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志村けんさんの訃報。そして、日本とドイツの現在。

志村けんさんの訃報が日本のニュースで流れていた。

昨日、ベルリンの前市長のパートナーがコロナウイルスによって亡くなったということを記事で書いたばかりだったのだけれど、今朝このニュースを目にした時、きっと日本国民なら誰しもが知っているであろう、志村けんさんがコロナウイルスの犠牲者になるなんて、と再び大きなショックを受けた。

ヨーロッパやアメリカなど、世界中でこれだけ厳しい措置が取られているにもかかわらず、まだコロナウイルスの勢いはとどまる様子がない。

通常とあまり変わらない生活が送れている日本の特異な状況は、なぜなのか、ここドイツでもニュースなどで色々と取りざたされているけれど、いずれにしても、私は、日本がヨーロッパのような状況に今後もどうか陥らず、なんとかこのままの状態を維持してくれれば、と願っている。

だけど、今回の事で、日本の人たちも、本当に気づいたのではないかと思う。

感染源を特定することは難しいということ。

自分が感染していても、発症しなければ無自覚で他人に感染させる可能性が高い。その時に、犠牲になるのは、基礎疾患があったり、高齢だったりする人。若いからといって、自分は大丈夫、なのではなく、重要なのは、自分が人に感染させないということを、まず第一に考えなくてはいけないのだと。

発症してから悪化までのスピードが恐ろしく早いということ。

死亡者の多くが、熱が出て、数日のうちに亡くなってしまっている。もし、自分の大切な人がそうなったとき、余命何日、何か月、というように、別れの日を一緒に過ごせる時間もない。病院に運ばれてしまったら、そこが永遠の別れになってしまう可能性があるのだ。隔離され、骨になって帰ってくるまで、会うことはできない。顔を見ることもできない。そんなことが自分に受け入れられるだろうか?最期に、お別れを言うことも、顔に触れることもできないなんて。

罹患者が増えた時、人工呼吸器が足りなくなる可能性があるということ。

志村さんの経過にもあったけれど、人工肺それ自体だけでなく、扱うことのできる技術者は限られている。多くの人が必要となれば、どんな状況に陥るか、医療崩壊したイタリアの例から、想像することはできる。

患者の命を救うため、自身の命を危険にさらして現場にいる医療関係者の人のことを考えたら、感染者を抑えるということが、どれだけ今、重要なことなのか、今まさに、世界中の人たちがロックダウンされた環境で耐えているのは、そのためなのだ。

ドイツでも、「今は会わないことが、愛情を示す方法なのだということを理解して欲しい」というメルケル首相のメッセージを、多くの人が理解し、人と距離を保つことで、その気づかいを表現している。

私も最初のうちは、まだ対岸の火事だと思っていた。でも、このウイルスの特異性を知り、自分が無自覚で加害者になる可能性の高いことを理解し、皆と同じように、今の状況を受け入れた。

今日も、肺の疾患があるため、2週間自宅にこもっているというドイツ人の友人とオンラインで話していて、彼女は「日本は検体数が格段に少ないから、感染者数がカウントされていないだけじゃないかと思っている。もしかすると、肺の他の疾患で亡くなったというように、検査のないままの事例もあるのではないか?」と言っていた。

私が知るドイツ人の多くは、彼女と似たような見解だ。ドイツのニュースでも、そういった記事を何度か目にした。

正直、日本にいない私には、限られた情報しか入らない日本のニュースでは、本当のところは分からない。

だけど、志村けんさんの訃報からも分かるように、今は、日本もまだ安心してはいけない段階だということは、確かなことだろうと思う。

この状況が長く続けば、そしてさらに感染の拡大が想定されてしまったら、日本の生活も大きく変わってしまうかもしれない。

経済が回らなくなることは大きな問題だし、その不安を抱えている人たちが信じられないくらいの数、今現在、世界中にあふれている。

日本の政府はまだ検討段階なのか、給付金について具体的な措置がなされていないようだから、なおさらその不安は募っていると思う。

ドイツでは、前出のメルケル首相のスピーチで、「連邦政府および各省庁がわが国のすべての人を守り、経済的、社会的、文化的な損害を押さえるための様々な措置をとります。」と明確に語り、私たちは国の決定を受け入れるだけの安心感と、それに付随する責任を自覚させられた。

これに伴って、ベルリンでも先週から、フリーランサーや個人事業主の助成金の受付が開始された。当初の想定額の上限を超えたところですぐに引き上げがなされ、本来なら役所の申請はものすごく時間がかかるところを、オンライン上の最低限の申告で、個人であれば5000€、従業員がいればそれ以上の額が一時給付されることになっている。

他にも、家賃の滞納があっても家主はそれを理由に借主を追いだせない規定がつくられたり、アーティスト組合に所属しているアーティストには、また別の助成金が準備されていたりと、様々な措置が行使されている。

とりあえず、我慢だけして、といわれても、絶対に納得するはずのないドイツ国民を、今のところコントロールできているのは、国がこうした迅速な対応をみせてくれているからだ。

もちろん、減給や突然の解雇、倒産・・・それぞれの人が抱える問題は様々で、その深刻度にも違いはあるだろう。救済措置といっても、100%が保証されるわけではないので、以前と同じような収入を得られるというわけではない。

それでも、国が対応してくれるという安心感があるのとないのでは、全く違ってくる。

日本は、果たしてどうなんだろうか。多くの人が、そこに疑問と不安を抱いているということを、こちらでも感じているのだけれど。

志村さんの記事の中に、コロナの影響で売り上げが下がった行きつけの店などを元気づけるために、普段以上に外出していたのではないか、というようなことが書かれてあった。それが本当なら、志村さんらしい、思いやりの気持ちだったのだろうと思う。

でも、志村さんがどこでいつ、感染したのかは分からない。そこで接触した人たちのうち、だれが今後発症するのか、それも分からない。誰も人に感染させることを望んでいない。だけど、それは起こってしまうのだ。

だからもし、自分の行きつけの店を助けたいと思う人がいるならば、今はテイクアウトで済ますとか、行けない代わりにチップを渡して援助するとか・・・何か、別の方法で応援しなくては、経路不明の感染は止められなくなってしまう。

これではまさに、ドイツ人が驚愕した、福島原発問題のあとの「食べて応援」のような図式になってしまう。

日本人の捨て身のような自己犠牲精神は、同じ日本人であれば美談なのだけれど、チェルノブイリを経験したドイツ人にとっては、それは日本人が本当の危険性を知らされておらず、理解していないからできることであり、国がそれを促進するなんてことは、ありえない、という認識だ。

この場合も、国は十分な補償をせず、国民の善意に訴えかけて、お互い助け合おう!という美談で終わらせた感がぬぐえないのは、私だけだろうか?

そして素直な日本人は、思いやりの精神に傾倒しすぎて、国の対応に異議を唱えることを忘れさせられてしまったのではないだろうか?

しかしこのコロナの場合、もし食べて応援することで、何かの健康被害を被る可能性があるのは自分だけではなく、店で接触した人たち、本来なら応援したいはずの相手を、意図せず感染という危険にさらしてしまう可能性がある、ここが大きな違いということを認識しなくてはいけない。

ベルリンでは、店のバウチャーを購入したり、テイクアウトを利用したり、飲食店を応援する方法がいくつか考えられている。

今は、これまで考えなかったような、「人と接触しないことがその人に対する思いやり」という認識をもって、その状況でどうやって経済を回すのか、多くの人が困難を乗り越えていけるだろうか、という想像力が必要になっている。

ドイツも、世界中の国も、そして個人レベルでも、まだそれを模索しながら進んでいる。

これ以上、たくさんの悲しいニュースが世界に影を落とさず、収束の日が1日でもはやく訪れますように、と願いながら。


ドイツは今日からサマータイムに変更になり、その日に初雪となった。(実際は一度深夜に降雪があったらしいけど、目にしていない)

本当の春が来るまで、気温も行ったり来たりで、2日前は16度だった窓の外は6度と、真冬に逆戻りだ。

それでも、例年に比べると・・・というより、ここ数年は暖冬で、5年前まではベルリンでも毎年積もっていた雪も、あれからぱったりと積もらなくなってしまった。

地球の環境も変わり、ウイルスのために隔離され、私たちは「今までと同じ」ということが、保証されない世界に生きているという事を、自覚させられているのかもしれない。

だけど、諦めないでいよう。それしか今は言えないけれど、ベルリンのこの長い冬もじき終わり、きっと春はくるし、夏もまた、やってくる。







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