たまに短歌 熊野本宮、速玉、神倉神社
紀州3日目は、予約しておいたレンタカーを借り出して熊野本宮大社と熊野速玉大社にお参りする。前日に気になっていた駅舎をじっくりと眺めるためJR那智駅に寄り、そこの駐車場でカーナビにこの日の目的地の設定をした。このため、そこから下道で本宮、続いて速玉大社をお参りし、復路は新宮ICから那智勝浦ICまで高速道路を使って紀伊勝浦駅という経路になった。高速は無料だが路面がけっこう荒れている。この日の走行距離は約100km。年に数えるほどしか車の運転をしないので、そろそろ免許を返納しようかとも思うのだが、乗る度に車の進化が著しく、身体能力が衰退しているはずなのに運転が楽になるので、まだ大丈夫かなと思ってしまい、なかなか踏ん切りがつかない。
本宮までは熊野川沿いの道路を往くが、川の流れのように曲がりくねっていたり、たまにトンネルに入ったりしながら、制限速度を守って走行する。交通量が少ないので、急ぐ車は極端に急いで走り去っていく。人は生まれ、必ず死ぬ。誰もがその道程を生きている。急いでも急がなくても行先は決まっている。近道をしたからといって何か特別良いことがあるだろうか。ささやかな良いことはあるかも知れないが。
山道を急いて往くほど用は無く
急いて往く人行方知れずに
本宮の鳥居を過ぎると長い石段がある。158段あり、途中に祓戸大神という小さなお宮があって、本宮参拝前にお参りするようにとの注意書きが出ている。階段を登ることに気を取られていると見逃してしまう。158段は難儀といえば難儀だが、それほどでもないといえばそれほどでもない微妙な高さだ。かつて本宮が熊野川の中洲に立地し、水害での流出と再建を繰り返した歴史を思えば、高台に立地を図るのは、自然なことだ。また、神と俗人の世界を上下で分つ発想もあったであろう。158という数字に意味があるのかどうか知らないが、実感としてはちょうど良い。つまり、世俗感から大鳥居と石段を経て聖域に入るような感覚になるのにちょうど良い塩梅だということだ。
山中の社の神の静けさと
下界亡者を分つ石段
本宮から新宮へ熊野川沿いの道を下り、市街に入ってすぐに熊野速玉大社に着く。立地としては市街地にある速玉が山の中にある那智大社や本宮大社よりも格段に利便性が高い。しかし、境内の賑わいは最も乏しい。いや、最も静粛な境内を誇っている。実は、速玉の肝は速玉から900mほど離れた岩山の上にある神倉神社の方だと私は感じてしまった。現在は形式上、速玉大社の摂社となっているが、神倉神社は、熊野大神が熊野三山として祀られる以前に一番最初に降臨した聖地、とされている。天ノ磐盾という崖の上にあり、ゴトビキ岩と呼ばれる巨岩を御神体としている(見出し写真)。「ゴトビキ」とはこちらの言葉でヒキガエルのことだそうだ。崖の麓の鳥居と神社拝殿との間は、源頼朝が寄進したと伝えられる鎌倉積み石段538段で結ばれている。速玉大社は別名「新宮」とも呼ばれるが、神倉神社に対する新宮ということらしい。150数段の石段では煩悩は落ちないが、流石に538段(実際には綺麗に積まれているわけではないので数え方で前後する)を登り下りすると、一瞬のことではあるが、無心になる。単に気が遠くなっただけかもしれないが。
神座す社詣でる石段を
こつこつ登り煩悩去りて
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