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みんな大きらいだし、みんな大好きでもあるということ

娘と息子がまだ赤ちゃんだった頃に、よく育児の中で起きた何気ない...でも私の心をくすぐるような出来事を、小さなノートにイラストや文章で書いていた時期がある。

時折パラパラとめくって昔を思い出す事もある。読み手は私しかいないノートである。


今はもう、そのようなものは書いていない。


でも、日々子どもたちと話していて、感心することや驚きはある。

noteにもそういうことを私はたまに書いたりしている。

それがいいのか悪いのかはわからない。

そしてここに書いていることを私は子どもたちには話していない。

もし、仮にこのnoteを読まれた時に、もしかして子どもたちは私のことを軽蔑するかもしれない。

嫌いになるかもしれない。

あきれるかもしれない。

どうなるかはわからない。

今日はやたら自分の気持ちに正直に書いているが、たぶん今読み終わったこの本の影響もあるかもしれない。


古賀さんの文章が昔から好きだ。

大ヒットした「嫌われる勇気」を読む前に実は「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本が彼の本を読んだはじまりだった気がする。

この本については、また時間が経って、私の思考と混ざり合って、どこかに書いたりするのだろうなと...そんな予感がしている。

今は「またいい本を読めたな」という気持ちでいっぱいだし、この本のターゲットは中学生でもあるということなので、いつか娘に読んでもらいたいなと考えていたりする。

...話が少し脱線したが、元に戻していきたいと思う。


西原理恵子さんの娘さんのことを最近思い浮かべてみることがある。
娘さんは今まで母親に書かれたことや、育児の中でとられた行動に対して怒りをしめしている。

この騒動は、私はやはり深くは理解していないし、私はあまり西原理恵子さんの作品に深く触れることなくここまで過ごしてきている。夫が彼女の漫画をたまに見せてくるので、漫画自体は読んだことはある程度である。

だから、何を思うかについては「なんとも言えない」が正直なところだが、

この記事に書かれているところで

世間に流布された自分ではない「自分」像に苦しんだり、他人が規定した「自分」を自分として受け入れて道を誤ってしまう人がどれだけいることか。

プライベートを晒され続けたということの辛さだけではなく、自分ではない「自分」が勝手に流布され、そういう「自分」として扱われていくことへの恐怖、自分でない何かとして生きていくことを強いられることへの恐怖だ。

という箇所が気になった。


私はこのnoteに書いているのはあくまでも私目線の話であり、私のメガネの中に映っている登場人物でもあり、私の視野の中にいる人たちでもある。


それはもはや「私でもない」し「あなたでもない」のかもしれない。

何を言ってるのか、自分でもよくわからないのだが、このnoteに書かれていることは「真実」ではあるかもしれないが、「事実」ではないかもしれないということ。

ある人に「あなたは自分の書いたものと自分との距離がもしかして少し離れているのかもしれない」と言われた。


それは人と比べてどうなのかということが比べにくいので、なんともわからないことではあるが、私が自分の書いたものをどなたかが賞賛してくださった時に、必ずしも手放しで喜んでいない側面もある事実と、少し重なっているような気もしたのだ。

もちろん喜びは大きいのだ。そして...関心を寄せてくださったこと。読んでくださったこと。何かを感じて思いを伝えてくれること。全部全部感謝してもしきれないくらいの喜びがある。

でも、その記事や作品を見ている自分は、その人と横並びくらいの感覚の時もあるような気もしている。

「ああ、そうそう、そうかもしれないなぁ」なんて横にいてお互いに話している感じなのだ。


そして、そんなことを話している自分が書いた側であることを思い出し、説明を試みる事もあるが、それが一番「正しいか」と言われるとなんとも自信はなかったりするのである。

なんて曖昧な自分!

この変な感覚を今一生懸命書いているつもりだが、まったくもってわかりにくいかもしれない。

でも、今日は繰り返すが、古賀さんの本を読んだから背中を押されてこんなことも書いてみたりしている。


西原さんの話に戻してみると、私は西原さんと同じ立場でもないし、違う人間であるからして、同じことが起こるとは限らないが、似たようなことは起こるかもしれない可能性をはらみながら、今日もnoteを書いている。


タイトルのことばは娘が最近話したことばだ。

「私はみんなが大きらい。
そして、みんな大好き」

前後の文脈を描いていないので、ここだけ見てもわからないとは思うのだが、なんとも詩的で、そして人間の真実を描いていることばだなと、私は彼女にひどく感銘を受けた。

娘と話すのは私はやはり楽しいのだ。

そして、彼女の表現しているもの、絵やことばにそれがまっすぐに不器用ながらもあらわされていることに、私はいつも心をぐわんぐわんと揺さぶられている。

その気持ちを書きたくて...あふれてしまうからこそ、私は書いているのだと思う。

そして、ここにいる娘はまたどんどん変化していくし、私も変化していく。

ずっと同じではない。あくまでも線の中の点の一つだ。

その点を忘れたくなくて

私は私を見つけたくて

自分ではない何かとして生きていくことを強いられたくなくて

以前も書いたかもしれないが

打刻するつもりで書いていて

それがもしかして事実ではないと、今後子どもたちに文章を読んで指摘された時には、私は私なりに誠意を持って気持ちを伝えたいなと

「私の中で真実ではあった」と伝えたいと


ぴしっと背中を伸ばしながら


今もこうして


noteでことばを紡いでいるのだ。


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