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辛島氏についてもう少し調べてみる 〜妄想列車途中下車その1〜

こんにちは、よんごひんご⭐︎くまです。

8世紀初頭日向国から別れる形で成立した大隅国。
そして大隅国設立とともに、隼人の大和化政策の一環として豊前から移民が行われます。
しかし、辛島一族の系図を見る限り、大隅国設立以前にその勢力を南九州に伸ばしていたと考えられます。
何だか不思議な事になっていることが、前回まででわかりました。

そこで今回は、辛島氏とは何者なのかをもう少し調べてみます。

まず、辛島氏とは宇佐神宮の神職を司る家系で、8世紀頃まで神職の中でも、女禰宜(めねぎ)や祝(はふり)と言った女性神職を輩出してきた家となっており、宇佐祠官家のなかでは珍しく、五十猛神(素盞嗚神)の後裔を称している一族になります。
いわば、『女性祭司』の一族と言ってもいいかもしれません。

さて、前回の記事の中で『素戔嗚〜辛島勝乙目』までの系譜を記載しましたが、その中にいた『諸豆彦(もろつひこ)』は、宮崎県都城市にある早水神社の祭神『諸縣君牛諸井』のことだと考えられます。
この諸豆彦の娘さん「髪長姫」が仁徳天皇の妃の一人であることから、諸豆彦は西暦4世紀頃の人物と考えられます。
なお、15代応神天皇⇒16代仁徳天皇と繋がっていることから、諸豆彦の生きた時代に弓月君に代表される秦氏が渡来してきたことになります。
と、いうことは・・・
辛島一族と、応神天皇の治世に渡来してきた一族は、別時代に渡来してきたと考えれます。

では、辛島一族はいつ倭国に渡来してきたのでしょうか?
仮に、素戔嗚が実在した人物だとして、諸豆彦は10世孫。
1世代20〜25年と仮定すると、1世紀〜2世紀頃の人物だとなります。
中国は後漢の頃。
『漢委奴国王』で有名な金印の頃です。


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脱線します!

金印は、「かんのわのなのこくおう」と読むと学びましたが、
『漢』(の国)に属する『倭』(国の中)の『奴国王』っておかしくないですか?
私が漢の皇帝だったら、『漢奴国王』で作らせて下賜します。
間にわざわざ『委』は入れません。なんでわざわざ格下の国名を入れるんですか?
自国の権威落としかねませんよ?
かつ、文字も『倭』ではなく『委』で、違います。
なので、私は『委奴国』って国が当時の北部九州にあったと考えます。
「いな(いど)こく」(?)、「いとこく」っぽくないですか・・・?
魏志倭人伝の『伊都国』のことだと思うのは私だけ?
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いずれにせよ、後漢時代の北部九州(豊国近辺)に素戔嗚(本人 or 子孫 or 信者)の集団がやって来たと考えるのが自然な流れのようです。
もう少し、辛島一族のことを調べてみる必要がありそうです。
1000文字超えたので、続きは次週に・・・

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