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ガラパゴス島津

こんにちは、よんごひんごです。

隈元さんの地域分布を見た時に、その名前のルーツが『隈元門』にあるとかいてありました。
今回は、ちょっと寄り道して『門割制度』など、島津家の領国統治について、ざっくりと説明したいと思います。

天下分け目の大戦『関ヶ原の戦い』で、奇しくも西軍に与する形になってしまった島津さん。
西軍の敗色が濃厚になる中、東軍の中央を突破してダイナミックな帰宅を果たします。
帰宅後は、徳川に対し臨戦体制を維持しつつ、領土の安堵を画策します。

そのためなのか、諸国が約6%という武士率だったのに対し、島津さんちの武士率は約26%という高武士率。実に4人に一人が武士ですが、臨戦体制を解くと徳川さんがやってくるかも・・・という不安が残ります。
この異常な状態を解決する手段として、『自給自足の駐屯兵団』システムで対応することになります。
システム名は『外城制度』

麓の配置

『麓』と呼ばれる武家集団の集まる町を島津領地内に配置します。その数100余り自給自足の駐屯兵というとかっこいいですが、実際には『半士半農』です。まぁ、中世武士の形態そのままですね。
結果、他藩では武士のサラリーマン化が進む中、島津領内では江戸期を通して中世的様相が色濃く残ることになります。まさにガラパゴス。

さて、武士の中には島津さんのお膝元(今の鹿児島市)に住居する城下士もいます。彼らは所領を持ってますが、自分では田畑は耕しません。
反して麓の武士は半士半農・・・ 鬱憤が出てきそうですが、実はその真逆。麓の武士団は、自分たちが麓衆であることを誇りに持っていました。

なぜか?

まず、『麓』 とは 『附本』のことであり『島津家直下の武士団』と理解していた様なのです。
そのため、自分たちのことを、君主(島津さん)から武士(戦闘集団)としての本分を任された集団と考えていた節があり、「城下士何するものぞ」という麓衆もいた様です。

さて、麓ですがプチ城下町として発展していきます。もともと軍事ネットワークとして整備されたことから、兵站ライン上にあるわけなので、物流拠点でもあるわけです。
そして、麓にはだいたい裏山があります。これらの裏山は、山城として転用(正確には「復帰」かな?)可能。城下町である麓も、ちょっとした要塞なので、本気の臨戦体制が江戸期を通して維持されていました。

この外城制度と組み合わされたのが、『門割(かどわり)制度』になります。
外城制度が戦闘力の維持システムだとすると、門割精度は兵站(モノ・ヒト)の維持システムです。
麓周辺の村々は与えられた田畑を耕し収穫物を納税したり、役務についたりするわけですが、その管理単位が『門(かど)』であり、4〜5家で構成されていました。
門が集まって「方限(ほうぎり)』というグループを形成し、『方限』が集まったものが『村』になります。

麓 > 村 >  方限 >  門 >  家

という構造で、領内の人民と年貢の管理を行っていました。
さて、耕作物の税率はどれくらいだったのでしょうか?

諸藩は『四公六民』(40%)とか『五公五民』(50%)だったところ、島津さんところでは『八公二民』だったと言われます。
とってもブラックな香りがしますね・・・

さて、今回は島津さんの領地統治の2本柱についての、ざっくりとした説明でしたが、次回からは本来の目的「ルーツ探し』に戻ろうと思います。

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