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歌に相手

万葉集講座では必ず感心するすることがあって、毎回楽しみだった。この講座を受講して初めて知ったことはたくさんあるのだが、特に印象に残っているのは歌は詠み合うものだということだ。言われてみれば当然なのだが、三十一文字で何事かを表現しようと思えば、言わなくてもわかるだろうというようなことは言わないで済まさないといけない。つまり、歌というのは会話であり、相手との間に共通の経験や認識、価値観、その他諸々があるからこそ、三十一文字で済むのである。

そういうことを念頭に置いて、様々な歌集に残る歌を読むと、自然と歌の裏側にあれこれ想像を巡らすようになる。そういうことが歌を読む楽しみになり、また、自分が歌を詠む時に意識することにもなる。尤も、歌の字面だけを読んでも「で?」となるようなものが殆どだ。例えば、昔、茶道の稽古を受けた時、侘び寂というのは

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ

という歌の世界だ、と教えられた。「は?」と思う。おそらく茶道というものを本当に自分のなかに収めている人の世界観では、この歌に「そうそう」と思えるのだろう。

ちなみにこの歌は新古今和歌集の秋歌に収められている藤原定家の歌で、「西行法師すすめて、百首よませ侍りけるに」と詠んだもので、この歌の前に西行法師の

心なき身にもあはれは知られけりしぎたつ澤の秋の夕ぐれ

がある。この二首が二人の間で詠み交わされたものなのか、新古今の編者がうまいことくっつけたのかは知らない。しかし、並べてみれば、それらしい雰囲気が漂う。

つまり、そういうことなのである。歌はそれだけではサマになららない。実際に個別具体的な誰かと詠み合うのか、誰かを想って詠むのかはともかくとして、「誰か」は生々しい存在として詠む人のなかにしっかりと存在していなくては歌にならないのである。もっと言えば、歌を詠むには、歌を詠むことができるような生活がなくてはいけないのである。

そういう思いに達して、なるほど、と感心はしたものの、自分のような凡夫にはなかなか容易ではないことだ。哀しい。

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