月例落選 短歌編 2022年12月号
恒例「月例落選」シリーズ。『角川短歌』12月号への投函は9月12日。
題詠の兼題は「試す」。
試し撃ち隣は何をする人ぞ古き都の花の下にて
試食品つまみ歩いて腹満ちるデパートの地下の秋の夕暮れ
邪心無く想いを写す試作品手を入れる毎我欲に汚れ
7月の奈良の暗殺事件の犯人は4月頃から犯行に使う自作の銃の試し撃ちをしていたという。奈良は好きな土地で、2015年から毎年少なくとも一回は訪れている。犯行現場の大和西大寺駅は近鉄の奈良線、難波線、京都線、橿原線が交わる駅で、乗り換えで利用することが多い。大和西大寺、秋篠寺、平城京跡を訪れる時はこの駅で下車する。秋篠寺へ行くのにバスを利用する場合は、犯人が銃を構えた背後に見えていたバス停からバスに乗る。どこで試し撃ちをしていたのか知らないが、かなり大きな音がしたはずだ。そんな場所があるものだろうかと、東京にいると思うのだが、おそらく今の日本の多くの地域ではそんな場所は容易に見つけることができるのだろう。犯人の心の中のことはわからないが、春の花の下で何事かを思い詰めながら製作試作に精を出していたのだろう。いろいろな意味で哀しい話だ。
以前の職場に、毎日ではないが、昼時に近所の煎餅屋へ出かけて試食品で食事代わりにする人がいた。いわゆる「ケチ」とか「しみったれ」というのとは違うのである。合理的というか見栄がないというか、そこにあるんだから食べればいいじゃない、という彼にとっての自然のようだった。煎餅屋ですらそんな具合だったので、もし百貨店だったら毎日そういうことになっていたのではないかと想像した。最近話題の「格差社会」とか「貧困問題」とは対極の話だ。彼は一時期年収が億単位だったこともある人で、当時も数千万かひょっとしたら億に近かったかもしれない。自分なりの解釈だが、人並みの発想しかできない者は人並みかそれ以下の暮らししかできないが、人並み外れた発想ができる者は、上か下かはともかく、外れた暮らしになるのかもしれない。尤も、金銭に換算できない何かの部分はわからないので、それが即「豊かさ」とは繋がらないのだろうが。
カルチャースクールで陶芸を習い始めて17年目に入った。何かを思いついて作る時、大概は最初に作ったものが一番気に入ったものになる。一つ目を作り、ここはもっとこうしようとか、あそこはこんなふうにした方がいだろうとか、あれこれ考え始めると、できるものがどんどん下品になる気がする。還暦を迎えて自分という人間も、たぶん、相当下品になっているはずだ。
雑詠は以下の4首。
死を悼むふりをしながら策を練る秋の夜長の名月の頃
名月が覗く下界の夢芝居クライマックス弔いの夜
戦う気無いこと示す武具甲冑豪華絢爛蒔絵に螺鈿
駆け込んだ弾みに息が止まりかけ嵐を呼ぶぜ「新人類」
たまたまこれらの歌を詠んだ頃、根津美術館で蒔絵コレクションを観た。展示品の中に武具や甲冑などもあった。死を覚悟して戦に臨むのだから、武士としての自己表現として思いつく限りの贅を凝らしたものを身につけて死地に向かう、という考え方も当然あるだろう。しかし、実際に戦場の最前線に赴くのではなく、後方の安全な場所でふんぞりかえっている立場の人のもの、ということもあるだろう。そうであるなら、なるほど贅の限りを尽くして自陣の者に心の支えのようになる意味もあるだろう。しかし、日頃の治世が酷いものであれば、「オカミは呑気でいいねぇ」と下々のやる気を削いだかもしれない。豪華絢爛な武具というのはそれがどのような状況下でそこにあったのか様々に想像ができる。贅沢の意味を考えることは深くて難しい。
そういえば戦争に負けて戦争犯罪人になった陸軍大臣や総理大臣を務めた人が拳銃自殺を図った話があった。自分で自分を4発撃って悉く急所を外し、結局は戦勝国に裁かれて絞首刑になった。この一事の意味は大変重いと思う。
1985年に大学を出て社会人になった。証券会社に就職して2年目から3年目にかけて債券のトレーディングルームで勤務していた。当時の10年国債の利率は6%台だった。円高不況で政策金利が大きく切り下げられ、市中に大量の流動性が供給され、金利はどんどん下がっていき、それまでの常識では説明できないような水準になった。それでもいわゆる「カネ余り」の状況なので取引は活発で、10年国債指標銘柄の利回りがそれまでの過去最低である2.55%になった。世間ではそういう常識破りの相場を「新人類相場」と呼んだ。その「新人類」世代も、ちょっと走っただけで息が上がるようになった。窓の外では枯れ葉が散っている。ちょっとばかりの風がまるで嵐のように感じられているのだろう。
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