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ぼっち好きへの福音書『 「居場所がない人」たち 超ソロ社会における幸福のコミュニティ論』を読んで

しばらく「つながらなくてもいい居場所」について考えていた。

すごく自分勝手かもしれないけれど、自宅以外に居場所が欲しいのに、「居場所」という言葉にもれなく付いてくる「コミュニティ」「つながり」は欲しくない。

というのは、誰かにとっては大好きな居場所でも、他の誰かにとっては居心地が悪いかもしれないから。「つながり」は常にポジティブに作用するとは限らない。

たとえば「居場所」の一例としてあげられることも多い、スナックやバー。
一見客に慣れている店なら、通りすがりに立ち寄っても楽しく過ごせるけれど、いつも常連ばかりの店だと、見知らぬ客が足を踏み入れた瞬間に店内にビミョーな空気が流れて、早々に退散する羽目になったりする。

何度も通って自分の居場所化できたとしても、もしかして常連の自分がいることで他の客は入りづらさを感じているかもしれないので、月一くらいにしておこうと計算したり。あるいは他の常連と気まずくなり、店に行きづらくなるかもしれない。

震災時の避難所も、近所の人と一緒に過ごせて安心という人もいれば、知り合いと顔を合わせたくないので敢えて顔見知りのいない遠方の避難所に避難する人もいる。


noteでも執筆されている荒川和久さんの著作『「居場所がない人たち」超ソロ世界における幸福のコミュニティ論』を読んだ。

「所属するコミュニティ」が「居場所」としての安心だとするならば、「接続するコミュニティ」は「出場所」としての刺激である。

P170

米国の社会学者マーク・グラノヴェッターは「弱い紐帯の強さ」を提唱している。常に一緒にいる強い絆の間柄より、いつものメンバーとは違う弱いつながりの人たちの方が、有益で新規性の高い情報や刺激を得られやすいというものである。「弱い紐帯」とは「接続するコミュニティ」そのものである。

P173

荒川さんの考察は
・人口減&超ソロ社会の到来
→所属するコミュニティの崩壊または縮小
→接続するコミュニティへの移行とそのメリット
と、予期される社会変容とそれに備えてのポジティブな対処法を教えてくれる。

私が求めているのは居場所ではなく、まさに「出場所」だ。
所属する場所ではなく、点と線で一期一会的に接続する場所の方だ。

思えば、保育園も学校も好きでなかったけれど、大学は好きだった。

小中学校は、所属するコミュニティ。
決められた学校に決められたクラス。自分の席~という確固たる居場所を与えられ、そこに座ってさえいればいいという安心感はあるけれど、人間関係も固定されてしまうし、クラスガチャ次第で天国にも地獄にもなる。

大学は、どちらかというと接続するコミュニティ。
学部も授業も、お昼を誰とどこで食べるかも、自由に選択できる。同じ学科だからと仲良くする必要もないし、逆にたまたま隣に座った他の学科の誰かと意気投合したりする。ぼっち好きにとっては天国だった。

旅も接続の連続だ。
旅先のその時間その場所でしか目にすることができない風景や、通りすがりに出会った人との会話が、自分の人生の変換点になった経験も確かにある。

思えば子どもの頃の夢は旅人だった。
どこにも所属せず何も所有せず何者でもなく、それでいて心が満たされているような人生に憧れていた。

「つながりたくない」「人間関係はいらない」というネガティブな本音は口にしづらかったけれど、「一期一会的な出会いから自分をアップデートしていたい」と変換してみると、急にポジティブなものになった。

フードコートのソロ老人、学校に行きたくない子、通りすがりの誰かへの自分語り。居場所ではなく出場所を求めている人は結構多いと思う。

それに、プロジェクト型組織やDAO、シェアエコノミー。社会の潮流も接続コミュニティの方向に向かっているようだ。

一期一会は苦手、特定のコミュニティに所属している方が好きという人ももちろんいる。家庭でも学校でも安心感を持てない子には、やはり第三の居場所が必要だと思う。

それでも、著者が示されるように、所属する居場所が否応なく縮小していく以上、生来のぼっち好きにとっては、居心地いい時代が到来するのかもしれない。


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