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作風変異

温め酒感染騒ぎ宵の口
(ぬくめざけ かんせんさわぎ よいのくち)

季語は温め酒、秋。陰暦九月九日の重陽の日から酒を温めて飲むと病気にならないと言われたらしい。今年の陰暦九月九日は10月14日なのでまだ先だ。例の感染症が収束する気配を見せないが、本当の問題は病気そのものではなく、その扱いの方だろう。病気そのものがなくなることはないので、我々が問われているのはそれをどのように扱うかということだ。そういう意味で今回の感染騒ぎはまだ宵の口とも言える。「扱い」の中身については私如きがここに書いたところでどうなることでもない。温め酒でもいただきながら、自分でできることを淡々として生活するだけのことだ。

陶芸は手捏ねで作っていると一つの作品ができるまでに長い時間がかかる。轆轤を使うのようになると生産性はあがる。陶芸を始めた頃は一つ一つ手捏ねで作るから完成した作品は容易に増えない。轆轤を使うようになるとそうはいかない。便宜上「作品」と表記しているが、要するにガラクタが増えるのである。ほんとにマズイものは廃棄するのだが、つくる時にはそれなりの想いもあるので捨てることができず、かといって作ったものを全て自分の生活の中で使うわけにもいかず、狭い家のかなりの場所を割いて在庫する。年に一回作品展を開いて在庫を減らすことで、かろうじて粗末な家の「健康で文化的な生活」が維持できる。ところが例の感染症で2年連続で作品展が流れてしまった。在庫が膨らんでたいへんなことになっている。

かといって生産を止めるわけにはいかないのである。心身の健康維持のためには貴重な道楽だ。そこで、つくる時に今まであまりやらなかった技法を試したり、手数を増やしたりして生産性を調整することにした。先日書いた練り込みもその一つだ。

陶芸を習い始めた頃に一通り技法を教えていただいたが、その中に絵付けがある。手近なところでは普段使いの道具にちょっとした絵柄をあしらったもの、大掛かりなものでは柿右衛門とか九谷焼のようなものだ。私が作るものは生活道具である。絵心があって、何か絵柄を自分が作るものに付け足すことで、それがサマになれば良いのだが、自分が作るものがそうなるとは思えない。絵心がないからだ。自分でどうこうするよりも、焼成のときにできる焼きムラや釉薬の勝手な動きのほうが余程面白いと思うのである。せっかく面白いものができるのだから、その邪魔をすることもあるまい。

しかし、二部屋とLDKしかない団地の家屋で、押し入れからはみ出した陶器入りの段ボール箱が一つまた一つと部屋を侵略し始めた。これを看過するわけにはいかない。ダメだと思っていたものが、そう悪いものでもないかもしれない、という身勝手な希望的観測を持ち出して、絵付けをしてみることにした。

陶磁器の絵付けには下絵と上絵がある。上絵の方は、それこそ九谷焼とか柿右衛門のような繊細で華やかな絵を一旦本焼きをした地に描くもので、絵心がないとどうにもならない。上絵は描いた後に改めて焼き直す工程が加わる。下絵は生活雑器によくあるような、素朴で単純な絵とか模様を素焼きの肌に描いて、施釉をして焼いたものだ。私は陶芸を習い始めて一通りの技巧を学ぶ中で上絵を一度だけやったことがあるだけだが、下絵の方は何度か経験がある。今回も下絵だけだ。

見出し画像は、今回焼き上がってきたもの。引き続き徳利のつもり。白土で挽いて素焼きをした地に弁柄で模様を描き透明釉薬を掛け、霧吹きで飴釉を吹きつけ、酸化焼成をした。飴釉が下地の透明釉に溶け込んでしまって、吹き付けたことがわからなくなってしまっている。これなら吹き付けは不要だった。しかし、そういうことも学びになる。

昨日も徳利に施釉をしたのだが、今度は弁柄ではなく、呉須で下絵を付けて白マット釉をかけた。今回は6本あるので、3本づつ酸化焼成と還元焼成をする。焼き上がりはいつになるだろうか。

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