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旅記 加茂荘花鳥園・温室

 ただ広い駐車場の向こうには山がそびえます。雨で霞む中を雲が低く流れていました。時計の針は十二時半を指しています。小矢部SAを発って五時間、長い運転でした。座席を下げて背中を伸ばして腰を捻り肩を回す。首を前後左右に倒すとごりごりと不気味な音が鳴りました。

 雨に当たりながら建屋に駆け寄ります。瓦の大屋根。深い軒の下に「加茂荘菖蒲園」の額が掲げられていました。自動の大きな引き戸をくぐるとすぐ受付兼物販の方がいます。入館料は550円。菖蒲やダイヤモンドリリーの時期はとんと上がるようだから、ふらっと入るにはよいタイミングでした。

 敷地内の説明を受け、傘を貸してもらいまずは、と温室を案内されました。

 プロローグのような幅広の薄暗い通路を抜けると、そこに広がる空間は想像していた温室をはるかに超える場所でした。美術館ほどの天井高の空間がL字にこれでもかと広がっています。そして視界一面、鉢植えからこぼれて長く茎を垂らした花が天井から吊るされていました。植物の紹介を読むとベゴニアが多いようだ……それ以外見分けがつきません。ただ、その後ろに「(ハンギング)」という注釈が。この飾り方をそう呼ぶようです。


薄暗い温室には誰もいない。改めて見ると少し不気味な雰囲気。

 床置きの植木鉢にも気をつけながら奥へ奥へ。丸テーブルとイスが三組配されていて、近くに軽食の売店があり、繁忙期にはここで飲み物片手に花を愛でられるのでしょう。L字を曲がって長いほうへ足を踏み入れる。こちらは三抱えもある植木鉢から天井まで届く木が生えています。いや、露地に植わっていたのか。記憶が定かじゃありません。ただ、こんなものを育てている温室は初めて訪れました。

 でもそのときはそう思っていたけれど、本当はそんなことありませんでした。かつて京都府立植物園の温室に入ったことがありました。あそこはさすがに植生も設備も規模が違っていたけれど、加茂荘のようにゆっくり観賞できるような場所ではありません。当時、大して興味がなかっただけかもしれないけれど。

 奥からぐるっと巡って直角の角まで戻る。最も奥まった場所にはテーブルとベンチが据えられています。そこに腰を下ろして天井を見上げました。半透明の天井に雨粒があたる。温室内、L字の底辺部分にコールダックの飼育小屋が伸びていて、こちらが静かにしていれば向こうも静かなものです。時折水をかく気の抜ける水音が耳に届きました。


こちらに丸テーブルと洒落たイスでも置いてもらって……

 学園の片隅にある秘密の温室、いつでもいる不可思議な先輩、どこからかやってくる動物たち……という、なんともべたな小説の舞台にできそうな場所がここにはありました。ただ天井や壁のガラスは常に磨かないと透明さを保てないし、夏は暑く冬は寒く、冷暖房が欠かせないかもしれない。雨漏りもする。床は汚れるし虫とも無縁ではいられない。

 空想妄想につまらない現実を持ち込みたくはない。けれど、現実にそのようなことが起こりうるということはいつだって想像していなければいけないように思います。都合のよいうわべだけを切り取って、そこにフィクションの厚みを持たせられるのか。

 着地しない疑問を指先でくるくると回しながら入口へと戻る。コールダックに近づくと網のそばにいた数羽が慌てて奥へと逃げていきました。

 人が入りそうな壺が目につきました。思い出せば入り口の近くや薄暗い通路の隅にも置かれています。オーナーの趣味だろうか。胸のあたりまで高さがある。膝を折れば頭まで隠れてしまうかもしれない。表面が薄っすら苔むした素焼きの、どこか異国の香り漂うシンプルな文様……後々気になって調べるとなんと植木鉢です。テラコッタやらピトスやら並ぶ、どうやらイタリア産の素焼きの壺のようです。いったい何を植えるんだ。


たくさんあります。

 エピローグのような薄暗い通路に戻る。その脇の引き戸から外に出られると教えてもらっています。外は開けた場所で、浅い池が広がっています。菖蒲畠でしょう。アニメ『氷菓』では田んぼ広がる場所として描かれていました。

 しとしと雨が降っています。池の右手は外回廊が向こうまで続いていて、左手には漆喰の蔵、白壁の塀、その奥に内門が隠れているはずです。

 ああ、ここかあ。


広い。