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私の中のライオンくんが吠えている

最近「私ってなんでこんな性格になっちゃったんだろう」と思うことがある。

自分の好きなことや思考の癖を考えていると、その源流に辿り着きたくなってしまって、ついつい川登りをする魚のように、上流(過去)に向かって思考が泳いでいく。

気分的には鯉のぼりみたいなものだ。

目を凝らさないと見つけることのできない小さな水の流れや、細いせせらぎの様なものを運よく感じて、水の湧き出でる源を発見することもあるし、水流を見失ってしまい、源に辿り着けないこともある。

むしろ辿り着けない方が多い。

滝の様にドバーッと水流が強いところは、判断材料が多すぎて迷うし、力技でもなかなか上に上がることができない。

すべてはそうだが、物事の成り立ちは、そう簡単にできているものではない。ましてや人格形成に関わる部分なんて、よっぽど強いインパクトのあるエピソードでもない限り、はっきりと「これが原因です」と言えるものなんてないんじゃないだろうか。


最近気になっているのは「私は何かのアシストをすること」の方が喜びを感じているんじゃないかという疑惑。

「私はメインじゃなくて全然いいの」といつも思っている。

要するに脇役人生。主役回避型人生、とでも言うべきか。

私がその人の何かしらのエネルギーとなって、主役になりたい人・なるべき人が輝いている方がよっぽど気持ちが晴れやかになる。



大集団の中でなるべく主役になりたくない、と思っている。

私はもうすでに私という人生の中の主役である。

主役はそれだけでいいんだ。それ以外はまっぴらごめん!という感じである。


だから、なるべく目立ちたくない。
他者からかかるプレッシャーとは無縁に、お気楽にのんびりとやっていたいのだ。ある意味、この思考は私の弱さでもあり、自分の生存戦略的なものの一つなのだと思う。


そんな自分はいつからそのように思っているのだろう......と、今回流れて辿り着いたのは、幼稚園の頃の記憶だった。


私は年中さんから幼稚園に通い始めた。

朝の時間はいつも、父親か祖母が幼稚園まで送り届けてくれていた。

父親が送ってくれる時は、乗り物は原付だった。原付のステップの間に私を立たせて幼稚園まで運転をしていた。(今考えると交通法違反なのではないかと思うが、特に当時は注意されなかった。)そして父親が送ると必ずと言っていいほど、幼稚園への登園は私が一番になった。

私が通っていた幼稚園は仏教系の幼稚園だった。朝は必ず「朝の挨拶」から始まる。この「朝の挨拶」の時間になると、皆でお釈迦様の写真に向かってお祈りをすることになっている。その時間までは自由に遊んで過ごしていいと先生に言われていた。

一番に登園すると、いいことがある。

それは、どのおもちゃで遊んでもいい、何をしてもいい、選びたい放題やりたい放題である、という事。

当時の幼稚園の女子の間では、お人形遊びが流行っていた。

マペットといって、人形の中が空洞になっており、下から手を入れて、生きてるように操ることができるタイプのおもちゃだ。

そしてそのマペットの中でも、女子の間では「うさぎ」の人形がぶっちぎりでダントツ一番の人気だった。

私も「うさぎ」は好きだった。

うさぎが好き好き言っていたら、根負けした親がうさぎを飼ってきたくらい、うさぎが好きだったと思う。

だから、ここは当然「うさぎ」のマペットを選ぶべきなのだ。

だって誰も見ていない。

他にうさぎを選ぶ人もいない。

競争にも喧嘩にもならない。

選びたい放題の環境。


なのにだ。


私は一番人気のない「ライオン」を選んでいた。


「ライオン」はとにかく不人気だった。

「うさぎ」よりも「ネコ」よりも「ぞう」よりも不人気で、誰も「ライオン」を選ぶことはなかった。


私はそれを知っていて、あえて「ライオン」を選んでいた。

どんなに朝早く一番に登園しても「うさぎ」を選べなかった。


ある日大好きな先生に「いつもライオンのぬいぐるみを選んでるね」と言われた。そして「ライオンが好きなの?」とも聞かれた。

私はそこで混乱した。

このライオンくんは好きなのか.......?好きなのはうさぎだ。

私はなぜライオンくんを選んでしまうのだろう。


そして泣いた。


先生もびっくりしていたが、私は割と泣き虫であったので、先生は慣れた様子で給湯室に私を連れて行き、主任先生にいつものようにあたたかいミルクをご馳走になった。


私はうさぎは好きだが「(私が選ぶべきは)うさぎではない」と心の中で思っていたのだと思う。

大好きな友達がうさぎで楽しく遊んでいる横で、私はライオンくんになって遊んでいるのが楽しかったし、なんだか嬉しかった。

もし仮に私がうさぎを選んでしまったら、もしかして友達は悲しむかもしれないし、もう楽しく遊んでくれないかもしれない。

そんなのは想像するだけで嫌だった。

だからライオンくんを選んだ方が、私の気持ちの収まりが大変良かったのだ。

ずっと選んでいたライオンくんにも、月日が経つとそのうち愛着が出てきて、最終的にはかなりお気に入りとなった。


そんな経験がきっと源流にあるのだと思う。
そしてこれ以上はもう遡れない気もする。

だから、私が何かを選択するときはいつだって、この「ライオンくん」が頭の中で吠えている気がする。


それは一種の思考や選択の「クセ」の様なもので、それが発揮されるのは妹たちであったり、友達であったり、親でもあったりした。


がおーっと吠えている時は、まず相手に選ばせる。

そこで選ばれなかったものを選べば、一番収まりがいい。私も気分はいい。


けれども成長するにつれて、どうしても主役をはらなければいけない場面が時々訪れることも、私はわかっていた。

だから、そこに対する努力はするべきだと思っていたし、いざという時は相手の期待に応えられるような成果を出したい。時には刺し違えるくらいの気迫を持って挑みたいと思う時もある。

他人からかけられるプレッシャーは低減したいが、自分にかけるプレッシャーはそこそこかけておくべきだなと、今でもなんとなく思っている。(元来怠けものなのでそれくらいでないと社会生活が営めないことを肌身で感じているのかもしれない)

主役をはるべきタイミングはそれほど間違えてはいなかったかなと自分でも思っている。だいたい少し面倒くさい案件はやりたがる人も少ないのだ。開き直れば、目立つこともそんなに苦ではないことに気づいてもいた。


そして、最近の変化。


私は少しずつ「うさぎ」を選べるようになってきている様な気がする。


そもそも何が「うさぎ」かも今まであまり深く考えてもいなかったのだが、少しずつ私が思う「うさぎ像」が見えてきている気もするし「私はうさぎを選ぶよ」とこの歳になって、ようやくまわりに言えるようになってきたのだ。

「我」が生まれてきた、のかもしれない。

どうしてこのような変化が訪れているのか、また水流に潜ってみないとわからないところではあるのだが、私はこの変化を自分では今のところ喜ばしいことであると感じている。


そして私の中のライオンくんも、きっと「がおーっ」と見守っていてくれている。

うさぎを選ぶ私もきっと、ライオンくんも友達も責めない。
今ならそう信じて言えるような気がするから。











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