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文芸誌に寄稿

いやはや刺激的な体験でした。
今回、世瞬舎様の文芸誌「世瞬vol.3」に作者人生で初めて寄稿させていただいた。
嬉しい嬉しい。

さて、今回声をかけてくださった世瞬舎様のコンセプト、とても面白かったです。

皆さん時間と時節についてどう感じていますか?
私は時間や時節を極めて普通の流れの中にある、まさにその名の通り時計の針ように正確で、そして圧倒的な不可塑性を感じています。

皆さんも同じような感覚なのではと思います。

しかし、世瞬vol.3が掲げるコンセプトはどちらかというと時間は「あやふや」だとする世界観で、コレはなかなか常人では手に入れられない感覚だと思いました。時間があやふやであると、戻ることもでき、前に進んでいたら後ろから出ることがあり、そして、隣にもいけたりするわけです。

これって、どういうことなのか?

なんとなく私なりに想像すると、時間のあり方が「あやふや」であったら、私たちは時間を拠り所にできず、私たちの人生は一度なのか、戻ってしまうのか、それともまた最初に出てしまうのかと自分の生き方はたちまちに不安定になり、暗い泥の中に沈み込んでしまうではと感じます。そして、人々の人生の中の一期一会は、霧のようにその濃淡でしか表現できなくなり、それを人生とは言えず、他の何かに変異してしまうのではと、私は想像の中なのに、何か切なさが込み上げます。

さて、それを現実の世界でそのまま実現することはできませんが、物語はある意味その時間軸の在り方を実在させてると言えませんか? 
一つの物語でだけでなく、あなたが接する複数の物語達があなたの時間の在り方とは、それぞれ全く違う時間として存在し、その物語一つでさえ時間はあちこちと飛ぶわけですから、それら全てを含めれば「あやふや」な時間は仮想的には「在る」状態なってます。
まあ、当たり前といえば当たり前です。だって紙に写したものなのだから、現実にできないことが起こって当然です。しかも複数の物語はそれぞれ作者も違うわけだから、その物語の時間も含めて「時間」と概念を広げてしまえば、時間はたちまちに規則性を失ってしまうでしょう。

馬鹿なこと言うなとおっしゃる気持ちはよく分かります。

だけど、近代小説やドストエフスキーなどあの名著も、古代の伝説も、口頭で伝わってる童話も「今も」あなたのそばに居るわけですよね。そう、あの時、彼ら書き手が掴んだ時間のかけらが、私たちの時間に入れ込められてるとも言えます。
そのように考えれば、先の物語の時間も含めて「時間」とする考えは荒唐無稽な考えではなく、人(作者)が生きていたという意味でも、人(今の読者)が生きているという意味で正しくあります。つまり、私たちは目の前の物語を使えば「あやふや」な時間を実在させる事が可能なのです。

今回世瞬vol.3の試みはこれを一冊で出来るようにしようとしてる……のだと思ってます。
合っているかどうかは分かりません。

そうやって「あやふや」な時間を少しでも体感してみれば、私たちは、逆説的にですが、その少し前の感覚より豊かな人生になるのかなと、
希望を込めて、言ってみたりします。

手にとってくれた方にそんな事を体感してもらいたい、そんな文芸誌なのかなと想像しております。

そして、私は世瞬舎さまのその想いや伝えたいことが少しでも遠くに届けば良いなと願っています。


さて、今回私は「リコリスの唄」という短編を寄稿しました。
リコリスは彼岸花の別名だそうです。
私の物語が役目とする時節は、秋です。
そして、少しだけ、皆さんが想像し得る先の時間を書きました。
秋は葉が散り、実が落ち、生命たちが眠る始まりの時節です。或いは死の初めの時節です。
そこに咲く、唄を書きました。

私の物語だけの、時間。
私の物語が与える時間、与えられた時間、世瞬vol.3が与えた時間。


この辺を堪能できる文芸誌なのではと
個人的には思っています。


他の作家の方々の作品はどれも個性的で、とても読み応えがありました。

是非よければ
手にとってみてほしいです。
発売はまだ先ですが、先ほどのリンクより予約販売受付中とのことです。
また、東京の文フリにも出展とのこと。
お越しいただいたらいいなとおもったり、私もタイミングが合えば行こうと思っています。
宜しくお願いします



それでは
おやすみなさい


岸正真宙

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