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不可逆性

罅が入る溝は広がり乾いてく入った溝は二度と埋まらず
(ひびがいる みぞはひろがり かわいてく はいったみぞは にどとうまらず)

陶芸で練り込みという技法がある。異なる土を合わせて使うことだ。見出し画像は一見するとただの黒い小さな角皿だが、赤土と白土の練り込みで作った。釉薬のかかっていない裏面は市松模様になっている。

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陶芸作家の中には「練り込み作家」と呼ばれるくらいこの技法に習熟している人もいる。この技法の難しいところは、種類の異なる土を合わせて使うところにある。土が違うということは成分や水分量が違うということなので、土の状態の時は様々に工夫して様々な意匠を拵えることができる。それは土遊びの領域だ。しかし、成形して乾燥させると、特に土の境目に罅が入る。もちろん、そんなことは予見可能なので罅が入らない工夫を施す。それでも違う土を合わせているのだから、絶対に大丈夫、とはならない。無事に乾燥が進んで、素焼きをすると、乾燥の時には大丈夫だったものにも罅が生じることがある。罅が入ればそこでお釈迦。素焼きも無事にできて、釉薬を掛けたり絵付けをしたりというような加工を施して本焼きをする。すると、そこで罅が入るものがある。それは作品としてどうなのか。一概には言えないが、罅も含めて作品として見るのか、実用道具に罅が入っていちゃ駄目だろうと見るか、物それぞれ人それぞれだと思う。

昨年11月、所用で大阪に出かけたときに万博公園の中にある日本民芸館を訪れた。武内晴二郎の大皿が何枚も並んでいて、その中に練り込みの皿もあった。罅が縦横無尽に入り、それぞれのピースが波を打っているようだった。ふと、罅は問題じゃないんだ、と思った。作品に力があれば、罅は屁みたいなものだ。力のない作品の罅は無様なだけだ。こんなふうに。

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違うものを一緒にしたときに、うまく一つにまとまることもあれば、そうならないこともある。物事が進行する中で生じてしまった溝は、埋め合わせることができる場合もあるのだろうが、広がり続けて元には戻らないのが物理の自然だ。溝面も含めてそれぞれに変化を続けるのだから。出来てしまった罅や溝は埋まらない。埋まったように取り繕うことはいくらでもできるが、それは「埋まった」のではなく、「埋まったように見える」だけのことだ。見た目が同じでも内実は全く違う。

前にもどこかに書いたが、残りもそう長くない人生なので、なるべく取り繕うことなく生きていきたい。歳をとると取り繕いが上手くなる。陶芸も長くやっていると作品のほうはある程度のところで壁に当たるのだが、その間にも「あっ」と思ったところからのリカバリーが上手になる。写真の皿も、溝を埋める手がなかったわけではないのだが、先生には「このまま行きます」と宣言して本焼きまで終わらせた。技法上、この時の皿は一度に20枚くらい出来て、もちろん色々に手を施したので、本焼きを終えて罅がある方が少ない。肝心なのは罅ができないように工夫を重ねることと、罅の兆しを見逃さないことなのかもしれない。しかし、そもそも違うものを合わせるのだから、工夫がなければ上手くいかなくて当たり前ということを認識していることだと思う。

ものを作ることは生きることに通じる。今は、身の回りの家事すらもしない人が多くなっているらしい。手足を動かす実感を知らないままに生きていくことなどできるものなのだろうか。

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