見出し画像

落語

昔から語り継がれる与太噺笑いの中に光る真実

一時期、頻繁に落語を聴きに出かけた時代があった。そんなに若い頃のことではなく、離婚して再婚するまでの間が一番盛んだったかもしれない。といっても、月に2回程度のことだ。今でもネットの動画で暇さえあれば聴いているが、聴くのはもっぱら生では聴けない噺家ばかりで、存命の噺家でネットで聴くのは一人か二人くらいだ。落語会や寄席に足を運ぶ事もコロナに関係なく疎遠になり、今年は2回、しかも片方は妻が聴きたいという落語会に付き合っただけのようなもので、もう片方も落語がメインというよりも、講談と落語と狂言の組み合わせ企画なので「落語会」とは言えない。そうなると、実質的に今年は一度も落語を聴こうと思って出かけていないことになる。落語を聴きに出かけていた頃に登録したチケットサイトから今でも頻繁に様々な案内のメールが届くのが、今はただ煩わしい。

落語は生で聴いてこそ落語なのであって、ネットの動画で聴くのは落語とは呼べない、というのが自分の中での定義である。それで、落語から足が遠のいたきっかけは、思い返せば柳家喜多八という噺家が亡くなったことかもしれない。特別好きな噺家というわけでもなかったのだが、なんとなく形がよくて「落語家」という感じの人だった。ただそれだけだったのに、そこから切符を取ろうと思わなくなってしまったのである。

落語の起源には諸説あるようだが、仏教の説法として寺の境内などで行われていたのは確からしい。そういう事情もあるので、噺のエッセンスとしては修身であったり、物事の道理といったものがちゃんと噺の筋として通っている。ただの馬鹿話ではないのである。自分は倫理とか修身のことを語ることのできるような人間ではないが、社会人になってからずっと金融関係の仕事で生計を立てているので、そういう方面のことに関連して感心するような噺はいくつも挙げることができる。真っ先に浮かぶのは「千両みかん」。物の価値というものと、価値にまつわるありがちな誤解を巧みに語っている。「はてなの茶碗」とか「井戸の茶碗」もいい。この3つの噺をちゃんと聴けば、世の中の経済の仕組みがたちどころにわかる。

それで、なぜ今、落語のことを書いているかというと、例によって去年の手帳を見返していたら、2019年6月に柳家さん喬の独演会を聴いたことが書いてあるからだ。演目は
金原亭乃ゝ香「平林」
柳家小太郎「おすわどん」
柳家さん喬「初天神」
柳家さん喬「猫の災難」
柳家さん喬「天狗裁き」
柳家さん喬「中村仲蔵」
と、4席も口演するとは今から思えば大サービスだ。それでもその手帳には「今日のさん喬は本調子のようには見えなかったが、それでも仕舞いまできっちりまとめてみせた」などと偉そうなことを書いている。

やっぱりちゃんと芸事を鑑賞できる人間にならないとダメだ。もう手遅れかな。手遅れなら生きていてもしょうがないな。

読んでいただくことが何よりのサポートです。よろしくお願いいたします。