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蜜交狂い(2)

 バーに鳴り響くレゲエのBGMが少し大きくなった気がした。
「ダイノオトコクチノヴィーナス」という言葉が耳鳴りのようにリフレインする。何だか眩暈がしてきた。
 まさか、あんないい女が……。何か理由があるに違いない。 恐怖で動けないのか。
 いや、そんな素振りではない。むしろ彼女の仕草は自然だ。では何だ?
 願望は打ち砕かれ、確信はすっかり崩れ去っていた。クエスチョンマークにジェラシーが染み込んでいく。
 バルコニーでは男たちがすっかり大胆になっていた。ついさっきキスしていた男が腰に手を回したまま、彼女を引き寄せている。
 達也の位置からは見えないが、男の右手は彼女の胸のあたりをまさぐっているようだ。
 別の男が席を立って、背後から彼女に近づき、顎を持ち上げて、キスをうながす。それに応じるように彼女は背中をたゆませて、その唇を吸った。
 そんな痴態を見て、周りの男たちが下卑た笑いを浮かべ、舌舐めずりしている。

 それでも達也はまだどこかで、彼女が正気に戻り、男たちを突き放すことを期待していた。もしかしたら海外のリゾート地でアバンチュールのムードに流されてしまったのかもしれない。アルコールも入っている。
 だとしても、きっとそろそろハメをはずし過ぎたことに気づくだろう。そして我に返った彼女は男たちに別れを告げ、ホテルに戻って一人で眠るのだ。
 そんな達也の心の声が聞こえたかのように、彼女が席を立った。思わず喝采を送りそうになる。
 しかし、達也の淡い期待は、またもやあっさり裏切られしまった。
 席を立ったのは彼女一人ではなく、テーブルを囲む男たちも一緒だったのだ。そればかりか連れ立って店を出て行く。
 慌ててチェックを済ませ、達也も店を出た。数十メートル先に彼女と彼らがいた。スキンシップは路上でも続いている。腕を絡め、肩を抱き、腰をくねらせ、キスを交わしている。
 彼女はもうその場にいるすべての男たちと唇を重ねたに違いない。外見とはあまりにかけ離れた奔放な行動だった。

 タイの男四人に抱きすくめられた彼女はそのまま道路を横切り、向かいのホテルへと入って行った。達也が泊まっているホテルだ。
 後を追って達也もエントランスに駆け込み、ロピーを抜け、エレベーターホールへと急ぐ。
 エレベーターはすでに上昇を始めた後だった。2、3、4、5、6……。
7階で止まったようだ。それを確認して彼はフロントに戻った。自分の部屋のルームナンバーを告げ、鍵を受け取る。
 どうすればいいのかわからなかった。茫然自失の達也に、フロントマンが「ニホンジン、ミンナスケベネ」と言って意味ありげにウインクを投げた。

 部屋に戻ってからも、何も手につかなかった。成す術もなければ、それ以前に自分が何をしたいのかもわからなかった。
 いまこのホテルの7階の一室で、日本の美女がタイの男たちと饗宴を繰り広げている……。そんな妄想が浮かんでくるばかりだった。
 いっそ寝てしまおうかとベッドに入ってみたが、やはりまったく眠気など襲ってこない。
 目を閉じると、あの深く澄んだ瞳を隠微な色に変えて、狂喜する彼女の姿が浮かんだ。
 あの清楚な美しい顔が、タイの男たちの精液で汚されている姿まで浮かんでくる。いや、汚されているのではなく、彼女自身がそれを求めているのだ。
 かけてぇ、私の顔にあなたのをぶちまけてぇ……。
 達也の妄想の中でそう叫ぶ彼女の口元からはよだれが滴っていた。

 自分の妻でも恋人でもないのに、こんなふうに嫉妬に狂うなんてどうかしている。大和撫子の貞操を守りたいとでもいうのか。
 いや、そうではない。俺は彼女に心を奪われてしまったのだ。一目惚れといってもいい。異国のリゾート地で、突然であった美しい女に心を奪われ、それなのにその女はいま……。
 達也は頭を振った。何を考えているんだ俺は。口も利いたことがない女に恋したり、嫉妬したりして、どうするというんだ。必死で自分を抑えようとした。理屈ではわかっているのだ。
 だが結局、彼女の白い裸身に群がる浅黒い男たちの妄想を消し去ることはできなかった。そればかりか、あんな美しい女がそんなことをするはずがないという思いをどうしても捨て切れなかった。
 悶々としながら朝を迎えた頃、達也はようやくある考えに辿りついた。
 そして、それを実行するための、つまり彼女を 救うための作戦を練った。

 翌夕刻、達也は再び昨晩と同じ海辺のバーにいた。
 彼には確信があった。あの男は「タイジンセンモンノオン ナ」と言った。だとすれば、彼女は男を探しに今日もここへやって来るに違いない。
 ビールを2杯空け、すっかり太陽が水平線の彼方に沈んだ頃、やっぱり彼女は現れた。
 とりあえず一人だ。昨日と同じバルコニーの席へ向かう。その姿を見送りながら、達也は昨日懸命に考えた作戦を反芻してみる。
 きっと昨日と同じように彼女の周りに男たちが集まってくるだろう。そして彼女を口説き始めるに違いない。達也の出番まだ後だ。
 彼女が男たちと席を立ち、店を出て、ホテルに入り……。その時こそ、彼が登場する時だった。

 それから一時間ほどが経った。
 バルコニーでは昨日とまったく同じような光景が繰り広げられていた。一人、また一人、と彼女に近づいてきたタイ人の男がいまでは三人、彼女を囲むように座っている。
 彼らは彼女に近づき、肌に触れ、髪を撫で、唇を重ね、彼女の方も昨日と同じように身を任せていた。
 しばらくして彼女が立ち上がった。いよいよだ。達也はポケットからパーツ札を一掴み取り出し、テーブルに投げ捨てるように置いて、彼女たちに先んじて店を出た。
 ホテルの玄関で振り返ると、男三人に寄り添われて彼女がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
 フロントを素通りし、エレベーターに飛び乗る。目指すは7階だ。あっという間に到着した。そしてエレベーターホールの陰に身を潜めた。
 昨日までは想像もしなかった大冒険に胸が締めつけられる。エレベーターが階下から登ってきた。
 もうすぐだ。もうすぐ俺はヒーローになり、彼女が俺の胸に飛び込んでくる。

 到着を告げる「チン」という音が鳴り、ドアが開いた。
 男の一人とディープキスをしている彼女の姿が目に飛び込んできた。あとの二人も彼女の尻や胸にしがみついている。
 四人はもつれ合うようにエレベーターから降りてきて、達也が潜んでいるのとは反対の廊下へ向かって歩き始めた。
 爆発しそうな心臓を抑えて、達也はその背後に迫った。そして深呼吸をして声をかけた。
「エクスキューズミ!」
 四人が一斉に振り返った。初めて灯りの下で見た彼女は、 想像していたよりずっと美しかった。
 しかし、口紅が滲んで唇からはみ出している。ここに辿りつくまでの間に、一体どれだけキスをしたのだろう。

 だが、そんなことは後の話だ。達也は作戦通りに事を進めた。
「日本の方ですか?」
 平静を装って尋ねる。怪訝な顔をしながら彼女が「はい」と答えた。
「何かお困りではありませんか?」
 達也の作戦とは彼女を救うためのものだった。
 彼女はきっと何かのトラブルに巻き込まれて、こんなことをしているに違いない。あるいはカネのため、もしかしたらドラッグで自由を奪われているのかもしれない。
 いずれにしても異国で抵抗することもできず、いまや彼女は無気力になっているのだ。
 だとしても同じ日本人の男が現れれば勇気を奮い起こすはずだ。そして助けを求めてくるに違いない。
 腕っ伏しに自信があるわけではないが、ここはホテルだ。大きな声を出せば誰かが気づいてくれるだろう。最悪でも彼女一人を逃がすくらいのことはできる。
 首尾よく進めば、「助けてくれてありがとう。あなたは命の恩人です」と胸に飛び込んできたって何の不思議もない。そこから愛が芽生えたって……。
 それが達也のプランだったのだ。だが……。

 達也の呼びかけにも、相変わらず彼女は怪訝そうな顔をしている。動転しているのだろうか。さあ、勇気を出して。達也はもう一度呼びかけた。
「あの……何かお困りでは……僕でよければ力になりますよ」
 相変わらず彼女は黙っていた。
「あの……僕は日本人で……」
 そこで彼女がようやく口を開いた。
「わかってます。でも特に何も困ってませんので」
 冷たくそう言い終ると、彼女は男たちと再び廊下を歩き始めてしまった。
 なぜだ? なぜ助けを求めてこない?
 想定外の展開に達也は混乱した。なぜなんだ!
 気がつくと男たちに向かって突進していた。殴りかかろうとして、何発か殴られたような気がする。


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