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網野善彦 『職人歌合』 平凡社ライブラリー

「職人」という言葉に何を想うだろう。私は堕落した賃労働者なので、自分の腕で暮らしを立てる気概を持つ「職人」には憧憬の念を抱いてしまう。今の時代は「職人」で食っていくなど至難のことだろう。

食っていくには世間の経済原理や市場原理に付き合わないといけない。自分が拵えるものや提供する用役の「品質」は何がしかの尺度とデータでデジタル表示が可能なものでなければならず、それに対して別の尺度による「価格」というこれまたデジタル表示のものによって「市場」から評価されて、売れたり売れなかったりする。「価格」が「品質」を生み出す「費用」を上回っていないと実入がなく食い扶持にならない。「費用」を抑えるには固定費を小さくするのが基本だが、そのためにはまずそれ相応の資本を投じて作業効率を高める(固定費を下げる)道具や設備が必要になる。そうなると資本力に乏しい「職人」という個人の技や存在は必然的に駆逐されがちになる。そういう世間の仕組みに敢えて背を向ける気概のある人たちのなかで、幸運にも一定の市場的評価を獲得した人たちがが「職人」としてそれぞれの世界を拵えて生きている。というのが今のところの私の理解だ。

「職人歌合」は中世に成立したらしいが、成立当初は「職人」とは呼ばれていなかったとのこと。それが「職人歌合」と通称されるようになったのは中世後期から江戸にかけてだろうというのが網野の見解だ。現代の「職人」はかなり限定された領域の技能者を指すことが多いが、「職人歌合」の「職人」はかなり広範に亘る。産業革命以前は工場で大規模に生産する工業製品は存在しなかったので、身の回りのことを器用に拵えたり整えたりする特殊な技能の使い手が広範な領域に亘って存在していたからだ。

とはいえ、或る社会なり経済なりの単位が養うことのできる人口は基本的にその経済の生産力に依存する。農林水産業と手工業の時代であれば、その農業や漁業の生産高の範囲内でしか人口を維持できない。必要なものは物々交換や金を出して他所から買ってくる、というのは余剰生産物があり、交換する相手との間に互いに価値を認識する共通基盤が存在しなければならない。しかも、現実には統治権力に納める租税の類もあるので、食糧生産以外の産業に専業従事者を許容できるのは社会として並大抵なことではなかったはずだ。だから特殊技能だけで生計を立てる「職人」というものが成立するのはそれだけ社会全体の生産性に相応の余裕が生じたということでもある。余裕といっても、天変地異や自然環境の揺らぎもあるので、生産活動従事者が全く不安なく生活できるほどではなかったであろうから、「職人」専業として生きるには余程高度な技能や、高度と思わせるような技がないと難しかったであろう。

「職人歌合」に登場する「職人」は、現代の我々でも容易に想像できる番匠(大工)や医師、鋳物師といったものから、そんなのも「職人」と認識されていたかと思わせる神主・僧侶、遊女、博打、盗人、私曲のようなものまである。そこでの「職」とは常民が持たない特殊技能を指すらしい。社会の中で「職人」がどのように位置付けられていたかということは、たぶんその社会の在りようや人間というものをどのようなものと見ていたかを雄弁に語るのだろう。江戸時代には「士農工商」という身分制が確立されたということになっているが、それが本当のところはどうだったのか、私は知らない。しかし、人間の自他の認識がそう簡単に変わるとも思えないので、実は、今とそれほど違わなかったのではないかと睨んでいる。

以下、本書から気になったところを備忘録として並べておく。

 最近、櫛木謙周さんが『富山大学人文学部紀要』十五号に「技術官人論」という論文を発表しておられますが、この論文のなかで櫛木さんは、古代の日本と中国の手工業労働力、つまり工人、工匠の編成の仕方を比較して、日本の律令国家の工人の編成の特質を明らかにしています。
 櫛木さんによると、日本の社会では江戸時代になってようやく言葉として定着した「士農工商」という四民分業が、中国では非常に早く、春秋戦国時代にはすでに成立し、この言葉もそのころから使われていました。「士」は日本の場合は武士ですが、中国の場合には士大夫といわれていたように、官僚としての地位がはっきりしています。そうした官人と農工商とが身分的にはっきり区分されている状況が、日本の律令国家ができるよりもはるかに前から、中国大陸の国家にはあらわれていたのです。
 これに対して、日本の場合、中国の隋・唐帝国の文明的な律令を受容したのですが、当時の日本列島の社会は、まだ社会的な分業が未成熟で、士農工商のような四民分業を受け入れるだけの条件はとうていありませんでした。ですから、手工業者をはじめとする職能民の組織についても、唐の律令制と日本の律令制とを比較してみると、大きなちがいが現れざるをえなかったのはとうぜんだと思います。

41-42頁

このように職能民が官司に組織される体制ができたことが、その後の日本列島の職能民のありかたを、強く規制することになったのではないかと私は思います。しかも重要なことは、手工業者だけではなくて、海民、山民、さらに女性を含む狭義の芸能民についても同じことがいえるという点です。例えば女性だけで構成されている後宮の官司には、女性の職能民が編成されており、これはやはり、日本の職能民の問題を考える場合の重要な点になると思います。
 いずれにしても、職能民と一般官人、とくに天皇直属の内廷の官司と多様な職能民とは、律令制の最初から切り離しがたい関係にあったといえます。(略)
 このように天皇・貴族と職能民とが意外に近接した関係にあったことを、まず古代の律令国家の段階で確認しておく必要があると思います。

43-45頁

 つぎに第四のグループとして勢力のある人——勢人、徳のある人、富裕な人——徳人、良吏、志癡しち——これは私も意味がよくわからないのですが、馬鹿を装うということなのかもしれません——、さらに窃盗、私曲など、常人と異なる状況にある人、ふつうの人と異なる行為をする人までが一能としてあげられています。
 この第四のグループのような芸能のとらえ方、つまり盗みを一種の芸能と見たり、賄賂をとって不正をする私曲を芸能と考える、また徳人、勢人のように金持になったり、勢力を持つことも一種の芸能とする見方。これは一見、きわめておかしいと思われますが、意外に日本の社会には深い根をもっているとらえ方のように思われます。たとえば、「偸盗ちゅうとう」は『今昔物語集』『古今著聞集』など説話集の一つの編目に上げられて、有名な盗人にかかわる説話がいくつも集められ、まとめられています。江戸時代、スリもやはり芸能の一つで、スリや窃盗にかかわる「職人」をいう隠語があったようですし、「義賊鼠小僧次郎吉」などがもてはやされるのも、そういう空気が背景にあるからだと思います。私曲を能と考える空気も決してなくなっていない。リクルート事件やロッキード事件などのような賄賂を取るのも一つの能であるという考えかたが、日本の社会にまったくないとはいえないのではないでしょうか。こうした事件に対する甘さは、そこからくるようにも思われます。逆に、徳があるという「有徳」という言葉は、「富裕な人」を意味するようになっていくのですが、富を得ることが、伝説や説話と結びついて語られるのも、こういう富に対する見方と関係あるでしょう。私曲、窃盗を犯罪と見るか、あるは芸能と見るか。この見方のちがいは、たんに日本の社会だけではなく、おそらく人間社会の深部につながる重要な問題だと私は思うので、平安時代、広義の「芸能」の中にこれらがあらわれてくるということは、「職人」の問題を考える場合にも注意しておく必要があると思います。

53-55頁

 脱線ついでにもう一つ申しあげますと、中世前期には、これまで述べてきましたように、交易にせよ金融にせよ、神仏とのかかわりでとらえられており、それが前提になって行われていたと思うのですが、中世後期になると、それまでの神仏とは異なる、鎌倉仏教の一神教的な宗派が力を得てきます。そのときにこうした商行為、金融業と神仏との関係はどう変化したのか、これも考えてみなければならない重大なテーマです。鎌倉仏教でも祠堂銭というような仏物の貸付のかたちで金融を行なっていますが、そればかりでなく、どうも鎌倉仏教の諸宗派は、田畠よりも勧進や金融をむしろ寺の経営の中軸においているように思われます。ですから、工人や商人、あるいは金融についての評価が、中世前期とはちがった意味で宗教的裏付けをもってなされる可能性も大いにあるので、鎌倉仏教は、都市的な性格を強く持った宗教だと思うのです。
 ところがそれらの宗派が、一向一揆や法華一揆などのような大きな社会的勢力となりながら、結局世俗権力に完全に弾圧されてしまうわけで、その結果、全体として商工業者が、社会的には低い地位にランク付けされ、高利貸や金融業者は、どちらかというとマイナスイメージでとらえられるようになってくるのではないか、そういう見通しで考えるといろいろなことがわかってくるのではないかと思います。

101-102頁

 穢れについてはいろいろな議論があり、確定的な結論はないと思いますが、だいたい穢れは、人間の社会と自然との関係の均衡が崩れる事態に関わりがあると考えられています。(略)
 ところが、それまで人の力を超えたものと考えられてきた自然に対して、人間自身の力が強く及ぶようになる。端的にいえば文明化が進むにつれて、ほぼ十四世紀を境に穢れに対する畏怖の感覚が弱くなり、どちらかというと汚穢という感覚がしだいに強くなっていきます。そのことが穢れにかかわりがあるとみられていた職能民の立場を大きく変えることになっていったのではないかと考えてみたいのです。

145-146頁

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