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たまに短歌 和歌山県太地町

旅行に出たときは、旅先から自分宛に毎日葉書に歌を詠んで投函することにしている。ほんとうはその土地の絵葉書にさらさらと書き記すことができるとサマになるのだが、なかなかそうはいかない。近頃は観光地でも絵葉書を見かけることが少なくなった。小洒落た絵柄の葉書はたまにあるが、昔ながらの「これをいったい誰に送れと?」というやつがほぼ絶滅してしまった。仕方がないので、使い残りの年賀状を持ち歩いている。今回の旅行でも適当な絵葉書に出会わなかったので、三枚の古い年賀状を消費することになった。

今回は熊野三山に参詣した。例年は今頃の時期に奈良に出かけるのだが、その口実となっている興福寺の塔影能が五重塔の補修工事のために中止となったこともあり、山道や石段の多い寺社仏閣に参詣できる体力気力があるうちに熊野に行ってみたいとの思いもあり、今年は熊野になった。

宿は紀伊勝浦に取ったが、旅行の数日前になって部屋を用意することができなくなったとの電話を受けた。先方が提示した代替案は太地の宿で、特に拒む理由もなかったので、太地に三泊した。宿から紀伊勝浦駅までは送迎バスがあり、それほど行動上の不自由もなかった。

ただ、太地と言えば捕鯨、というイメージは宿の代替案の話を電話でしているときには思い浮かばなかった。出かけてみて、そういえば、と気がついた。日本の古式捕鯨については、2012年7月に国立民族学博物館友の会の体験学習会で高知の室戸に出かけて勉強したことがある。室戸で捕鯨を始めた契機になったのが、秀吉の朝鮮出兵だったそうだ。秀吉は朝鮮からの反撃を恐れ、西国の大名に海軍の整備を命じたという。命じたものの、その資金的な手当てについては一切触れておらず、土佐では鯨を敵船に見立て軍事訓練として捕鯨を始めた。鯨は食料資源としてはもちろんのこと、油脂、骨、髭、その他、余すところなく利用可能で、捕鯨は経済活動でもあり、捕鯨により軍事力強化と生活資源確保を両立することができた。捕鯨開始に際しては、当時すでに捕鯨が産業として成立していた紀州に指導を請うたのだそうだ。つまり、紀州の捕鯨はそれくらい有名であった。

時代は下って現在、和歌山県では太地を拠点として基地式捕鯨業とイルカ漁が行われている。基地式捕鯨業の操業海域は紀伊半島東側の沖合で、主にオキゴンドウを対象に捕鯨が行われている。オキゴンドウの今年の捕獲枠は日本全体で20頭だが、昨年は20頭の捕獲枠に対し捕獲実績は0頭だった。イルカ漁も太地を水揚地とする追込網漁(令和5年漁期捕獲枠:1,824頭)と県全体を水揚地とする突棒漁(357頭)が行われている。詳しくは水産庁の資料を参照されたい。かつての捕鯨と比べれば、世界的な資源管理強化の潮流もあり、捕鯨業と呼ぶことのできるほどの操業規模ではない。

捕鯨船おかに上がりてなおさらに
鯨と生きた日々を思ほゆ

鯨屋の隣の席の若者は
鯨の味が珍しらしく

野蛮人他人は全て野蛮人
牛豚くらい気焔を上げて

私が小学校3年生までは、学校給食に使われる肉は鯨肉が多かった。それが4年生になると鯨肉に代わって鶏肉が給食の肉の主流となった。実際に鯨種毎に捕獲禁止が始まるのは1975年からだが、それに先立って国連人間環境会議で商業捕鯨モラトリアムが採択されたのが1972年だ。おそらく、この時点で日本の捕鯨は将来的な禁止を予見した抑制的な動きに入ったのだろう。捕鯨の制限はともかく、私世代は鯨肉はかなり身近なものであったはずだ。

太地に着いた初日、駅から宿へ向かう車窓から鯨肉専門店の看板を出している店が見えた。ちょうど昼時だったので、宿に荷物を預けてその店を訪れた。若い男女が先客で、鯨の味をあれこれ語り合いながら食事をしていた。それを聞きながら、今の人たちにとっては鯨肉が珍味であることに気づいて世代の違いを実感してしまった。

鯨肉が特別美味いとは思わないし、鯨なしでも生活に支障はないのだが、感情的な理由での反捕鯨論を見聞きすると心穏やかではいられない。突き詰めると命の格付けのような話になるのだが、生きることは綺麗事ではないと思う。

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