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八菅山という山 (愛川町日記 2016年4月20日より転載)

その昔。

といっても、神々が地上を跋扈していたような時代であるが、

日本武尊という人物がいた。

記紀の時代に活躍する日本古代史上の伝説的英雄である彼が、ある日遠くの山を遥かに見透かし

「あの山は蛇に似ている」

と何気なくつぶやいたのであろう。

英雄の一言とは強烈な影響を与える。

日本武尊が何気なく見上げた山は、突然歴史的意味合いを持たされた。

標高225mは「蛇形山」と名付けられた。

日本武尊、東征のおりの事である。


それから、この山は長い年月歴史の舞台から姿を消す。

大宝3年とあるから703年、実に時間が流れた。

「日本武尊が名付けた山がある」

と日本武尊の足跡をたどる者がいた。

この者が山に入ると、忽然として池中に八本の菅が生えたこという。

このことからこの山はにはその後長く残る名前がつけられる。

「八菅山」。

はすげやま、と読む。

愛川町の山だ。

八本の菅を見た人物は「役の小角」である。

呪術師、だ。

この八菅山で修業をしている。

文武天皇3年(699年)には、人々を言葉で惑わしていると讒言され、伊豆島に流罪となる。
人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。

2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、大和の国に戻ったとあるから、その道中なのかもしれない。
(しかし、役小角はこの701年に68歳で死んだという説もある為、703年に八菅山にいるのは怪しいが)

役小角は修験道の開祖であった。

その為、八菅山は相模の国では修験道の最大の霊場となった。

その後、和銅2年(709年)に行基が勅願所として七社権現の寺を建立したという。

別当は光勝寺と言い、七堂伽藍と院坊50余が存在した。

八菅山を中心とした丹沢山塊一帯は山岳信仰の霊地として修験者たちの修験道場として盛んであった。
この連なる山々には幣山、法華峯、経ヶ谷、華厳山、法論堂、など今も残る名は巡峯の要所で会ったことを教えてくれる。


歴史の波は蠢きつつある。
それは、この修験の山にも津波の様に訪れ、すべてを飲み込んでいく。

神仏分離令。
慶応4年3月13日(1868年4月5日)から明治元年10月18日(1868年12月1日)に明治政府から出されたこの政令は
この山の様相を大きく穿った。

歴史は蠢き続け、明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられた。また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものが破壊された。

この流れは、光勝寺を廃寺にし、神のみを祀った八菅神社として発足、山内に多数居住していた修験者は還俗し、山麓で帰農した。この際、宝喜院など有力な15の院坊は足立原姓を名乗った。

そして、今に至る。

日本武尊がこの山を遥か見渡したのは、今の坂本地区あたりであるといわれている。

今となっては坂本からその山容の一部しか見ることができない。

修験の歴史をしがらみの様にとどめる八菅神社の社叢林は神奈川県指定天然記念物として、見るものを修験の道へと誘う。
境内のクロガネモチの巨樹(町指定天然記念物)は高さ 20m、目通り2.3m、樹齢 250年という。

八菅神社の梵鐘、もある。

太平洋戦争のときにも共出をまぬかれ、貴重な梵鐘。
「鐘楼元和四年(1618)鋳造ノ鐘ヲ掛」と新編相模国風土記稿の八菅村七社の項にあるのがこの梵鐘である。
三増合戦で戦死した千葉金兵衛宗清の供養のために一族の者が造り、併せて徳川家康の冥福と秀忠の武運長久をも祈願したと伝えている。
  
この山が内包する歴史はまだある。

いや、八菅山のもつ手つかずの自然はハイキングやトレイルの入り口ともなり、新しい波の生みつつあるのだ。

八菅山は春の例大祭の火渡りだけではない。

この山がもつ、大いなる歴史は、(宗教的な意味合いはすでに色が薄くなったといっていいだろう)
愛川町にとっては大きな財産であるのだ。

観光客を呼べるような施設をあらためて作るのは今の愛川町には体力はない。
しかし、こういった「過去の遺産」を整備することは不可能ではないだろう。

八菅山から山十邸のある中津エリアまで取り込めば歴史フィールドが展開できるのだ。

山十邸でコスプレイベントがあるそうだが、八菅山で山伏の格好ができれば話題になるし
ほら貝のひとつ高らかに吹ければなおよいだろう。


役の小角が起こした「修験の教え」

そこには「自ら修して、自らその験しを得る」というのが中心である。

未知なるものあらためて造作するより
すでに愛川町の歴史が経験している過去を掘り起こすこともまちづくりとしては
一つの手法である。

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