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2022.7.30 雑文(小旅行Ⅰ)

 駅前のドミトリーに宿泊するだけの今回の旅行の始まりは、まず仕事が終わらないところからだった。

 月末も終わって呑気な気持ちで構えていると、突然やってくる盆前に納めなければいけない業務依頼の山。手前らがもっとはやく段取りしていればこんな焦らなくてよかったのに、という文句を飲み込んで、チェックイン時間を気にしながらとりあえずできる限りの段取りを済ませ、退勤、帰宅。時計の針は8時を示していた。旅程は9時チェックインなので、シャワーを浴びて荷物をかっつめ、しかし詰めすぎて大分重くなったので一度取り出し、これはいらない、使わない、必要ない、とある程度軽くしてリュックサックの口を閉めた。汗が止まらないので扇風機で体を冷まし、ややもすれば布団に横たわってしまいそうな精神を奮い立たせ、いざ行かん。

 普段、玄関の物置に眠らせている折り畳み自転車を叩き起こして漕ぎ漕ぎ10分ほどで到着。マンションや居酒屋が入居する雑居ビル。食べたことのあるラーメン屋がすぐ近くだ。自転車はビル目の前の市営駐輪場に入れて、3階へ階段を上った。
 ホテルの入り口にはなんか知らんでっかい羽根の虫がいて、照明に向けて音を立てて体当たりを繰り返していた。うっかり迷い込んでしまったのだろう。このどん突きから出られるのだろうか、案内はできないが、かわいそうに思った。

 無人チェックインのようで、事前に送られていたメールの通りに宿泊者名簿を記入し、箱へ投函。同封のカードには私のベッドナンバー、ベッド備え付けの貴重品ロッカーの暗証番号、深夜の玄関扉の解除キーが記されていた。あとはWi-Fiのパスコード。

 エントランスはそのままロビーの役割もしていて、クッションの並んだソファーとローテーブル、本棚、そして奥には一面ガラス張りの窓に面してカウンター席が15席ほど並んでいる。向こうには駅前のシンボリックなガラスドームが眺めることができた。わるくない。わるくない場所だ。
 受付カウンターの横にはペットボトルやカップ麺が置かれた無人販売所があった。お金は自分でびんの中に入れてるか、paypayで支払うこと、と。無人販売所最新版……それでも良識の上に成り立ってはいるけれど。

 ベッドはカプセルタイプだが、コロナの影響で収容数を減らしたようで上段を抜いてあった。ベッドの脇に30センチほどのスペースがあり、この幅に1メートルほどの長さで木箱の貴重品ロッカーが据えられていたが、狭いは狭いが、頭上が開放的で息苦しさは感じなかった。マットレスがいいのかふかふかで、空調も効いて、なにより静かだ。交流はしない、と言うのがこのドミトリーの売りの一つで、滞在中会話は一言も聞こえなかった。

 荷物を置いて外に出た。腹が減っていた。5分ほど歩いたラーメン屋ですませた。昔から、それこそ藩政期からの商店街で今はもう寂れてしまったが、ここ数年は再び盛り立てようと新しい店がぽつぽつと姿を現している。そのラーメン屋もそのうちの一つだ。古い長屋造りの店内はカウンターに人が並べばその後ろを通ることすらままならない。私が食べ終えたとき立て続けに入店し、さてどうやって出たものかと足踏みしていたら店員から「すみません、裏からお帰りください」と促された。裏口、確かにあった。
 出た先はほんの細い路地だった。店も裏から見ると本当に古い木造だ。商店街には同じような建物が無人のまま手つかずでまだ並んでいる。

 腹ごなしにホテルとは反対方向に歩いた。結局1.3㎞ほど歩いた。途中ぐっすり眠れることを売りにしたホテルを見つけたし、変な形をしたマンションも発見した(駐車場がピロティだが、柱が多くて入れづらそうだ)。スナックのママが店前に水を撒いていた。古い家並みに突然新築が現れた。ネットでも話題の開店したばかりのコンセプトカフェを偶然見つけたし、客の一人もいない焼肉屋を心配して、何だか雰囲気のある綱網の商店の写真を撮った。途中、由緒あるらしい神社を参拝し、境内をうろうろ調べまわり(拝殿の脇から裏に向かうとモルタルの建物があった)、神社向かいの予備校の閉校案内を読んだ。室内から青白い光の漏れる家があったり、町名表示が上下逆さまに打ち付けられた町家を発見したり、飲み屋から出て行く救急車を見送ったり、夜の町は出来事と発見が尽きない。元小学校だった公園を通り抜け、また裏道を歩いていると向こうからぞろぞろ中学生と思しき集団が向かってきた。引率の教員は、いる。各々手に洗濯ネットを抱え、はあ、ここらの旅館に合宿に来ていて洗濯は近くのコインランドリーを使ったのだろうか、と考えた。あの方向にコインランドリーはあったろうか。

 ホテルに戻ると、なんか知らんでっかい虫は2階まで下りてきていた。この調子で外に抜け出せるだろうか。

 ホテルに戻るととりあえずシャワーを浴びて寝間着に着替え、さてカウンターでパソコンを開き作業をしようと思ったが、その前に火照る体を休めようとちょっとベッドに横になった。

 寝た。

 カプセルは大概物音がしないものだし朝日も差しこまないものだから、目を覚ましたとき時間がわからなかった。腕時計の針は9時を回っていた。道行く車を見下ろしつつ優雅に読書なりパソコン作業なりに勤しむどころか、携帯とポケットWi-Fiの充電すらしていない。ただただ空調のよく効いた部屋で心地よく眠れた。それだけだった。なんともすっきりとした、間の抜けた目覚めだった。

 チェックアウトは10時半だったから、せめて少しくらいと本棚から気になる冊子を数冊捲り、カウンターでパソコンを開きこの記事を書いた。完成させたのはさらに夜中だけれど。

 ホテル内で面白いと思ったのは、近くのカプセルにビジネスシューズが2足並んでいた。おそらくビジネスマンが長期で滞在しているのだろうと思う。ここには寝る場所があり、シャワーもあり、仕事スペースもある。不要な会話もない。立地は最高だし、食事を外で済ませるならビジネスホテルを取るよりも、物件を一つ契約するよりもよほど合理的かもしれない。
 ふと疑問に思って調べてみたが、ドミトリーにだって住民票を置くことはできるらしい。生活実態があれば(郵便物さえ届けば)少なくとも法的には問題はないようだ。普通ドミトリーのオーナーが許可などしないだろうけど、そんな生活の仕方もあるのかもしれない。

 荷物を片付けてチェックアウト、あのでっかい虫は2階の階段隅に転がっていた。スプレーでもかけられたのか弱々しく足を動かして、きっともう今夜には姿を消しているだろう。出られなかったのだ。

 辻の市場近くでブランチを食べて家に帰る。街中での生活は自転車があると便利だ。今日は警報が出るほどの暑さだった。

 帰宅して洗濯機を回しながら虫のことを調べた。転がった姿はトンボのようだった。羽を畳んで止まるトンボ、黒っぽかった……ハグロトンボだろうか。あのあたりは景観のための用水が歩道脇を流れている。そのあたりから迷い込んだのだろうか。

 夜に窓を開けて卓上灯を使っていると網戸の隙から小虫が入り込む。灯りのあたりを飛び回るから堪らず潰す。今も3匹潰した。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。一事が万事、人の都合だ、私の都合だ。

 今回の小旅行は大したこともできなかったが、たぶんそれでいい。疲れた体を休める。ちょっと特別な気分に浸る。ひとつ忘れえぬ記憶を持つ。そういう旅行があったっていいだろう。
 次は来週、これは友人を一人連れ出した。ホテルで読んだガイドブックにも載るほどの有名ゲストハウスだった。楽しみにして過ごす。

 旅行前の雑文はこちら。

 見出しはみんなのフォトギャラリーより、おくちはるさまのくまのイラストをお借りしました。ありがとうございます。