ずっと考えている。

多分相手が、そうだ、と認めない限り、加害行為にはならない。法律上の問題じゃない。トラウマの話だ。

だから「あれは冗談」とか「そんな風に思ってたなんて」みたいに言われると、自責の念以外の選択肢は出てこない。

physical 身体的な暴力行為は、まだわかりやすい。psychological 心理的な暴力は、相手の意図を確認できなければ、その行為の目的も、自分が感じたダメージも、受け止められなくなる。ましてや、その心理的な暴力が、「あなたが〜だからだ」と、いかにも自分に原因がある、と言われたなら…。

たまたま(…必然的に?)、今、私がトラウマの解消という分野に業務として携わっていて、幸か不幸か、身近にトラウマに詳しい専門家がいない。

「幸」は、もちろん、私のペースで深めていけば良いこと。まぁ、それで業務に支障が出なければだけど。
「不幸」は、行き詰まっても話す相手が居ないこと…と、自らのトラウマの解消ができないこと。

トラウマ・インフォームド・ケア(誰もがトラウマを持っているという前提でサポートに携わること、TIC)が日本の専門家に十分理解されていないのだから、仕方ないのかもしれないが、それでもジレンマを強く感じる。

支援者自身の二次的トラウマ受傷もさることながら、同時に支援者自身のトラウマをフラッシュバックするリスクは、TIC概念よりもっと見逃されている。

私の印象では、女性の多くは言語的表現に抵抗が少なく、男性の多くは非言語的表現に偏りがち。日本だけの傾向かもしれないが。ディベートという言葉を耳にする機会がチラホラしかなかった昭和生まれ世代の認識かもしれない。

子ども時代に、誰かの言動に納得がいかなくて悔しい思いをすることは珍しくないと思う。言語的表現の獲得がより早い女児の方が、その理不尽さを誰かに伝え、場合によっては「それは辛かったね」と、共感/慰めて貰う経験が多いのかもしれない。男児は、表現できないモヤモヤを、「手や足」で、つまる暴力という非言語的表現で伝えようとしているのかもしれない。

そいう幼児期に、一番身近に居て、自分をサポートしてくれる保護者(あるいはサポートする立場を担う他者)が、突然、「じゃぁね」と自分を残して家を出てしまったらどうだろう。

かなり個人的な体験だが、かといって極めて珍しいケースではないと思う。

当時の記憶は不鮮明だけど、閉じられた玄関の内側で、ひたすら泣くことしかできなかった。
ところが、相手はしばらくすると帰宅する。ものの1時間ほどなのだろう。要は近くで食材の買い出しに出かけただけなのだ。帰宅した相手に対し、当時の私がどう感じたかを今は思い出せない。

しかし、このことは、覚えているだけで3回繰り返されていた。

この記憶に辿り着くまでに、実に数十年が経っていた。辿り着いて少ししてから、相手に「あれはひどかった」と苦情を言った。が、「冗談だった」で済まされてしまった。

「3回」の影響は、今も思わぬところに残っている。

身近な人が、「居るはず」の時刻や場所に居ないと、その人の居場所を直ぐに特定できないと落ち着かなくなってしまう。その人に「自分の居場所は間違いなく此処だから、必ずここに戻ってくるのに」、と何度言われても、もう戻ってこないかもしれない、という恐怖にとりつかれてしまう。

これもおそらく「その影響」だと思うが、私の存在価値をどうしても見いだせないままで居る。「いつ、棄てられるか分からないほどの自分」がいて、常に周りを警戒している。

かつて「折檻」について尋ねたこともある。が、お決まり通りの「躾」だと返ってきた。「ストーブに触ると火傷するから、熱さを感じさせるため」という「躾」だそうだが、「火を使った折檻」は冬だけじゃなかったし、小学校入学の前年にもされいてた。

職業柄、周囲に粗暴な行為を示す人は、何らかの要因を持っていることはわかる。誰かに必要とされていることを確認したくなる気持ちは珍しくない…その相手が弱者じゃなければ。

いずれにしろ、知識で理解することは、私じゃなくても可能だ。もちろん、そういう理解に自力で辿り着くことも。

しかし、感情を受け容れる作業を独力で行うのは極めて難しい。

目の前で辛かった気持ちを、ポツリポツリ、あるいは一気に、言葉に置き換えていく作業を傍観しながら、職業的技術を駆使して、「今、この表現をすべきか、否か」と常に考え、「今…だな」というタイミングで伝える。その効果は、後日じゃないと分からないが。

同時に、自らのトラウマが賦活されるときもあるが、あくまでも「今、ここで、今、すべきこと」を優先してきたから、過去の、そして自らのトラウマに引きずられすぎることはないが、でもダメージは残る。

トラウマの治療の始めに重要なことは、その出来事が外的な力であること、そして相手がヒトであれば、意図的な言動であることの確認である。

「Traum トラウマ」を心的「外傷」と訳すが、同じ傷が自らの内部に原因があれば、当然、診断も対処方法も違う。その出発点を確認できない専門家が、日本にはまだまだ沢山居るのは哀しいことだけど。

結局、ブラックジャックのように、自らの治療をこれからも続けるしかないのだろうけど…。

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