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季刊 民族学 176 2021年4月 特集: 隣りのアフリカ人 グローバル世界を生きる人びと

特集の「アフリカ人」という表現に違和感を覚えるが、そう表現するより仕方がないとも思う。アフリカは「アフリカ」と一括りするよりどうしようもない、よくわからない世界だ。アフリカは大陸だ。広い。そして人類発祥の地(下図:Human migration)。人類史という点では世界のどこよりも古い土地だ。しかし、とらえどころががない。とらえどころがないのは私自身の知的能力の限界も勿論あるだろうが、自分が日本という世界に類を見ない長い歴史のある文化の中で生まれ育った所為もあろう。今年3月28日に『季刊 民族学 174号』のところにも書いたが、人間の世界拡散が始まって以来、同じ地域に同じ集団がずっと住んでいたことはないということが最近のDNA解析で明らかになっている。人間の歴史のなかでは、日本は人間拡散の流れの澱みのような位置だ。澱むから「日本」という長い文化の歴史が築かれた。

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出所:Wikipedia - ABCEdit - 投稿者自身による作品 based on the following reference;崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年)

日本に日本人として生まれて暮らしていると、個人の実感としては誰もがそれぞれの土地で先祖代々暮らしてきたと思いがちだが、現実には国境は常に変化をしているし、直近数百年で見ればアフリカには欧州列強の植民地にならなかったところがない。いかにも便宜的に決めましたと言わんばかりの現在のアフリカの国境線は何を語っているのか。その便宜的に決められたかのような国境線で区切られた中で安心安全な暮らしというものが成り立つものなのか。そもそも「国」という括りは人間の社会において普遍的たりうるのか。例えば「日本人」という人間がいて、その人たちが「国」を作るから「日本」という「国」になるのか。「日本」という「国」を作ることになったので、そこに属する人間を「日本人」とすることになったのか。人が先か、国が先か。人が先なら「日本人」とか「アフリカ人」とは何者か。国が先なら「アフリカ人」はヘンだろう。

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特集のタイトルだけでいろいろな疑問が湧いてくる。それほどに人間の在りようは多様で、そこに正解はないはずなのである。現在、世界の至るところに「移民」問題というものがある。「ナントカ人」の「国」にそのナントカ人ではない人がやって来て、そのナントカ国で「国民」として暮らしたいという。しかし、それは容易に認められなかったりする。「人間の世界拡散が始まって以来、同じ地域に同じ集団がずっと住んでいたことはない」のに。

調べてみたことはないのだが、たぶん、世界には「国」と「国民」の定義があって、それに従ってそれぞれの「国」がその自国民であることの証明ができるようになっているのだろう。しかし、それは手続きのことであって、暮らしがどのように成り立つかという問題とは違う。ナントカ人の暮らしがナントカ国のなかで完結するわけではなく、むしろ国外に依存している場合もあるだろう。一方で、ナントカ国に多大な貢献をして生活しているにもかかわらず、ナントカ人とは認められない人もいるかもしれない。「国民」とは何者なのだろう?

結局、移民の問題は、社会集団の主流とそれ以外の人々との共存をどのように実現するかという問題なのだと思う。それは移民だけのことではなく、それぞれの社会での「人」のイメージのようなものがあって、そこに収まらない人とどのように付き合うかという問題全般に敷衍できることだと思う。つまり、いわゆる「差別」の解消という課題であり、移民も移民以外の民族や人種も、ジェンダーも、各種障害も、その他諸々の社会的なタグの全てに共通したことだろう。自他の意識、自他の「区別」と「差別」の違い、といったことまで突き詰めて考えないといけないと思う。そしてそれは人間にとってのパンドラの箱のようなものかもしれない。

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