塩沢温泉という秘湯に入ることであったので(「あゝ野麦峠」とは全く関係はないのだが)、夕刻の迫る中、早々に野麦峠をあとにした。岐阜へ下る道を右にそれ、細い林道を車で登ってゆくと、塩沢温泉は人気の無い山中に突然姿を現した。営業をしていない湯元山荘と書かれた無人の小屋の前に、柵も脱衣所も何もなくいきなり石造りの湯舟が置かれていて驚いた。車と湯舟の間にはつり橋があったが、雨が降っていたので、私は車の中で服を脱いだ。周りに人の気配が無いのをよいことに、私はタオルも巻まかず(手に持ってはいたが)、素っ裸で壊れそうなつり橋を渡った。温泉には最近人が入った形跡は無く、お湯は緑色で、雨のせいもあるのだろうが大変ぬるかった。いつもの自分なら恐れずに入る野性味溢れる露天風呂なのだが、この日は何か嫌な予感がして入るのをためらっていた。それでも雨が冷たくて仕方がなかったので、私は恐る恐る底の見えない緑色のお湯の中に体を沈めた。ぬるいせいだろうか、お湯の上を沢山のアメンボが滑っていた。
 車のキーを車内に閉じ込めてしまったことに気がついたのは、お湯に入ってすぐだった。携帯などは当然持っていなく、人里離れた山中、雨は冷たく、夕闇は迫り、裸。タオルを腰に巻き、木の枝やら針金のかけらを半ばパニックになりながらドアと窓の間に突っ込んだりしたのだが、一向にドアは開かなかった。そこから先は思い出したくもないので省略するが、いつの間にか本降りになった雨の中、助手席の窓が粉々になった車に乗った私は、びしょ濡れになりながら野麦峠を越えて家へと引き返した。ああ 野麦峠の悲劇..



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