【小説】消えた親知らず


                            著:戸森くま

「見合いの話は、お断りします」
 私が断固としてそう言うと、反対側のソファに腰を下ろした男はきょとんと目を丸くした。
 男は、相良祐樹と名乗った。まだ二十代だという話だったが、普通に冴えないオッサンだ。
 不細工ではないけれど、別にイケメンでもないし、どことなく気弱そうな顔をしている。ひょろりとした体つきはなんとも頼りなく、一昔前のデザインのスーツはまるで体形に合っていない。シャツの襟ぐりが汚れていないのはまだいいとして……ああ、なんてこと!
 とにかく、身嗜みもろくに出来ない、こんな年上の男と結婚だなんて冗談じゃない。
 先日抜いた親知らずの痕は未だにじくじくと痛いし、ファミレスのテーブルについた時点で、既に気分は最悪だった。
 私の隣で大人しく座っている娘も、オレンジジュースをちびちび飲みながら、不安そうに私と、父親になるかもしれない男を見比べている。
 ――娘のためにも、私は強くならないといけない。
「何か誤解があるようなんですが……」
 相良はぽりぽりと頬を搔いてから、一度口を閉ざした。
「うん、そうですね。分かりました。では、お見合いの話はなかったことにしましょう」
 あまりにあっさりと納得されて、拍子抜けしてしまう。しかし相良は、紅茶のカップを持ち上げてから、困った顔でこう言った。
「ただ、あまりに早くお帰りになられてしまうと、僕も紹介してもらった教授に言い訳が出来ません。せめてこのお茶を飲み終わる間だけでも、お話しさせて頂けないでしょうか」
 相良の話し方はおっとりとしていて、自分の意見をごり押しするわけでもなかった。男性として惹かれるかという話を全く別にすれば、話すのは別に苦ではない。
「それくらいでしたら、まあ」
 娘が暇をしないよう、バッグからアニメ絵本を取り出しながら私は頷いた。
「今回のお見合い、留美さんは乗り気ではなかったんですね」
「両親が無理やりセッティングしたんです」
 四人兄弟の末っ子として生まれた私は、いい意味でも悪い意味でも、両親からは放任されて育った。一番上の姉のアルバムと私のアルバムの数は明らかに違っていて、客観的に見ても、私はそこまで望まれて生まれてきたわけじゃないんだと思う。
 それなのに、いきなり私の結婚に両親が口出しして来たのは、私がシングルマザーになってしまったからだ。
「なるほど、たくさん苦労をされているんですね」
「娘の前で、そんな風に言うのは止めてください」
 なんて無神経なと思って睨みつけると、相良は怯えて首をすくめた。
 世間体が悪いことを気にして、両親も兄や姉も、私と娘にあまり良い顔をしない。
 今回、父の友達だとかいう教授に紹介されて相良がやって来たのも、身元のしっかりした男とさっさと一緒になって欲しいという、家族の思惑があったからだろう。
 私はとっくに家を出て、母一人、子一人でしっかり生活出来ている。余計なお世話としか言いようがなかった。
「娘さんは今、おいくつなんですか」
 娘には全く視線を向けないまま、相良は私の機嫌をうかがいながら言う。その態度にイライラしながらアイスコーヒーを口に含むと、やはりずきりと奥歯が痛んだ。
「四歳になります」
「なるほど、なるほど」
 自分の話題にだと気付いた娘が、絵本から顔を上げて相良にニコッと笑いかける。
「時に、留美さん」
 せっかく笑いかけた娘を無視した相良は、お茶を口にして一息ついてから、首をかしげた。
「失礼ですが、娘さんの父親は?」
「本当に失礼な方ですね!」
「すみません。でも、教えてください。娘さんの父親は誰ですか」
「誰って――」
 腹立たしく思いながら口を開きかけ、あれ、と思った。
 娘の父親。ろくでなしで、私と結婚もしてくれなくて、未だに娘のことを全然気にしてくれない。そうだ、そう、ひどい奴だった。
「思い出したくもないほど、嫌な男だったんです」
「そんな嫌な男と、どこで出会ったんですか?」
「どこ……?」
 どこだったっけ?
 アイスコーヒーをもう一口。ああ、歯が痛い。
 めざとく、相良はそれを見咎めた。
「痛むんですか?」
「――少しだけ」
「虫歯かな?」
「親知らずを抜いたばかりで……藪医者だったんです」
 抜かれる時、痛かったし、やたら怖かったのだ。
 だが、それを聞いた相良はわざとらしく「おや」と呟いた。
「小さい頃からお世話になっているお医者さんなのでは?」
「なんでそんなことを相良さんが知っているんですか」
「ご家族にうかがったんですよ。とっても腕がいい先生だから、留美さんもわざわざ地元に戻って来て治療を受けるのだとね」
 るみちゃん、我慢出来て偉かったねえと、何歳になっても小さい時と同じ口調で話しかけてくれる歯医者の先生。
うん。とっても優しくて、腕が良かったはずだ。
 最後に行ったのは――親知らずを抜いたのは、いつだったっけ?
「留美さん。ご自分の年齢は分かりますか?」
「私は」
「あなたはまだ、十八歳ですよ?」
 当たり前のことを言われたはずなのに、何を言われたのか、咄嗟に理解出来なかった。
「何……?」
 相良の声は、あくまで穏やかだ。
「娘さんが四歳だというならば、あなたは十四歳で妊娠、出産したことになります」
 ――ママ?
 隣で、不安そうに娘が私を呼んだ。
「あなたは、女子高の出身で、ダンス部に所属していた。三年生の時は部長も務めました。卒業公演の動画、ご家族に見せて頂きましたけど、格好よかったなあ。忘れちゃいました?」
 忘れられるわけがない。
 最終演目は『バーレスク』。コケティッシュだけど激しく熱い踊りで、みんなで、死ぬほど練習した。
 終わった瞬間には大泣きした。
 それで、それで。
「部活を引退後、受験勉強も頑張って、第一志望の大学に受かりましたね」
 上京して、一人暮らしが始まった。
 一人暮らしが。
「ああ……」
 気が付いた。気が付いてしまった。
 高校時代、私に彼氏なんかいなかった。それどころか生まれてこの方、子どもが出来るような行為をしたことさえない。

 私に、娘はいない。

 ママ? ママ?
 急に、隣が見られなくなった。
 もはや、どんな顔をしていたのかも思い出せない。ついさっきまで娘だと思い込んでいた「それ」が、私に必死な様子で呼びかけて来るが、その声はハウリングに似た不快な反響を帯びて、女の子のものには到底聞こえなくなっていた。
 何だ、これは。私はいつからおかしくなっていた?
 助けを求めて相良を見ると、彼はこちらを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫ですよ。その子は、過去にあなたに何かひどいことをしましたか?」
「してない……けど……」
「じゃあ、むやみに怖がったら可哀想です」
「かわいそう?」
「かわいそうでしょう? ゆっくり、落ち着いて考えましょう」
 まあ一杯、と促されて、震える手でアイスコーヒーを飲む。歯が痛い。血の味もする。
 呻いて頬に手をやった瞬間、相良が言う。
「ちなみに、あなたが最後に親知らずを抜いたのは三ヶ月も前です。もう、とっくに傷は塞がっているはずですよ」
「は――」
「よく確かめてください。舌で触ってみて」
 そんな!
 ぽっかり穴が開いていて、ぐちゃぐちゃで、血が溢れていて、触っただけで猛烈な激痛がするに違いないのに。
「本当に? もう、塞がっていなきゃ、おかしい傷です」
 言われて、おそるおそる舌を延ばす。
「歯医者さんにも確認しました。あなたの親知らずはとても素直で、すぽっと抜けたいい子だったそうです。予後も順調で、ご家族も、あなたが『全然大したことなかった』と言っているのを聞いています」
 舌で患部に触れる。
 そこには、恐れていたような穴はなかった。
 痛くない。
 慌てて、バッグから手鏡を取り出し、口の中を映す。窓からの光に辛うじて映し出された歯肉はピンク色で、健康そのものだ。
 歯を抜いてくれた先生も、怖くない。
 先生が怖かったのは――私じゃない。
「ママ……」
 すっかり泣きそうな弱々しい声で、『娘』が呟く。
 抜かれる時は、さぞや恐ろしかっただろう。
「――親知らずが生えて来たのが、ちょうど、四年前だったんです」
 そう言った私の声は、自分でも情けないほど掠れていた。
「全く痛くなかったのに、これからのことを考えたら抜いたほうがいいよって言われて……でも、せっかく生えて来たのに、抜かれちゃうのはちょっと可哀想だなって思って……」
 抜いた後、先生に貰った歯は、白くてぴかぴかだった。
 親知らずがこんなに綺麗なのは珍しいと言われた一本は、右下に生えていたものだった。
「親知らずにそれをするのはちょっと変だなって分かっていたのに、家の屋根に向かって、投げちゃったんです」
 まるで、乳歯にそうするように。
上に生えた乳歯を床下に、下に生えた乳歯を屋根に投げるのは、続いて生えてくる永久歯がちゃんと育つようにという願いを込めるからだ。
「じゃあその子は、曲りなりにもあなたの『健やかに育て』という願いを受けてそこにいるのでしょう。きっと、嬉しかったんでしょうね」
 にこやかなまま相良に言われ、思い切って隣を見る。
 私にそっくりな、私よりも可愛い小さい女の子が、すっかり諦めたような、寂しそうな顔で私を見上げていた。
 もう怖くはなかった。
もとは私の一部なのだから、怖がるほうがおかしいのだ。
「ごめんね」
 ――でも、これ以上一緒にはいられない。
 私が謝ると、彼女はニコッと微笑み、私に向かって軽く手を振った。
 そして、消えた。
 何の余韻も、痕跡も残さずに。
 秋の日差しが窓辺からテーブルに差し込んでいる。
 私の隣席には、すっかり氷の融けた手の付けられていないオレンジジュースと、新しいアニメ絵本だけが、やわらかな光の中に置かれていた。


「ちょっと様子がおかしいので、ご家族から相談に乗ってあげて欲しいとお願いされたんですよ」
 ファミレスを出た私と相良さんは、金色の銀杏が降る中、ゆっくりと駅までの並木を並んで歩いていた。
 歯が痛い歯が痛いと言いつつ、大学にも行かずバイトばかりして、架空の娘を育てていた私。今思えばおかしいのは明らかなのに、ついさっきまで、全く自覚出来なかった。
 授業の単位をいくつか落としてしまったことは確実で、それは悩ましい。でも、歯が痛かったことを除けば、『娘』との生活は決して悪いものではなかった。
 まだまだ先のことだと思っていたけれど、結婚して、今度こそ本当の子どもを持つのも悪くはないかもしれない。
「ご家族は、みなさん心配していらっしゃいましたよ。どうか、一回お家に帰って安心させて差し上げてください」
 にっこり笑う顔を近くで見ると、嫌悪感が先んじていた最初の印象よりもずっと若いし、全然悪くないなと思った。
「相良さんは、本当は霊媒師だったんですね」
 しみじみと言うと、相良さんはすごい勢いでこちらを見た。
「いえ、僕は探偵でも霊媒師でもなく、ただの院生です」
「院生? 何を研究しているんですか?」
「トーダイのボシです」
「トー……?」
「唐代の墓誌。あの、中国の昔のお墓の石碑などを分析してですね」
「お墓のことが専門なら、やっぱり霊感とかが関係するんじゃないんですか?」
「違います、違います。あの、もしご興味があるのならば、毎月第三土曜日に墓誌研究会というものがあってですね」
「全然興味はないです」
 即答すると、「そうですか」と相良さんはがっくり肩を落とした。
 その姿がおかしくて、思わず笑ってしまう。そして、これだけは言わなければと足を止めた。
「相良さん。今回のこと、本当にありがとうございました」
「いえ。教授に頼まれたことですし」
「それで、その、最後にひとつだけよろしいでしょうか」
「――なんでしょう」
「もし、次に本当のお見合いがあった時には……」
 ふと真顔になってこちらを見下ろす彼の顔にいたたまれなくなり、私は熱くなった顔を押さえつつ、こう言った。

「せめて、背広のクリーニングタグは取ったほうがいいと思いますよ」


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