蜜交狂い(1)
電子音が鳴ると同時に、頭上のシートベルト着用ランプが消えた。
ドン・ムアン空港を離陸してから20分ほどが経っただろうか。離陸時の緊張から解放されて機内の空気が緩み始める。
斉藤達也もシートベルトをはずして、少し伸びをした。足元に置いてあった鞄を拾い上げ、空いている隣の座席へ移した。
このところの不安定な国際情勢の影響か、パンコク発成田行きの機内はがらがらだった。いつもならまるで豚箱にでも押し込められたような劣悪なエコノミー席も、おかげで今日は快適だ。これならアームレストを畳んで横になって眠ることもできそうだ。
横一列がすっかり空席のシートを見やって、達也はそう思った。
あの国の手前勝手な正義を旗頭にした戦争には憤りを感じるが、機内で7時間も窮屈な思いをしなくてすむのはありがたい。
ドリンクのサービスが始まったようだ。エプロン姿に着替えたCAたちが上品な笑みを浮かべながら、飲み物を乗客に配っている。
制服姿もいいけど、エプロンはまた格別なんだよなぁ、と達也は飲み物を配るCAを眺めて、いつものように思った。
エプロンのせいで「高嶺の花」である彼女たちに親近感を感じるのである。もちろん衣装が変わろうが中身は同じなのだから、それとて男の妄想に違いないのだが。
2人一組になって狭い通路をトレーを押しながら移動してきたCAが、達也の2、3列前までやってきた。
ちらりと盗み見たところでは、こちらに顔を向けているCAはやや年配。すでに三十代半ばといった感じである。
一方、達也からは後ろ姿しか見えないもう一人の方は、もっと若そうだ。タイトなスカートから伸びた足が美しい。ふくらはぎがピンと引き締まっている。そこから太股へと延びる線の柔らかさも達也の好みだった。
下肢を踏ん張るたびに盛り上がり、スカートの布地に貼りつく尻の肉づきもいい。なかなかのプロポーションであることは間違いない。
達也はその美尻の手触りを思わず想像した。
きめ細かい肌、最高級の弾力、それでいてつんと上を向き張り詰めた二つの小山……。
その時、彼女が振り向いた。
あらぬ想像に耽っていただけに達也は少し慌て、目を伏せた。
「お飲み物は何になさいますか?」
「あ、えっと、ビール……。そう、ビールをください」
「ビールの銘柄はどれにいたしましょうか」
「あの、国産のやつありますか」
何とか取り繕ってそう答えて顔を上げた瞬間だった。
「あっ」
最初に声をあげそうになったのは彼女の方だった。驚愕で 全身が強張ったのがわかる。コンマ何妙か遅れて達也も目を剥いた。
まさか……。
思いもかけない再会だった。たぶん彼女の方も同じだったに違いない。
しかし、彼女はすぐに平静を取り戻した。無表情でトレーから平然と国産のビールを取り出し、達也の前にカップと共に差し出す。
そして、何事もなかったように軽く会釈をして 次の乗客に応対を始めたのである。
達也の方はカップとビールを手にしばらく放心状態だった。トレーを押して移動する彼女の後ろ姿を茫然とただ見送っていた。
正気を取り戻したのは、彼女がすでにシート最後部に達した頃だった。
もしかして見誤りではないか。そう疑って彼は振り返り、彼女の顔を確認した。
いかにもスチュワーデスらしく上品な笑みを浮かべながら接客する彼女のエプロンを剥ぎとり、シャツを引きちぎり、スカートを脱がせ、全裸をイメージしてみる。
3日前の出来事が蘇ってくる。あの夜、女が浮かべた表情が次から次へと浮かんできた。
もう一度、彼女の顔を凝視する。
眉、鼻、唇、顎のライン……。
最後に瞳を確認した時、彼は確信した。
やはり、どう見ても彼女だ。間違いない。
そして小さな声で呟いてみた。
リエ……。
心の奥でどす暗い感情がごろりと蠢くのを感じた。
タイに到着したのは十日前のことだった。
バンコクでの取引先との商談を一週間ほどで片付けた後、達也はパタヤへと向かった。海外出張にかこつけて休暇をとったのだ。
パタヤはタイでもっとも歴史の古いビーチだ。昼間はマリンスポーツが盛んで健康的なリゾート地。しかし、日暮れになるとネオンもきらめき妖しいムードが漂い始める。街角の暗がりには娼婦らしき女たちの姿もちらほら見える。
バンコクなんかよりも、こっちの方がよっぽど刺激的だな。
夜の街を散策しながら達也はそう思った。女たちの相場もバンコクより随分安いらしい。
もっとも達也は夜遊びをするためにここへ来たわけではなかった。わざわざこの古臭いリゾート地を選んだのも、大都会の喧騒を離れてのんびりと過ごしたかったからだ。
女を買うより、ビーチで読書でもしながら仕事の垢を落としたかった。
しばらくパタヤのそれほど大きくはない繁華街をうろついた後、ホテルのそばにあるパーに入った。パーと言っても海辺のレストハウスといった風情である。
開け放たれた窓から海風が心地よく吹き込んでいた。バーカウンターとテーブル席がある店内は安普請だが広く、そればかりか砂浜に張り出す格好でバルコニー席もあった。
達也はバーカウンター近くの席についた。ビールとちょっとしたオードブルをオーダーする。昼間泳いだ海の青さを思い出すと、仕事の疲れが癒されていくようだった。
早々に仕事を切り上げてここへ来てよかったな。
しみじみそう思った。
だが、爽快な気分は長続きしなかった。
「オンナ、イラナイカ」
客引きが声をかけてきたのである。
「ワンナイト、イチマンエン。ヤスイネ」
うんざりした。俺は女を買うためにここへ来たのではない。日本人の男がみんな売春婦目当てだと思ったら大間違いだ。
せっかくのゆったりした時間を邪魔されて達也は不愉快だった。それでも「ワカイオンナタクサンヨ」などと客引きはしつこく付きまとってくる。
あっちへ行け!
ついにはそう罵るように叫んで立ち上がり、ようやく男を追い払った。
まったく店の中でまで客引きされたのではたまらない。見て見ぬふりをしているボーイたちにも腹が立った。日本では考えられないことだ。
ビールを一気にあおる。泡立った気持ちを静めながら、とにかくこれで落ち着いて飲める、と二杯目のビールを注文した時、別の男が近寄ってきた。
はじめ達也はまた客引きかと無視を決め込んでいた。ところが、今度の男は少し様子が違うようだった。
「アナタ、タイノオンナイラナイ、ワタシシッテルヨ」
新手の客引きかとも考えたが、彼の不思議な物言いに思わず苦笑しながら応じた。
「知ってるのなら放っといてくれ」
「ワカッタ 、ワカッタ。ワタシ、キエマス。デモ、ニホンジンノオンナモイルヨ」
ふいをつかれて視線を向けた。男がにやりと笑った。
「ヤッパリアナタ、オンナスキネ。スケベネ」
かつがれた。不愉快だった。もう金輪際相手などしてやるものか。達也は無視を決め込んだ。
しかし、男は続けた。
「ニホンノオンナ、ホントニイルヨ。デモ、タイノオトコセンモンネ。アナタ、ダメネ」
タイの男専門の日本人女……。
またかつがれているのかもしれない。
それでも好奇心が勝った。
「そんな日本人の女がいるのか。いるなら連れてきてみろよ」
油断を見せないように挑みかかるような口調でその男に言ってみた。
すると相変わらずにやにやしていた男が、砂浜に面したバルコニーの方を指差した。
「ミエルカ? アノオンナ、ココノオトコタチノヴィーナスネ」
男が指したあたりには4、5人のタイ人の男たちに囲まれるようにして、女が一人座っていた。達也の場所からでは薄暗くてはっきりしないが、確かに日本人のようにも見える。
もっとも仮に日本の女性であったとしても、タイのビーチボーイたちとただ飲んでいるだけなのかもしれない。東南アジアのビーチボーイを恋人にする日本人女性がいるという話は聞いたことがある。
だが、バルコニーにいる女性はどうみてもその類の女には見えなかった。年の頃は二十歳そこそこか。
「ウソジャナイネ、ホントウネ」と言い残して男が立ち去った後、達也はバルコニー近くの席に移動した。
単純な好奇心もあった。しかし、生来お節介焼きの気質がそうさせたのである。
「タイ人専門」かどうかはともかく、もしも何か理由 があるのであれば何とかしてあげたいと思ったのだ。
バルコニーがよく見える席に移動した達也は、しばらく様子を観察してみることにした。
彼女はダイの男たちと何やら話しながら、カクテルを口にしていた。男たちが彼女の肩に手をかけたり、髪に触れようとする。しかし、そのたびに彼女は身体をくねらせて、上手にいなしていた。
やっぱり、じゃれあっているだけみたいだ。
遠出はそう判断した。
それにしても、月明かりに浮かびあがった彼女は相当の美人である。顔の造作そのものは派手ではない。むしろ楚々とした品のある顔立ちだ。それでも決して地味な印象を受けないのは、その中央で見開かれた瞳のせいだろう。
深くて艶のある確。どこか女優の長谷川京子に似ていると思った。
あんないい女が、こんなところでタイの男を漁っているはずがないじゃないか。
彼女の美観を観察して、さらにそう確信した。もしかしたら多少の願望が入り混じっていたかもしれない。彼女はまさに彼の好みのタイプだった。
だが、その確信はわずか数分後には揺らぎ始めてしまう。
男の腕を何度かかわしていた彼女だったが、そのうち振り払うのが面倒になったのか、すっかりなすがままになってしまったのだ。
それどころか耳元で何かを囁かれて、しなをつくったりしている。腰を引き寄せられて身体が少しずつ男に傾き始めた。
耳元にあった男の口が首筋へと這う。それでも 女に嫌がる素振りはなかった。そして、あっという間に唇が塞がれた。
予想外の展開に達也の心臓の鼓動が早まった。なぜ彼女は反抗しないのか。酒に酔っているのか。
目はバルコニーに釘付けだった。
それにしても唇がなかなか離れない。吸われているのだろうか。月光に照らし出された頬から顎にかけてのラインがすごくきれいだ。
そう思ったとき、ようやく接吻が終わった。
唾液が糸を引いて光った。
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