見出し画像

ウェルビーイングとクルマ社会【住んでみた北欧】

日本に帰ってきて通常の生活に戻り、習慣にしていた朝の散歩も再開した。いつものコースは近所の川沿いの土手が中心で、緑豊かなエリア。朝6時台ならまだ涼しく、通勤や通学の人が増える前で、散歩を楽しめる時間帯だ。

がしかし。フィンランドでの散歩を経験してからというもの、ホームでの散歩を心から楽しめない自分がいる。

その理由ははっきりしている。

それは、フィンランドでの歩行者中心の道になれてしまうと、クルマ社会の環境がしんどいからだ。

たとえば道路の横断。渡ろうとすると、横断歩道でなくてもフィンランドでは車は必ず止まってくれる。ほぼ100%だ。車をやり過ごしてから渡ろうと思っているとしっかり止まるので最初は驚いたし、なんだか恐縮して急いで渡ろうとしてしまったのだが、他の人を見ていると、悠然と歩いている。これがルールだからだ。

実は日本でも、交通法規では横断歩道に人がいたら止まらなければならない。しかし残念ながら私の町では止まってくれるのは2〜3割。たいていのドライバーはスピードを緩めず、歩行者は待つものだといわんばかりだ。これは実は前から気になっていたのだが、そうでない世界を知ったあとはストレスになっている。

ドライバーの我が物顔はそれだけではない。土手の狭い道は地元のクルマ通勤者のショートカットになっているらしく、歩行者や自転車がいるのに徐行でなく普通のスピードで走る車もいるのだ。

さらに、道路設計の問題もある。日本の道路はクルマが中心に設計されていて、歩道の幅が狭い。そのため幹線道路の歩道では騒音とともに猛スピードで走る車の排気ガスをもろに浴びながら歩くことになり、「散歩を楽しむ」どころか苦痛さえ感じる。フィンランドだけでなくヨーロッパの多くは車道と歩道の間に自転車専用道路があるので、歩いていても車との距離がとれている場合が多い。なので、クルマに脅かされることなく歩くことを楽しむことができるのだ。さらに、都市部や駅の近くであっても木々が多く、普通の道路を歩きながら鳥の声が聞こえてくる。散歩が楽しめる環境だ。

なぜそうなのか。

北欧の都市設計や制度設計は「人権」の考え方が基本にあると言われている。たとえば、インターネットもそうだ。フィンランドでは公共施設やカフェやレストラン、電車の中など、どんな場所に行っても無料のWi-Fiがつながる。パスワードなどのセキュリティやメールアドレス登録も必要ない。非常に快適なので「これはなぜなのか」と地元の人に聞いたら「フィンランドは誰もがインターネットにつなげる権利が法律で保障されているから」という答えだった。人権というと何か大げさに感じるが、要は国民は快適に生活する権利があり、それが法律で保証されているのである。

滞在していたときの、あのなんともいえない心地よさ。常に機嫌よくいられる。これが「ウェルビーイング」ということなのか、と感じていた。それは、車が自分のために止まってくれる、など小さいことの積み重ねであり、「人として大事にされている」という満足感につながっていたのだと思う。

日本では「人権」という言葉自体、すでに政治的な色がついてしまっていることもあり、意識することはあまりなかった。しかしそれを「人として大事にされる権利」と言い換えると、自分としてしっくりきた。人として大事にされて初めて、人は安心し、満たされる。

大学院のゼミの発表で「日本人の幸福度が低いのはなぜか」という問題提起をしたところ、「不満があるというより不安なのではないか」という意見があった。確かに、人として大事にされなれない環境は、人間としての根本を脅かされ、将来の不安を引き起こすのかもしれない。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?