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月例佳作

静かなる街が新たな日常に感染症の御利益なりや
(しずかなる まちがあらたな にちじょうに かんせんしょうの ごりやくなりや)

静かなる不要不急の美術館ケースの中の顔が微笑む
(しずかなる ふようふきゅうの びじゅつかん けーすのなかの かおがほほえむ)

静かなる街を包んだ見えざる手ゲノムの真意「適者生存」
(しずかなる まちをつつんだ みえざるて げのむのしんい てきしゃせいぞん)

不自由が人の暮らしに問いかけるあるべき姿あるべき心
(ふじゆうが ひとのくらしに といかける あるべきすがた あるべきこころ)

久しぶりに『角川 短歌』で佳作に入った。本日発売の5月号なので、2月に投函した分だ。投稿したのはこの四首だったが、佳作に選ばれたのは四首目の歌だ。選者は外塚喬先生。

通信教育を受けていた時に、世間の一般常識のようなものから外れた歌はいけないと指摘されていた。例えば、一首目の「感染症の御利益」とか、二首目の「不要不急の美術館」はよろしくない表現だ。しかし、自分は歌人ではないし、歌の世界に義理もないので、詠みたいように詠んでいる。投稿はしているが、別に選んでもらおうとも思っていない。ただ、毎月四首ずつ大手と言われる文芸誌に投稿して、もし選ばれるとしたらどのような歌が選ばれるのか、ということに単純に興味がある。

街が静かになったことで困ったことになっている人が多いことは十分想像できるし、それは喜ぶべき状況ではないこともわかる。しかし、人混みが嫌いなので、私は街が静かになって嬉しい。外人の姿が顕著に少なくなってホッとしている。一首目については、正直に気持ちを詠んだだけのことだ。

美術館は、世間で話題になるような企画展でもない限り、総じて空いていて、作品の存在感とそれを含めての空間の静かな佇まいが感じられる空間だ。それが感染症騒動で、中には予約をしないと入館できないところも出てきた。静かな空間はなお一層静かになった。広い展示室に自分ひとりという場面も増えた。本当の美術品というのは、決して「不要不急」の対象ではない。長くなるので書かないが、広島にある「ひろしま美術館」の沿革は是非多くの人に知って欲しい。美術とは、よくあるような浅薄な個人の表現ではなく、人に安心と喜びを与えるものであるはずだと思う。感染症騒動で以前にも増して静かになった空間で、絵画でも工芸品でも書でも、力のある作品の前に立った時、思わず頬が緩んでしまう。展示ケースの中にある作品に描かれたり彫られたりしている人の顔も微笑んでいるように見える。二首目はそういうことを詠んだつもりだ。

以前にリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読んだ。最近、40周年記念版が出たので、改めて購入した。今、読みかけて、そのままになっているが、読み通すつもりでいる。ドーキンスによれば、生物は遺伝子の乗り物に過ぎないというのである。私は生物の専門家ではないが、腑に落ちる話だと思った。感染症あるいは疾病一般がどのようなメカニズムで発生するものなのか知らないが、ヒトがどうこうというよりも、もっと大きな命の流れのようなものが個々の生命体を個別の事情を顧みることなく動かしているのだと思う。「適者生存」という言葉があるが、何にとって「適した」者なのか、もっと色々議論があった方が面白いと思う。

今回、佳作に選ばれた四首目は前の三首の世界を踏まえて個人の感想のようなものを詠んだ。

2月は題詠にも応募した。題は「餅」。投函したのは以下の三首。

年老いて誤嚥の感じ身近なり好きな焼き餅ゆっくり食べる
(としおいて ごえんのかんじ みぢかなり すきなやきもち ゆっくりたべる)

「蛇含草」真に受け探す漢方のウエッブサイト餅を食いつつ
(じゃがんそう まにうけさがす かんぽうの ウエッブサイト もちをくいつつ)

搗き立ての餅を丸めてむらさきをわずかにつけて食べる幸せ
(つきたての もちをまるめて むらさきを わずかにつけて たべるしあわせ)

二首目の「蛇含草」は落語だ。食い過ぎた時に消化を促進する薬でもあれば面白かろう、というだけのこと。近頃、食が細くなった。空腹はおぼえるのだが、いっぺんに食べることができなくなった。そういう時に老いを実感する。でも旨いものは食いたい。家に頂き物のホームベーカリーがあって、それで餅を搗くこともできる。たまに作って、「下総醤油」という美味しい醤油をつけて食べる。心底旨いなぁと思う。


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