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小さな物語の小さな勝利

セッちゃんの「セ」はセックスの「セ」。

 じゃあセッちゃんの「ッ」はどうなるんだろう。やっぱりセックスの「ッ」かな。それとも整調の「ッ」か。セっちゃんなんて見た目よくないからかな。
 などとどうでもよいことを考えたり。

 読んで、本を閉じて、なんだかもやもやする。上のURLページの「編集者からのおすすめ情報」なるものには、読後、感動がじんわりと心に沁みるなどと書かれているけれど、感動? じんわり? 心はもやもやで満たされた。
 なんだこのもやもや。
 それを考えてひと月ほど後、あ、セッちゃんが死んでしまったことにもやもやするんだ、と唐突に思い至った。セッちゃん、ほんの5ページ目で死にます。そこに至る表紙表紙裏扉絵目次等々除いて第1話の一コマ目で死にます。だからこれはネタバレではありません。

 その次のページからセッちゃんは何事もなかったかのように生きている。過去回想だ。結果だけが先に提示されて、以降はセッちゃんの死に至るまでの過程が描かれる。死にそうなことなんてひとつもない、ぬるま湯のような日常が続くばかりだ。
 例えば、と考える。セッちゃんが道端で転んで頭を打って死んだなら、たぶんそんな作品はギャグマンガだった。不治の病で死んでもギャグだ。自殺しても私は大爆笑しただろう。それから本棚に差して何の感想も抱かずに肥やしにしただろう。

 セッちゃんの死は理不尽な死だ。これはネタバレになるから言えないけど、理不尽な死に方をした。
 ぬるま湯のような日常。その中でセッちゃんもあっくんも「今までの日常」から少しずつずれていく。少しずつお互いの呼吸のしやすさがわかっていって、もう間違わないのかとセッちゃんは思った。あっくんとセッちゃんのその先を期待してページをめくった。セッちゃんが死んでしまうことなんて一番最初にわかってしまっているのに、何でこんなに期待させるの最悪だ(賞賛)

 という、まあ最悪のタイミングの死ではあるわけだが、するとついつい「どうしてセッちゃんが死ななきゃいけなかったんだ!」と思ってしまう。物語上で死んだんだから死んだんだよって思うけど、悪い消費者は諦めきれない。納得したい。セッちゃんの死に妥当性がほしい。じゃなきゃ泣いてしまう。
 そんな不安定な心で考え考え3か月。ぱっと思い至りました。

 彼女は物語に殺されたのです。

 というのも、彼女らの世界は空前のデモブームだ。学費免除を求める学生団体のデモ行進が事の始まりだった。けれど、大半の人にはそれは関係のないことだった。けれど過激派がブティック店へ火炎瓶を投げ込み、地下鉄の電車や企業を爆破し、通っている大学は封鎖、座り込みも行われあっくんの彼女はそれに参加してしまう。セッちゃんもあっくんも無関係だと思っていた「こちら側」と「あちら側」が混線していく。
 あっくんは高校生の時、犬の散歩中に同級生の黒須さんの遺棄死体を見つけたことがある。そのときあっくんは知ったのだ。昨日一昨日まで同じ教室のひとつ前の席に座っていた同級生もふっと死んでしまうこと。その死は自身の日常に何の前触れもなく入り込むこと。混線。暴力と死が日常に混線してくる。「あちら側」を覗いてしまった高校生のあっくんは、翌日の教室の、緊張感の欠片もない同級生たちと壁を感じ、ただ一人黒須さんの死体を背負った。
 まあ、あっくんも放課後にはゲーセンでレースをして、そんな感傷忘れてしまうんだけれどね。

 セッちゃんの死も「あちら側」が「こちら側」に混線してきたからだ。そこに妥当性などあるはずもなく、ただ運が悪かっただけで、セッちゃんの死はその場にいた善良な市民4人と共に「死者数5」という無機的な表示に還元されるのだ。
 テロなんてものは大きな物語だ。みんなとか国とか、制度とか社会とか、そういったスケールの大きなものを標榜した物語。その物語の中で人は物語のために生きるべきだし、物語のために死ぬべきだ。そして死んだら物語のためにその死が語り継がれる。
 あっくんも物語に巻き込まれただけにすぎない。目の前で、何かをする前に、何も考える前に、セッちゃんは死んだ。巻き込まれてすらいないかもしれない。あっくんはただその場にいた、それだけの人間だ。

 そう考えをまとめて、私は悔しくてたまらなかった。本当は、いや、作品に本当の話筋も嘘の話筋もないのだけれど、本当はセッちゃんの小さな物語はここから先もあったはずだ。それが大きな物語によって断たれてしまった。悔しくて悔しくてたまらずボロボロ泣きながら、『セッちゃん』を本棚の肥やしにした。

 物語のために死ぬなんて、そんな話は嫌いだ。

 ではなぜ今改めて書いているのかというと、ようやく思いついたのです。小さな物語は敗北していないという言い訳を。また3か月ぐらいつらつら考えてました。

 この物語は誰の視点から語られているのか。メインはせっちゃんとあっくん。あと少しまみだったり、ほかの第三者だったり。けれどあるパートだけは特殊な視点が用いられている。そこは語られるのはあっくんの視点でありながらも、語りはあっくんではない。まるであっくんの語りを改めて誰かが語りなおしているような。
 プロローグ/エピローグはそんな語り方をしている。
 誰が語っているのだろう。

 けど実は誰が語っていようと、あんまり重要じゃない。語りはたぶんセッちゃん妹だろうとは思う。シチュエーションとしては、セッちゃん妹がセッちゃんの法事のために上京し、そのときあっくんにも会いに行く。二人の会話はセッちゃんの話にならざるを得ない。セッちゃんの死の当時をあっくんが語る。それを、セッちゃん妹が語りなおす。

 ここに、ここに小さな物語の小さな勝利がある。
 大きな物語が展開されるとき、人は物語のために生き、物語のために死に、その人の死や死への感傷は物語へと吸収され消費される。セッちゃんの父親が参加する遺族NPOなんてまさにそうで、あれはセッちゃんの死と自分の感傷という小さな物語を大きな物語へと変換する装置だ。対してあっくんはそんなものには微塵の興味もないだろう。ただ彼は6年間、6年間ずっと口をつぐみ、セッちゃんへの感傷を黙って抱え込んでいたのだ。

 それをセッちゃん妹に語る。一人きりの実況配信でPinktoothにこだわるセッちゃん妹の、スカイプの登録にセッちゃんのアカウントを残したままにするセッちゃん妹の感傷と、あっくんの感傷が混ざり合う。これからは二人で、二人の感傷を黙って背負っていくのだろう。
 なんとささやかな抵抗だろう。小さな物語の、小さいままの抵抗。これからも末永く続くだろう、たった二人だけの抵抗。

 あっくん、6年経ってもセッちゃんへの感傷は忘れられなかったね。それが嬉しいよ。辛うじて残ったセッちゃんとの小さな物語が、大きな物語に吸収され還元されることなく、そのままの形で残ってくれて。

 泣きたいぐらい嬉しいよ。
 私もセッちゃんのこのもやもや、ずっと抱えていこう。