働くのが嫌だと会社は辞めるのに、どうして古本屋は開く?
まあ、働くこと自体がいやだ、というわけではないのです。
実家の米は自分たちで作っています。私も田植え稲刈りは参加するようにしていますし、父や兄の話を聞くに、米を育てるのに暇などありません。畑ではいくつかの野菜を育てています。全て自分たちで食べるだけのものです。
自分たちの食べるものを自分たちで育てる。最も原始的な営為です。
けれど、私はそれで飢えず幸せに生活できるのではありません。
社会に所属し、その庇護のもと納税の代わりにいくらかの恩恵を受けなければ、生活は立ち行きません。社会を維持していく必要があります。私はその、社会という巨大システムを維持するために、その末端も末端で労働に従事しなければいけないのです。
私はそのように信じて働いています。資本主義に立てばこのような考え方は誤っているのではなかろうと思いますが、そういった正しさは一旦脇に除けてください。これは私が信じていること、信条のようなものです。
で、私はそのような信条を抱えながら、社会へ寄与するための労働を放棄したいのです。企業に所属し、その企業の社会的意義をとおして社会に寄与する。そういった一般的方法から脱落し、個人として社会に寄与する気持ちもない。なぜか。
「俺一人抜けてもよくない?」
よくはないと思いますけど。
古本屋を開く。営業のかたわら一緒に本を読む。店休日には田んぼと畑を手伝う。今よりはよっぽど手助けできると思います。自分の営為の範囲を狭める。目と手の届く範囲まで狭める。社会のほうはみなさんでよろしく回してください。
そんな生活をしてもただちに社会からほっぽり出されることはないでしょう。税金ならしばらく納められそうですし。
「古本屋を営むかたわら自給自足の生活を~」なんて洒落た生き方をしたい! なんて考えていません。自給自足がどれほど大変か。現金を得られないことがどれほど不便か。
ただ、働くことに関する諸々の問題に対しての解決を、距離の取り方を今しばらく考えなおしたいのです。
働くという行為を足枷にしたくない。
私は歩みたい。どこに行き着くわからない道のりを。
働くということはその道行きの友であってほしいのです。