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沢庵万歳

沢庵の旨さ身に染む暮れ泥み
(たくあんの うまさみにしむ くれなずみ)

季語は沢庵、冬。「暮れ泥む」は「日が暮れそうで、なかなか暮れないでいる」こと。「泥み」は「泥む」の名詞形。

野菜が嫌いだ。かといって肉や魚が特に好きなわけでもない。子供の頃は偏食で、給食の時間は苦痛だった。今は何でも頂く。偏食が解消に向かい始めたのは、中高生の頃だ。いわゆる育ち盛りで始終空腹を覚えていたから、口に入るもののハードルが一気に下がった。大学生になって家庭教師のアルバイトをするようになると、その家で食事を頂くことがある。出されたものは残してはいけないと思うので、何でもありがたく頂いた。或る時、その食卓に金平牛蒡が並んだ。少し緊張したが、食べてみたら美味しかった。ふと、思った。そうか、うちの母は料理が下手なのだ。

社会人になって接待というものをしたりされたりするようになる。好きの嫌いのと言っている場合ではなくなる。そうして偏食は完全に解消した。それでも依然として積極的には手を出さないものもある。そのひとつが漬物だ。

先日、沢庵を商う人のnoteに出くわした。表現は不器用だけれど、自分が商う商品への深い愛情と自信を感じた。沢庵は好きではないが、その人が商う沢庵を食べたいと思って注文した。単価が安いものなので、送料がもったいない気がして一本だけというわけにもいかず、違う種類のものを一本ずつ3本選んだ。我が家は老夫婦だけの世帯なので、少しずつ頂いて、昨日漸く3本目を開けた。どれも美味しい。

ふと「質屋蔵」という落語を思い出した。或る質屋の蔵におかしなものが出没するという噂が立つ。質屋の主人が番頭にその正体を突き止めるよう言いつける。番頭は出入りの手伝いてったいの熊五郎を助太刀につけて欲しいと懇願、丁稚に熊五郎を呼びに遣わす。熊五郎は自分が何かしくじって小言をくらうのではないかと、心当たりをあれこれ考えながらやって来る。その心当たりが一つや二つではなく、次々と思い浮かぶ。その中で、沢庵漬を一樽丸ごと勝手に持って帰ってしまったことにも思い至る。母家で食べているタクアンは自分が普段食べているものと違って高級品で味が全然違うと言うのである。たかが漬物されど漬物。暮らしの細かいところが生活全体の印象を大きく左右することもある。「あの味が忘れられなくて」と言う熊五郎の台詞には共感できる。この噺の本題とはあまり関係ないところなのだが、大きな商家での暮らしと、そこに出入りする下々の暮らしとの対比を漬物で巧みに表現している。

さて、私のほうは、人生がいよいよ最終コーナーに入ったというのに、暮らし向きが一向に落ち着かない。情けない限りだが、焦ってどうこうなるものでもない。旨い沢庵漬でも頂きながらぼちぼちと今できることを片付けていくより他にどうしようもない。

ちなみに、今回いただいたのは、「渥美一丁漬」「赤だしみそ漬」「大人のぬか漬」の3種類。味付けだけでなく、水分の抜き方、漬け方、その他諸々違うらしい。

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