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愛川町町制記念日 (愛川町日記2015年1月15日から転載)

今日、1月15日は愛川町町制記念日である。

2015年は愛川町新町発足60周年記念。

今年はさまざまな「新町発足60周年記念」を冠としたイベントが多くなるだろう。

愛川町誕生。


1889年4月1日 町村制が施行。半原村、田代村が合併して愛川村が発足。
1940年4月1日 町制を施行し愛川町(1次)となる。
1955年1月15日 愛甲郡愛川町(1次)と高峰村が合併。愛川町(2次)が発足。
1956年9月30日 愛甲郡中津村を編入、現在に至る

と、ある。

惜しむは明確な「愛川町史誌」がないことだが

「新町発足」と「町制記念日」が同じ日ではないことが興味深い。

隣接地でいえば

相模原市は1954年
厚木市1955年
清川村は1956年

とほぼ同じ年にスタートしている。

今回は「新町発足」(1956年)で話を進めていこう。

1956年は昭和31年である。

メルボルンオリンピックが行われたこの年、約11年ぶりにソ連との国交が回復した。

<戦中派><抵抗族><太陽族><愚連隊>などの言葉が生まれたのもこの年だ。

もはや、敗戦の屈辱は薄れ、戦時中に青春期を送った者と未来へ行きぬく者の葛藤が合いまった感じがする。

文芸春秋に「もはや戦後ではない」という言葉が躍ったのも愛川町誕生の1956年の背景だ。


新町発足以前の<愛川町地域>は

半原盆地を中心に養蚕、製糸・撚糸などの軽工業が盛んであり、富岡製糸工場の水力発電を模した撚糸業は文化を形成するまでにもなった。

新町発足10年後1966年、内陸工業団地が完成すると<愛川町>の中のベクトルが変わる。

半原から中津へ町の中心がうつり機械工業、住宅地域、流通拠点へと姿を変えていく。

大規模工業化の波は、南米などから来ている工場労働者をうけいれ、半原地域とはまた別個の文化を生み出すこととなった。


半原・田代の両地区合併が愛川町の民俗・歴史の核であり、現在行政の中心地である高峰地区が合併し、生産拠点である中津地区が加わり<新町制発足>となる。

その局面局面でこの町は新しい文化を生み出してきた。

そして、その文化の融合体こそ愛川町である。

昼夜を問わずあかりが煌々とともる工業地帯。
戦国時代の雄たちが激突するなど肥沃な歴史。
サンバの音が響く国際的な側面。

これだけの多様性をもつ町が他にあるだろうか?

そこには「強烈な個性」があり、その強烈さ故に相容れない混ざり合えない部分も確かにある。

だが、その個を潰すことなく、伸ばすことでまた違う「愛川町の文化」が生まれる土壌が出来るのではないか?。

新町発足約20年後、愛川町の人口は約25000人だった。

人口のピークのである1995年には約43000となり

そこから緩やかに人口は減少している。

全国的に日本の人口が減少している今、愛川町の人口減少は仕方ないことに思える。

その減少度数どれだけ緩やかにできるかだ。

人を引き付ける<文化>からの<まちづくり>ができるかどうかである。


愛川町は今年で60周年をむかえる。

次の60年、いや、次の10年を考える上で

もう一度「町制記念日」を考えてみるのもいいのかもしれない。

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