「発達障害」の本質について(私の理解)

「誰かといたいのに、一人でいたい。」
https://note.com/knkm4lj11/n/n1d9b2e2fa2cd

そういうタイトルのnoteの記事を拝読しました。

難しいけど、いつもではないにしても、それは誰もが抱く感情だと思います。
それを「回避型」などと表現するのは、どうかと思います。
もちろん、人格の偏りという表現自体がヒトのこころを全く理解していない証拠です。

まぁ、全世界で通用する診断基準(DSMとかICDとか)では、そういったビミョーな部分は盛り込めない。
精神科事態が、「オトナ」ばかりを対象にする以上、切り捨てていく部分は沢山ありますし、「オトナ」も実際の成人を指すものではなく、理屈の上での「オトナ」ですから、現実と合致しない部分は沢山あります。
ましてや、生まれてから始まる成長・発達を盛り込む基準は、まだ存在しませんし。
というのも、生まれから今までの、どこかの時点(あるいは時期)で生じる気持ちを、どう扱うかというのは全く議論できていないので、全て完成された「オトナ」を基準にして判断(診断)するのは意味がないという視点がないのは大問題です。

「発達障害」という言葉が持つ問題も、その「大問題」が原因です。

多くの人が、ある時期までに「感じている」感じる、「理解できる」能力、「できるようになっている」身体発達が基準で、そこから大きく遅れていれば、日常生活に支障が出ます。逆に大きく進んでいれば、「得意分野」などとしてよく評価されるので問題視されません。

「発達障害」と言われてしまうのは、その方が、ある時点での「基準」から全体的に大きく遅れているか、突出して遅れている(あるいは進んでいる)部分があるために日常生活に支障が出ている場合です。

最近の日本の学校は卒業後の進路を重視するあまり、ある学年、学期での学習の進度を、児童生徒に獲得させるのが優先目標になっているようですから、児童生徒がどれほど学習内容を身につけやすいかに着目します。

卒業後の進路は、あくまでも高度成長期に、「偏差値が高い学校へ進学すれば、より高い収入が安定して得られる企業に就職できる」という流れに基づく「進路」指導なので、今や全く意味がないんですが、そうはいっても、本当に「個性」を重視するだけの教員の人的資源が確保できないため、方向転換が出来ないだけだと私は思っていますけど。

それはさておき。

ヒトの成長は複雑です。一度獲得すればほぼ一生できるスキル(自転車に乗る、など)もありますが、ほぼ全てのスキルは進んだり戻ったりを繰り返します。もちろん、獲得したスキルが役に立たなくなってしまうこともある(進学・転校・転職はもとより、パソコンの乗換などでも起きます)ので、本当に難しい。

それをある時点での「診察」「検査」で即断するのは無理がありすぎる。けれど、診断基準に沿って診療を始める場合には、誤解・保留も含んだまま見切り発車になります。

その「見切り発車」を自覚できていないのが、問題の本質ですね。「見切り発車」を自覚していれば、都度、方向修正も出来るから。

今、起きている「発達障害」についての問題の多くは、以上の理解で修正が可能ではないかと考えています。

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