案じて祈るだけ
妹の子どもが入院したのは先々週のことだった。
ずっと熱が下がらず、夜間救急の受診に私も同行した。
しかし毎回「薬を飲んで様子を見て下さい」と言われて帰路につく。
妹は初めての子どもの事なので、不安そうな表情をうかべる。
そんなやり取りが1週間くらい続いた頃。
かかりつけ医が紹介状を書いて下さり、地域の三次救急対応の機関病院へ受診し、入院となった。
この記事でも触れたが私にとって胃が痛くなるような「つらたん」な出来事の1つはこの事であった。
「川崎病かもしれないって」
親からのLINEにはそう書かれていた。
妹からそのように連絡がきたとの事。
川崎病。
入院中に3児のパパさんの記事を読んだ。
ああ、こんな偶然って・・・。
川崎病は私も幼少の頃にかかった病気だ。
入院中は面会はできないが、幼い子なので昼夜の付き添いが必要となる。
基本的には妹が付き添いをして、旦那さんが時折、仕事の合間で交代することにしたようだ。
私は短時間なら仕事の合間に抜けられるし、休日も可能な限り付き添いはできることを妹に連絡した。
妹から「助かります」と返事があり、訪問の仕事が終わったあと、そのまま病院へむかう。
総合受付で、面会の札をもらい、ナースステーション前のベルをならして看護師さんに来てもらう。
人によって対応が違ったが、病室に保護者は原則1人という規則があるようだ。病室の前で妹と交代して入る時もあったし、病室の中で簡単に申し送ることを許して下さる方もいて、様々だった。
初めて行った時は、妹の子どもは午睡をしていた。私は妹に休んでもらいたかったのだが「洗濯物があるから行ってくるね。1時間位かな」と言って病室を出ていった。
これじゃ、あんまり休めないよなと思いながら、窓の外に目をやった。
病院の1番高い階にある病室からは、青空と、梅雨前に早くも夏の兆しを感じさせるような雲がのびていた。
視線を下ろすと国道が見えた。いつものように道が混雑し、せわしなくトラックや乗用車が列をなしている。
突然バルバルバルと大きな音が聞こえる。
おどろいて窓を見ると、ドクターヘリが上昇している最中であった。それを見つめる作業員や散歩中の患者さんらしき人たちは表情の変化もなく、ヘリの軌道を目でぼんやりと追っていた。
やわらかな午後の日差しは窓から病室へ入り込み、甥っ子の長いまつげが乳白色の陶器のような肌に影を落としていた。
左手には点滴がつながれていて、包帯でぐるぐると巻かれている。
「ぐるぐるしますね」
「ぐるぐる~」
私はある場面を思い出していた。
息子が2歳くらいの頃。肺炎で同じ病院に入院した事があった。
息子は点滴をみつめて泣いていた。
看護師さんが「包帯をぐるぐるしますからね」と言うと泣いていた息子は苦しいながらも「ぐるぐる」とかわいく口ずさんでいたことを思い出した。
入院はせいぜい4~5日だったと思う。
私も当時付き添いをした。
昼は普段通り仕事に行って、そのまま自宅へ帰りシャワーをあびる。洗濯などをすまして、その足で病院へ向かい、コンビニなどで夕飯を買って、昼間に付き添ってくれた母や義母と病室で交代する。預けている娘の様子を聞く。
息子の食事を介助しながら、状態を看護師さんに確認し、夜は息子のベッドの隣にある簡易的なベッド(担架みたいな固いやつだった)で休む。
夜間はよく眠れない。息子が寝返りをうつと酸素マスクが外れる。
マスクが外れるとサチュレーションが下がり「ピーピー」と大きい音がなる。90%以下になるとなる仕組みになっている。
私は起きて酸素マスクを口元に当てる。
数字は上昇し、95%くらいまで回復する。
ふたたび安心して・・・またなってを繰り返していた。
朝起きて、息子と朝ごはんを食べる。
支度をして、再び付き添いに来てくれた母たちと交代する。
そのまま仕事をする。その繰り返し。
当時は夫の職場は都内で離れており、頼ることはできなかった。
私は気持ちが張り詰めていたせいか、渦中においては疲れは感じなかったが、退院後はどっと疲れが押し寄せてきた。
家族を案じることはかなりのエネルギーを消耗する。
私はこの時の経験もあり、妹の負担をなるべく減らしたいと今回付き添いの交代を申し出た。
そして、同時に思い出したのは
私が病院の実習中に見た、小児病棟などで付き添っていたお母さんたち。
たった数日、しかも親の力をかりていても、私はこんなに疲れているのに、あの人たちは心が休まる時はあるんだろうか。仕事もできないだろうし、愚痴を十分に吐ける場所はあるのだろうか。
私の知らない世界。
想像の世界。
知らないことはいっぱいある。
そういう場所をくぐりぬけた人、渦中の人に対して、私が抱く思いは畏敬の念だけである。
親になって知ったこともある。
私が川崎病にかかった時。
私の親は「この子はもうあきらめよう」と思ったと。
私が大きくなってから、母親が普段と変わらず笑いながら話してくれた。
笑って話しているけど、子どもを持ってわかることもあった。
どれだけ心配だったのか。どれだけ身を案じてくれたか。心を痛めてくれたかを。
今ならわかる。わかるような気もする。
自分は1人ではなく、必ず誰かが、この身を案じて祈ってくれて、今日まで生きながらえてきたのかを。
案じて祈る。
私ができるのはそれだけ。
甥っ子がよくなりますように。
3児のパパさんのお子様がよくなりますように。
できることはそれしかない。
数日後、甥っ子は退院した。
検査の結果、川崎病の可能性は否定され、原因疾患が特定できないままの退院となった。
そして3児のパパさんのお子さんも無事に退院となったことを、先日の記事で知った。
これから先、子どもたちが健やかに過ごせるよう、私はただ祈るだけである。
結局いつもそれしかできないのだ。
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3児のパパさんが「めがねむらプロジェクト」を開催しています。
楽しくメガネデザイン&グッズ化して、寄付(まだ決まっていないようですが、子ども食堂的なところや不妊治療のサポートと書かれていました)しようという企画です。
私もずっとデザインについて悩んでいるのですが、私の記事にあまり名言もなく特徴もないような気がするので、悩み続けています。(みなさんのnoteだったらいっぱいあるんだけどなぁ)
ぜひ興味のある方はふるってご参加下さい。
もちろん3児のパパさんの記事も、思わず微笑んでしまうようなエピソードが満載ですので、遊びに行ってみて下さいね。
サポートは読んでくれただけで充分です。あなたの資源はぜひ他のことにお使い下さい。それでもいただけるのであれば、私も他の方に渡していきたいです。